震えが止まるまで
龍蔵院の頬が裂け、鮮血が飛び散る。ぐいと拭われた赤は薄暮の中でも目を引いた。
彼が退けば、残るは龍介と楓の二人になってしまう。他のメンバーは別の仕事に向かったため、今日この場にいるのは三人だけだ。
太刀打ちできぬほどの相手ではないが、仲間に加わって間もない楓を補助しながらとなれば、難易度は跳ね上がる。おそらくは龍蔵院もそれを察したがゆえの奮闘ぶりであった。
傷を押さえて飛びすさる龍蔵院に、ゴーストが追いすがる。龍介は粉砕バットをぎゅっと握り締めた。
「そっちじゃなくて、……こっち!」
思い切りぶん殴られたゴーストが悲鳴を上げる。あまりにも巨大でおぞましい、蜘蛛の動物霊だった。
「スクリーム反応。龍介、気をつけろ」
インカム越しに注意が飛んでくる。敵の狙いは龍介。つまり、龍蔵院へのマークは外れたということだ。
それで安心したのがよくなかった。
「龍介!」
楓の高い声が響く。
ゴーストが脚を振り上げた。あまりにも接近していたせいで、まともに食らう。
龍介は吹き飛ばされ、壁に背中を打って尻餅をついた。からん、からん、からん、とバットが床で踊る。
「――」
インカムから雑音が聞こえる。慌てて手探りでバットを追うが、ない。たやすく命を屠れる存在の前で、丸裸にされたにも等しかった。
どっと心拍数が上がる。息を吸おうとして失敗した。両肩は、呼吸するたびに大きく揺れる。急に酸素が薄くなったかのようだ。空気すら飲み込めずパニックに襲われる。暗がりの中、はっきりと見えるのは投げ出された自分の足だけ。あとは遥か遠くでぼやけた色が舞うのみだった。もしかしたら次の瞬間にはそれが真っ赤に染まるかもしれない。一刻も早く助けに行かなければと焦りばかりがいや増すが、立ち上がることすら叶わなかった。また雑音が聞こえる。思わず両耳を塞いだ。頭の中を直接やすりで削られているかのようだ。耳に触れた手の冷たさは死者のものに近く、無様なくらい震えていた。冷や汗がべたついて不快だ。鼓膜を掻きむしるようにして轟音が響き、びくっと体が跳ねる。何の音かわからない。まさか、まさか、命が散る音か、そして龍介も同じように消えるのか。呼吸が速まり溺れそうなくらいなのに、なぜ手足は言うことを聞かないのだろう。仲間を守らなければ。だが武器はどこにもなく、立ち向かう術もありはしない。他に助けてくれる人もいない。相手はゴーストだから、警察を呼ぼうが自衛隊を呼ぼうが、誰にも太刀打ちできないのだ。戦えるのは自分たちだけ。声も上げていないのに喉はヒューヒュー鳴って嗄れそうだ。肺が軋む。骨が煮える。髪が汗で濡れて、思考は硬直する。ここでもがいている間にも、龍蔵院と楓は戦って傷ついているかもしれなくて、それなのに自分はここにいて手は空を切るばかりで二人が死んだら自分が殺されたらもっと苦しいだろうか既に胸の奥の空気が内側から細胞を刺すのにこれ以上なんて信じられないおかしくなりそうだもうなっているのかもしれないどうしてどうしてこの体はわななくばかりなのかどうして助けに行かないと無理だ立つこともどうして殺されたらもしももしももしも、
「――、――龍介」
最初は機械音声かと思った。ノイズを纏っている上に、あまりにも感情のない声だ。
それでも、先ほどまでの雑音よりはよほどまともで、龍介はこわごわと耳から手を離した。獣のように息が荒く、肋が痛い。
「龍介、聞こえるか? 聞こえたら返事をしてくれ」
「……」
声が出ない。懸命に頷くが、それでは伝わらなかったらしい。もう一度指示が送られてくる。
「返事が難しかったら、ヘッドセットのマイクを触るか、何かを叩くかして音を出してくれ」
言われたとおりに、マイク部分を握る。そんな動作に何秒もかかった。
「よし。聞こえてるな。今から俺が言うことに従ってくれ。まず、口を開けて息を吸うんだ。準備はいいか? 一、二……」
カウントに合わせて、息を吸い込む。きりきりと胸が締めつけられる。
「今度は、口からゆっくり息を吐く。腹の底まで空にするイメージだ。……吐いて。一、二、三、四……」
ふう、と息を吐き出した。体がこわばっていて、完璧に指示どおりとはいかなかったが、言われるがままに繰り返す。
初めて、無線越しの声が柔らかさを帯びた。
「そうだ。いいぞ、よくできたな」
龍介は顔を上げた。全身が水を浴びたように汗で濡れ、まだ細かく震えている。
「正宗……」
「怪我はないか、龍介」
「……わかんない」
「なら、今は考えなくていい。お前の周りに武器が落ちているはずだ。床を見てみろ」
目に汗が入るのを拭いながらあたりを見回すと、そう遠くない位置にバットが落ちていた。
「あった」
「手が届きそうなら、拾ってくれ」
這いつくばるようにして手を伸ばすと、かろうじてバットのグリップに届いた。床を擦りながら引き寄せる。
「拾った……」
「よし。立ち上がれるか? 片足を出して、体重を乗せてみろ」
「……うん」
体は重たかったが、立つことはできた。しかし、バットが床から持ち上がらない。
「二十秒後、正面に向かって武器を振ってみてくれ。カウントは俺が取る」
「でも」
「振るだけでいい。構えて。十、九、八」
普段よりも低い位置に、バットを構える。まるで力は入らないが、とにかく声の言うとおりにしようと思った。
「三、二、一……今だ!」
振り回した先に手応えがあった。だが、真芯を捉えるには程遠い。
「当たった! けど……」
「心配いらない。龍蔵院が来る」
「――わしの槍からこうも逃げおおせるとはのう。けんど、これで終わりじゃ!」
闇にまぎれて、分厚い体が跳躍する。
槍の穂先が中核を貫く。ゴーストは断末魔とともに灰塵と化した。
「霊体反応消滅。依頼完了だ」
そのアナウンスを聞き、龍介はへたり込んだ。楓がぱたぱた駆け寄ってくる。
「龍介! 大丈夫~?」
「……大丈夫じゃない……」
「ひどうやられたのぉ」
龍蔵院が片膝をつき、顔を覗き込んでくる。その頬に切り傷を見つけて、龍介はもつれる舌で「病院」と口走った。
「おう、そうじゃな。どれ、立てるか」
「おれじゃなくて」
「んー、二人とも病院行ったほうがいいと思うなァ。ほら、一緒に帰ろ」
楓がうんうん唸りながら龍介に肩を貸し、立ち上がらせる。
破壊された罠を回収して社用車へ戻ると、左戸井がドアにもたれて立っていた。いつの間にか太陽は完全に沈んでいる。
左戸井は龍蔵院を二秒、龍介を二秒、楓を一秒見て、「ん」と頷いた。
「男二人は病院だな。まあ、龍蔵院は舐めときゃ治るレベルだろうが、ついでだ。いったん社に寄るから、楓は先に帰れ」
「あッ、病院が先でいいですッ。早く治してあげないとかわいそうだもん」
「はいよ。んじゃ、乗りな」
龍蔵院に引っ張られ、龍介も社用車に乗った。三人がけの座席の真ん中で背中を丸める。
「お疲れ様。皆、無事で何よりだ」
楓が車のドアを閉めると、後ろの席から聞き慣れた支我の声がして、龍介は安堵で泣きそうになった。
「怖かったぁ~……」
キーを回しながら、左戸井が軽い口調で言う。
「まッ、そうだろうよ。そういう精神作用を及ぼす《霊》だ。ゴーストハンターやってりゃ、いつかは通る道ってやつだな。最初はわけがわからねェからより怖い。通過儀礼と思え」
未だ恐怖に囚われている龍介はますます萎んだ。また同じ攻撃を受けるかもしれないのだ。
「なあ……正宗、まだインカムつけててもいい?」
「ああ、構わないよ」
「なんか喋って。なんでもいいから、病院に着くまで黙んないで」
「なんでも……と言われてもな。そうだな、臨死体験の経験者は、死に対する恐怖心が減少するという調査結果があるそうだ。一九七八年に、マイケル・B・セイボムらの研究チームが――」
「り、臨死体験」
マイケルなにがしの研究成果が、余すことなく伝達される。いっそ肉声ならばエンジン音で掻き消されたかもしれないのに、通信を切っていなかったせいで、一言一句逃すことなく耳に入ってしまった。
「ちょっとちょっと支我! ますます怖くなっちゃうよー」
楓に制止され、しばしの沈黙を挟んだのち、背後とヘッドホンから支我の声が二重に流れてきた。
「……ああ。恐怖をまぎらわせるような話を求められていたんだな。それはすまなかった」
「い、いや、いいんだけど、いいんだけどさ」
「龍介、しっかり。ほら、こっち見てごらん」
楓が、被っていた黒い帽子をひっくり返す。小さな手が三つ数えた。
途端に、帽子からトランプのカードが溢れ出してくる。いずれもハートのエースだ。
「はい、ハートのお裾分け」
一枚のカードを手渡される。大きなハートマークがプリントされていた。思わず、ふっと目元が緩む。
「そうだよ、その調子。ニコニコしてたら、怖いのなんかどっかいっちゃうからね。いいこいいこ~」
楓は龍介の頭を撫でた。頭頂部まで手が届かず、こめかみあたりだったが、気持ちは伝わってきた。
「ありがとー……」
「なんなら、手でも握っててあげよっか?」
「お願い」
「おっ! ほいたら、わしも協力しようかのう」
「わぁ、鉄栴の手あったけー。ありがとな、お前も怪我してるのに」
「なーに、ちくと掠めただけじゃき。これしき怪我のうちには入らんぜよ」
「さすが、鍛えてる奴は違うなぁ……」
両脇から手を握ってもらい、車中に静けさが満ちる。
龍介はインカムに向かって叫んだ。
「……正宗ぇ!」
「どうした、龍介」
「なんか喋ってって言ったじゃん!」
「ああ……まだ聞きたいのか?」
「聞きたいよ~。頼むよ。お前のその、新宿が滅んでも動じなそうな声が耳元で聞こえると、ほんのちょこっと冷静になれるんだよぉ」
「褒め言葉として受け取っておこう。どんな話がいい?」
「もうこの際、お前の履歴書を頭から」
「……支我正宗、長野県出身、東京都在住。一九九六年十二月二十日生まれ。十七歳……」
淀みない個人情報の読み上げが終わりに近づくころ、社用車は病院の駐車場へと滑り込んだ。左戸井の伝手のある、《霊》からの受傷も治療できる医療機関だった。
専門医の手にかかれば、ゴーストに刷り込まれた恐怖もたちどころに消える。龍介は礼を言って診察室を後にした。別室で手当を受けた龍蔵院は元気いっぱいで、楓のマジックに声を上げそうになっては慌てて口を塞いでいた。
「お待たせ~。お騒がせしましたぁ」
「あッ、もう大丈夫なの?」
「ん、平気。伊久ちゃんも帰り遅くなってごめんね」
「いいよ、新宿からだったら家もそんなに遠くないし」
「ああ、そういやァ、支我と龍介はここで解散したほうが家に近ェのか?」
左戸井に問われ、二人が首肯する。
「じゃ、この二人は置いていくとするか。鞄は持ってきてるな?」
「はい。しかし、いいんですか? 報告書や経費精算、それに片づけが……」
「あーあー、そんなもんほっといても明日やるだろ、お前ら二人は。いいからさっさと帰れ」
左戸井にしっしっと追い払われ、二人は一足先に帰路へつくことにした。
支我がスマートフォンで帰り道を調べる。ここから二人の家までは電車を使えば一駅だが、駅の位置が離れているため、むしろ遠回りになるようだった。
「所要時間は、徒歩でもそう変わらないな」
「ん……歩いてこ」
「俺は構わないが、……大丈夫か?」
病院の玄関を出ながら、支我が龍介を見上げた。
「疲れた顔をしてる」
そう言われて、龍介は自分が足を引きずりながら歩いていたことに気づく。強制的に打ち込まれた恐怖の楔は、経験したことのない疲労をもたらした。
「精神的な負担もあっただろうが、心拍数の増加、血圧上昇、手足の震え、発汗――体にも負荷がかかったはずだからな。つらければ、タクシーを呼ぼうか」
「あー……平気。それより、誰かと喋ってたい。途中まで一緒に帰ろ。お願い」
「お前がそう言うなら――龍介!」
「いっ」
わずかな段差につまずき、転びそうになる。支我がとっさに手を伸ばすが、車椅子からでは届かなかった。
「あそこに座れる場所がありそうだな。少し休もう」
「ごめーん……」
だるい体を叱咤して、龍介は支我を追った。住宅街の一角に、猫の額ほどの公園がある。遊具はブランコ程度で、さすがにこの時間ともなれば
倒れ込むようにベンチへ座る。支我は何度か車椅子を切り返し、龍介の隣に並んだ。
今更、頭の奥がズキズキと痛んできて、龍介は力なくうなだれる。
「怖いのって疲れんだなぁ」
「そう――、だったな」
何かを思い出したように呟き、支我が龍介の頭に手を乗せた。
隣に座っているので、今度は届く。支我の手のひらは、楓がしたように頭を撫で、そっと背中をさすった。学生服越しに、じわりと温もりが伝わる。
「……生きてる人間があったかいのっていいよなぁ。なんも考えられなくても、《霊》じゃないって感覚的にわかるもん」
支我は答えず、ただ龍介の背を撫でていた。
彼が声を発さなくても、今は怖くない。体温を感じられるからだろう。
どんな伝え方でも、誰かがそばにいるとわかれば、恐怖は格段に和らぐ。
思わず本音が漏れた。
「誰かにこんなこと言える日が来るなんて、思わなかったなぁ」
《霊》が視える人間と出会うことさえ稀なのに、相対したときの感情をも分かち合える仲間ができたのは、もはや奇跡に近い。自分は一人ではないという感覚は、思いのほかいいものだった。いつもどこかで壁を作っていたけれど、こうして寄り添ってくれる人がいるおかげで、少し心を休められる。
背中を撫でていた手が、再び慈しむように髪に触れた。
「ん、……ありがと。だいぶましになった」
「顔色も、さっきよりはよくなったな。安心したよ」
じっと顔を観察され、龍介は笑った。
「かっこよくなった?」
「顔の造作そのものに変化は見られないな」
「なんだよ、もー」
隣の支我に寄りかかると、彼は苦笑しながら受け止めてくれた。
「ありがとな。正宗、時間を無駄にするの嫌いそうなのに」
「確かに好きじゃないが……どういう意味だ?」
「え」
「ん?」
「……だから、おれに付き合ってこんなとこへ寄り道してたら、その分タイムロスになるだろ」
「ああ」
言葉の意味を説明され、支我は頷いた後、平然とこう告げた。
「何を言ってるんだ。お前に付き添う時間は無駄じゃないだろ?」
またぽんぽんと後頭部を撫でられて、龍介は涙腺が緩みかけたことをごまかそうと、不自然なほどに声を張り上げた。
「あーもー、お前どんだけいい奴? 正宗が調子出ないときは地獄の底まで付き合ってやるからな、楽しみにしとけよぉ」
「ははは、気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
「そこは全部受け取れよ」
支我の胴をギリギリ締め上げると、「龍介、苦しい」と笑い交じりの声が返ってきた。
仲間の声は聞こえるし、触れば温かい。
だから、また立ち上がれる。