一日経って、オシュトルが机の前に座し筆を滑らせていると、ハクがやってきた。今宵は屋敷で酒を呑む約束をしていたのである。予定の時刻より、少し早い。
「よぉ。忙しそうだな」
「ハク殿か。何、これは仕事ではないのだが、しばし待ってもらえるか。返事をしたためていたところでな」
「返事?」
「ああ。今朝届いた釣書への」
「なにっ」
ハクが目と口をまんまるに開ける。
「この前言ってたやつか。結婚するのか。お前」
「この前? いや、あいにく、まだそのようなことは考えられぬ。丁重にお断りした」
「そ……そうか」
なぜだか額の汗を拳で拭い、ハクは自分で座布団を用意して座った。胡座をかいて、オシュトルが文をしたためるのを見物している。
オシュトルはさらさらと結びの一文まで書き終えると、ざっと内容を確認し、丁寧に封をした。
「てっきりお袋さんにでも手紙を書いてるのかと思ったぞ」
「母上か。言われてみれば、近頃ろくに便りも差し上げていなかったな」
「へえ。心配してるんじゃないか? たまには近況でも書いて送ってやれよ」
「ふむ。そうするか」
オシュトルは引き出しから、新しい紙を取り出した。ハクが口をへの字にする。
「そりゃ、事務用のじゃないのか? せめてもうちょっと洒落たのはないのか」
「ほう」
「何だ、そのあったかい目は」
「いや。其方にもそのような気遣いができたのだな」
「どういう意味だ」
「褒めている。某はそこまで気が回らぬ」
花の模様の透かしが入った紙を選び、母の体調を気遣う文面から、簡単に近況を述べる。
といっても、あまり込み入った事情は書けない。母は最近目を悪くしたそうで、ネコネが定期的に送っている手紙も、誰かに音読してもらっているらしい。自然と、他人に見られることを想定した、当たり障りのない内容になる。
しばらく手紙に集中し、書き終わってから読み直して、オシュトルは内心、首を傾げた。
なぜだろう。
内容に偏りがある。
「書けたか?」
ハクを待たせているので、手紙を書くのはこれで終いとした。単なる身内への私信であるから、多少文章が整っていなくても問題はあるまい。
家の者を呼び、二通の文をそれぞれ然るべきところに送るよう頼む。ついでに、酒の支度も言いつけた。
ほどなくして、豪華ではないが心づくしの料理と、香り高い酒が運び込まれてくる。
互いに、とくとくと音を立てながら盃へ酒を注いで。
「よぉし、じゃあ、オシュトルの独身貴族生活延長決定に乾杯」
という、妙な題で盃を傾けた。
軽い飲み口の酒で、二人ともあっという間に飲み干してしまう。早速次を注ごうと盃を置いたところで、オシュトルはハクの視線に気づいた。
「どうした」
「いや、いつもはその青い服の下に、首のところまである黒いのを着てるだろ。今日は違うんだなと思ってな。前に、首回りになんかないと落ち着かないって言ってたが」
「ああ。ウコンはそのようなことを申していたな」
素知らぬ顔で答え、料理をつまむ。
「首の傷に擦れて煩わしいので、今日だけ別の襦袢にしていた」
「ああ、それでか。もう大丈夫なのか?」
「すでに治った。かすり傷ゆえ」
ハクが痛ましげに眉尻を下げるので、オシュトルは安心させるように笑う。
実際、オシュトルにとっては怪我とも呼べぬようなものであった。
そもそもオシュトルは、帝から賜った仮面によって、体の回復力が底上げされている。
ハクに伝える必要はないことだが。
「其方の傷は治ったか?」
「おかげさまで、もうかさぶただよ。まったく、自分だけ逃げやがって」
たっぷりした袖を捲り、ハクが己の肘の下あたりをさする。
しかめ面をしていたが、やがてすっと表情が引き締まった。
「で、結局、バレなかったのか」
「どうであろうな。今のところ、例の寺子屋の潰滅に我らが関わったことは、誰にも指摘されておらぬが」
あの日、検非違使に知られぬうちに姿を消そうと提案したのはハクだった。
ウォシスからもたらされた情報を元に出向いた場所で、ウォシスの配下に酷似した者たちと剣を交え、死なれた。
からくりは分からぬが、なにがしかの計略に利用されているようで気色が悪い。ウコンも同意見だったので、オウギにそれとなく検非違使を誘導してもらい、発見されやすいよう、捕らえた男たちを表に積んだ上で退散した。
その後、彼らが児童買春の件を自白したことは聞いたが、背景はまるで明らかにならぬままだった。
ウォシスは変わらずに穏やかな笑みを湛えている。
幼い子どもが体を売っていたと耳にした直後にしては、穏やかすぎる笑い方だった。
「どうもスッキリしない結末だが、深入りしないほうがよさそうだな。やぶ蛇になっても面倒だし」
「『面倒』か。久しぶりに其方の口からその言葉を聞いた」
「うん?」
「此度の件、やけに協力的であったな。どういう風の吹き回しだ?」
「む」
「普段は隙あらば逃げようとして、腰が痛いだの寒いだの眠いだの、追加労働手当を寄越せだのぼやいているくせに」
「……お前はあまり他人を気にしない質だと思ってたが、興味がないんだか、よく見てるんだか、分からんな」
ハクはなんとも形容しがたい、複雑そうな顔をした。
酒を飲む勢いが急に加速する。徳利が一本空いて、二本目に突入した。
「其方には興味がある。……酒量を控えるのではなかったのか?」
「ああ、うるさい。飲まなきゃやってられん」
いちおう、ハクが来るというのでそこそこいい酒を用意していたのだが、屋台の安酒のようにぐびぐびと飲み進め、あげく咽せている。
オシュトルは背中をさすってやりもせずに、わくわくしながらハクを観察した。
ハクと一緒にいると、予想し得ないことが起こる。果たして、今度は何だろう。
「だいたい、あの時はお前……ウコンが悪い。いつも隠れてる部分が見えたら、落ち着かないだろうが。それに加えて酒が入ったら、もーっと落ち着かないだろうが」
既に酔いが回ったのか、今一つ要領を得ないことを呟きながら、ハクはさらに盃を重ねる。
「いったい、何が言いたいのだ?」
「つまりだな。ええい、一度しか言わんぞ。自分はお前に惚れている」
オシュトルはさすがに短く沈黙した。
そして、深く頷く。
「うむ、よく言われる」
「おい。そんな返しあるか。確かに言われてそうだが」
こうなりゃやけだ、と二人の盃になみなみと酒を注ぐハク。
オシュトルは揺れる水面に視線を落とし、微笑した。
「それで心が動いたことなど、一度もなかったのだがな」
「へえ。好みじゃない奴ばかりだったのか?」
「さてな。話したことのない者ばかりだった。登ったこともない山を遠くから見て、美しいと述べているのと変わらぬ」
「ははあ。じゃあ自分も、物見遊山の客と同じか」
ハクの声に自嘲が混じる。
オシュトルは大変心外だった。
ハクの手から盃を奪って、唇を湿らす。中身は同じだが、あの細い手の中にあるほうが美味そうに見えたのだ。
酒が臓腑へと滑り落ち、腹の底がかっと熱くなる。
「心が動いたことなど、一度もなかったと言ったつもりだが」
「ああ、そう言ったが……」
それがどうしたとばかりの顔をしていたハクだが、オシュトルの真意を悟ったのか、じっとりと汗をかき、浅い呼吸を繰り返し始める。
「『なかった』?」
「ああ。今までは」
オシュトルは仮面を外して机に置き、相好を崩して頬杖をついた。
「其方が傍らにいると気が高揚してたまらぬ。この楽しみを他人に渡したくはない。その感情を何と呼ぶかは分からなかったが、其方に言われてしっくりきた。其方はやはり、某の知らぬことをよく知っている」
「そう、か? 待て、落ち着け……」
「ある者の言葉を借りれば、どうやら某は、運命に導かれて魂の片割れを見つけたらしい」
「は、はぁ……?」
オシュトルがわずかに首を傾けると、艷やかな髪が剥き出しの首筋をくすぐった。ハクがそこを凝視して、次の瞬間には気まずそうに目を逸らす。
百面相が面白くて、オシュトルはじっとハクを見つめた。
盃を置く。この世に二人きりでいるかのような静寂に、ことりと澄んだ音が響く。
「さあ、某に恋というものを教えてくれ、ハク殿」
ハクがなんと答えたのかは、オシュトルだけが知っていればいいことだった。