傷痕
「あ、あのー」
しゃちほこばった声が聞こえてくる。
ようやく帰還した夕隙社のオフィス。千鶴は手続きの問題で明日帰社する予定だが、アルバイトたちは既に仕事を再開していた。必然的に左戸井がこの場で唯一の大人になるものの、九門に見せた気迫はどこへやら、自席でいびきをかいて眠っている。
部屋の奥から聞こえてくる寝息と、キーボードを叩く音。いざ取り返してみればたわいもなかった。
聴覚を満たす「日常」の中で、龍介が一生懸命八汐へ話しかけている。
「八汐さん。もしよかったらおれのこと、呼び捨てで呼んでもらえると嬉しいなぁ。みんなそうしてるからさぁ」
「承知しました。では……、龍介」
「お、おー。ありがと。改めてよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
沈黙。支我は、彼が「下の名前で呼んでみたいんだけど」と申し出た日のことを思い出し、くすりと笑った。あのときも、こんな空白の時間があった。
進行表をチェックしながらも、なんとなく龍介の言葉を待つ。
「おれも、下の名前で呼んでいい?」
ほら、やはりこう来た。支我は引き出しから名刺ファイルを取り出し、ぱらぱらとめくった。主要な取引先には左戸井から連絡が行っているが、細かい調整までは手が回っていない。メールで済む分は代行しておかなければ。
「ええ、構いませんよ」
「ほんとに? 嫌だったら嫌って言って」
「ふふっ。嫌ではありません」
「じゃあ、沙和子ちゃん」
「……はい」
「あ、もしかして照れてる?」
「い、いえ、馴染みがないだけで」
今度はカップルのような会話が始まった。深舟がいれば「職場で何やってんのよ」と龍介をどついただろうが、あいにく今日はシフトに入っていない。社内にいるのは、この二人と支我、それに左戸井を除けば、あとは日なたぼっこ中のシークロアのみだ。
「そうなの? 前、ほら、一緒に講心高校の潜入調査したとき、友清が呼んでなかったっけ」
「あれは、単なる挑発ですよ」
「そっかなぁ。……あ、友清といえばさ、この前一緒にプリクラ撮ったんだ。見て見て」
リュックを探るごそごそという音。八汐が息を呑んだ。
「こッ、……これが、龍介ですか? 失礼ですが、その、写真写りが」
「そーなの。今時男だけで撮れるプリクラって少なくてさ、すんごい盛られる台しかなかったんだよね~。しかも友清と並んで歩いてると、チャラいのが冷やかしに来たと思われて、めちゃめちゃ絡まれるし」
「申し訳ありません……ご迷惑を」
音声だけでもわかるほどに八汐が気落ちし、龍介がフォローの言葉を重ねている。その甲斐あって元気を取り戻したかと思えば、彼女はふと自衛官の声になった。
「龍介、その手の甲の怪我はどうされたのですか? 前回お会いしたときにはありませんでしたよね」
「あ~。話の通じそうな《霊》がいたんだよね。で、斃さずに言葉での説得でいけるかな? と思ったら、やっぱり無理だった」
言語を解せる状態のゴーストに対して、龍介が対話を試みたのは知っている。支我が
といっても、支我が彼の立場であれば、多少の打ち身や切り傷程度は黙っているだろう。日常茶飯事すぎて、怪我に数えるだけ時間の無駄だ。
本人はそれでいいが、はたから見るともどかしさを覚えるということは最近知った。
八汐も、痛ましげにトーンを落とす。
「《霊》に説得を? 危険です。言葉の通じる連中ではないから、
「おれも初めはそう思ってたんだけど。ていちゃんと勇槻……この前会ったよね? 二人は、闇雲に《霊》を斃すべきではないんじゃないかって考えなのね。それ聞いてたら、自然と。ハグまであと一歩だったんだけどなぁ~」
「……その志は、尊ぶべきだとは思います。どうしても試したいなら、自分か音江が近くにいるときにしてください。絶対に護りますから」
「ありがと~。そういえば、友清来ないね?」
つられて、支我も腕時計を見下ろした。音江は市ヶ谷に用事があるとのことで遅れて出勤する予定だったが、伝えられていた時刻を五分ほど過ぎている。
ちょうどそのとき、編集部の扉が開いた。現れたのは音江だった。
「お疲れ~っす」
「貴様、遅刻しておいてなんだその態度は」
八汐が色めき立つ。龍介が席を離れ、二人の間に入った。
「まあまあ、沙和子ちゃん」
「沙和子ちゃんだァ?」
「そう。おれたち、友達だから」
「はァ? こんな堅物と友達やってて楽しいのかよ」
子どもっぽいやきもちは龍介のそれに似ている。友人同士で影響を受け合っているのか。支我はまた笑いそうになって、軽く咳払いをした。
加入当初の音江は、夕隙社の面々とは一線を引いている感が否めなかった。しかし、龍介が頻繁にちょっかいを出したこともあってか、時間の経過とともに打ち解けてきた。今や、小菅とマニアックな音楽談義を交わすまでになっている。
案外年相応の素顔を、意図して引き出したのなら大したものだが、果たして。
「堅かろうが柔らかかろうが、楽しいから友達やってんだろぉ」
「……ふーん。そんなもんかね」
「なに~? 羨ましいの?」
「べっつにィ」
「んだよぉ、一緒にプリクラ撮った仲だろ。ほら」
「ぶはッ……お前、これ持ち歩いてんのかよ? 何回見ても顔やべェなァ」
「な~。友清の美白っぷり」
「お前のデカ目のこと言ってんだよ!」
音江が笑い出す。歌舞伎町のプリクラ機は、よほど華美に二人の顔面を彩ったらしい。
八汐が尋ねた。
「遅刻理由は、新宿線の事故か。何事もなかっただろうな?」
「……まァな。ちっと眺めてたけど、《霊》が呼び寄せられることもなかったんで、さっさと退散してきたぜ」
「え、事故なんかあったんだ?」
「ええ、音江が定刻になっても現れないので、先ほど調べました」
「はぁ~。友清を心配して」
「だ、断じて違いますッ。自分はただ、夕隙社での職務に支障をきたすようなことがあってはならないと」
八汐が大声を出し、シークロアが目を覚ます。
「……人身事故が発生すると、駅に多くの人々が滞留し、不安や苛立ちといった負の感情から
「へ~。公務員って大変だなぁ」
感嘆の声に、「いえ、そんな」「へッ、見直したか?」と真逆の反応が重なる。
「……あー、そうそう。昨日取ったんだけどよ、こんなにいらねェから、一つやるよ」
音江が、ぶら下げていた大きなビニール袋をがさごそと開ける。「ほら、お前にも」と机に置かれたのは、UFOキャッチャーの景品らしきキーチェーンマスコットだった。支我は礼を言い、とりあえずパソコンの横に置いてみる。カエルだかサンショウウオだか判然としないが、愛くるしい顔立ちをしていた。
色違いのものをぽんと投げ渡された八汐が、「物を投げるな」と怒りながらも、ぶっきらぼうに言う。
「……まあ、一応礼を言っておこうか」
「どーいたしましてェ。隊長の隊長は……寝てっから後でいっか。ほら、龍ちゃん、お前の分」
「ありがとー」
「んで? 今日も台割り表ってやつ、作りゃいーの?」
「そう、頼んだ。友清はセンスいいからさぁ。へへー、かわいーなぁこのカエル」
「サンショウウオな」
「くっ……」
つい笑い声が漏れてしまい、今度こそごまかしきれなかった。案の定、背後から首に抱きつかれ、ぎゅーっと締めつけられる。
「さっきからなぁーに笑ってんだよぉ~」
「はは、バレたか」
「バレるっつーの。盗み聞きすんなよな~」
龍介が後ろから体重をかけてきて、机へ突っ伏しそうになる。支我は笑って彼の腕を叩き、ギブアップの意志を表明した。
「悪かったよ。聞くつもりはなかったんだが、お前のおかげかな。最近、周囲のものにいろいろと関心を持つようになって」
「何それ。褒め言葉ぁ?」
「俺はそのつもりだよ」
その答えに嘘はない。以前なら、仕事の最中にすぐそばで誰かが話していたからといって、気を取られることも興味を持つこともなかった。
今では話し声や香りやその人の持ち物や、どうでもいいけれど唯一無二の情報が飛び込んでくる。
少し半径の広くなった世界は賑やかで、それゆえに仕事の能率が落ちることもあるのに、さほど苦にはならなかった。そのタイミングで休憩を入れると、結果的にはより負担なく作業に集中できる。仲間の不調にいち早く気づき、こちらからフォローを入れたこともあった。
必要もないからそこまで注力してこなかった、誰かと足並みを揃えるということを、高校三年生の今になって学び直しているかのようだ。
そのきっかけになった人物が、支我を抱き締める。
「ま、本人がいいならいいけどぉ」
首筋に、肌とも制服とも違うごわつく何かが触れた。
龍介の手の甲には、大判の傷パッドが貼られている。周囲にある微細な傷は、もうかさぶたになりかけていた。
「怪我の具合はどうだ?」
「怪我ってほどじゃないよ、ちょっと擦っただけだし。まあ、跡は残るかもしれないけど」
「それならなおさら診てもらえ。深舟でも、左戸井さんでも、病院でも。傷跡なんて、ないに越したことはないだろう」
支我の肩越しに、「そうかなぁ」と龍介が両手を伸ばす。
まっさらな右手と、傷ついた左手。
「おれは別に、あってもいいけど」
「なァ、お前らっていつもそうやってベタベタしてんの?」
音江に茶々を入れられ、龍介が跳ね起きる。
「友清、やっぱ羨ましいんだろぉ。しょうがねぇなぁ~。よっと」
「龍介……。頸動脈はもう少し奥です。本当に絞めるなら、もっと左の二の腕を」
「ちょッ、龍ちゃん、入ってるって! ギブギブギブ!」
三者三様の笑い声が響く。
支我も笑ってその光景を眺めていたが、しばらくして仕事に戻った。
車椅子では横方向への移動ができない。ただでさえ物の多い編集部では、自分の席に着くだけでも、何度か車輪を切り返す必要があった。音江と龍介がじゃれているのは、支我とは反対側の壁際。輪に入るには少々遠い。
支我の右手が、机の下の脚をさする。
感覚はある。痛みもある。だが、死んだように言うことを聞かない。
この姿が恥ずかしいと思ったことはなかった。車椅子を使うようになったからといって、支我という人間の価値に傷がついたわけではない。
それでも、階段と出くわしたとき、テニスボールに追いつけなかったとき、入浴するとき、電車から降りるとき、思い知る。
支我の両脚は、自らの力を過信し功を焦った、愚かさの象徴に他ならない。
電話のコール音が鳴り響く。八汐が取ったら、すぐに切れてしまった。その瞬間だけは息を潜めていたが、やがて再び晴れやかな笑い声が聞こえてくる。
支我は思った。
やはり、ないほうがいい。
傷跡なんて。