いつもどおり
「――こちら東摩。終わったよ」
「ああ、こちらでもゴーストの消滅を確認した。気をつけて撤収してくれ」
普段よりひび割れた支我の声が、インカムから流れてくる。
龍介は「了解」と明るく答え、深舟を振り返った。
夜の墓地を走り回ったせいで、細い肩はまだ上下している。唇から漏れる吐息はもう白くない。
たった二人でも、案外やれるものだ。仲間が散り散りになっても、帰る場所をなくしても、待っていてくれる人が連れ去られても。
新しいウィジャパッドを大事にしまう。個人的に所有していたジャンクパーツを使い、萌市がこしらえてくれたものだった。彼曰く間に合わせだ。じきに小菅たちの分も揃うだろう。
そのウィジャパッドと鈴を握り締めたまま、深舟はまだ端正な顔を硬直させている。
「さーゆりちゃん。いぇーい」
「……何?」
彼女の身長に合わせて両手を挙げると、怪訝そうな表情で見上げてくる。
「お疲れのハイタッチ」
「……もう。いつもこうなんだから」
深舟は肩の力を抜き、指先で軽く龍介の手のひらに触れた。冷たい。首筋には、汗がにじんでいるようなのに。
二人で現場から引き上げる。罠もろくに使えないので、回収するものは少なかった。
支我が待機している場所に戻ると、彼はノートパソコンの画面に目を落としていた。調整済みの機材がごっそりとなくなり、車の中からでは無線がうまく機能しないのだ。近くを通りかかる者すらいない夜の墓地で、ディスプレイの明かりだけがぼんやりと青い。
その無機質な光が、眼鏡のレンズに映っている。
「まーさむねー」
「ッ、……ああ、おかえり」
声をかけると、支我はわずかに遅れて反応した。
龍介はスキップするように駆けていって、体をかがめ、支我の前に両手を出す。
「なんだ?」
「ハイタッチ」
「……お疲れ。二人とも、怪我はないか?」
軽く指先を重ねながら、支我が龍介と深舟に問う。やはり冷たい手だった。
蒼い闇をヘッドライトが分かち、ワゴン車が近づいてくる。左戸井の愛車ではない。送迎を買って出てくれた、華山兄弟の用意した車だ。運転席の窓が開き、華山竹が顔を覗かせる。
「はァい、お疲れ様ッ」
「ドリンク買ってきたからどうぞッ」
助手席の華山梅が、コンビニ袋を掲げてにっこり笑った。
「ほんと? ありがとー。さゆりちゃん、何がいい?」
龍介はためらいなく袋を受け取り、広げてみせた。五百ミリリットルサイズのペットボトルが数本入っている。
「……そうね。お茶にしようかしら。ありがとう、二人とも」
「正宗は?」
「俺もか?」
「座ってたって、頭使ってりゃ疲れるだろ~。コーヒー?」
「ああ、そうしようかな。ありがとう、いただくよ」
華山兄弟が、「どういたしまして」と見事なユニゾンで返す。龍介は清涼飲料水のキャップを開けて、ごくごく飲んだ。蒸し暑い夜だ。季節は明らかに夏へ向かっていた。
束の間の休憩を取った後、早めにこの場を去ろうということになり、スロープを出してまず支我が車に乗る。外からバックドアを閉め、龍介と深舟も続いた。
控えめなボリュームで車内に流れている音楽は、RAVENの新曲だった。小菅が自主制作盤を渡したのだろう。
「んじゃ、お願いしまーす」
「はーい。まずは、さゆりチャンのおうちね」
「二十分てとこね」
「ありがとう。助かるわ」
いかついグローブを嵌めた竹の手が、滑らかに車体を走らせる。ルームミラーにはシークロアに似た黒猫のチャームがぶら下がっていた。
車道に出てしばらく経ってから、助手席の梅が振り返る。
「ねェ、本当にアタシたち、送り迎えだけでよかったの? いくらでも手を貸すわよ」
「そうよ。いつでも準備は万端よ」
二人のグローブには、運転用にしては鋭すぎるスタッズが埋め込まれていた。一番後ろから、支我が答える。
「気持ちはありがたいが、二人の身に何かあった場合、全員の退路が断たれる。社用車と違って、この車は特殊な装甲を施してあるわけでもないしな」
「でも、待ってるだけなんて」
「指を咥えて、見てるだけなんて……」
大きな肩がしょぼんと沈む。龍介はシートの合間から身を乗り出した。
「だけじゃないでしょ~。竹ちゃんと梅ちゃんがいなかったら、除霊に来らんなかったんだから。徹夜でがんばってる萌市のおかげでウィジャパッドの台数も増えるだろうし、左戸井さんが戻ってきたら一緒に戦おうな」
「……そうね、ブラザー」
「そしたらまた、三人でパワーアップしましょうね」
「ちょっと。私は入れてくれないわけ?」
深舟が膨れて、車内に笑い声が満ちた。
深舟の家、支我の家、龍介の家。華山兄弟は、時間をかけて三カ所を回ってくれた。追跡を警戒してのことである。相手がもし本当にこの国直属の機関なら、どこまで意味のある行為かは定かではないものの。
「竹ちゃん、梅ちゃん、今日はありがとな」
車を降りる前に握手する。やはり、ひんやりした手。
「お疲れ様、ブラザー。今夜はゆっくり休んでね」
「がんばりすぎないでね。アタシたちの胸なら、いつでも空けておくわよ」
「……ありがと。それじゃ、気をつけて」
龍介は二人に手を振り、足早にマンションのエントランスを抜けた。
華山兄弟には敵わない。二人が少しだけ年かさだからか。それとも、あの姉とともに培ってきた優しさゆえか。
自宅に戻ると、母親がリビングでテレビを見ていた。父親は入浴中らしかった。
「おかえり。ご飯は?」
「後で食べる」
答える声が硬質になっていることに気づき、龍介は自室のドアを開けながら頭を振った。これでは八つ当たりだ。
龍介には、家がある。迎えてくれる両親がいる。
日本のどこかに、それらをなくした高校生が存在することは知っていた。でも、我が身に起こるかもしれないなんて、真剣に考えたことがあっただろうか。テレビでは毎日放火や殺人のニュースが報じられるけれど、一分後にはお得なランチメニューの紹介に移っている。
前の住人の残していった蛍光灯が、ぢぢっ、と点滅する。そろそろ替えなければならない。
龍介は荷物ごとベッドに倒れ込んだ。右肘が不可解な熱を持ち、鼓動と同時に疼く。
ふー、と息を吐き出す。
千鶴が連行され、左戸井もいなくなった。残された龍介たちは、必死になって彼らが示した道を歩んでいる。
――今、自分たちに何ができるのかを考えるんだ。
左戸井の言葉を受けて、どんなに考えただろう。
「自分たち」にできることは、除霊だ。支我や萌市が中心となって、以前には及ばないながらも、《霊》に立ち向かう環境が整いつつある。
だが、「自分」――龍介にできることは。
思い浮かばなかった。深舟のような芯の強さも、支我のような冷静さも、龍介にはない。それでも、諦めるという選択はできなかった。居場所は口を開けて待っているだけでは与えられず、必死で掴み取らねばならぬのだと、身をもって知ったばかりだ。おそらく、今までは千鶴と左戸井がそうしてくれていた。子どもたちの知恵の及ばぬところで。
だから、考えて、考えて、考えて、バイトを始めてからつけていたノートを片端からひっくり返して、ようやく結論を出した。
いつもどおりでいよう。
情けなくなるほど曖昧な答えだった。
ふとしたときに気づいたのだ。今の皆は普段よりもほんの少しだけ呼吸が速く、手が冷たい。頻繁に抱きついているから判別できたが、そうでなければ本人さえ見逃すであろうわずかな差異。
龍介がいつものように笑って、体に触れて、言葉をかけると、それが平常に戻る。
だから自分にできるのは、いつもどおりでいること。
正しい決断かはわからない。他にやるべきことがあるのかもしれない。だが、現在の龍介にはこの道しか見えなかった。あとは真っ暗だ。
夕隙社に公安警察が踏み込んできたあの日、肌寒い路地裏に投げ出されて、深舟が言った。
「ねェ、龍介。あなたは、どう思うの? このまま、夕隙社がなくなると思う?」
瞳に宿した怒りの奥に、かすかな恐れがあった。彼女はいつもそうだ。不安なときでも悲しいときでも、歯を食いしばってエネルギーに変える。
龍介にそんな根性はなかった。ただ、今までの十七年間でそうしてきたように、望まれる答えを返しただけだ。
「なくならせないよ」
全員が面を上げ、龍介は後悔した。その場凌ぎの薄っぺらい言葉だ。よすがにしてくれたところで、信頼に足るものは返せない。こんなときにも口から出まかせ。誰よりも家を失う恐怖に怯えていたのは自分自身だったのに。
けれど、打ちひしがれていても始まらない。闇雲に進んだ先が、「いつもどおり」というわけだった。
「痛ぇ……」
うつぶせのまま、右腕を軽く持ち上げる。肘に違和感があった。普通にしている分には問題ないが、力を込めるとギシギシ軋む。
あらゆるリソースを削がれた現状と、深舟の体力を考えれば、無尽蔵に甘えるわけにはいかなかった。以前は左戸井も手当てをしてくれていたが、その彼も「昔馴染みに会いに行ってくる」と言い残したきり音沙汰がない。
病院での治療を要するほどではないが、放置しておけばさらなる怪我に繋がる。龍介はのたくるようにして鞄を開けた。そこには、テーピングテープが入っている。支我にもらったものだった。
乱れた髪も直さぬまま、ベッドの上に体を起こす。
勉強机の上に置かれた、熊のぬいぐるみと目が合った。パチンコで勝ったからと左戸井がくれたのだった。
簡易版のチェスセットは久伎から、射法八節の図解本は曳目から借りている。未開封のココアシガレットは、どうしても山河が薄荷を分けてくれないので、龍蔵院と買いに行ったもの。
どうせ引っ越すからと私物の少なかった部屋に、次から次へと物が増える。
それらをぼうっと眺めていたら、スマートフォンが鳴った。支我からの着信だ。
「もしもーし」
電話に出る声が嘘のように脳天気で、自分でも嫌になった。
「疲れているところ悪いな。今、電話しても大丈夫か?」
「全然いいよぉ。どうした?」
「昔使っていたテーピングの本を見つけたんだ。俺はほとんど覚えてしまったから、よかったらお前に貸そうかと思ってな」
「あっ、まじで? 借りたーい」
右手を握ったり開いたりしながら、龍介は答えた。やり方は以前教わったが、慣れが必要なようで、一からテーピングを済ませるにはまだ時間がかかる。
「じゃあ、明日持っていくよ」
「ありがとー。明日って、そういえば席替えじゃね? さゆりちゃんか正宗の近くになるといいなぁ」
電話の向こうから、笑い声が聞こえてくる。
「そうか、席替えか。高校生にとっては一大イベントだな」
「だろ~。正宗の前になれるように祈ってて。んで、授業中おれが寝てたら起こして」
「わかったよ」
支我はまだくすくす笑っている。車椅子での移動がしやすいよう、彼の席は最後列で固定だ。おかげで、朝は教室の後ろから入る癖がついてしまった。
「龍ちゃんは相変わらずだな。少し気が緩むというか……ほっとするよ」
「そう?」
素知らぬ顔で答えながらも、これでよかったのだ、と思った。龍介にできる唯一のことだ。誰かに胸を張れるようなものではなくとも、本気で探し回った末に見つけた一本の糸。
「なァ、龍ちゃん。無理はしてないか?」
「え?」
落ち着いたトーンで言われ、龍介の心臓が強く脈打った。
「今回のことを抜きにしても、最近は戦力の部分でお前に頼りっぱなしだったからな」
「ああ、そういうことか」
安堵しながら、そしてなぜか落胆しながら、龍介は答えた。
「全然大丈夫だよ」
「本当か?」
「……ちょっと、肘に違和感あるけど」
念を押されて、思わず本当のことを口にしてしまった。優秀な頭脳をフル回転させて窮地を脱しようとしている支我に、些末なことで頭を使わせたくはなかったのだが。
「肘か。どっちだ? 痛みは?」
「右。力入れると痛いだけで、普通にしてたら大丈夫だよ。メリケンサックつけて何回も思いっきり殴ってたから、まあそりゃそうなるよな、って感じだけど」
「これ以上酷使して、悪化するとまずいな。少し休――」
「やだ」
親にしがみつく子どものような声が出て、舌の奥が苦くなる。
「……もっと悪くなりそうだったら考えるよ。ちょうどテーピングしとこうと思ってたところだったんだ。本貸してくれるの助かる。ありがとう」
早口で突き通す。支我は物言いたげだったが、龍介の気持ちを汲んでくれた。
「今より痛みが増したら、病院に行くことも検討してくれ」
「……わかった」
「テーピングの方法は大丈夫そうか? 利き腕だし、巻きにくいだろう。誰かご家族の方に手伝ってもらえるといいんだが」
「いや、一人でできるよ。前に教わったし」
龍介はきっぱりと答えた。家族に知られれば心配されるだろうし、そうなればアルバイトの話になるかもしれない。支我のほうから、ぱらぱらと紙をめくる音がした。
「まあ、一人ということもないだろ? 俺も手伝うよ。ちょうどここに本があるしな。携帯をハンズフリーにして、どこかへ置いてくれ」
電話越しに、テーピングのやり方を解説してくれるつもりらしい。音声だけで動作を説明するのは難しそうなものだが、さすがにサポート役だけあって、支我の教示はわかりやすかった。右腕をそろそろと動かしてみる。
「痛くない。ありがと、これで自分でもちゃんとできそうだ」
「もしわからないことがあったら、明日改めて実地で教えるよ」
「うん」
じゃあ、また明日。おやすみ。
そう告げるにはいい頃合いだったが、龍介はまだ電話を切りたくなかった。
天井の蛍光灯が、ぢぢっ、と再びちらつく。
「あー、あのさぁ、正宗。お前の履歴書ってどんなだっけ?」
「履歴書? ……支我正宗、長野県出身、東京都在住。一九九六年十二月二十日生まれ……」
あの神倉という、明らかに常人ではない男と相対しても揺るがなかった声が、一定のリズムで鼓膜を震わせる。龍介は目を閉じた。
大丈夫。
絶対、大丈夫だ。
目を開ける。
「以上だ。何か怖いことでもあったのか?」
「ん~? なんで?」
「前にも同じことを言ってきただろう」
「ああ」
恐怖を喚起する《霊》と戦ったときだ。龍介は笑みを浮かべて、痛まなくなった右腕をさすった。
「まー、強いて言えば週刊少年バトルが怖い」
「漫画雑誌の?」
「そう。今週の表紙、アイちゃんの初グラビアなんだぁ」
「ふッ……、そうか。明日、テーピングの本と一緒に持っていこうか?」
「優等生が水着の女の子の本持ってきたら、みんなびっくりするな」
「深舟に見つからないようにしないとな」
尻尾を踏まれたシークロアのように騒ぎ出す深舟の顔が浮かび、二人は声を上げて笑った。
そのとき、龍介のスマートフォンが震えた。画面を見ると、幾人かからメッセージが届いている。
――おい、カチコミはまだか?
――今日のおやつはビスケットだったよ! 龍ちゃんはお腹いっぱい食べてるかニャ?
――厄払いならお任せくださいね。
――早くお姫様をイバラの城から救い出さないとね。大丈夫、愛は勝つものさ。
ふはっ、と思わず吹き出してしまった。
「正宗。絶対帰ろうな」
笑いの残る声で呼びかけたのに、返事はこの上なく力強かった。
「ああ」