物理的接触を好む十代男性のコミュニケーションの変容に関する分析

■問題
 高校生間のコミュニケーションにおいて、肉体的な接触は珍しいものではない。
 女子生徒は手を繋いだり相手の髪をいじったりするし、支我自身も、励ましを込めて後輩の肩――は届かないため、腕をぽんと叩くことがある。
 龍介が転校してきてからは、そうした機会が飛躍的に増えた。彼も初めは自重していたようだが、仲良くなるにつれ、肩に腕を回したり、抱きついたりしてくるようになった。悪意がないのはわかるので、好きなようにさせている。
 拒否されないからか、暮綯學園で最初にできた男友達だからか、龍介が絡む相手は支我が群を抜いて多かった。
 つい先日までは。
 ここ数日、なぜか支我だけが一定の距離を置かれている。
 たとえば今だ。支我たちは、夕隙社のオフィスで雑誌の原稿と向き合っている。龍介は回覧資料を持って、久伎の元を訪れたところだった。
 訪れたといっても、久伎の席は龍介のすぐ後ろだ。わざわざ立ち上がるのが億劫だったのか、キャスターつきの椅子を滑らせていた。
「千草ぁ、今忙しい?」
 龍介は久伎の肩を抱くように腕を回す。嫌がられるとは夢にも思っていない声だ。
「大丈夫だよ」
「これ、回覧資料だってから、目ぇ通したらサインか印鑑押して」
「わかった。この分量なら、今読むね」
 と久伎が目を落とす間も、龍介は触れ合ったまま一緒になって資料を読んでいる。机に置かれた紙には、「とーま」と極度に省略されたサインが既になされていたようだったが。
「……うん、了解。どこにサインしたらいいかな?」
「あ、まだ千草の欄はないのかぁ。後で編集長に言っとくな。とりあえずこの辺でいいんじゃない」
「龍介君の隣だね」
 さらさらとペンを滑らせる音がして、龍介は「ありがとー」と席を立った。
「おれ、今手が空いてるから、ついでに回しちゃうよ」
「いいの? ありがとう」
 龍介は椅子を自身の席へ戻し、立ち上がって支我のところへやってきた。
「正宗ぇ、これ回覧」
「ああ、聞こえていた。ありがとう」
 龍介は傍らに立ったまま、支我に資料を手渡した。
 支我が文章を読んでサインする間、そこから動かない。お行儀よく待っている。
「ん、じゃあ回しとくな」
「悪いな、助かるよ」
 支我には指一本触れず、龍介は曳目の席へ向かった。
 もちろん、資料の受け渡しにおいて、相手に触れる必要はない。ではなぜ久伎には密着していたのか引っかかるが、座った姿勢と立った姿勢では勝手が違うのだろう。
 そう乱暴に結論づけた支我だったが、背後から聞こえてくる忍び笑いに、いっとき気を取られた。
「こんなボールペンあるんだぁ、かわいー」
「ふふ。文房具がかわいいと、勉強も楽しくなりますよね」
「その髪飾りもかわいいよね。ていちゃんっぽい」
「ありがとうございます! お気に入りなんです」
 龍介は曳目の横へしゃがみ込み、椅子に座った彼女を見上げていた。さすがに肩を抱きはしていないが、結構な距離の近さだ。
「そういえば、ていちゃんとここで会うの久しぶりじゃない?」
「そうですね。なかなかこちらに来られなくて。神社でのお仕事もあるものですから」
「そっかそっか、ダブルワークってやつだ。どっちも一生懸命やっててえらい。お疲れ様」
 龍介が子犬にするようにわしゃわしゃと曳目の頭を撫でると、彼女は面映そうに笑った。
 支我の胸には、やはり疑問が浮かぶ。
 どうしてこのごろ、自分だけが距離を置かれるのだろう?
 久伎がAzureと名乗って依頼してきたときには、まだ頻繁に抱きつかれていた記憶がある。彼の態度自体はフレンドリーなままだから、わざわざ尋ねるほどでもない。だがこうも繰り返されると少し気になる。
 そしてここに、聞きたいことは直球で問いただす剛の者がいた。深舟さゆりである。
「龍介って」
「ん? さゆりちゃん、何か言った?」
 左戸井を叩き起こし、力づくでサインを入手した龍介が振り返る。
「どうしてこのごろ、支我くんにくっつかないの? 前はあんなに距離感がおかしかったじゃない」
「深舟……」
 それはもしや、受け入れるほうもおかしかったということだろうか。若干反省した支我であった。
 対して、龍介は笑顔を崩さない。
「そう? まあ、あんまりベタベタするのもな~って思うようにはなったかな」
「ふうん」
 深舟はまだ怪訝そうにしていたが、「やっとまともな人間になったってことかしらね」と呟いた。龍介はへらっと笑い、「そうそう、そういうこと」と言って、回覧資料を手に地下のM.I.Tへ消えていった。
 支我は、おかしい、と考える。
 先刻の龍介は、何かをごまかしていたように感じた。根拠は二つ。深舟の言葉に対し、いつもなら大仰な泣き真似でもしてみせそうなものなのに、ただ笑って流した。加えて、その笑い方も他人行儀だった。
 これだけ行動をともにしていればさすがにわかる。では、偽ってまで支我と距離を保つ理由は何か。
 疑問を解明するため、支我は三つの仮説を立てた。

■仮説
①深舟の言うように、成長に伴いコミュニケーションの取り方が変化した。
②支我とそれ以外のメンバーの相違点といえば、車椅子だ。体を痛めるか何かして、長時間こちらに高さを合わせるのが困難になった。
③心当たりはないが、支我が龍介の機嫌を損ねるようなことをした。

■方法と結果
 仮説ができたので、支我は日常生活の中でそれらを検証することにした。幸い、対象とはクラスもアルバイト先も一緒だ。機会には恵まれている。

◆仮説①――龍介の成長に伴い、コミュニケーションの取り方が変化した
 この仮説を検証するためには、過去の龍介のコミュニケーションスタイルを知り、現在と比較する必要がある。支我の持つデータはせいぜい一ヶ月分に過ぎないから、転校前の情報が手に入ればなおよい。調べることも可能ではあるだろうが、本人の知らぬところで詮索したくはなかった。手段としては最初から却下だ。
 それと、支我以外の人間にはどう接しているのか、さらに多くの標本を集めたい。久伎と曳目に対する態度は確認できたから、次は学校でのサンプルが欲しい。
 以上を踏まえつつ、支我はクラスメイトの一人と話す龍介を観察することにした。
 こちらも会話しながらであるから、完全に客観的な調査とはいえない。けれどやはり、笑いながら腕に触ったり背中を押したりと、ボディタッチが多いように見える。その間、支我に触れることはなかった。
「でさぁ、外国の人に道聞かれて、おれは結構テンパったんだけど。正宗はスマホの地図見せて、まずちゃんと現在地をわからせてあげてから説明しててさ~。すげぇなって思ったよ」
「へー、さすが機転が利くな。その間東摩はどうしてたの?」
「隣で一生懸命頷いてた」
「アホかよ」
「だって、正宗が完璧すぎてやることなかったんだもん」
「そんなことはないだろ。龍ちゃんが愛想よく接していたから、向こうも安心したように見えたがな」
 二人を視界に入れつつも、支我は穏やかに述べた。
「ああ、なんか人よさそうな顔してるもんな、東摩って」
「実際いいだろ~?」
「うん、パニックものの映画で暴徒に踏まれて最初に死ぬタイプ」
「んだとぉ」
 龍介がクラスメイトの首に腕を回し、軽く絞めるふりをする。けたけた笑う二人に、別の男子生徒が声をかけてきた。
「あっ、東摩、ノートありがとな。これ、ささやかだけどお礼」
「えっ、よかったのに。なになに?」
「野々宮アイとコラボ中のカードつきポテチ。この前ライブ行ったって話してたからさ」
「まじ? うわ、この衣装見たことない、めちゃくちゃかわいいじゃん! ありがとう!」
 龍介に抱きつかれ、彼は苦笑いして受け止めた。
「東摩ってなんつーか、接触多いよな。外国生まれ?」
「純国産。多いかなぁ?」
「どう考えても多いだろ。なァ、支我」
「前の学校でもそうだったのか?」
 クラスメイトの問いにはあえて答えず、支我は龍介に尋ねた。
「いやぁ、前もその前も、落とした消しゴム渡す以外で誰かに触った覚えがない。どうせすぐ転校するしさー、本気で仲よくなったって別れがつらいだけじゃん」
「東摩……」
「不憫な子だったんだな……」
「そうなの、だから優しくしてよ。具体的には自販機のカフェラテを奢るとかしてくれると嬉しい」
「調子乗んな」
「不憫でもなんでもねーわ」
「バレたか~」
 小突きあってはしゃぐ三人を前に、支我は別のことを考えていた。
 仮説①は棄却。時間の経過や成長で変わったわけではなく、本人の中に切り替えるスイッチがありそうだ。それとやはり、支我以外の人間には抱きついている。

◆仮説②――体を痛めて、長時間支我と同じ高さまでかがむことが困難になった
 支我は、さっそく次の仮説の検討に取りかかった。
 体を使うアルバイトだから、腰や足を痛めてしまった可能性はある。そのせいで常に座った状態の支我には触れづらくなったというのも、あり得ない話ではない。
 怪我だとすれば、千鶴に報告する必要性が生ずる。しかし、そんなことは龍介も承知のはず。言い出しにくい理由があるのかもしれない。
 では、どのように確かめるか。
 正攻法で口を割らせるのは難しそうだ。試すようで良心は咎めるが、わざと誘導してかがむ姿勢を取ってもらうことにした。
 風の強い日を選び、二人で小テストに備えて問題を出し合っている最中、わざとプリントから手を離す。
 英単語の書かれたプリントは、窓からの風に乗ってひらひらと廊下へ飛んでいった。
 悪いが取ってきてくれないか、と依頼するつもりであったが、龍介はそれより前に席を立つ。
「あっぶねぇ~。他のクラスまで飛んでくとこだった。セーフ!」
 支我が頼むまでもなく走ってプリントを回収してきてくれたので、丁重に礼を言うほかなかった。
 罪悪感で胸が痛み、次の休み時間に急いで自動販売機まで行って、カフェラテを買った。エレベーターの数が限られているため、教室に戻れたのは授業の開始直前である。龍介は不思議そうに受け取ったが、喜んで飲んでいた。
 とにかく、仮説②は棄却だ。彼の動きはすこぶるよい。そしてもう、騙し討ちのような真似はしたくない。

◆仮説③――支我が龍介の機嫌を損ねるようなことをした
 残るは、龍介ではなく支我に原因があるのではないかという仮説だ。
 当初、可能性は低いと考えていた。思い返してみても心当たりはない。それにもしそのようなことがあれば、触れてこないだけではなく、多少なりとも態度が硬化しそうなものである。
 だが、仮説②の検証過程で裏づけられたとおり、彼は親切な男だ。嫌な思いをしても、支我を慮って言わなかったのかもしれない。
 もしそうなら、早急に謝罪する必要がある。中庭のテーブルベンチで弁当を広げつつ、支我は話を切り出した。
「なあ、龍ちゃん。一つ聞きたいんだが」
「なに~?」
 おかか味のふりかけをご飯にかけながら、龍介がのんびりと聞き返す。
「俺は最近、何かお前に失礼なことをしたか?」
 龍介はきょとんとした。
「え、急に何? してないけど」
「そうか。なら、いいんだが」
 仮説③も却下され、当座の手持ちがなくなってしまった。考え込む支我であったが、龍介は当然追及してくる。
「どゆこと?」
「いや……、大したことじゃないんだがな。前はよく抱きついてきたのに、いきなりそれがなくなったから、どうかしたのかと思ったんだ」
 ためらったが、本心を伝えてみた。龍介は「あー」と得心のいったような顔をする。やはり、意図して支我への接触を控えていたらしい。
「だってさぁ、ほら、千草にハグしたとき、『いちいち抱きつくの、やめたほうがいいぞ』って言ってたじゃん」
「ああ……確かに言ったな」
 久伎と曳目が仲間に加わった、あのアズール・ブルーの朝だ。同志が増える喜びゆえとはいえ、出会って間もない龍介に抱き締められ、二人は驚いていた。だから一応釘を刺したわけである。その後の反応を見る限り、彼らも嫌ではないようなので、嗜めるのはあれきりになっている。
「後で考えたわけ。『わざわざ注意するってことは、ひょっとして正宗の奴、今までハグされるの嫌だったんじゃないの?』ってさ。おれに気を遣って言えなかったのかなーと」
 どうやら、似たようなことを考えていたらしい。
「いや。あれは、二人が驚いていたから止めたまでだ」
「あ、そうなの? じゃあ別におれが嫌なわけじゃない?」
「ああ。むしろ、急に抱きついてこなくなったから、俺のほうが何かしたのかと思っていたよ」
「なーんだ、よかったぁ。かえって気を遣わせちゃってごめんな」
 誤解が解けて、二人はほっと笑い合った。
 五月の薫風が、さわさわと梢を揺らす。あと一ヶ月もすれば暑くなるだろうが、木陰で食事をするにはちょうどいい陽気だ。
「じゃあさ~、今ハグしてもいい?」
「あえて確認されるのも変な感じだが、構わないぞ」
 龍介が両手を広げるので、支我も箸を置いた。迎撃の体勢は万全だったが、土壇場で彼のほうが恥ずかしがって、正面ではなく横から抱きついてきた。
「これで仲直りってことで」
「喧嘩していたわけじゃないけどな」
 龍介の腕が、遠慮がちに支我の肩へと乗せられる。
 夕隙社でのアルバイトを経て、いくぶんか逞しくなったように思う。あるいはこれが成長期ということなのか、ひょろっとした印象だった体つきは、短期間で線を濃くしつつあった。
 支我の首へもたれるようにして、龍介が呟く。
「前から思ってたんだけどさぁ、正宗ってなんかいい匂いすんだよね。なんつーのかなぁ、お日さまの匂い? みたいな……」
 男子高校生が同級生に吐く台詞としてはかなり微妙な気がしたが、久々のハグに成功した龍介が上機嫌だったので、指摘せずにおいた。

■考察
 気を揉ませたお詫びに、と龍介が唐揚げを一個分けてくれた。高校生にとってそれは、最大限の誠意の示し方といっても過言ではない。生姜が効いていておいしかった。
「正宗って普段はしっかりしてんのに、意外と変なとこ変で面白いよなぁ」
「……変? 俺が?」
「うん」
「お前ではなく?」
「え~」
 卵焼きを飲み込んだ龍介が、心外そうに眉をひそめる。
「友達として言うけど、自覚持っといたほうがいいと思うよ?」
「どのあたりが変なんだ?」
「だってさぁ、男が抱きついてこなくなったって、普通はふーんで終わりじゃない? それを気にしてたわけだろ。おれが変っていうなら、正宗も同じくらい変」
「……まあ、否めない」
「でしょ~」
「だが、俺はやはり、お前のほうが変わっていると思うがな」
 支我がなおも言い張ると、龍介には呆れられた。
「お前は負けず嫌いだねぇ~。まあいいよ、こっちが変でも。昔は変わってるって思われるの嫌だったけど、今はみんながそばにいるし。それって、変なおれでも好きでいてくれてるからだよな?」
 龍介が「みんな」を指折り数えて笑う。大切なものを自慢するかのように。
「さゆりちゃん、萌市、春吉、鉄栴、虎次郎、伊久ちゃん、千草、ていちゃん、編集長、左戸井さん、んで、正宗」
「俺もか」
「そうだよぉ。認めろよ、お前おれのこと結構好きだろ」
 もちろん、否定する理由はなかった。