アフター・ハッピーエンド
「――おッ、やっと来たか」
「遅いわよ、支我」
「すいません、編集長、左戸井さん。検査結果は今朝受け取ったんですが、学校へ寄っていて遅くなりました。それで、本当なんですか。あいつが目を覚ましたというのは」
「こんな嘘、つかないわよ。でも、先にそちらの話を聞きましょうか。脚の具合はどうなの?」
「二年前と同じです。自分の意志では動かせません。やはり原因はわからないと」
「……そう。わかったわ。報告、ありがとう」
「そのわりに、晴れ晴れとした顔してんな」
「あいつを護れた証ですから。――護れたんですよね?」
「あァ。詳細は検査中だが、見た感じ、異常なし。いつもの龍ちゃんだったぜ。話もできたし、体も動かせた」
「異常のないことが、異常なんだけどね。心臓と脳が止まって数時間以上経つのに、なんのダメージもないなんて」
「おそらくは、引き剥がされた霊魂が、
「あいつは、《霊》だったときのことを覚えているんですか?」
「――それが」
「全然」
「まったくですか? 何一つ?」
「ぼんやり死んでた程度の認識はあるみてェだがな。脳と接続せず、霊魂のみに蓄積しておける記憶の量は、そう多くないってことだろ」
「そうですか。なら、よかった」
「よかった? そう思うの?」
「はい。……お二人に頼みがあります。俺の脚が再び動かなくなった理由を、あいつには伝えないでください」
「――嘘をつけということ?」
「そうです。本人には俺が話をしますから、積極的に作り話をしろとは言いませんが」
「まず、理由を聞きましょうか」
「余計なものを背負わせたくないからです」
「
「ええ。自分を庇って歩けなくなったと知ったら、あいつの性格からいって責任を感じるでしょう。ですが、これは俺がやりたくてやったことです。重荷を負わせたくはない。深舟には既に連絡してあります」
「
「『賛成はしかねるが、本当に本気で考えて出した結論なら、尊重する』――と」
「はァ……、大事にされてるわね、あなた。いい? 真実というのは、いくら綺麗に覆い隠したところで、まるっきりなかったことにはならないのよ。あの理事長を見てきた支我なら、わかってるでしょう?」
「わかってます。それでも」
「嘘がバレたら、支我も龍介も、今よりもっと傷つくことになるわよ」
「なら、知られなければいい。全身全霊をもって、隠し通します」
「これからずっと?」
「ええ。やってみせますよ。一生、死ぬまで」
「まったく……龍介といて少しは柔軟になったと思ったのに、相変わらず妙なところで言い出したら聞かないわね」
「はは。すみません」
「ま、いいんじゃねェか、千鶴」
「左戸井」
「こいつは真面目だから、嘘ついて針千本飲まされたこともないんだろ。若者には、そういう経験も必要だろうぜ」
「……すみません。ありがとうございます」
◇
東摩龍介は、今朝も目を覚ました。
病院なんだか監獄なんだかわからない部屋へ入れられて、今日で三日だ。千鶴と左戸井、両親、姉たちが顔を出してくれるから、寂しくはない。けれど、いい加減外の空気が恋しい。
スマートフォンでもあればまだ暇潰しができたのだが、まるで銃撃を受けたかのようにひしゃげていて、修理へ出したところだった。仕方なく、家族に持ってきてもらった本や教科書をぱらぱらめくっている。
看護師に話しかけてみようとも思ったものの、なぜか非常に鋭い目つきの人ばかりで、やめた。白衣の天使というよりヒットマンみたいだ。
隣を向けばすぐに深舟と話せた環境が懐かしい。あんなふうに、気のおけない仲間となんでもない話をしたい。
龍介の願いが届いたのか、朝食後、ノックとともに病室の扉が開き、極めて話しやすい人物が現れた。
「失礼します」
「正宗!」
本を放り捨てて駆け寄ろうとし、龍介はベッドの上で動きを止めた。
支我の目線の位置が、最後に会ったときよりも格段に低い。
スピードは遅くとも、力強く前へ踏み出していたはずの両脚が、車椅子の上に乗っている。
支我は、龍介を見て笑った。とても嬉しそうに。
「よォ、龍ちゃん。寝ていなくていいのか?」
「お前、……脚、まだリハビリ中?」
「開口一番にそれか?」
見慣れない夏服を着た支我が車椅子で近寄ってきて、ぽんぽんとベッドを叩く。龍介はその音に押されるようにして、浮かせていた腰を下ろした。
「編集長と左戸井さんから聞いたよ。病院で目を覚ますまでの記憶がないんだって?」
「あっ、うん。なんとなーく死んだなっていうのと、学校? にいたような気はするんだけど……。ほら、起きてから夢の内容を思い出そうとしても、夢を見てたことしか覚えてなかったりするじゃん。そんな感じ」
「そうか。《白いコートの男の霊》については聞いたか?」
「ざっくりとは。でも、見てない映画のあらすじを聞いたみたいな感覚だよ」
「実感がないか。まあ、無理もないな。お前は結構な活躍ぶりだったんだが」
「ほんとに~? 信じるぞ」
「ああ、信じてくれ」
二人は、額を突き合わせて笑った。久々の心安らぐ時間だった。
「――いや、つーか、おれの話はどうでもいいんだよ」
「よくはないだろう。貴重な臨死体験の経験談だしな」
「お前、またそんな怖い本読んでんのかよ……。じゃなくて! 正宗、まだ車椅子使ってんの? 無理しすぎた?」
歩くのにも、階段を下りるにのも難儀していた姿を思い出す。無邪気に喜んでしまったが、二年間動かしていなかった脚に負担をかけすぎたのかもしれない。
支我はこともなげに言った。
「ああ、事故に遭ってな。また動かなくなった」
「事故――?」
「そうだ」
「なんで? いつ? 怪我は?」
「数日前になるか。事故といっても、《霊》絡みの特殊な案件でな。まあ、これも自分で選んだ道だ。脚が動かない以外は至って元気だから、安心してくれ」
そう告げる本人はけろりとしていて、再び両脚を奪われた痛みなどおくびにも出さない。むしろ龍介のほうが言葉を失った。
支我の体と、もしかしたら心をも縛っていた《呪》が、ようやく解けたのに。奪われた可能性がせっかく戻ってきたのに。
「……そんなことあるかよ」
「あるらしいな」
「何、平然としてんだよ」
「お前こそ、何を怒ってるんだ。俺にとってはもう、脚が動かないことは大したことじゃない。ただ、事故に遭った。その事実があるだけだ」
龍介は、支我の目を見つめた。
眼鏡の向こうの理知的な瞳が、まったく動じずに見つめ返してくる。
二度もそんなことがあって、冷静でいられるものだろうか。いくら支我とはいえ。
「……ほんとにそう思ってる?」
「俺がお前に嘘をつくと思うか?」
「思わないけど……百パーセント本当のことを言うとも思ってない」
「はは。信用がないな」
「前科があるからな」
「あのときか。結局、全部話しただろう? もう許してくれよ」
意地を張ったことを、龍介がまだ怒っていると思ったらしい。支我は困ったような顔になった。
あえて黙ってみる。支我が言葉を重ねようとしたので、龍介は軽く笑い飛ばした。
「嘘。そもそも怒ってないよ。心配はしたけど」
「……すまない」
「いいって。わかってるよ。……あー、やっぱり友達と喋れると気分上がるな~。早く退院したぁーい」
「まだかかりそうなのか?」
「今週中には、って話だったけどな。勉強遅れちゃうよ。この前中間終わったばっかで、すぐ期末だろ」
「俺が教えてやるよ」
「もちろん、最初っから当てにしてる」
支我の肩を叩くと、彼はくすっと笑って、鞄からファイルを取り出した。分厚いプリントの束が入っている。
「では早速だが、お前が休んでいる間のプリントとノートのコピーだ」
「ありが……、げっ、何この量? やっぱり暮綯學園って授業が進むの速いなぁ」
「俺と深舟と長南で手分けして、わかりやすいように工夫してみたから、参考にしてくれ」
そう言われてノートのコピーを見ると、単に板書を写しただけではなく、教師が合間に話したのであろうワンポイントも書き込まれている。支我のものは流れが図解でまとめられ、深舟のものは解説が細かく丁寧だ。莢のものは、カラフルすぎてやや目に痛いが、重要度ごとにキーワードが色分けされていた。
たかがノートの取り方でも個性が出る。眺めているだけで興味深かった。
「クラスの連中も、ぜひお前を励ましたいと言うんで、手紙を預かってきたが……」
「……面白がってんだろ、これぇ。ったく、しょうがねぇなぁ」
寄せ書きとは名ばかりで、みな好き勝手に書きたいことを書いている。再会したら突っ込み倒そうと心に決めた。
「退院したら、都合のいいときに一度編集部へ顔を出してほしいと、編集長が言ってたぞ」
「うん、そうする。待ち遠しいなぁ」
「……バイトは、続けるのか?」
「え? うん。なんで?」
「いや――」
支我が言葉を呑み込んだ理由は、数日経ってから知ることになった。
◇
「お疲れ様でーす……」
「おっかえり~!」
「おわぁ」
編集部の扉を開けるなり楓が飛びついてきて、龍介は慌てて彼女を受け止めた。
改めて見回すと、オフィスの中には人がひしめき合っている。千鶴、左戸井はもちろん、支我、深舟、萌市、小菅、龍蔵院、山河、楓、久伎、曳目、華山兄弟、白峰、八汐、音江。通常、シフトの関係で一堂に会することはめったにないが、この場には全員が揃っていた。
「なっ、なに? もしかして、おれが帰ってくるから集まってくれちゃったやつ?」
「ふっふっふ、当然でしょう。マスターあるところに俺氏ありです」
「召集かけられただけだろうが。いいように言いやがって。まッ……そんなもんなくても、来てたけどよ。お前もそうだろ、萌市」
「言うまでもありませんね」
萌市と山河の掛け合いさえ、しみじみと懐かしい。離れていたのはほんの数日。それなのに、家に帰ってきたような心地がした。シークロアが、華山兄弟の肩を経由してロッカーから降りてくる。
「ニャミャナアナアニ~フ~、ナァオ~ウ~」
小さな体で、会いたかったと訴えている。抱き上げて耳の後ろを撫でてやった。
「おかえりなさい。よく帰ってきたわね、龍介」
「へへへ、ただいま戻りましたぁ」
「もう、体はなんともないのね」
「いつでも除霊に行けますよぉ」
千鶴が頷く。
そのとき、龍介は気づいた。散らかっていた彼女のデスクの上が、すっかり整理されている。
そこには真新しいレターケースが置かれ、几帳面にも、それぞれの引き出しに見出しがついていた。
一番上の引き出しにはこう書いてある。
退職届。
「全員集まったわね。このまま、話を聞いてちょうだい」
皆の視線が千鶴に集まった。左戸井だけは、椅子の上で器用に船を漕いでいる。
「知ってのとおり、龍介はゴーストとの戦いで一度命を落としたわ。今はこうして、奇跡的に戻ってくることができたわけだけど……私自身も含めて、今後、ここにいる誰かが本当に死ぬ可能性もないとはいえない。そこで、改めて問いたいと思ったの」
言葉を切り、千鶴はこう続けた。
「身近な人を失う経験をして、怖くなった人もいると思うわ。正常な反応よ。恐怖を抱えたまま戦えとは言わない。夕隙社は、《霊》と戦ってお金を得る会社。どうしても残らなければならない理由はないし、迷いを持ったままなら、むしろ足手まといになる」
千鶴がレターケースの上へ手を置く。
「退職に必要なものは揃えてあるわ。もう無理だと思ったら、ここから書類を取っていきなさい。記入して一番下の引き出しに入れておいてくれれば、受け取るから」
「編集長。お言葉ですが」
静かに聞いていた支我が、迷うことなく手を挙げた。
「ここにいる全員、覚悟を持って除霊に参加しています。危険は承知の上です。自分が力を貸すことで仲間を護れるのなら、俺はそうしたい」
「そうですッ。龍介のことで本当に心が折れたんだったら、誰もここには来てないわ。今日、この場に全員出席したことが答えよ」
深舟が勢い込んで続ける。
千鶴は、二人をじっと見つめた。
「あなたたちの気持ちを疑っているわけではないわ。でもね、支我と深舟さんは、見たでしょう。警視庁で、龍介のご両親を」
二人が、殴りつけられたように黙った。
「あなたたちの命は、自分だけのものではないわ。だから、よく考えてほしいのよ」
夕暮れ時のオフィスに、遠く新宿の喧騒だけが聞こえてくる。
そこへ、ギィン、とギターの音が混じった。人を奮い立たせるような音色だった。
「俺たちがやらなけりゃ、もっと多くの親が泣くことになる。なら、俺はやるぜ。絶望から人を救ってこそ、ロックだろ」
「小菅……。言うと思ったわよ。まあ、この場で進退を決めろっていうわけじゃないわ。選択肢の一つとして、頭に入れておいてほしいの。いつでもやめられるってことをね。話は以上よ。解散」
ぱん、と千鶴が手を叩き、煙草の箱を持って部屋を出てゆく。
アルバイトたちは、近くの者と会話し始めた。支我と深舟だけが微動だにしない。
龍介が二人に話しかけようとすると、左戸井に手招きされた。
「お前、もしバイトを続けるなら気をつけろよ。霊魂が力づくで肉体から引き剥がされたんだ、まだ剥がれやすくなってる可能性がある。奇跡は二度起きないと思え」
「……もしまた剥がれたら、どうなるんですかね?」
「そんときは誰に斃されて成仏したいか、あらかじめ紙に書いて懐へしまっとけ」
龍介は、思わず深舟のほうを振り返った。思いきりよく斃してくれて、未練を残す暇もなさそうだ。
彼女に小首を傾げられて、龍介は「考えときます」と答えた。腕の中にいたシークロアが机へ降り、窓際で丸くなる。
そのなだらかな背中の後ろに、部屋を出てゆく支我の姿が見えた。
小走りで追いかける。車椅子はビルを出て、自動販売機のあるほうへ向かった。
支我のICカードが、読み取り機の上で音を立てる。
「龍ちゃんも何か飲むか? 快気祝いだ」
「……じゃあ、コーヒー。無糖の」
「珍しいな。ほら」
黒を基調としたデザインの缶コーヒーが、放物線を描いて手の中へ落ちてくる。支我は清涼飲料水を買っていた。意外に糖分が多いからと、あまり好んではいなかったはずだが。
人の多いオフィスに戻るのもためらわれて、なんとなく二人、路地裏で蓋を開ける。
「……にが~」
「変に甘いな……」
揃って顔をしかめながらも、交換しようとは言い出さなかった。龍介は支我の横にしゃがみ込み、ちびちびとコーヒーに口をつける。
「これ、眠気覚まし以外の意味あんの?」
「意味があるかと言われると……」
「ないのかよ」
言葉を交わしながら、慣れない味を飲み込む。目の前の壁は、スプレーによるレタリングの練習帳になっていた。
「本当に戻ってくるつもりか?」
ペットボトルの半ばまでを飲み干して、支我が問う。
「さっき、編集長が言っただろう。無理に戻らなくていい。お前はもう十分に傷を負った。これ以上傷つく必要は、ない」
龍介は、支我の横顔を見上げた。まるで、戻ってきてほしくないかのような口ぶりだ。
「でも、おれは戻りたいんだ。親泣かせて、周りに心配かけて、薄情かもしれないけど。……みんなと一緒に戦いたい。苦しんでる人も――できるんだったら、《霊》も助けたい。生まれて初めてだよ、命がけでも何かをしたいと思うなんて。ここへ来るまでは、やりたいことなんか何もなかったのに」
暮綯學園へ転校してくるまで、人間の間をふわふわ漂っていただけの自分。
ゴーストと何が違ったのだろう。護りたいものも、大事な人も持たないで。
今の東摩龍介は、間違いなく生きている。人としての形を得て、ちゃんと息をしていた。
「……それがお前の望みなら、俺に口を出す権利はないな」
支我は前を見据えたまま、眉根を寄せて笑った。
どうして彼がこちらを向かないのかわからない。
わからない以上、龍介にできることは、ただひたむきに見つめるだけだ。そうしていたら、いつか答えにたどり着く日が来るかもしれない。
「まっ、そういうわけだから、今後ともよろしくな」
「ああ。こちらこそ」
缶コーヒーとペットボトルを、こつんとぶつけ合った。
喉を鳴らしてコーヒーを飲み干す龍介を、支我が車椅子から見下ろす。
「お前の髪……根元のほうが黒くなってきたな」
「ああ、最近美容室行けてないからなぁ。いっそ黒くしようかな」
「いいと思うよ。似合うんじゃないか」
空き缶をゴミ箱に捨てて、夕隙社へ戻るまでの道すがら、二人はどうでもいい話に花を咲かせた。
◇
後日、髪を黒く染めて学校へ行くと、誰よりも深舟が興味津々だった。龍介の周りをぐるぐる回って物珍しげに眺めている。
「……さゆりちゃんってさぁ」
「何?」
「もしかして黒髪の男が好み……いってぇ」
「何馬鹿なこと言ってんのよッ。自意識過剰にもほどがあるわ、いやらしい」
つんとおとがいを反らす深舟。支我が親のように見守っている。断じて微笑ましい光景ではないのだが。
けれどこの、一年後には忘れてしまいそうな景色こそ、三人が取り戻したかったものだった。