色なき花が笑うころ

 全校集会からの帰り道、彼は立ち止まって空を見上げていた。
 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の端だ。支我がスロープを回る間に、何か見つけたらしい。
「どうかしたのか、龍介」
「正宗」
 龍介が頭上を指さす。
「見ろよあれ。すっかり葉桜になっちゃった」
 体育館のそばには、暮綯學園の創立当初に植えられたというソメイヨシノの大木がある。桜の花びらも赤い萼も落ち、青々とした若葉が茂っていた。
「転校してきたときには、まだギリギリ花が残ってたんだけどなぁ。お花見行きたかったぁ~……」
「花見か。桜の開花は北へ向かって進むから、東北地方や北海道ならまだ咲いてるんじゃないか?」
「いや、花が見たいわけじゃねーんだよ、花も見たいんだけどさぁ」
 不可思議なことを言う。龍介は諦めきれない様子で、細かくひび割れたソメイヨシノの幹に手を当てた。
「お前とかさゆりちゃんと見たかったなぁ~ってこと」
「なるほど。確かにな」
「夕隙社のみんなと花見したりした?」
「わざわざ出かけてまでは見ていないが、バイト帰りに何人かで桜を眺めたことはあったかな」
「いいなー」
 龍介はひたすら羨ましがっているが、実情はそれほどいいものではない。桜の時期は夜間の人出が増える。目立つところに社用車を停めようものなら、すぐ見回りの警察官に窓をノックされてしまうので、左戸井がぶつくさ言っていた。
 だが、あえてそんな現実を告げる必要もあるまい。龍介と並んで車椅子を走らせながら、支我はこう慰めた。
「花見は来年まで無理かもしれないが、他のことならこれからいくらでも一緒にできるさ」
 在学中に成し遂げられそうなことなら、今から計画すれば達成の余地はある。桜は散ったとはいえ、まだ春だ。
「前向きだなぁ」
「過去を惜しんでも、時間が戻るわけじゃないからな。何か他にもやりたいことはあるのか?」
「んー、えーと、浴衣着てお祭り行ってみたい。あと、文化祭回ったりとか」
 指折り数えるうちに龍介の表情が明るくなって、他のメンバーにもいい案があるか尋ねてみようということになった。
 その日の夕方、ボードゲームの卓を囲みながら話をすると、
「はいはい! アタシのマジックショーにもみんなで来てよ!」
 と楓が真っ先に手を挙げた。猫を模した帽子から伸びる尻尾の装飾がぴょこんと跳ね、隣にいた小菅の手札を攫いそうになる。
「うおッと、危ねェぞ、楓チャン」
「あッ、ごめんごめん」
 小菅の手元にある札は少ない。楓はゲームに対しては熱心だが、あまりにもプレイスタイルがトリッキーなので、ゴースト役に回すと場が荒れる。この手の遊びは得意な支我もしばしば翻弄された。山河など、早々に戦線離脱し、龍介の後ろで応援役に徹している。左戸井は部屋の隅で、さして面白くもなさそうに雑誌をめくっていた。
「龍ちゃん、RAVENうちのライブはこの前来てくれたよな」
「そう。アンコールのギターソロかっこよかったぁ~」
「へへッ、サンキューなッ」
「……龍ちゃん?」
 山河が疑義を質す。
「おう、この前からそう呼ぶことにしたんだよ。わざわざライブに来てくれたってことは、ファミリーみたいなもんだからな」
「そういうことになった」
 龍介は感激屋の小菅に流されたらしい。まんざらでもなさそうだ。
 山河はギロリと二人を睨む。軟派な馴れ合いが気に入らないとでも言い出すかと思えば、その逆だった。
「龍ちゃん……龍ちゃんか。悪くねェな。気に入った」
「え?」
「アタシもッ。これから龍ちゃんって呼ぶね」
「伊久ちゃんも?」
「なら、俺も今後は龍ちゃんと呼ぼうかな」
「正宗まで」
「どうでもいいけどよォ、小腹が空いたからなんか買ってきてくれよ、龍ちゃん」
「左戸井さんも……ってことは、おれは反対にみんなのあだ名を考えたほうがいいのかな? 一気に五人分はきついなぁ」
 大真面目に考え始めた龍介の頭を、楓が「がんばれー」と撫でてやる。
「いいから、とっとと行ってこい」
「あー左戸井さん、おれの代わりにハンターやっといてください」
「あァ? めんどくせェな……」
 ぼやきつつも、左戸井が空いた席に座る。龍介は財布を掴み、皆に見送られて出ていった。
 龍ちゃん。
 まったく馴染みのない響きを、支我は口の中で転がしてみる。
 わずかな期間で、ここまで誰かと親密になるとは思っていなかった。
 一年後、アスファルトまみれの東京すら花で満たされる季節、龍介や皆との関係はどうなっているだろうか。