世界の一部

 支我正宗は回想する。

 抱きすくめられた感触が、遠のいてゆく。
 手放したほうが楽だ。わかっていながら、ナイフで己に刻みつけるかのごとく記憶をなぞる。

 學園の昇降口。
 体調不良と偽って、早退しようとしていたところだった。
 人影の少ない廊下を進むのは、自分がこの場において異物であるという感覚を際立たせる。
 異物には違いない。《霊》の視える人間が、そうでない人間と本当の意味で理解し合うには時間がかかる。
 だからこそ、夕隙社は特別だった。ゴーストを追い、陰ながら東京を護るという使命以外にも、大きな意味を持っていた。
 そこでできた仲間が、息を切らして階段を降りてくる。
 二人は、肩を上下させながら顔を見合わせた。龍介から話があると深舟が告げたが、取ってつけたような言い方だった。それでも、一応尋ねてみる。
「何だ、龍ちゃん?」
 龍介は、ふーっと大きく息を吐き出した。ひどく苦しそうに見えた。彼は、もう少し身軽に生きてはいなかっただろうか。どうして思い詰めたような顔をしているのだろう。
 龍介の姿が沈み込み、強く抱き締められた。
 彼は人に触れるのが好きだが、そういえば、正面から抱きつかれたのは久方ぶりだ。前回はいつだっただろうか。
 まだ「東摩」と呼んでいた気がする。散った桜が水たまりの上で花筏を作る季節。そう、彼が家へ泊まりにきた日だった。
 あのときは照れくさそうにしていたのに、今はまるで縋りつくかのようだ。
 彼の呼吸は浅く、速い。指が肩に食い込みそうなほどの力。
「……いきなりハグか」
 龍介の瞳が、濃い灰色の影に蝕まれる。やがて、ゆっくりと体が離れた。
 誰かを抱き締めるのに長けた両手が垂れ下がる。左手の甲がきれいになっているのを見て、以前負った傷は治ったらしい、よかった、と支我は思った。
 彼の怪我は治った。支我も、傷つけられたままで終わるつもりはさらさらない。そのために研鑽も積んできた。何を引き止めることがあろうか。
 だがいくら言い聞かせても、深舟は諦めなかった。
 次第に、焦燥と苛立ちがくすぶり出す。これは支我の問題だ。与えられた呪いを解くのはお姫様でも王子様でもなく、自分自身がやらなければならないことだった。
 走って、走って、脚をなくしても腕で走って、それでもなおたどり着けないゴールの向こうにあるものこそ、支我の求める真実。
 止まることなど考えられなかった。足を止めた瞬間に負けるのだと思った。
 なのになぜ、最大の理解者たるこの二人が道を阻むのか。心配されればされるほど、己の過ちが突き刺さる。
 彼らにそう言われたわけではないのに、支我の両脚が語りかけてくる。お前が愚鈍だから、一人では何もなし得ないのだと。誰かに助けてもらわなくては生きていけないほどひ弱で、放っておいたらまた似たようなことをしでかすかもしれないから。
 そんなことがあってたまるか。
 本当は声なき声を否定しきれないからこそ、余計に掻き消したくなる。
「話してよ、支我くん。私も龍介も同じこの學園で――」
「――大丈夫だって言ってるだろッ!」
 間近で怒声を受けた深舟と、唇を噛んで二人を見つめていた龍介が、びくっと身を固くした。
 その反応に、わずかばかり理性を取り戻す。
 二人に甘えていた。いつも自分をよくわかってくれるから、なんでも伝わるだろうと思い込んで。
「……すまない。怒鳴ったりして」
 その次に出た声は、普段と何ら変わりなかった。だが、深舟は両手を胸の前で重ね、肩を縮めている。
 支我は、一度も振り向かずにその場を後にした。
 傷つけたかもしれないとわかってはいたが、他人に構う余裕など、心の中のどこにもなかった。

 ――暗転。
 見果てぬ悪夢のように切れ目なく、風景が入れ替わる。

 代々木駅前にある、古い雑居ビル。
 いくら掃いても清めきれないような砂埃だらけの階段に、深舟はハンカチを敷いて、龍介はそのまま、腰を下ろしている。
 説明していると、いくらか落ち着くことができた。情報を整理し、仮説を立て、検証する。本来は得意分野だ。
 だが対照的に、語れば語るほど二人の表情は翳る。その理由は理解できかねたが、今度こそ平静を保って支我は告げた。
「俺は俺と同じ目に、龍ちゃんも深舟も――、編集部のみんなも遭わせたくはないんだ。こんな思いをするのは俺だけでいい」
 まぎれもない本心だったが、深舟は決然とした面持ちで支我を見据える。
「私たちは、仲間よね」
「ああ。そう思っている」
「だったら、支我くんが一方的に私たちの心配をして、一人で何とかしようなんて、間違ってる。私たちにも支我くんを助けさせてよ。支我くんを支えさせてよ」
「だが、俺は」
「正宗」
 龍介が、そのとき初めて支我の名を呼んだ。
 支我は口をつぐみ、階段の二人を見上げた。
 深舟は言葉で、その一段下に座る龍介は眼差しで、支我の力になりたいのだと訴えてくる。
 支我が愚かだからでも、弱いからでもない。大切な仲間だからだ。
 支我にとって彼らがそうであるように。
 それを認めるのは、ある種怖いことでもあった。他人に手を差し伸べるのは得意でも、その逆には慣れていない。
 だが、この二人なら信じられる。龍介と深舟なら。ともに東京を駆け回り、《霊》とも、自身の運命とも戦ってきた彼らなら。
「……確かに、お前たちの言うとおりだよ。俺たちは仲間だ」
 ぷは、と龍介が急に息を吐き出した。緊張のあまり呼吸を止めていたらしい。途端に場が和む。
 彼を睨む深舟に微笑を浮かべ、支我はこの地を訪れた理由を語り始めた。

 ――暗転。
 もう見たくない。
 なのに、現実と見まごうほどの鮮やかさで、思い出が再生される。

「……あ」
 エレベーターのボタンに手を伸ばした龍介が振り返る。
 代々木にある雑居ビル。仲間と、そして二年間積み重ねてきたものと舞い戻ったこの地で、支我を苛んでいた呪いは終わった。
 夢かとも思ったが、やはり両脚はきちんと動く。はしゃぎすぎて転ばないようにと、深舟が傍らで見張っている。
「どうかしたのか、龍ちゃん」
 千鶴から連絡が入り、暮綯學園へ向かう最中だった。
 止まっている時間はない。しかし龍介は、車椅子と支我を交互に見比べる。
「いや、今までだったら迷わずエレベーターだけど、別に階段でもいいんだと思ってさ。どうする?」
 支我らしくもなく、指摘を受けてからそのことに思い至った。龍介は二人のときに率先してエレベーターを探してくれていたから、いち早く気づいたのだろう。
 支我は答えた。
「暮綯學園へ急ぐ必要があるが、……この脚がどの程度使えるのか試したい。階段を選んでもいいか?」
「もっちろん」
「支我くんがそう言うなら。龍介、下、お願いね」
「おうよ」
 二人が頷き合う。ほんの数時間離れていた間に、改めて信頼関係が結ばれたようだ。
 龍介はまず車椅子を抱えて階段を下り、ゴール地点に置いた。そして、駆け足で戻ってくる。
「もし落っこちてもおれが受け止めるから、心配しなくていいぞぉ」
「私も、すぐに引っ張り上げるから」
 支我の上下を陣取り、足を踏み外した場合に備えるらしい。すぐ後ろにある上の段に深舟、二つ下の段に龍介が立つ。
 念のために手すりを掴みながら、最初の一歩を踏み出した。
 二年前までほとんど意識もせずに上り下りしてきた段差が、切り立った崖のように感じる。取り戻したとはいえ、つい先ほどまで萎えていた脚は、何かの拍子にがくんと崩れてしまいそうだ。
 それでも。
「いい感じ。そのまま……大丈夫だよ、おれも手すり掴んでるから」
 龍介の肩に手を置いて、杖のようにしながら足を下ろす。半歩。一息ついて、また半歩。これでようやく一段。
 まさに牛歩だが、二人は大げさなほど喜んでくれた。
「やったわね! その調子よ」
「いいね、さすが正宗、感覚掴むの早い。このまま行こう」
 慣れてくると、昔ほどではないが、スムーズに階段を下りることができるようになった。つい気がはやりそうになるものの、龍介と深舟がペースを作ってくれる。
 最後の一段は二人の支えなしで、時間をかけながら足を地面につけた。
「……よぉーし! よくやった!」
「っと」
 見守っていた龍介が、背中から抱きついてくる。あまりの勢いに壁へ手をついた。
「あ、ごめん、つい。……あれ」
「どうした?」
「正宗って、結構おっきかったんだな」
「ああ……確かに。いつの間にか、背が伸びていたんだな」
 龍介の声は、ちょうど耳の横から聞こえる。両腕は支我の腹へ回されていた。位置からして、だいたい同じくらいの背丈だろう。
 毎年の身体測定でデータこそ目にしていたが、身長は車椅子に乗った状態での推測値に過ぎない。ようやく実感が湧いた。時間は流れ、肉体は成長している。
 支我の肩に顎を乗せて、へへへ、と龍介が笑う。
「おれも千草みたいに牛乳飲もーっと。抜かされたくないもん」
「いくら男子でも、さすがにもう成長期は終わりじゃない?」
「いや、おれは諦めない。せめてこの位置をキープする」
 回された腕に力がこもり、甘えるようにしがみついてくる。
 一瞬、振り向いて抱き締め返そうかと思ったが、さすがに自制した。
「二人とも、待たせたな。暮綯學園へ急ごう」
「ええ。何が起こっているのか、確かめなきゃ」
「今度は三人一緒に行けるな!」
 龍介が屈託なく笑った。

 ――暗転。
 見たくない、見たくない、見たくない。
 けれど、目の前で繰り広げられる現実から、逃げるという選択肢はない。

 支我と深舟は、遺体安置所と書かれた扉の前にいる。
 部屋の中から吼えるような慟哭が聞こえてきて、深舟がびくりとたじろいだ。
 龍介の両親とは、ほとんど顔を合わせなかった。千鶴と左戸井の配慮だろう。会釈くらいはしたが、視界に入っていないようだった。
 千鶴も左戸井も、遺体安置所の中にいる。支我と深舟はまた護られていた。大人という庇護者に。
 すぐ横にソファがあるのに、二人とも座ろうとはしなかった。腰を下ろしたら、二度と立ち上がれないと思った。
 脚は戻ってきた。だが、地べたを這いずり回り、汚泥を啜りながら駆け抜けた先にあるのが、この結末。
 知ってしまった以上、支我はもう走れなかった。
 どこへも行けない。
 こういうのを、絶望と呼ぶのだろうか。
 自身の両脚を奪われたときでさえ感じなかったそれが、支我の世界を構成する一人を欠いた部分へ、どろりと流れ込む。
 友人がいなくなったのだから泣くべきだろう、と支我の中の規範意識が促している。だが、涙は出てこない。そうしたら、いよいよ彼を失ったことを認めなくてはならなくなる。
 ただ、こめかみの奥が熱を持ち、思考を麻痺させる。臓器の中に重石でも詰め込んだかのようだ。一睡もしないまま夜が明けようとしていたが、眠くもなんともなかった。
 ただでさえ白い深舟の顔はいよいよ青白く、今にも倒れそうだった。休むよう言い含めるべきなのに、その声さえ出ない。
 けれど、蒼白な横顔が動いて、おかしい、と言った。
「こんなの、……絶対、間違ってる。どうして、龍介が死ななくちゃならないの」
 死。その音を唇に乗せた分だけ、彼女は強いのだと知る。支我にはまだできない。
「おかしい、……こんなの、絶対におかしいわ! どうして龍介が! だってさっきまで一緒にいたのに、……さっきまで……」
 部屋の中の家族に配慮してか、あるいは喉を締めつけるものがあったのか、彼女は声を詰まらせる。
 どうして。
 その言葉に、支我は悪夢から醒める。
 かつてそれは、祖父との間の魔法のワードだった。頭に浮かんだ些細な疑問を口にしたら、二人の研究が始まる。断片的な情報を集めて真理へ近づいてゆく過程は、幼い支我に興奮をもたらした。
 今となってはもはや習い性のような、真実を追い求める姿勢。
 未来へ進むための脚が潰れても、この手の中にピースはまだ残っている。千鶴と左戸井が警視庁まで赴き、血眼になって探し求めた残滓を組み上げた先に、あるいは。
「……俺が突き止めるよ」
「えっ……?」
 深舟の大きな瞳に、涙が浮かんでいる。だがそれはまだ、頬へこぼれ落ちてはいない。
「俺は……必ず、真実を突き止める。あの場所で何が起きたのか、誰があいつを襲ったのか」
「支我くん……」
 彼女の瞳に光が映る。天井に据えつけられた蛍光灯の弱くか細い、それでもこの空間を照らす唯一の明かり。
 左戸井が入院したとき、病室に入るのですら怖じ気づいていた彼女の姿を思い出す。
 深舟を変えたのは、きっと支我を変えたものと同じ。
「私も一緒に行くわ。龍介のために……私自身のために」
 二人は頷き合う。
 あともう少しだけ、歩いてみようと思った。

 二人が向かった先は、暮綯學園高校だった。
 朝のホームルームを終えた時刻。授業が始まっており、廊下に人はいない。
 教師と鉢合わせして足止めを食らわぬよう、周囲を見回しながら廊下を進む。
 この學園の生徒というより侵入者のようだったが、構わなかった。仮にこの建物の全員が敵に回ったとしても、隣にいる深舟は、そして龍介は、絶対的な味方だと知っていたから。
 四階へ上がり、慎重に歩を進める。いやがおうにも昨夜の記憶が蘇った。砂を呑んだように舌の根がざらつく。
 歩くと決めたのだ。幻影を振り払って、前へ進む。
 なぜか開いていたドアから教室へ入ると、そこには二つの人影があった。こんな時間、こんな場所にもかかわらず。
 一人は女性だ。豊かな長い髪に、裾の広がったスカート。陶器でできた人形のような容貌には見覚えがある。
 もう一人は、支我の発した警句に従い、緩慢な動作で振り返った。
 支我のものと同じ、暮綯學園の学生服。柔らかそうな明るい色の髪。垂れ目はなんとなく笑っているような形で、警戒心を洗い流してしまう。
 永久に欠けてしまった、支我の世界の一部。
 東摩龍介がそこにいた。