「邪魔するぜ……っと」
すぱん、と常のごとく詰所の襖を開け放つと、ハクとノスリが真剣な表情で向き合っていて、ノスリの後方でオウギが優雅に茶を啜っていた。
「ウコンか。よく来たな。すまないが、今は手が離せぬのだ」
顔をこちらに向けず、挨拶だけはきちんとするノスリ。オウギが茶を淹れてくれたので、ウコンはとりあえず座布団の上に腰を下ろした。
「姉上はただいま、ハクさんが考案した遊びに熱中している最中でして。お二人とも賭博で小遣いを使い果たし、クオンさんから賭場への出入り禁止を言い渡されていたのですが、白楼閣でなら構わないだろうと。いやぁ、ヒトは不自由な環境でも、涙ぐましい努力で目的を果たそうとするものなのですね」
オウギが白々しく目頭を押さえるふりをする。止めないのか、と視線で問うてみたが、爽やかな笑みを返された。愚問であった。
二人は木片を積み上げたものを挟んで向かい合っていた。なんのことはない、交互に下から木片を取っていって、崩れたら負けという単純な決まりのようだ。
だが、二人は真剣そのもの。どうせ夕餉のおかずでも賭けているのだろう。ハクに至ってはウコンに見向きもしない。
日頃からこの集中力を発揮して職務に励めば、毎日好きなものを食べられるくらいの財産は拵えられるように思うのだが、ハクという男は最低限の努力しかしたがらない。ちょっぴり働いて、その日の酒と酒菜を得て、後のことは次の日考える。有能な怠け者なのだ。好ましい点でもあり、もどかしい点でもある。
「……あー!」
ガラガラという音がして、ノスリが叫ぶ。木片の山は見事に崩れ落ちていた。
「もう一回……もう一回だ!」
「そうは言ってもな。もう賭けるものないだろ? 今日の夕飯がアマムの皮だけになっちまうぞ」
ハクが困惑気味に宥めるが、ノスリは聞こうとしない。勢いよく己の服に手を掛けたので、ウコンはその先を察し、慌てて立ち上がった。
「まあ、待て待て。どうでェ、今度は俺とアンちゃんで勝負ってのは」
「ウコン。来てたのか」
「俺が勝ったら賭けは引き分け、今までの負けはチャラってことでどうだ?」
「よし、そうしよう」
ハクとウコンは素早く目配せを交わし合った。
これ以上長引かせては、ノスリの闘争心が燃え上がって厄介なことになる。ここは早めにけりをつけてしまったほうがいい。オウギは面白がってけしかけるに決まっているから、下手に触らないほうが安全だ。
傷心のノスリを下がらせ、どっかと座り込む。崩れた木片を、無造作なようでいて微妙に重心が不安定になるように組み直す。
早めに終わらせて一杯いきたい気分になっていた。どれだけ相対しても腹の底が見えないウォシスと時間を共にするのは、なかなかどうして疲れるのである。長い宮仕えでその疲労にも慣れつつあったが、こうしてハクの顔を見たら気が抜けて思い出した。
「面目ない。いい女は、勝利の好機を逃さぬものだが」
オウギが一際丁寧に淹れた茶で一息つきつつ、ノスリが嘆息した。
「そういえば、ノスリはいい女ってのにやたらこだわるな」
ハクが早速木片を一本引き抜く。それくらいではさすがに、山はびくともしない。
ウコンは冷静に山を睥睨した。自分が抜く時に崩れてはならないが、ハクの番が来る時には容易く均衡を崩すような状態であることが望ましい。
こう見えて負けず嫌いなのである。実はそんなに他人には興味がないのだが、競う相手となれば話は別だ。ノスリを宥めるという最初の目的は、ハクと相対した時点で早くもどこかにいってしまっている。
「うむ。ずっと聞いて育ったからな」
「刷り込みというやつです」
「刷り込み?」
ハクが問い返すが、視線は木片の山に注いでいる。頭の中は忙しく回転しているのか、それとも見かけ通り何も考えていないのか、他者には判別できない。
「私達の母はずいぶん前に亡くなったんだ。それでいつも、父に『母上のことを話してください』と頼んでいた。三人で寝る前なんかにな。父は、亡くなった母がどんなにいい女だったか、何度も繰り返し教えてくれた」
「ふふ。僕などはほとんど顔も覚えていないのですが、目を閉じれば思い浮かべることができます。姉上と父がたくさん話してくれましたから」
珍しくオウギが個人的なことを話した、と思いきや、彼が浮かべた笑みは、どうやらたっぷり母親の思い出話をしてくれた姉への愛情ゆえのものらしい。
ウコンは胡座をかいて顎をさすりながら、そういえば、最近ネコネに父の話をしていなかったと思い出した。昔はせめてどんな人物であったかだけでも伝えようとしていたが、いつしかそんな時間も十分に取れなくなった。
守ろうとすればするほど、守りたいものから遠ざからねばならない。力を持つ者の宿命でもあった。
「要は、母のようないい女になって、父のようないい男を捕まえ、一族に優秀な血を取り入れろと、そういう話だったのですが」
「んなっ! おおおオウギ!」
「姉上、お茶がこぼれてしまいますよ」
「むっ、我が弟が心を込めて淹れてくれた茶が。すまん」
「えーと、つまり、女を磨いていい条件の旦那を探せってことか。なるほどな。ん? じゃあ、ノスリが普段いい女がどうこうと言ってるのは、結局婚活の一環なのか?」
「コンカツだかトンカツだか知らんが、私は純粋に母上を尊敬して、母上のようになりたいと思っているだけだっ。は、伴侶探しはまた別の話であってだな」
ノスリがバシバシと畳を叩く。元々、乱雑に組み上げられていた木片の塔が、振動でゆらりと揺れた。オウギは表情一つ変えず、さっと湯呑みを避難させる。
「おいノスリ、暴れるなって。崩れる、崩れる」
「あっ、すまな……」
ノスリがはっと我に返り、山を支えようと腰を浮かす。皺にならないように膝の上へ置いていた、彼女の帯の後ろに垂れた部分が、木片の山へと弧を描いてぶつかった。
がっしゃん。
崩れやすいように仕組まれていたこともあって、木片はあっけなく散らばった。
これで賭けは終わりだ。少し前までハクを好敵手と見て殺気に近いものすら纏わせていたウコンは、大きく伸びをして、当初の冷静さを取り戻した。
それにしても、ノスリは何をあんなに慌てていたのだろう。まさかハクが意中の男だというわけでもあるまいに。
いやまさか、そうなのか?
伸びをして腕を上に上げたまま、ウコンは木片を片づけるハクのつむじを凝視した。
ハクはムネチカも認めるような漢。側にいる少女たちが何かの拍子にコロッといっても不自然ではない。基本的には怠け者だし、お調子者だし、凄まじい美男子というわけでもないし、体つきなんかまだまだ貧弱だが。
昼間、ムネチカとあんな話をしたせいか、妙に俗っぽいことを考えてしまうウコンであった。
アンちゃん。
アンちゃんか。
買い物に出ていた女たちと、荷物持ちに駆り出されたキウルが帰ってきて、賑やかに夕餉を済ませても、まだ考えていた。
知らぬ間に、尻尾がふらふらと動いていたらしい。
差し向かいで盃を傾けていたハクが、興味深げに注視していた。
いつもの小粋な浅葱色の羽織は、酒を飲んだら暑くなったから、衣紋掛けを借りて吊るしてある。
他の者たちは長風呂を楽しんでいて、ウコンとハクは飲み足りなかったのでハクの部屋で二次会を開いていた。とうに腹はくちくなったから、酒菜といってもほとんど塩を舐めるようなものだが、悪くない。
「……暑い」
ウコンはぼやいて、湯呑みに注いだ水を煽った。ほんのわずかに、体の奥に蟠っている熱が霧消する。
「その首巻き、取りゃいいのに」
「ん? そうか。それもそうだな。いや、母上……お袋から、首を冷やすなとさんざん言われて育ったもんで、何か巻いとかねえと落ち着かなくてな」
ウコンは濃紺の首巻きを引き抜いて、襟元を寛げた。ぱたぱたと手で扇いで風を送る。確かに、随分とましになった。
「さては、母親に可愛がられて育ったクチか」
「さあな。……お袋は昔から体が弱くてな。自分も熱を出してんのに、俺が薄着で出かけようとすると、飛び出してきて襟巻きだの外套だのでぐるぐる巻きにされたもんだ。ふらふらの体で起きてこられたんじゃ、たまったもんじゃねえ。終いにゃこっちが根負けしてな。ほら、ネコネも脚を冷やすなって言われてきたもんだから、長い丈の服しか着ねえだろう?」
「ほう。そういう家族愛の物語があったわけか」
「まっ、単に甘やかされてただけかもしれねえが」
ウコンが照れ隠しを言うと、ハクはにっと笑った。
「いいって。お前ら兄妹を見てりゃわかるさ、大事にされて育ったってな」
言いながら、手酌で酒を注ぐ。
尊いお方から賜ったはずの鎖の巫たちは、不在にしているのか、あるいはいても姿を見せていないだけなのか。少なくともウコンからすれば気配を感じない。ハクと二人だ。
隠密衆のかしましさとは打って変わって、二人ともろくに言葉を発しない時間もあるが、居心地はいい。
「アンちゃんは……」
親は。
そう口にしかけたが、すぐに後悔した。自分の名前さえ思い出せない男に、家族のことを聞いても無意味だ。だいぶ酔っているらしい。
「すまん、何でもねえ」
「自分の母親か? さあ、わからんな。強いて言えば今はクオンか」
「クオンのネェちゃんが母親? おいおい、またあの尻尾でキューッとやられても知らねえぞ」
「なんでだ」
きょとんとするハクに、苦笑いがこぼれる。
「恋人とか、伴侶ってんならともかくなあ」
「はぁ? それこそあり得ないだろ」
どうやら本気で言っているらしい。
不思議な関係の二人だ。クオンは明らかに只者ではないから、理由があってハクを側に置いているのだろうが、二人のやりとりを見ていると、単なる夫婦漫才のようにも感じる。
「アンちゃんはちっとばかし変わってるよな」
「お前に言われたくないっての」
ハクが笑う。声音は柔らかい。柔らかいままでいてくれと思う。この声が硬く、鋭くなる時は、よほどのことがあった時だろう。そんな事態に陥って欲しくはない。
自分の盃に酒を注ごうとすると、ハクが徳利を取って注いでくれた。ありがたく受け、返杯する。
ウコンが徳利を卓に置こうとしたところで、ハクが下から顔を覗き込んできた。
「顔が赤い。というか、首まで赤い。酔ったか? 先に風呂入っとけばよかったな」
「何、まだまだこれからよ。それよりアンちゃんはどうした、あまり進んでねえようだが」
「そんなことはない。ただちょっと、自制しようかと思ってな」
「自制?」
「いい加減、内臓を労ってやるのも悪くないだろ」
「おいおい。明日は槍が降るんじゃねえか」
ウコンはまじまじとハクの顔を見つめた。花より団子、団子より酒の男だと思っていたが、宗旨替えとは。もちろん、彼が体を大事にすることに異論はないが、一緒に悪巧みをする者が減ってしまったようで少し寂しい。
ハクは笑って答えず、ウコンが注いだ酒を美味そうに飲み干すと、水を飲み始めた。どうやら本気のようだ。
「つまらんなぁ」
思わず本音が口からこぼれた。湯呑みを両手で持ったまま、ハクがぱちくりと目を瞬く。
「だって、ここに来てアンちゃんと呑むのが楽しみなのによ」
「他にないのか。なんかこう、優雅なやつ」
「ねえよ。所詮田舎侍だ。詩歌も管弦も嗜まん」
「じゃあ、そうだな、女とか。そうだ、それこそ恋人や伴侶にしたい女の一人や二人いないのか」
「仕事が忙しいのと楽しいので、それどころじゃねえな」
「ああ……お前ってそういう奴だったな……」
「おい、かわいそうな目で見んな」
半眼で詰るが、ハクはけろっとしている。
ウコンはため息まじりに盃を空けて、ハクを見習い水に切り替えた。ぬるい液体が一筋こぼれ、喉仏の上を伝う。ハクはそれを、卓に肘をついて眺めていた。
また、沈黙が満ちる。
酒で膿んだ気怠げな空気だが、相手はハクなので、特に気にすることもない。
ハクの言う通り、先に風呂に入っておけばよかった。汗をかいた体を洗い流したいが、浴場まで移動するのが億劫だ。
かちゃりと食器を重ねる音。ハクが卓を片づけていた。
「ま、お前の志は嫌いじゃないがな。お前一人で働いても、体を壊すだけだろ。せめていい嫁さんが手綱を握っててくれりゃいいんだが」
「何でェ、今日はそんな話ばかりだな」
ウコンは欠伸をしながら、大きく伸びをした。
やはり寝る前に汗を流すくらいはしておきたい。浴衣と手拭いを有料で借りられたはずだが、この時間では受付の者がいなくなっているかもしれない。それならそれで、ハクのものを借りればいいだけだ。さすがに体の厚みは異なるが、背丈はほとんど一緒なのだった。
「へえ、縁談でも舞い込んだか?」
「まあ正直、オシュトルの旦那のほうには度々舞い込んじゃいるが」
縁談が絶えなくて困っているのはムネチカのほうだ、と告げていいものか一瞬考えて、黙っておくことにした。本人のあずかり知らぬところで喧伝するようなことでもあるまい。
「そういえば、ムネチカ様がオシュトルの旦那に言ってたぜ。いっそハク殿と結婚したらどうだってな」
「自分と? 何がどうなってそうなったんだ、一体。それで、オシュトルはなんだって?」
「うーん、なんだったかなァ……」
酔いと眠気で、あまり頭が回らない。元よりムネチカとの会話に努めて集中していたわけでもなく、ただの世間話だ。
柱に額をつける。冷たくて気持ちよかった。つい、目を閉じる。
「おい、立ったまま寝る気か」
揺り動かされて、仕方なしに目を開ける。ハクに浴衣と手拭いを持たされ、浴場まで連れて行かれた。
いつも、酔っ払ったハクを引きずって、白楼閣まで連れて帰るのはウコンなのに。
調子が狂う。
本当に酒を控えるのか、と問いたいところだったが、ぼーっとしているように見えたのか、頭の上からお湯をぶちまけられ、ウコンはぶるぶると頭と尻尾を振った。
ハクが少し、遠ざかった気がする。
また一人になるのか。
刹那、そんな考えがよぎったが、ウコンはそれを汗と一緒に手早く洗い流してしまった。