ぽかぽかの夢

 喧嘩するほど仲がいい、と人は言う。
 では、仲裁するのは大きなお世話か。
 そう思いつつも、東摩はつい間に入ってしまった。
「東摩氏! 山河氏が……!」
「あァ? てめェ、そいつの背中に隠れる気かよ」
「まぁまぁ、どーどー」
 本職の山河が凄むと、萌市ならずとも一歩下がりたくはなる。腹を割って話してみれば、怖がらなくてよいとわかるものの。
 萌市が東摩の背中にぺたっと貼りつく。今日は校了日だったために千鶴も殺気立っており、彼は四六時中被弾していた。よしよしと頭を撫でる。
 そうしていると、今度は山河が機嫌を損ねた。
「ちッ、なんだよ、人を悪者みてェに」
「そんなぁ。山河はいい奴だって、みんな知ってるよ。この前、信号渡りきれなかったおばあちゃんを歩道まで連れてってたじゃないか」
「はァ? 当たり前だろうが」
「そういうところがいい奴なんだよなぁ~」
「……そうかよ」
 山河が落ち着いたところで、萌市の細い肩を掴んで前に出す。後は当人同士の問題だ。
 一歩下がると、すぐそばから笑い声が聞こえた。
「支我ぁ。見てたんならなんか言えよなぁ」
「すまない。なかなか興味深かったよ」
 四人はアルバイトを終え、ビルから出たところだった。支我だけは車椅子があるのでエレベーターを使う。乗り切れなかった三名が階段で下へ向かう最中に、小競り合いが勃発したというわけだ。
 萌市と山河が何度目かの仲直りをしたタイミングで、東摩のスマートフォンが鳴った。
「あれ、電話だ。ごめん、先行ってて」
 と声をかけるが、みな東摩を待っている。夜の新宿は、高校生にとって過ごしやすいエリアとは言いがたい。連れ立って帰るよう千鶴から言い渡されていた。
 早めに済ませようと電話を取る。母親からだった。今日は、高校の同級生でもある父親と同窓会へ行っているはずだ。
「もしもし、龍ちゃ~ん?」
 第一声から酔っ払っている。東摩は三人に電話越しの声が聞こえないよう、さりげなく距離を取った。自然とぶっきらぼうな態度になる。
「……なに?」
「あのね~、話が盛り上がっちゃって。もしかしたら朝帰りかも~」
 朝帰りだって、何年ぶりかしら! キャー! と、元コーラス部のソプラノが響き渡る。東摩はたまらずスマートフォンを耳から離した。
「だから、一人でご飯食べて、お風呂入って寝ちゃってね~。戸締まりはしっかりね~」
「急に言われても」
「おやすみなさ~い」
「待っ」
 待ってくれるはずもなく、電話は切れた。スマートフォンは、それきりうんともすんとも言わない。東摩は困り果てた。さすがに高校三年生ともなれば留守番くらいできるが、家事が得意なわけではないし、何より引っ越したばかりのマンションに一人きりは心細い。
「東摩氏? どうしたんです」
 見かねて、萌市が声をかけてくる。
「家族から外泊の連絡。まいったなー。今の家で一人になるの、初めてだ」
「えらく急だな。そういうモンなのか?」
「うちの場合はたま~にあるんだ。やだなぁ、……ちょっと前まで姉ちゃん三人もいたからさ、なーんかおれ、家に一人って落ち着かないんだよなぁ」
「なら、うちに来るか?」
「え?」
 支我が普段と変わらない口調でそう言ったので、東摩は思わず聞き返してしまった。
「俺の両親は、出張でたびたび家を空けるんだ。今夜もいない。客間があるから、そこに泊まればいいさ」
 東摩はすぐにでもその申し出に飛びつきたかったが、幼稚だと思われそうで、つい答えを濁した。
「でもさぁ……、急にそんな、いいのかな」
「俺は構わないぞ。両親も別に反対はしないだろう」
「……じゃあ、甘えちゃおっかなぁ」
「ようこそ。歓迎するよ」
 支我が眼鏡の奥の目を細める。ひとまずバイト明けの腹を満たそうということになり、四人で駅前のハンバーガーショップへ入った。他のメンバーとも泊まりがけで時間を過ごしてみたい、合宿はどうか……と、半分夢のような話が広がり、パーティサイズのフライドポテトはあっという間に消えた。
 萌市と山河を見送り、最低限必要そうなものをディスカウントストアで購入して、支我のあとをついてゆく。翌日は休みだから、とにかく一晩越せればいい。
 友人の家に上がること自体が久しぶりで、東摩は次第にそわそわし始めた。マンションのエントランスで深呼吸していると、ロックを解除した支我が振り返る。
「東摩? どうかしたのか」
「あっ、なんでもない。部屋、何階?」
「一階の一番奥だ」
 白くてつやつやの廊下を進み、突き当たりにある黒いドアを開ける。上がり框にはスロープがあった。
「靴を脱ぐのに少し時間がかかるんだ。先に上がってくつろいでいてくれ。廊下を曲がってすぐリビングだから」
「うん、わかった。おじゃましまーす」
 脱いだ靴を玄関の端に揃え、東摩は先に部屋へ上がった。支我が車椅子の上で身をかがめるのを見て「手伝おうか」と声をかけそうになったが、できることに手を出す必要もないかと考え直す。
 言われたとおりの部屋へ入り、手探りで照明をつけた。ふわっと光が溢れる。シックな色調のリビングで、人間が住んでいるのか疑わしくなるほど物が少なかった。うまく隠してあるのだろうが、東摩家とは対照的だ。かすかにアロマのような香りがする。
「待たせたな。どうした、そんなところに突っ立って」
「いやー……支我の家って感じ」
「ははっ、どういう意味だ、それは」
 何か飲むかと聞かれて首を横に振ると、支我は東摩を客間へ連れていってくれた。一人で泊まるには十分な広さの和室だ。
「隣が俺の部屋だから、何かあったら言ってくれ」
「うん……」
 東摩は頷いたが、思い切ってわがままを言ってみることにした。
「あっ、あのさ、布団持ってって、お前の部屋に泊まっちゃ駄目?」
「俺の部屋? 構わないが、校了明けで疲れているだろう。一人のほうがよく眠れるんじゃないか」
 支我の面持ちからは、本当に体を気遣ってくれていることがわかる。しかし、東摩の狙いは他にあった。
「実は、……おれ、友達の部屋に泊まったことってなくてさぁ。ちょっとやってみたかったんだ」
 つい声が尻すぼみになる。急な話にもかかわらず、東摩を受け入れてくれるような男だ。友人の家に泊まった経験もあるだろう。高三にもなってこんなことを言ったら、さすがに呆れられるのではないか。
 ところが、彼の反応はあっさりしたものだった。
「ああ、転校が多かったと言っていたな。なら、俺の部屋にするか」
「いいの?」
「いいよ。その代わり、布団を運ぶのを手伝ってくれるか?」
「あっ、そんな、泊めてもらうんだから、おれが全部運ぶよ。……ありがと」
「どういたしまして。じゃあその間に、俺は風呂の準備をしてくる。隣の部屋に敷いておいてくれ」
「わかった」
 支我が客間を出てゆく。東摩は押し入れの中に入っていた布団を取り出し、せっせと隣室へ運び込んだ。
 車椅子の動線を確保しつつ布団を並べ終えたころ、支我が戻ってきた。
 改めて顔を上げる。室内にはたくさんのトロフィーや賞状、トレーニング器具があった。部屋の主の人となりがうかがえる。
 大きなPCデスクの上には、複数のモニターとキーボード。機能的にまとめられた配線を下へたどってゆくと、本体らしき黒い機器に行き当たる。本棚は、難しそうな本や参考書に埋め尽くされていた。
「もう少ししたら入れるから、先にどうぞ」
「あ、ありがと……ちょっと待て、赤ぁ?」
 置いてあった参考書が目に入り、東摩は声を上げた。難易度ごとに表紙の色が違うシリーズで、赤はもっとも難しい。
「初めて現物見た……。お前、人間か?」
「数学は好きなんだ。東摩だって、別に勉強が苦手なわけじゃないだろう? 暮綯學園うちの編入試験に通ったんだから」
「苦手ってほどじゃないけど、得意じゃないし好きでもないよ」
 使い込まれた参考書の表紙からは、勉強の跡が見て取れる。学業だけではなく、テニス部での活動も、夕隙社のアルバイトも、それぞれ人並み以上にこなしている。しかも驕ったところがなく、誰にでも礼儀正しい。欠点がなさすぎて嫌味なほどだ。
「支我ってなんか苦手なことないの?」
「いくらでもあるさ。だが、そうだな、できないことを可能にするための手段を検討するのは好きだ」
「ああ……それはおれも好きかも」
「バイト中、よくノートにメモしてるもんな。……ああ、風呂が沸いたようだ。よければ、これを寝間着代わりに使ってくれ」
「ありがと。おれは後でいいよ」
「俺が先だと、かなり待たせてしまうんだ」
「そっか。じゃあ、先に入らせてもらうよ」
 きちんと畳まれたTシャツとズボンを借り、風呂場へ向かう。車椅子への配慮だろう、廊下は広く、ドアはすべて引き戸になっていた。リビングに物が少なかったのも支我が通行しやすくするためか、と遅れて気づく。
 東摩は、彼が事故か何かで脚に怪我を負ったと聞いていた。快い記憶ではないだろうから詳しく尋ねたことはなかったが、それでも支我が人一倍努力を重ねていることに、改めて尊敬の念を抱く。
 友人に敬意を持てるのは、幸運なことだ。湯に浸かりながら、東摩はそう思った。
 風呂から上がって支我の部屋へ戻ると、彼はノートパソコンを開いて作業をしていた。
「支我ぁ、お風呂ありがとう」
「ああ、おかえり。今日は疲れただろうから、先に寝ていてくれ」
「あ、うん」
 支我はパソコンをスリープ状態にすると、着替えを膝の上に乗せて、くるっと車椅子を回した。
 東摩はとりあえず布団の上に座ってみる。脚がふかふかと跳ね返された。
 せっかく泊まりにきたのだから、もう少し支我と話してみたい。だが、あまりにも他人の家で過ごした経験が乏しく、何をして時間を潰せばいいのかわからない。
 結果的に、部屋の入り口を視界に入れて正座する。数十分後に戻ってきた支我はたじろいだ。
「どうした、東摩。正座なんかして」
「あ、いやぁ、本人がいないのに、部屋をジロジロ見たら悪いかなぁって」
「そうか? 俺は気にしないがな」
 支我は笑って、車椅子からベッドへ移る。難しそうなのに、流れるような動作だった。髪を下ろして、ラフな部屋着に着替えると、大人びた風貌がいくらかあどけなく見える。初めて出会う姿だ。
 互いに普段とは違う格好であることも後押しして、東摩は口火を切った。
「あー、のさぁ、支我にいっこ、お願いがあるんだけど、いいかなぁ」
「お願い? なんだ?」
「そのぉ、一回、下の名前で呼んでみたい、んだけど」
 東摩は床を見つめたまま、早口で言い訳を連ねた。
「おれ、今まで二年とか三年とか、ひどいと数ヶ月で転校してたからさぁ。広く浅く仲よくなるのはわりと得意なんだけど、部屋に泊まったりとか下の名前で呼んだりとか、そういうのなくって。結構憧れだったんだ」
「なるほどな。そういうことなら、名前で呼んでくれ」
 東摩はぱっと顔を上げる。ベッドに腰かけた支我が微笑んでいた。
「お前のことも龍介と呼ばせてもらおうかな」
「……本当に?」
「ああ」
 こともなげに頷くが、それがどれほど東摩の心を熱くしたか、支我は知らないだろう。感極まって飛びつく。
 すると、支我の体がふらりと傾いで、東摩は慌ててそれを支えた。両脚が動かないから、スプリングの効いたベッドの上ではバランスを取りづらいのだろう。彼は笑って、ぽんぽんと肩を撫でてくれた。風呂上がりだからか、その手はじわりと温かい。疲れた体が心地よさで弛緩する。
「そんなに喜んでもらえるとは思わなかったよ」
「すっごい嬉しいよ。……おれ、東京に引っ越してくるとき、今度こそ変わろうって思ってたんだぁ」
 するりと本音がこぼれた。支我ならからかったり引いたりせず、聞いてくれるだろうと思った。
「どうせすぐ別れるからって、うわべで人と付き合うようになってたし、やりたいことも特になかった。でも死ぬまでの間に一回くらい、ちゃんと誰かと向き合って、本気で何かに打ち込んでみたいと思ってたんだ。ほんとにありがとな、支我ぁ……じゃない、正宗」
 呼び慣れぬ名前と問わず語りに照れくさくなって、東摩は布団の上に戻り、膝を抱えた。耳が熱い。
「お前は素直な奴だな」
「そんなことない」
「俺はそう思うよ。改めてよろしくな、龍介」
「お、おー」
 東摩は顔を手であおいだ。緊張から一転、気が緩んだせいで、にわかに瞼が重くなる。膝を抱えてこてんと横に転がると、めくれた服の裾から空気が流れ込んですーすーした。
「気ぃ抜けたぁ~……」
「そのまま寝たら風邪を引くぞ」
「はぁーい」
 東摩はもぞもぞと毛布を被る。支我が「今日はお疲れ様。おやすみ」と言って部屋の明かりを消すと、衣擦れの音の他は静寂に包まれた。
「……おやすみ」
 東摩は口の中でそう返した。自宅ではない場所で、知らない香りに包まれて、家族以外の相手にその言葉をかけるのが妙に気恥ずかしく、熱い水の中にとぷんと沈み込んだようだった。

          ◇

「なぁなぁ、正宗ぇ。今度これ一緒に行こ」
「ん? ああ、VRのアトラクションか」
 深舟さゆりは、背後から聞こえてくるやりとりに重く息を吐いた。教室のみならず編集部でも隣の席の東摩が、椅子のキャスターをキコキコいわせて支我にまとわりつき、どうでもいい話題を繰り広げている。
 支我も支我で、仕事中に後ろから抱きつかれれば邪魔だろうに、愛想よく受け入れていた。深舟には信じがたい。斜め前で、小菅が奇妙そうに口元を歪めている。この件で見解が一致するのは彼くらいのものだ。千鶴は肩をすくめただけだった。
「俺も興味があったんだ。予約しておくよ。それが終わったら、テニスでもしないか?」
「いーぜぇ。絶対倒す!」
「ははは、威勢がいいな。もし俺が勝ったら、何を奢ってもらおうか」
 当人たちには悪気がなさそうで、深舟もつい毒気を抜かれる。東摩は上に三人もいる末っ子らしいし、根が甘ったれているのだろう。
 それにしても、支我に出会ったのと同じ日に深舟とも知り合ったはずなのに、あちらは「正宗」でこちらは「深舟さん」とは。
 微妙な距離の置き方に深舟が爆発し、呼び名が「さゆりちゃん」に変わるのは、それからしばらく経ってからの話だ。