雨が降る前に
夕隙社のアルバイトも、気づけばずいぶん数が増えた。
学校や社会からはどこかはみ出したような人間ばかりだが、だからこそ馬の合う部分もあり、意外にうまくやっていた。今夜も無事に依頼をこなしたところだ。前線へ突っ込む役割の龍介や龍蔵院には生傷が絶えなかったものの、後から加入したメンバーの成長を経て、チームワークと呼べるものが形成できてきている。
とはいえ、火種は思わぬところにあった。
「それで、龍介クン。何度も聞くようだが」
と、白峰が言う。
夕隙社へ向かう社用車の中。運転席に左戸井、助手席に深舟、その後ろに白峰・龍介・久伎が座っている。支我は車椅子があるため、最後列だ。
「さゆりクンは、キミの恋人なのかい」
「だッ、だから違うって言ってるじゃない」
問いかけられた本人より先に、助手席の深舟が振り返って怒る。
「なら、いいじゃないか。デートに誘っても」
「……やだ」
龍介がぶすっと言った。
「キミに彼女へのアプローチを制限する権利はないだろう?」
「ないけど、やだ」
肩を怒らせる龍介。静観していた久伎が横を向く。
「龍介、落ち着いて。ほら、外をごらん。東京タワーだよ」
「落ち着いてらんないよ」
「そう? 困ったね。それじゃ、口を開けて」
「あー……、ん、ラムネだ~。ありがと」
「どういたしまして」
それきり、車内は静かになった。久伎が龍介の口に放り込んだラムネのおかげだ。こちらにも一つくれたので、ありがたく受け取った。ブドウ糖は頭脳労働の燃料になる。
「なんかさぁ、前にもこういうことが……、あっ」
「どうしたの」
「思い出した! 一番上の姉ちゃんが結婚したときも、こんな気持ちになったんだよ」
「へえ。ふふっ、龍介はお姉ちゃん子なんだね」
「なのかなぁ。……ってことは、さゆりちゃんはおれにとって」
龍介が手を口元に当てる。
「四番目の姉ちゃん……?」
「誰が姉ちゃんよ」
間髪を容れず、深舟が突っ込んだ。
そのあまりの鋭利さに、車内の体感温度が低下する。支我はノートパソコンを開いた。もちろん、ゴーストが出現する予兆ではなかった。
久伎が気を取り直して言う。
「……だとしたら、龍介のお父さんとお母さんは誰になるんだろうね」
「それはやはり、編集長がママン、左戸井サンがパパではないのかい?」
「え~、逆じゃね?」
諍いはどこへやら、久伎・白峰・龍介の三人は、新たな話題でざわつき始める。支我は今のうちに収支報告書をまとめておくことにした。キーボードを叩く音に混じって、ひそひそ声が聞こえる。
「逆ってことは、龍介にとって編集長がお父さん、左戸井さんがお母さんなんだね」
「ふむ。確かに、我らが編集長は凛々しくも雄々しい女性だが」
「っていうかさぁ、編集長と左戸井さんってどういう関係なのかな? おれ、ずっと気になってたんだけど」
「おい、ガキども。そういう話は本人のいないところでするもんだぞ」
左戸井が釘を刺したところで、社用車はちょうど夕隙社に到着した。
思い思いに運転の礼を述べ、車から降りる。今日は男手が多いので、かさばる備品の数々も、あっという間に社内へ運び込むことができた。オフィスでパソコンに向かっていた千鶴が出迎える。
「おかえりなさい。怪我はないかしら」
「ただいま戻りました~。みんな元気でーす」
「よろしい。お疲れ様、よくがんばったわね」
慈愛に満ちた微笑。白峰が、久伎に「やはりどちらかといえばママンじゃないかな」と耳打ちしている。
温かい出迎えに油断したのだろう。本来は細心の注意を払って告げなければならないことを、龍介はぽろっと口にしてしまった。
「ただ、プラズマテレビを壊しちゃって」
「なんですって?」
風向きが変わる。支我は、半眼で棒立ちになっていた深舟に声をかけた。
「深舟。長引きそうだから、遅くなる前に帰っていいぞ。後はやっておく。明日、朝練なんだろう?」
「ありがとう。悪いけど、お言葉に甘えようかしら。使いかけのお酒は冷蔵庫でいいのよね」
「ああ、そこに入れると左戸井さんが飲んでしまうから、場所を変えたんだ」
支我と深舟がてきぱきと動く中、オフィスの奥では立て続けに雷が落ちる。
「
「ごめんなさーい……」
「肝に銘じておきなさい。高いものは壊さない。はい、復唱」
「高いものは壊さない」
「メモも取っときなさい」
「はぁーい」
龍介はポケットから小さなノートを出して、律儀にメモしている。千鶴はそれを監視しつつ、深舟に声をかけた。
「深舟さん、お疲れ様。帰り道、よく気をつけてね」
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「編集長ぉ、書けました~。『高いものは壊さない。今度から武器はメリケンサックにする』」
「そうね、リーチの短い獲物を使うのも一つの手よ。でも、その分ゴーストの懐へ入り込むことになるから、怪我をしないようにね」
「編集長、優し~。……お母さんみたい」
龍介が、小声で呟く。千鶴が豊かな髪を掻き上げた。
「……へえ」
「あッ、いえ、おれが言いたかったのは編集長がすごく素敵な女性だってことで」
奇妙に震え出した龍介は、何かを垣間見たらしい。支我の位置からでは、千鶴の微細な表情の変化までは追えなかった。
「け、けど編集長って、『お母さん』っていうには美人すぎますよね。一緒に住んでたら絶対意識しちゃうもん」
「あら。ふふふ、素直な子は好きよ」
「えへー」
うってかわって、二人は温厚に笑い合う。備品を片づけていた白峰が、そっと支我に囁いた。
「よくも悪くも子どもみたいな人だね、彼は」
「……すまん」
支我に責任はないのだが、なぜか謝ってしまった。
「かと思えば、さゆりクンと三人でデートしよう、なんて言ってくるし。まったく……」
白峰の双眸は、この散らかった部屋ではなく、どこか遠いところを映しているようだった。
自らの手で斃すことを選んだ、かつての恋人の面影だろうか。そう簡単にけりのつけられる感情でないことは、支我にも推察できる。
けれど、こんな時間が積み重なって、やがて未来への道を作るのだろう。生きている人間は、良くも悪くもひとところへは留まれない。漫然と過ごす毎日でさえ、必ず来る明日へ繋がっている。
「あーっ」
物思いに耽る二人を、間の抜けた大声が引き戻した。
「勇槻! おれの正宗取んないでよ!」
騒々しく走ってきた龍介が、後ろから腕を回してくる。支我は牙を剥き出しにする彼を諌めるべく、とんとんと肘のあたりを叩いた。
「龍ちゃん……。俺はいつお前のものになったんだ?」
「……
龍介がめげずに訂正する。白峰は苦笑しながらも、どこか微笑ましげに彼を見守っていた。
支我の頭に顎を乗せ、龍介が拗ねたような声を出す。
「だいたいさぁ、さゆりちゃんとか正宗には声かけるくせに、なんでおれは誘ってくんないの」
「え?」
「仲間外れなんてひどいじゃんか~。言っておくけどな、おれは全方位に嫉妬してるぞ!」
しっかりと支我を抱き締めたまま、龍介が高らかに言い放つ。
作業が進まないのでそろそろ離してもらいたいところだが、突き放すのも忍びない。そう思うのは、支我自身がこの感触に、少なからず安らぎを覚えているからだろうか。
白峰が失笑する。やがて、大きく肩を震わせ始めた。
「ふ……、ふふふッ、ははははは! さすがだな、龍介クン」
「なんだよ。観念したかぁ? おれのことも誘う気になった?」
「なったとも。キミもまた、世界の新たな色をボクに教えてくれるんだね、モン・シェリ」
「モン……?」
龍介が聞き返す。支我は、図体ばかり大きい末っ子の下から苦言を呈した。
「白峰……。友人同士の呼び方に文句をつけるつもりはないが……」
mon chéri、愛しい人。ただでさえスキンシップの多い龍介をそんなふうに呼んでいたら、あらぬ誤解を受けそうだ。他人はもちろん、明日出勤してくる華山兄弟などに。
「えー待って、調べる」
「まあ、大したことじゃないよ。キミにとってはね。そういえば昨日、いい茶葉を手に入れたんだ。よければ、今度我が家でお茶でもどうだい?」
この流れで家に誘うのもどうなのだろう。微妙な気分になる支我であったが、当の龍介は呑気にはしゃいでいる。
「行く行く~! 正宗と千草も誘っていい?」
収支報告書の控えをファイリングしていた久伎が、「僕も?」と手を止める。
「だって、千草もおれと遊んでくれたことないんだもん」
「この前、釣りに行く約束をしたじゃない」
「雨降って流れちゃっただろ~。おれは千草ともっと話したいの」
「雨といえば、今日の深夜から明け方にかけて大雨だってよ。曇ってきたぜ」
屋上で一服していた左戸井が、あくび混じりに戻ってくる。
そういえば、都内に雨の予報が出ていた。支我はテレビの傘マークを思い出した程度だったが、龍介は跳ねるように体を起こし、肩を掴んできた。
「そうじゃん、雨! 正宗、先帰んなよ」
支我にとって、雨は機動力を削ぐものでしかない。傘を差せば片手が塞がる。車椅子を使う者からすれば、それは片脚が封じられるのと同義だ。レインコートを羽織って移動することも可能ではあるものの、視界と足下の悪い中では、確実に体力を奪われる。そのあたりの事情を言葉にした覚えはないが、そばで見ているうちに察したのだろう。
左戸井が、猫の子でも追い払うかのように手を振る。
「あー、支我だけじゃなく全員もう帰れ。片づけは終わったんだろ?」
「はい、完了しています」
白峰が答えた。
「んじゃ、雨が降る前にさっさと出てけ」
「はぁーい。左戸井さんと編集長は?」
「私たちもじきに帰るわ。みんな、お疲れ様。また明日ね」
千鶴が片手を挙げる。店じまいは大人たちへ任せ、高校生組は先に帰宅することとした。
支我と龍介は徒歩、久伎と白峰は電車だ。いつもどことなく酔ったような新宿の住人たちとすれ違いながら、挨拶を交わした。
「それじゃあ、今日はお疲れ様。またね」
「ボクはここで失礼するよ。また明日。オ・ルヴォワール」
改札口へと消えてゆく二人を見送り、支我と龍介は歩き出す。どんな話をしたかは覚えていない。きっと、川面に浮かぶ泡沫よりも刹那的な、取るに足らないことだった。
「龍ちゃん、気をつけて帰れよ。また明日」
「おー、またなー。おやすみ~」
何の気なしに口にする、再会を疑いもせぬ言葉と同じくらい。