Hidden Track: Purple Rain/涙雨
「お疲れ様でーす」
遅れて出勤してきた龍介は、ものの見事にずぶ濡れだった。
朝から続く雨は激しさを増すばかりで、窓ガラスを叩く音がひっきりなしに聞こえる。この空の下を暮綯學園から歩いてきたのだろう。彼のコートも制服のスラックスも、水分を吸って色が変わっていた。
「車ん中にタオルがあるから、使っていいぞ」
見かねた左戸井がキーを放る。
「その前に、龍介。後ろにいるのは……」
千鶴に呼び止められ、龍介は横へ体をずらした。
後ろにいた人間が会釈をする。凛々しい面差しだが、丹念に気を配られた髪型は、どこか軽薄さも感じさせた。奇妙な縁があり、春先から数回顔を合わせている男。
眞鍋漁作。かつての依頼人であり、警視庁零課に所属する警察官でもあった。
「どうも、お久しぶりです」
「そこで拾いましたぁ~」
「人間をホイホイ拾ってくるんじゃないわよ」
龍介と千鶴のやりとりに、眞鍋が苦笑いを浮かべる。深舟はさりげなく支我のほうへ椅子を寄せた。本人なりに葛藤があってのこととはいえ、複数の女性と同時に関係を持っていた事実は、彼女にとっては未だ受け入れがたいらしい。
小走りに駐車場へ降りていった龍介は、タオルを二枚持って戻ってきた。「はい」と一枚を支我に渡し、車椅子の足元へ座り込む。深舟がそれを咎めた。
「龍介……。体を拭くくらい、自分でやりなさいよ」
「正宗が上を拭く。おれは下を拭く。時間が半分で済む」
名案だろう、とばかりに自慢げな顔をする龍介。深舟が額を押さえる。
二人きりならまだしも、さすがに人前でこういうのはどうだろうか、と思った支我であったが、黙ってタオルで彼の肩を押さえてやった。この無防備さは、裏を返せば無条件な信頼の証だ。そう考えるとくすぐったい。
夕隙社のロゴが入った薄いタオルは、肩と腕の往復でぐっしょり濡れた。龍介が、足首あたりを拭きながら眞鍋に促す。
「もしかしておれ待ちですかぁ? お構いなく~」
「ははは……、相変わらずだね。実は、また相談があって伺ったんですが」
眞鍋が話し始める。体を拭き終えた龍介は、支我の手からタオルを受け取り、こちらを見上げてぱくぱくと口を動かした。
――ありがとー。
音声が聞こえなくても、自動的に頭の中で再生される。龍介はロッカーからハンガーを出し、窓枠に引っかけてコートとタオルを干した。空調の風でゆらゆらと布が揺らめく。
千鶴は椅子を軋ませ、すらりとした脚を組んだ。
「警視庁の方が、一体なんのご相談かしら」
「六月の頭にあった事件を覚えてらっしゃいますか? あなたがたの斃した《霊》の遺品や遺留品がなくなり、次々に復活したという出来事がありましたよね」
龍介以外の全員に、わずかな緊張が走る。
遺品と紅いチョーク――石灰に含まれるカルシウムを遺骨に見立てた降霊術。夕隙社から大切なものを奪おうとした、あの《白いコートの男の霊》による邪法。
龍介には《霊》であったときの記憶が残っていない。生還後、改めて受けた説明も、彼にとっては単なる知識の一端でしかないようだった。あのころのことを思い出そうとすると、未だに痛みがぶり返す支我たちとは裏腹に。
お決まりの席へ着き、ぷらぷらと脚を揺らす龍介を、支我は自らの目で確かめる。生きている。間違いなく。隣で、深舟も同じことをしていた。
「皆さんが通称《白いコートの男の霊》を斃してからというもの、遺品や遺留品の紛失はぱったりと止みました。ですが今朝、警視庁本部庁舎の零課倉庫で保管されていた、僕の婚約者――裕子の遺品の一部がまたなくなったんです」
「裕子さんだけ? 他の《霊》の遺品は残ったままなんですか?」
千鶴が問う。
「はい、現時点で判明しているのは裕子の遺品だけです。本来あってはならないことですが、大量に物品を保管していますから、なくしてしまうこと自体はあり得ます。事件性のない、純粋な紛失である可能性も否定しきれません」
「――しかし、そうではない可能性のほうが高いと考えている。違いますか?」
「……そのとおりです」
支我の言葉に、眞鍋は厳しい表情で頷いた。深舟が不安げに振り向く。
「どういうこと、支我くん」
「人物霊が現れるのは、生前にゆかりのあった場所だ。そして、その周辺をさまようことはあっても、遠く離れた場所へは移動できない。だからこそ、《白いコートの男の霊》による連続殺人はすべて暮綯學園近郊でおこなわれていた。学校は新宿。警視庁は霞ヶ関。遺品が本部庁舎にあったというのなら、あの男が持ち出すには距離がありすぎると思わないか?」
「じゃあ、どうやって……」
「そうだな。《白いコートの男の霊》以外の何者かが、警視庁から遺品や遺留品を盗み出し、あの男と同じ技法でゴーストを召喚していた、と考えることもできる」
「別の存在……協力者か何かがいたってこと?」
「可能性はある。おそらく、生きた人間だ。新宿と他のエリアを移動可能な」
「今回、裕子さんの遺品を奪ったのも……?」
「同一人物でないとは、言いきれないな」
深舟が色を失う。無理もなかった。長い時間をかけて《白いコートの男の霊》に与えられた傷を癒してきたところへ、突如また影をちらつかされれば、どうしても動揺する。それに加えて浮上した、協力者の存在。楽観的に見積もっても味方ではなかろう。
眞鍋が同意する。
「僕も、同一犯であろうと考えています。さすがにそうやすやすと侵入できる場所ではありませんから。《白いコートの男の霊》には協力者がいた。その人物が遺品や遺留品を盗んでいて、今また再開し始めた。ただ……裕子の遺品については、単なる紛失の可能性を否定しきれない以上、現時点で組織だって動くわけにはいかないんです」
「盗まれたんだってはっきりしたときには、もう遅いんじゃない?」
深舟の指摘に、眞鍋はこうべを垂れた。
「そのとおり。でも、我々が組織の一員であり、公務員である以上、行動にはすべて明確な根拠が――責任を追及された場合の言い訳が必要なんです」
「しくじったら、市ヶ谷から突き上げを食らう、か? 自衛隊の庚種特務師団と警視庁零課、どちらも《霊》から人々を護るために立ち上げられた組織だが、トップ同士は犬猿の仲だからな」
左戸井が壁に寄りかかり、腕を組む。深舟はやるせなさそうにかぶりを振った。
「どっちもこの国を、この東京を護ろうとしてるんだから、協力したらいいのに。人間同士で揚げ足を取り合ってる場合?」
支我にとっては、憤るまでもない話だった。皮肉なことに、《霊》について学べば学ぶほど、生きている人間の奥深さを、そして醜悪さを痛感する。庚種特務師団の九門は志ある人物だが、その上も同じとは限らない。
支我は手を挙げて質問する。
「六月に起きた遺品・遺留品の紛失については、《白いコートの男の霊》以外の犯人を想定した上で捜査をおこなっていたんですか?」
「そうだよ。しかし、実行犯の特定には至っていない。紛失が止まったこともあり、捜査の優先順位は他の事件よりも下がっているのが正直なところだ」
「はい、先生ぇ。じゃあさ~、そういうときこそおれたちの出番なんじゃないですか?」
龍介が、支我を真似て挙手する。眞鍋は身を乗り出した。
「だから来たんだ。前置きが長くなりましたが、裕子の《霊》が呼び戻され、民間人に危害を加えることのないよう、あなたたちの力を貸していただきたい」
「……高くつきますよ。そりゃもう、特別に」
千鶴は苦虫を噛み潰したような顔をする。《白いコートの男の霊》にまつわる一連の事件は、彼女にとっても愉快な記憶とは言いがたいのだろう。
眞鍋は頼りなげな表情を引き締め、深く頭を下げた。
「構いません。……もし裕子の《霊》が何者かに利用されるなら、それは死者の魂への冒涜です。僕は彼女を、安らかに眠らせてあげたいんです。それが生きている者の責務だと思います」
彼の言葉を受け、千鶴の瞳が決意の色を帯びる。それが依頼受諾の合図だった。
眞鍋の話によれば、裕子の遺品の紛失が確認されたのは、今日の早朝だという。毎日チェックしているわけではなく、実際に盗み出されたのがいつかは断定できかねるとのことだった。
今夜、取り急ぎ眞鍋の家で待機する運びとなった。もし本当に彼女の魂が復活したならば、前回と同じところへ戻るはずだ。愛する婚約者の元へ。
急な話で、あいにく夕隙社が用意できる人材も限られている。出撃可能なメンバーは、千鶴、深舟、そして龍介――と名前が挙がったところで、支我は待ったをかけた。
「もし《白いコートの男の霊》の関係者が絡んでいるのなら、龍ちゃんが再び命を狙われるおそれもあるのでは?」
「それは全員同じよ。あの男を斃したのは私たち夕隙社。恨みを買っている可能性は平等にあるわ。単独より、一緒にいたほうがいくらか安全だと思うわよ」
「大丈夫だってぇ。あれからめちゃくちゃ鍛えて強くなったし」
当の本人は、人の気も知らず呑気に構えている。支我は仕方なく引き下がった。自身の中に、彼に傷ついてほしくない、安全な場所にいてもらいたいという感情があることは承知していた。時に論理的思考を凌駕しそうになるほど。
「知っている。だが、
「はぁーい」
千鶴は意味ありげに二人の会話を眺めていたが、やがてブリーフィングデスクへ移動した。
前回の戦闘データを参考に対策を強化する。何が起きても遅れを取ることのないよう、罠を緻密に組み上げた。
現地へと到着したのは夜半過ぎだった。遺品の紛失を撒き餌として誘き寄せられた線もあるかと危ぶんでいたが、三人は何事もなく眞鍋の部屋へ入る。
「こちら東摩。全員配置に着いたよ」
無線越しに龍介が言う。
「了解。こちらのEMF探知機に反応は見られない。そっちはどうだ?」
「今のところ、――ッ」
龍介が息を呑む。支我のノートパソコンへ、急激に生じた変化の様子が相次いで送られてくる。
「気温低下、大気中の硫黄濃度上昇――現れるぞッ」
インカムの向こう側で、哀しげな女の声が響き渡る。深舟が小さく呟いた。
「裕子さん……。本当に……」
「――ウィジャパッド起動。サーバーとのネットワーク接続を確認。ターゲットは《白い着物を着た女の霊》。龍ちゃん、お前の近くだ、気をつけろ」
「了解!」
標的は龍介を襲おうとして罠にかかり、その場で足止めを食った。千鶴と深舟がそこへ急行し、集中砲火を浴びせる。
さすがに歴戦の仲間たちだけあって、太刀筋には迷いがなく、ほぼ一方的といえる展開だった。支我は全員の状態とターゲットの動向にくまなく注意を向けながら、過去データを参照する。比較して大きな変化は見当たらない。まぎれもなく《白い着物を着た女の霊》そのものだ。
千鶴の金剛杖が、ゴーストの鳩尾を痛打する。断末魔が尾を引いた。
「お前は、お前だけは――ッ」
「……私?」
ディスプレイ上の霊体反応が、ふっと消える。
「霊体反応消滅。ミッション完了だ」
それから、支我は仲間たちの状況をざっと確認した。龍介が攻撃を受けていたはずだ。軽い一撃だったとはいえ、念のため尋ねる。
「龍ちゃん、怪我は大丈夫か?」
「え? ……うん、おれは全然平気だけど……」
龍介が答える。
「……最後の、どういう意味だろ? 編集長のことを狙ってた?」
「さあ、私のことなのか、それとも眞鍋さんのことなのか、微妙な感じではあったけどね。とにかく、今夜はもう遅いわ。引き上げましょう。夕隙社へ戻るまで気は抜かないで」
千鶴の指示で手早く撤収作業が進められ、四人が社用車へと戻ってきた。揺れる車内で深舟が龍介の傷を癒す。
「ほら、これでもう大丈夫よ」
「……ありがと。……編集長、さっき何か見つけてませんでした?」
龍介が助手席の千鶴に問いかける。
「ええ。マンションの外で、降霊術の痕跡――術式の一部と、紅いチョークの粉をね」
「《白いコートの男の霊》の協力者が近くにいたってこと……?」
深舟は声をひそめた。
「そういうことになるわね。問題はそれが何者なのかってことだけど……」
話しているうちに、社用車は夕隙社のビルへと到着した。ひとまず眞鍋に連絡し、片づけを済ませて帰り支度をする。
皆が動き回る中、龍介は突っ立って小さなノートを開いていた。アルバイト中の留意事項を書き込んだものだ。支我の位置からでは、具体的な内容までは見えない。
「龍ちゃん?」
声をかけると、龍介は肩を揺らして振り向いた。その表情が怯えているようにも見えて面食らう。
「あ、……なに?」
「いや……何か気づいたことでもあるのか?」
「特にない。……帰りって、今日は左戸井さんが送ってってくれるんだよな。片づけるものはこれで全部?」
「ええ、後は帰るだけよ。編集長は先に乗ってるって」
深舟の言葉に対する返答はなかった。
「龍介? 聞いてるの?」
「聞いてる」
「だったら返事くらいしなさいよ、もう。……あっ、そうだ。今朝、コンビニでチョコを買ったの。残り三個しかないから、編集長と左戸井さんには悪いけど、三人で食べちゃいましょ」
深舟が、鞄から紙でできた箱を取り出した。支我も彼女や龍介にもらったことのあるチョコレートだ。パッケージには「季節限定 いちご味」の文字が踊っている。
深舟が軽く身をかがめ、支我は礼を言って受け取った。一口サイズのチョコレートは、ほのかな酸味といちごの香りがする。人工的だが日本人の慣れ親しんだ味だった。
龍介が、手のひらで口元を覆う。
「はい、龍介」
「ごめん、……おれはいいや」
「あら。いちご味は嫌いだったっけ」
「そうじゃないけど……お腹空いてないから」
光の加減か、そう答える龍介の顔がやや青ざめて見え、支我は彼を仰ぐ。
「車酔いでもしたのか?」
「ううん。別に……」
そのわりには、語尾に覇気がない。深舟は柳眉を寄せた。
「どうしたのよ? いつもなら、喜んで食べるのに。具合でも悪いの?」
「いや、お腹いっぱいなだけ。ありがとう」
「それならいいけど……」
龍介は斜め下へと視線を動かした。
その途端、深舟はさっと顔色を変え、龍介に詰め寄る。
「ねえ、本当に? どこか痛いんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「なら、どうして目を逸らすのよ」
龍介は叱責を受けたかのように肩を震わせた。
「……なんでもない」
「龍介。何かあるなら話してよ」
「大丈――」
何かに気づいたように、龍介が言葉を切る。
「……大丈夫、とは、いえないかもしれないけど、……ごめん、少し……時間もらってもいい?」
「ええ。いつでも、龍介の準備ができたときでいいわ。……待ってるから」
深舟が、いたわるように龍介の腕へと触れた。支我も彼に確かめる。
「怪我や、体調不良ではないんだな?」
「うん」
「わかった。もし不調の箇所がある場合は、早めに教えてくれ。気持ちの面も含めてだ。……俺たちは仲間だろう。あのときお前たちが俺を思ってくれたように、俺もお前を支えたいんだ」
「……うん」
龍介は、支我とは目を合わせなかった。
◇
「――霊体反応消滅」
「ちッ……どこの誰だか知らねェが、強制的なアンコールなんて、無粋な真似しやがるぜ」
翌日。龍介、深舟、千鶴、そして小菅は、渋谷区のライブハウスにいた。
《ロックを奏でるギタリストの霊》の遺品がなくなったと眞鍋から連絡があり、現場へ直行。昨日と同様に復活したゴーストと戦い、討ち取った。
支我は戦闘中も画面上の反応をくまなくチェックしていたが、EMF探知機の範囲内に人間や他の《霊》は現れなかった。とはいえ、場所が場所だ。周囲には雑居ビルが多く、ライブハウスの上にもいくつかフロアがある。そのいずれかに潜んでいたとしても不思議ではない。
狙われているのは自分なのかどうか確認したいとついてきた千鶴が、険しい声で言う。
「今回の《霊》も、私を狙っていたわね。……心当たりがあるわ。暮綯學園に縁があり、高度な降霊術を使うことができ、私に恨みを持つ人物に」
「編集長への怨恨――ですか?」
「おそらくは。なぜ、このタイミングでしかけてきたのかはわからないけどね。明日、みんなを集めましょう。そこで改めて話すわ」
「わかりました。連絡しておきます」
支我はそう答え、メールソフトを立ち上げた。無線越しに小菅の声が聞こえてくる。
「編集長狙いか。なおさら、早くけりをつけねェとなッ」
「そうね。後悔させてやりましょう」
深舟が燃えている。千鶴は苦笑した。
「巻き込んで悪いわね。特に、龍介と支我、深舟さんは受験前だっていうのに」
「いいえ。私たちみんなに売られた喧嘩ですから」
「勉強に関してなら俺がいくらでもサポートする。二人とも、頼りにしてくれていい」
小菅が口笛を吹いた。
「言うじゃねェか」
「ふふッ、支我くんがついててくれたら、もしこれで一時的に成績が落ちたとしても、先生もきっと何も言わないわね」
「さあ、どうかな。二年前の
「より尊敬されるようになったって話でしょ? みんなそうよ」
軽口を叩きながらも、支我は話に乗ってこない龍介が気になっていた。もどかしさは募るが、深舟と同様、彼が話してくれるまで急かさないと決めている。
九門と相対した左戸井の背中を思い出した。自衛隊としての信念を厳しく問いながらも、相手自身の言葉が出るまで辛抱強く待つ。何気ないように見えて、万人にできるものではなかったのだと知った。
昨日と同じように、全員が社用車へ戻ってくる。龍介に呼び止められたのは、夕隙社に到着して車を降り、二階へ上がろうとしているときだった。
「正宗、……明日、ちょっと時間もらってもいい?」
「ああ、もちろん」
待ち望んでいた申し出だ。頭の中で翌日の予定を思い返す。
「放課後に先生と約束があるんだ。すぐに済むと思うから、教室で待っていてもらえるか?」
「うん……わかった」
「今日、この後でもいいぞ」
「もう遅いから。じゃあ明日、教室で」
目を合わせぬまま立ち去ろうとした龍介を、今度は支我が呼び止めた。
手を伸ばす。顔に触ろうとしたが、車椅子からでは到底届かなかった。いつもなら、頼まずとも「なになに?」とかがんでくれるところだ。
「顔色が悪いようだが、ちゃんと寝ているか?」
返事がない。ということは、答えは否だろう。
「睡眠は体調に直結する。時には眠れないこともあるかもしれないが、できるだけ横になって体を休めてくれ」
龍介が無言で頷いた。触れたかったが、やはり今の支我には叶わなかった。
◇
次の日。龍介のことがなかなか頭から離れなかった。ここまで一つの問題に囚われるのは、初めての経験だ。
いろいろな意味で、やはり彼は特別な存在なのだと実感する。支我が《青白い肌の男の霊》について考えていたころ、傍らの二人はこんな気持ちだったのだろうか。だとしたら、悪いことをしたな、と思う。不安定で落ち着かない。授業中もつい彼の背中へ目をやってしまった。いっそ居眠りでもしていてくれれば安心できるのに、こんなときに限って背筋を伸ばしている。
我が身の心配は限度があるが、他人のためのそれは果てがない。また彼に教えられた。
放課後、職員室で教師と話してから教室へ戻る。これほどエレベーターの待ち時間を長く感じたことはなかった。焦燥を自覚し、移り変わる階数表示のランプを見つめながら、一度深呼吸する。
龍介を支える。何があったとしても、それだけは変わることのない意志。
自らの根底に流れるものを再確認し、支我は平常心を取り戻した。
教室へ入ると、龍介は蛍光灯の下で机に突っ伏していた。眠っているのかとも思ったが、車椅子がドアレールを踏む音で顔を上げる。
他の机が邪魔だ。徒歩なら当たり前に抜けられるが、車椅子はぎりぎり通行できない程度の間隔を空けて配置されている。二年前まで知らなかった障壁。
「すまない、待たせたな」
「ううん」
龍介も、支我が机に阻まれて自分の元へたどり着けないことに気がついたようだった。
「……不便じゃない?」
「何がだ?」
「こんな短い距離も、好きに移動できなくて」
支我は微笑んだ。
「以前なら、そう考えていたかもしれないな。だが今は違う。車椅子は車椅子で、利点もあるからな」
「……おれを庇ってそうなったのに?」
龍介が拳を握る。支我は息を呑み、口走っていた。
「まさか、思い出したのか」
そして、自らの反応が間違いであったことを知った。
龍介の顔から表情が抜け落ちる。彼が音を立てて立ち上がると、腕の下へ敷いていた小さなノートが床に落ちた。
鎌をかけられたのだ。そう悟って、冷水を浴びせられたような気分になる。ここで失態を犯すとは。
だが、色を失ったのは一瞬だった。隠し通すと誓ったものの、こうなる可能性を考えていなかったわけではない。予想よりも冷静でいられた。むしろ頭を切り替えて、真実を知った彼をなだめることを考える。
「なんで……」
ようやく絞り出したような声が痛々しい。支我は、あえて笑みを浮かべた。
「その前に――よかったら、聞かせてもらえないか。なぜ気づいた? お前のそれは、心因性の記憶喪失とは違う。脳に記憶が蓄積されていないのだから、思い出すはずはなかったな。誰かに聞いたのか?」
龍介が、小さく首を横に振る。倒れてしまうのではないかとはらはらした。現在の支我には彼の体を受け止めることも、保健室へ運ぶこともできない。
「おととい……お前、おれのことを真っ先に心配した」
二日前。眞鍋の家で《白い着物を着た女の霊》を斃した日だ。ずいぶん前のことに感じた。
「裕子さんの《霊》が、最後に『お前だけは』って言った。かすり傷ってわかってるおれの怪我より、そっちのほうが気になるはずだ。正宗なら」
「それだけで?」
「なんか、おかしいなと思って……そういえば、前にも似たような違和感があったのを思い出した。夏、ゆきみヶ原の弓道部について話したとき、春吉に言われた。『せっかく助けてもらった命、もっと大事にしろ』――誰かがおれの命を救ってくれたなんて話はなかったはずだ。文化祭のとき、さゆりちゃんは『もう、あんな思いをするのはこりごり』って言った――正宗がおれたちを庇って怪我したことなんかあったか? それに、『事故』――お前は二年前のことを、事故だったって周りに言ってた。お見舞いに来てくれたとき……『事故に遭って、また動かなくなった』って、おれに言った」
「なるほどな」
小さなノートは、開いた形のまま床に落ちている。答えがわからないなりに、引っかかった点を書き留めていたのだろう。除霊作業やボードゲームでそうしてきたように。そして、点と点を地道に繋ぎ合わせ、一本の線を見出した。
支我の失言がその端緒になったというなら、敗因は過度な思い入れだ。彼を大切に思いすぎた。計画というのは、思わぬところで破綻するものだと噛み締める。
龍介の脚がぐらつき、椅子に当たって座り込んだ。大きな音がする。
「なんで……?」
彼は、呆然とその問いを繰り返した。
「なぜ庇ったかという意味か? お前を護りたかった。あれ以上傷つけさせるような真似は、絶対にしたくなかった。……なあ、龍ちゃん。お前がいなくなったとき、俺が何を思っていたかわかるか?」
語りかけながら、支我はかすかに自虐的な笑みをこぼした。自分は未だに彼の死を言葉にできないのだ。奇跡的に生還し、今も五体満足で目の前にいるというのに、どうしても受け入れられない。
「生まれて初めて、もう無理だと思った。二年前に自分の両脚を奪われたときでさえ、そう感じたことはなかった。だが――必死に学び、真実を追い求め、その先に待ち受けているものがこれなら……もう歩けないと、俺は思った」
警視庁の遺体安置所の前で、深舟と二人、立ち尽くしていた時間を思い出す。
駆けつけた千鶴と左戸井は、龍介の死に嘆き悲しんだ。だが、その振る舞いからわかった。彼らは慣れているのだと。堪えようもない哀哭に膝をつきながらも、やがて見切りをつけ、現実へ戻るべく立ち上がる。どれほどの喪失を重ねれば、そんなふうになるのだろう。
支我には、できなかった。
あのとき、支我の肉体は確かに《呪》から解放されていたが、未来へと歩き出すための両脚は、龍介とともに失われてしまった。
隣に誰もいなければ、永遠にそのままだっただろう。
「だが、深舟がな……あいつが怒っているのを見て、もう少しだけ悪あがきをしてみようと思った。それで暮綯學園へ戻り、《霊》となったお前と再会したわけだ。嬉しかった――というのかな。とにかく二度は失うまいと……そう心に決めた。だから、《白いコートの男の霊》がお前を道連れにしようとしたとき、俺は無我夢中で掴みかかっていた。その瞬間、
その後、支我は病院で診察を受けるために学校を離れた。
翌日になって検査結果を受け取り、千鶴に報告すべく夕隙社へ向かった。途中で暮綯學園に寄ったのはほんの気まぐれだ。
エレベーターで四階へ上がったが、龍介はいなかった。いくら語りかけても、手を伸ばしても、気配さえ感じられずに終わった。
今度こそ本当にこの世から去ったのか。
そう思いつつも、認めることはできなかった。彼を失うという現実を。
龍介が息を吹き返したと連絡があったのは、後ろ髪を引かれながら校舎を出る直前のことだった。
支我の話が届いたのか否か、龍介は身じろぎもせずに下を向いている。少し伸びた髪が目元にかかっていた。
「なんで……黙ってたの」
半ばひとりごとのように彼が呟く。支我はただ、自身にとっての事実を口にした。
「お前に余計なものを背負わせたくなかった」
「余計なもの――?」
「そうだ。お前が知れば気に病むかもしれないと思った。俺は、お前には幸せに生きてほしかった。お前のことが好きだった」
その言葉の何が、龍介の心を刺したのだろう。彼は力なく頭を振って、手で顔を覆った。
「違う……おれは……」
「そんなことは望んでいなかったか? そうかもしれないな。だが、病院で会ったときに言ったはずだ。これも自分で選んだ道だと。何もかも俺の意志――俺がやりたかったことだ。お前が責任を感じる必要はない」
「責任も感じずに……のうのうと生きてろっていうのか」
「そうだ。そうしてくれ」
「……正宗が、歩けなくなったのに?」
「まあ、幸い慣れているし、案外悪くはないよ」
「これから、できるはずだったいろんなことが、できなくなったのに……?」
「すべてが潰えたわけじゃない。希望はいくらでもある。……なあ、龍ちゃん。俺は本当によかったと思っているんだ。この脚は俺にとって、お前を護れた証だ」
龍介が、震えながら息を吸った。
「護ってほしいなんて思ってない」
それは悲鳴のようにも響いたが、実際には押し殺した声が掠れて漏れただけだった。
彼の指先が、這うように机へ触れる。そうでなければ掴めないのだろう。
「ごめん……おれ、ちょっと……頭冷やしてくる」
机と椅子に体をぶつけながら、彼が立ち上がる。足に当たった小さなノートを拾うだけの行為にさえ、ひどく難儀していた。ポケットへしまうことすらせず、片手にぶら下げたまま、龍介は教室を出ていった。
彼がふらつき乱した机の列だけが、支我が先刻まで一人ではなかったことを告げている。
窓の外は真っ暗で、完全に日が落ちていた。星のない夜空は厚い雲に覆われているが、寸前のところで、まだ、泣かない。
◇
雨が降り出す前に夕隙社へ到着した。支我の車椅子はその気になればかなりスピードの出る仕様だが、誰かが飛び出してきたときに危険なので、歩道では全力を発揮できない。
龍介は先に来ているだろうか、いや今日はあのまま休みを取ったかもしれない。考えながら扉を開けると、編集部には普段よりもたくさんの人がひしめき合っていた。急な召集のわりに出席率がいい。
挨拶を交わしながら、さりげなく視線を走らせる。やはり龍介の姿はない。
戦略の幅が狭まるという点で残念ではあったが、一方でほっとしてもいた。支我との個人的な問題は差し引いても、ろくに休めていない状態では戦闘に差し障る。彼に必要なのは心身の休息だ。
支我が席に着いたところで、千鶴は立ち上がった。
「全員揃ったわね。話を始めるわよ」
「あれェ? 龍ちゃんは~?」
楓が小首を傾げる。華山兄弟は手を取り合って叫んだ。
「まさかッ……アタシたち以外のヒトと、めくるめくクリスマスイヴをッ」
「ワンライトラブをッ」
そういえば、今日はクリスマスイヴだった。支我は遅れて思い出した。ということは、龍介が祝ってくれた誕生日から四日だ。
心臓が締めつけられるように痛み、制服の上から胸を押さえる。千鶴が竹と梅に言った。
「龍介はしばらくお休みよ。いないものと思ってもらっていいわ」
室内がどよめいた。
「師匠はどこか悪いがか?」
「いいえ。まあ、自分探しの旅ってところね」
龍蔵院と千鶴の会話が、支我の聴覚をすり抜けてゆく。
千鶴のデスクに置かれたレターケース。その一番下の引き出しに、書類らしきものが入っている。
――退職に必要なものは揃えてあるわ。もう無理だと思ったら、ここから書類を取っていきなさい。記入して一番下の引き出しに入れておいてくれれば、受け取るから。
龍介の復帰直後、千鶴が皆に伝えた台詞が甦る。
彼は消えるつもりなのだ。今日だけではなく、これから先ずっと。
「まッ、そんな時もあるよな。俺様も旅に出てたから、気持ちはわかるぜ」
小菅を皮切りに、皆ががやがやと話し始める。驚くほど好意的だった。支我だけが取り残されている。
「ですが――」
反射的に声を上げてしまい、皆が支我のほうを見た。
言葉が続かない。迷いや葛藤を抱えた状態で戦場に出ないほうがいいことは理解していた。なのに、追いすがろうとしている。
白峰が意外そうに言う。
「どうしたんだい、支我クン。キミは、ボクが剣を置くことを認めてくれたじゃないか」
そうだ。白峰が一度夕隙社を去ったとき、支我はむしろ引き止めようとする龍介を諭していたほどだった。
あのときと今と、状況に差はない。
ただ、あまりにも龍介が、支我の心へ深く入り込んでいるだけ。
千鶴と目が合う。それだけでわかった。彼女は、何をきっかけに龍介が夕隙社を離れようとしたか知っている。嘘をつけば二人とももっと傷つくことになる、と反対されたのを思い出した。彼女も左戸井も、いずれこうなるとわかっていたのだ。
もう遅い。百万本の棘に喉を刺されたかのようなえぐみは、どうあがいても飲み下せなかった。龍介に植えつけてしまったかもしれないそれを、今さら取ってやることもできない。
「……あの子についてはもういいかしら? それでは、話しておきましょうか。彼女――聖奈妖子という霊媒師について」
夜の新宿を雲が包む。
誰も傘など差していないし、アスファルトは乾いたままだ。
けれど雨は、止みそうもなかった。
◇
左戸井は寒いのが嫌いだ。
なんなら、暑いのも別に好きではない。
だから、冬や夏の楽しみといえば、せいぜい快適な室内で飲むか打つかといったところ。今夜も酒と
十二月下旬、しかも日没後なんて、左戸井に言わせれば常軌を逸した寒さだ。神か悪魔か知らないが、家で燗でもつけなさいという思し召しに違いない。
だというのに、家の近くで罰当たりな若者を見つけてしまった。
瀬ヶ井荘のあるあたりは、新宿区とは思えぬほど家賃が安い。それには相応の理由が存在する。夜間に女子どもが出入りすべき土地ではない。制服を着た高校生など、言語道断。
の、はずなのだが。
いくら目を凝らしても、その人物は学生服を身につけている。彼はガードレールにだらっと腰かけ、斜め上方をぼんやり眺めていた。
家出少年、一晩七千円、オプション追加は応相談。
値札がついているわけではないが、この街においてはそんなふうに見えてしまう。
左戸井はコンビニ袋の中身をひっくり返した。酒と肴しかない。晩酌にはちょうどよいが、青少年の夕食には明らかに足りなかった。
想定外の出費になりそうだ。左戸井は肩を落としつつも、ガードレールへ歩み寄った。
「龍ちゃん。何してんだ、こんなとこで」
曇った夜空を見上げていた龍介の目が、左戸井へスライドする。
「なんもしてないです」
「……だろうな」
顔を上げたって、特に目新しいものもない。電線なんか日本全国どこでも似たようなたるみ方だろう。
「家族、みんな出かけちゃって」
「結構じゃねェか。後ろめたいモンも見放題だろ」
否定されそうだ、となんとなく思いながら発言すると、案の定龍介はうつむいた。
「おれ、駄目なんです、夜一人で家にいるの」
「なんでだよ。怖ェのか?」
からかうつもりで尋ねたのに、龍介はこくんと頷く。左戸井は「マジかよ」とのけぞった。自身が超体育会系の社会で育ったからというのもあるが、昨今の男子の繊細さには驚かされる。
伏せた目の上にある瞼は薄く、高校生なのだと改めて感じた。左戸井の若いころとは似ても似つかぬ、やたらツヤツヤの肌と髪。頭は小さく手足は長く、女子に交じってあれがかわいいこれがかわいいと騒ぎ立てる。良くも悪くも「今時の男の子」のイメージそのまま。
では、街中にいる男子高校生と何が違うか。それはたとえば、今この瞬間、彼が瞳に浮かべているもの。
自分はこの世界において異物であるという、絶対的な認識。
「……小さいとき、《霊》に取り憑かれて、家をめちゃめちゃにしちゃったことがあって」
龍介の座るガードレールの向こう側を、思い出したように車が通過する。訥々と語る横顔は、数秒間だけライトに照らし出された。
「言葉が違うってからかわれて、学校には全然なじめてなかったんです。放課後なんか、マンションの非常階段に隠れて、日が暮れるまで電線眺めてるだけ。家族も忙しかったし。だから寂しくて、言われるがままに部屋へ入れちゃって、それで……。視えるのは家族の中でおれだけだったから、『引っ越しがそんなにストレスだったのね』って誤解されて、親にさんざん泣かれました」
荒れた部屋の真ん中で両親に抱き締められる少年の姿を、左戸井は想像した。
《霊》を視る力を持つ者が、心の隙につけ入られて憑依され、人に害をなす。よくある話だ。だが、ありふれているからといって、当事者の苦しみが軽くなるわけではない。自分を信用できないという感覚は、下手をすれば大人になるまで尾を引く。
「それからは気をつけるようにしてるし、今なら自力で斃せるかもしれないけど……どうしてもまだ怖いんです。夜になって一人が寂しいと思ったら、また
左戸井は、声をかけたことを悔やんだ。こんな顔をされてはいよいよ追い払えない。しかし、覆水盆に返らずだ。心を決めた。
「……スーパー行くから、荷物持て」
一方的に言い渡して歩き出す。背後で戸惑ったような気配がしていたが、彼はちゃんとついてきた。
「あと、コンビニに寄るから、パンツと歯ブラシだけ買ってこい」
「なんでですか?」
察しの悪い男だ。とりあえず、酒瓶の入ったコンビニ袋を持たせた。
有給の喜びにすっかり忘れていたが、今日はクリスマスイヴで、スーパーにはチキンやケーキが並んでいる。買ってやろうかと聞いても、龍介は「いいです」と答えるばかりだった。野菜と肉、それにカレールーとレトルトの白飯を買い込み、家路につく。
部屋の鍵を回す間、どこかの音痴な住人によるクリスマスソングが聞こえた。
「お邪魔しまーす……」
玄関できょろきょろしている龍介を、簡易極まりない台所へ連れてゆく。野菜と包丁を渡してみると、存外するすると皮を剥き始めた。
「これくらいなら、家庭科で習ったからできますよ」
「家庭科ァ? 男もやるのか?」
「え? やんないんですか?」
互いに見つめ合ってしまった。龍介がスマートフォンで調べたところによると、高校の家庭科は一九九四年に男女共修化されたらしい。左戸井は当時二十四歳。とっくに働いている。ジェネレーションギャップというやつだった。
そんな中年と高校生による夕飯作りは、三十分ほどで完了した。漂う香辛料の香りに、早くも鼻の頭が汗ばむ。
段ボールの切れ端を鍋敷き代わりに鍋を置き、チンしたパックご飯を添えれば、まあまあ人間の食卓らしきものが完成した。
こたつを挟んで向かい合えるほどのスペースがなく、九十度の位置に腰を下ろす。テレビもつけた。見たことのない番組の生放送スペシャルが放映されていて、何一つ感情移入できない。
「んじゃ、食うか」
左戸井はいただきますもなしに食べ始めたが、龍介はまるで箸が進んでいなかった。話しかければ返事はするものの、気がつくとまたどこでもないところを見つめている。
こういうときは潤滑剤が要る。左戸井はコップを二つ持ってきて、瓶の蓋を開けた。龍介がぎょっと身を引く。
「それ、お酒でしょ? 駄目ですよ、未成年は。左戸井さんがいつも言ってるじゃないですか」
「よく見ろ。お前のほうに入ってるのはただの水道水。まだ二年早ェ」
左戸井は自分のコップにだけ酒を注いだ。とくとくとく、と左党にはたまらない音がして、わずかにとろみを帯びた透明な液体が滑り落ちる。
「そういやお前、今まで家族が出かけるときはどうしてたんだ?」
「前はネットカフェとか……こっちに来てからは泊めてもらってました」
「誰にだよ」
「……正宗に」
その名を口にすると舌に穴でも開くのかというほど、痛そうな顔をする。様子がおかしいのはこれが原因か、と左戸井は察した。
喧嘩でもしたのだろうか。龍介はともかく、支我が誰かと波風を立てるさまなど想像できなかった。なんでも満点でこなす男だ。それこそが弱みともいえる。
左戸井の皿はもう空になるのに、龍介の眼前にはカレーが手つかずで残っていた。その一途な悩み方は、気の毒だが好ましくもある。左戸井にはもうできない。手っ取り早い逃げ方を両手に余るほど知ってしまった。
「今ごろ……みんな夕隙社に集まってるんですかね」
「そういや昨日、召集かけてたな」
龍介も対象に含まれていた。にもかかわらずここにいるということは、意図的に背を向けたとしか思えない。
「左戸井さんは行かなくていいんですか」
「なんで行かなきゃなんねェんだ。休みだぞ、こっちは」
「……みんな戦ってるのに?」
「他人が戦ってることと自分の休みになんの関係があんだよ。向こうが休みたいときはこっちが戦ってんだから、おあいこだろうが」
龍介は、腑に落ちたようなそうでもないような、複雑な表情を浮かべていた。
そのとき、狭い部屋に可憐な歌声が響いた。龍介がぴくっと反応する。テレビに映ったのは野々宮アイ。かつての依頼人が、この日のためにあつらえたのであろう凝った衣装で踊っていた。眩いほどの笑顔だ。そこに盟友を失った悲哀はうかがえない。
彼女の出番が終わるまで、龍介は食い入るように画面を見つめていた。
「……ひどいこと言ったから、謝んないと」
雪を模した白い紙吹雪が散る。妖精が去って、龍介は呟くように言った。
「でも、どんな顔して会ったらいいのかわかんないんです。おれを庇ってなければ、あいつ今ごろ、なんでも好きなことできたはずなのに」
左戸井は何食わぬ顔で冷や酒を啜りながら、ああバレたのか、と思った。予想より相当早かったが、仲のよさゆえに些細なきっかけで看破されたのかもしれない。
もしも支我が龍介を庇わなかったら――彼の両脚は萎えずに済んだ。だがそれだけだ。人が人らしく生きるために必要なのは、肉体だけではない。
とはいえ、にわかには受け入れがたいだろう。
「――なんで、あいつなんですかね」
寸分違わぬ問いを、龍介の呼吸が止まったあの日、誰もが胸に抱いていたというのに。
「あんなにがんばってる奴、他にいますか? めちゃくちゃ、……優しいし、努力家だし、……いつも助けてくれて、……いつも、ずっと……」
テレビからは、底抜けに明るい笑声が聞こえてくる。この世に悲劇など存在しないかのようだ。
大人たちの紡ぐ夢へ隠れるようにして、一度だけ袖口で目頭を押さえた龍介が、ふっと肩の力を抜いた。
「……左戸井さんはおじさんだから、引くかもしんないけど」
「なんだ?」
「おれ、正宗が好きだったんですよ」
引くよりも先に、左戸井はひっくり返りそうなほどおったまげた。
よくじゃれ合ってはいたが、そんな事情だったとは。まあ、美女からの秋波ならともかく、野郎から野郎への恋心なんて気づかなくて当然ではある。驚愕を口に出す代わりに、酒を舐めた。
「……よくわかってるんですよ。あいつもおれのこと大好きだって。どういう好きかまでは知んないけど。おれも正宗を支えたいって思ってたのに、……なのに、……なんでかなぁ」
龍介の前に置かれたカレーライスは、すっかり冷めてしまった。
左戸井は嫌だった。仲間を亡くし、帰る場所も失い、それでもなおこの
そうまでして掴んだものが、子どもが笑って飯も食えないような未来だったとは思いたくない。
「――人は何かの罰で《霊》の被害を受けるわけじゃねェ。それがゴーストの理不尽さだ。支我の両脚が動かなくなったのは、お前のせいじゃない。もちろん、あいつに問題があったわけでもない。……自分が悪いと思ってたほうが、気は楽だろうがな」
言い聞かせるように語りかける。
龍介と支我には、左戸井と千鶴のようになってほしくないと思った。友情でも愛情でもなく、ただただ苦いばかりの悔恨で結ばれた関係。そこまで堕ちなくていい。
そう願うのは、少なからず彼らに救われてきたからだろう。冷たい地面の砂を寝床にしていた大人に、空の青さを思い出させてくれるからだろう。
「お前も支我もこの一年、信念を持って一心に努力し、《霊》から人々を護ってきた。お前たちなら、必ずや自分の力で壁を乗り越えられる。どんな言葉をかけたらいいかわからないんだったら、じっくり心に聞いてみろ。時間はいくらでもある」
「……そうですかね」
「そーそー。なんたって、まだ未成年だぜ?」
龍介が夕隙社と距離を置くのもありかもしれない。左戸井はふと考えた。小菅だって、自分探しの旅と称して青森へ戻り、何やら吹っ切れた顔で帰ってきたのだし。
「よォ、いい機会だ、バイト以外で何かやりたいことはねェのか」
「えー……、うーん……勉強ですかね」
「……他には」
「一回死んで心配かけちゃったんで、家の手伝い」
「かァァッ、もういい。お前は支我から悪い影響を受けすぎだ」
「えっ? いい影響じゃなくて?」
本気で言っている様子なので、左戸井は眉間に皺を寄せた。嘆かわしい。
「……行きてェ場所は? あんだろ、いくらでも。お前が住んでんのは腐っても日本の首都だぞ」
「んー……」
まさかそれもないのか、と疑い始めた左戸井だったが、龍介はぱっと表情を明るくした。
「東京タワー!」
「……スカイツリーじゃなくてか?」
「おれ、生まれてからちょっとだけ東京に住んでて、記憶に残ってる数少ない場所が東京タワーなんですよ。家族みんなで行って、ソフトクリーム買ったんです。また食べたいなぁ」
「へェ。そういや、上まで登ったことねェな。下で厄介なゴーストと戦った経験はあるが」
こたつ布団をたぐり寄せながら、記憶を引っ張り出してみる。すると、龍介は凄まじい勢いで食いついた。
「えっ、それって左戸井さんが現役時代の話? 知らない間にすれ違ってたりして」
「そうかもな」
「ねー、もっと聞きたい」
「面白くねェぞ」
「それは左戸井さんが決めることじゃないでしょ」
誰に似たのか、屁理屈ばかり得意だ。左戸井は根負けしてカレーを指さした。
「これ食ったら教えてやる。温め直してこい」
「やったぁ! 約束ですよぉ」
左戸井は龍介と違い、男の言動にテンションの上がるような人間ではない。だが、電子レンジの前をうろつく背中に、知らず笑みがこぼれていた。
左戸井と千鶴が必死に護ってきた東京で、子どもは今日も生きている。
◇
「彼女――聖奈妖子と出会ってから、もう二十年は経つかしら」
千鶴が、静かに語り出した。
「夕隙社を作る前の話よ。私は当時、《霊》を視る力を持つ仲間とともに、日夜除霊作業をおこなっていたわ。とても組織なんて呼べるものじゃない。お金も道具も満足には手に入らなかった。報酬といえば、自分たちとこの東京に住む人々が元気でいられること。それだけだったわ」
アルバイトたちは、身を寄せ合って彼女の声を聞いている。
支我も例外ではない。気を抜けば他のことばかり考えてしまいそうな頭を、千鶴の話で満たそうと心がける。
「仲間の紹介でそこへ加わったのが、彼女だった。まだ、新宿の暮綯學園高校を出たばかりでね。あの子にはシャーマンとしての才能があった。おかげで、より強力なゴーストを斃すことができるようになり、舞い込む依頼の数も増えていったわ。ただの『信念』が『仕事』に変わろうとしていたときよ――仲間たちが《霊》との戦いで命を落としたのは」
千鶴は落ち着いた口調で続ける。もう何度もなぞってきた記憶なのだろう。
「私はその場に居合わせた。彼女はいなかった。後でずいぶん泣かれたわ。どうして護れなかったのかと」
「……編集長のせいではないと思いますが」
萌市が、控えめに言葉を添えた。
「ありがとう。でも、当時の私が迷っていたのは事実。無条件に《霊》を斃すのが、本当に正しい道なのか――と。それがなければ、躊躇なくとどめを刺せたかもしれない。そうすれば……。まあ、結果論よ。とにかく、その出来事をきっかけに、我々は瓦解してしまった。私は除霊をビジネスとして割り切り、会社という形で続けることにした。彼女は、失望して出ていったわ」
「それっきり、タモトを分かったってこと? でもでも、あの人、夕隙社のことをよく知ってるみたいな口ぶりだったニャ」
楓が首を傾げる。八汐が彼女に問うた。
「楓さんは、その聖奈という霊媒師に会ったことがあるのですか?」
「うんッ。アタシ、その人の起こした事件がきっかけでみんなと知り合ったんだ。龍ちゃんと、深舟と、支我とね」
深舟も頷く。
「そうだったわね。……確かにあの人、夕隙社のことを知っていたわ。同業者の情報は集めておくものだ、なんて言ってたけど……」
千鶴は肩をすくめた。
「どうも、私のことが嫌いなりに気になるみたいでね。こちらが少しでもビジネスの枠を超えたことをしようものなら、露骨な妨害工作をしてきたものよ。動向をチェックされていたんでしょうね」
支我は、かつての深舟の発言を思い出していた。
憎しみの裏には愛情がある――千鶴を単純に嫌っているだけならば、関わりを断ったほうが安らかに過ごせるだろう。だが聖奈は彼女を追い続けた。他人には推し量れない感情が、背景に存在するのかもしれない。
支我は千鶴の話を整理する。
「つまり聖奈妖子は、優れた能力を持つ霊媒師である。また、暮綯學園の卒業生でもあり、理事長と面識があった可能性を否定できない。そして、仲間の死を防げなかった編集長に恨みを抱いていると推測される。以上の点から、《白いコートの男の霊》の協力者である可能性が高い――ということですね」
「そうよ。ただ、《白いコートの男の霊》を斃したのは六月。なぜ今ごろになって動き出したのかは、わからないけどね」
「それなんですが、編集長。少し気になることがありまして」
千鶴に目で促され、支我は文化祭の準備中に担任教師から聞いた話を伝えた。二十年以上前、《霊》を視る力を持った女子生徒が、暮綯學園に在籍していたこと。彼女は在学中に誰かと出会い、人が変わったようになったということ。
「その担任が、文化祭のとき、教え子に似た人を見かけたと。俺の記憶が確かなら、『セナさん』と呼んでいました。深舟、覚えていないか?」
深舟が悔しそうな表情で首を振る。あの場には龍介もいた。確認したいところだが、もう彼を当てにすることはできない。してはならない。
ちりっと胸の奥が焦げつくのを無視して、支我はスマートフォンを取り出した。
「とにかく、あの場にいたのが彼女本人だとしたら、なぜ今になってわざわざ學園へ足を運んだのかも気になります。先生が何か知っていないか、確認してみましょう」
支我は担任教師の連絡先を選び、スマートフォンを机の上に置いた。数回のコール音ののち、「もしもし」と相手の声が聞こえてくる。
「夜分にすみません、先生。支我です。今、お時間をいただいてもよろしいですか?」
「構わんよ。どうしたね?」
「以前、先生が何年も前に暮綯學園で受け持った女子生徒について、話してくださったことがありましたよね。俺と同じだという」
「ああ、セナさんのことかな」
編集部に緊迫感が漂う。支我は、あくまで普段どおりの口調で続けた。
「そうです。その聖奈妖子さんが、実は知人の知り合いだったことがわかりまして」
「ほう。世間は狭いな」
フルネームにも訂正は入らない。やはり、担任教師が言う人物と、支我たちを狙う聖奈妖子は同一人物と見てよさそうだった。
「先生は、今も交流を持ってらっしゃるんですか?」
「いや。しかし、この前の文化祭に来ていてね、少し話したよ」
「へえ……。お元気そうでしたか?」
「それが、ずいぶんやつれていてね。ここには唯一の理解者と呼べる人がいたが、少し前にこの世を去り、いい加減気持ちにけりをつけなければと思って来た――と言っていた。近くでお亡くなりになったような口ぶりだったな」
理解者という表現はしっくりこないが、《白いコートの男の霊》のことだろうか。だとすれば、彼女自身の意志であの男に協力していたことになる。
龍介を殺したあの男が、唯一の理解者。それが事実ならぞっとする環境だ。深舟が鼻の頭に皺を寄せる。
「そういえば、君たちのことも話していたよ。『あの車椅子の子たちは、仲がよさそうでいいですね』と」
支我らのことも認識していたようだ。彼女の言葉を信じるなら、《白いコートの男の霊》へ花を手向けにきて目撃したのが、夕隙社のアルバイト。さてはそれが復讐心に火をつけたか。
しかし、担任の口からは思いもよらぬ言葉が続いた。
「『羨ましい』――と言っていたよ。あのころと同じ瞳で。……支我くんは彼女と年齢も性別も違うし、無理には頼まんが、共通点はあるだろう。もし可能なら、話し相手になってやってはくれないかね。教え子には、幸せに生きていてほしいものだ」
「わかりました。俺でよければ」
支我は即答する。傍らの深舟が顔を曇らせた。担任の情を利用しようという意図が透けて見えたのだろう。
彼女はそれでいい。支我には、支我の優先順位がある。
「先生、実は――」
◇
聖奈妖子がゴースト・コンサルタントとして活動している以上、依頼を受けるための窓口が必ずある。夕隙社に裏サイトが存在するのと同じように。
担任教師に頼み、そこへ連絡してもらうことにした。内容はこうだ。ぜひ聖奈に紹介したい人がいるから、暮綯學園へ来てもらえないかと。
もちろん、聖奈が警戒して取り合わない可能性もあったが、千鶴は彼女がこの罠にかかるだろうと踏んでいた。
「他人を憎みながらも、期待を捨てきれない。彼女はそういう人よ」
果たして、連絡は繋がった。
翌十二月二十五日の夜。彼女が暮綯學園へやってくる。
捕らえたとて、現行法で彼女を罪に問うことはできない。しかし、このまま野放しにしておくわけにもいかない。眞鍋が事情を聞くとは請け合ってくれたが、それがどこまで意味のある行為なのか。
ともあれ、迎える夕隙社側としては、いつも以上に念入りな対策が必要となる。二十五日は終業式だから、支我と深舟が夜まで校内に残って罠を張ることにした。
相手が聖奈一人ならば使わずに済む。けれどおそらく戦闘になるだろう、という予感めいたものが全員の中にあった。二十五日のための打ち合わせを終え、本来シフトに入っていたメンバー以外は解散となった後も、皆その場から動かない。
と、深舟が急に席を立った。つかつかと支我の元へ近づき、肩を叩く。
「……適当に、がんばりましょ」
あまりにも彼女らしくない言動に、支我だけではなく全員が黙り込んだ。深舟の顔に赤みが差す。
「なッ、何か言ってよ! 滑ったみたいじゃないッ。私はただ、賑やかし役が減ったから、代わりにと思って」
龍介の真似をしたつもりだったらしい。恐ろしく似ていない。だが、支我は微笑んだ。
「ありがとう、深舟。……確かに、気負いすぎても仕損じる」
「じゃあさ、何か楽しみなこと見つけようよ」
楓がぴょこんと立ち上がる。音江は指を鳴らした。
「作戦開始が明日、二十五日だろ? んで、俺ら二人の送別会兼、夕隙社の忘年会が二十六日。今回のヤマで一番活躍した奴に、『牛八』で褒賞っつーのはどうよ。肉とかデザートとかさ」
「貴様……」
八汐が瞳に殺意を宿す。音江に向けられたものかと思いきや、違った。
「面白い。貴様にしては冴えた発案だ。必ずや栄光を勝ち取ってみせよう」
「わしも黙ってはおれんのう! おまんら二人、勝ち逃げは許さんぜよ」
「そういえば最近、『牛八』にシーフードの新しいコースメニューができたよね」
龍蔵院と久伎が名乗りを上げる。曳目はおずおずと発言した。
「あの、もっとも活躍なさった方というのは、どのように決めるのでしょう……?」
「そりゃ、タマ取った数だろ」
山河が物騒なことを言う。
気のせいだろうか。千鶴の顔は一瞬泣き出しそうにも見えたが、その直後には強気な笑みを浮かべていた。
「いいわ、私の独断と偏見でMVPを決めることにしましょう。気張りなさい、アルバイト諸君。この戦いが終わったら酒池肉林よ」
「編集長、それは死亡フラグでは」
萌市がぼそっと呟き、「余計なことを」ともみくちゃにされる。
支我は暮綯學園の見取り図に触れた。
これだけの仲間が揃っていて、負けるはずはない。必ずや無事に未来を掴み取ってみせる。
深舟とひそかに頷き合う。
今ここにいない人間が帰ってくる場所を守るのも、支我たちの役目だった。
◇
十二月二十五日。
終業式の日、龍介は学校に来なかった。
体調不良で、と担任が説明していたから、連絡だけはあったらしい。それならそれで構わない。支我たちには、他に注意を向けるべきことがある。
夕日が沈み、カラスの瞳ばかりが光る夜。
担任に連れられて、聖奈妖子がやってきた。
行き先は三年B組の教室である。社用車の中にいる支我の元へは、ウィジャパッドとインカムを通じて随時情報が入ってくる。
聖奈は、待ち受けていた千鶴の姿を認め、呵呵大笑したらしい。ヒステリックな笑声がヘッドホン越しにこだまする。
「――また裏切られたわ。生きている人間は、これだから」
送られてくる映像は鮮明ではないが、それでもわかるほど、彼女は痩せていた。冬の晩にもかかわらずあらわな胸元には骨が浮き、夏物らしき白いショールだけが肌を暖めている。
「先生、下がっていてください」
千鶴が鋭く声を発する。支我が合図を送るまでもなく、画面上では二つのアイコンが担任に近づいていた。
「さあ、私たちと一緒に来てください」
「こっちこっち~。後は俺らに任せな」
八汐と音江が、担任を誘導する。こと警護においては夕隙社で一番の適任だ。
担任を示すアイコンが、名残惜しそうにいったん止まってから、二人の後へ続く。
教室で聖奈と相対するのは、千鶴、深舟、楓、萌市。
「騙して悪いわね。あなたを止めにきたわ」
「へェ。あなたがいるってことは、あたしの首にお金を積んだ人間が、どこかに存在するわけ? ひどい話ね。あたしはただ、仲間の弔いに来ただけなのに」
「仲間、ね。あの《白いコートの男の霊》のこと?」
「そうよ。唯一の仲間。あなたには一生わからないでしょうけど」
聖奈の声が、ふいに侮蔑の色を帯びた。教室内の気温が低下し始め、大気に含まれる硫黄の濃度が上がる。
千鶴はゴースト出現の兆候を肌で感じていたはずだ。だが、武器を持つよりも言葉での説得を選んだ。
「こんなことはもうやめて。私たちだけじゃない、警察もあなたに目をつけているわ。私は……かつての仲間の人生が台無しになるのを、黙って見ていたくはない」
「おあいにくさま。台無しなのは生まれたときからよ。どこに目をつけていたの? その眼鏡は伊達かしら?」
かっ、とかすかな音がする。まるでチョークを走らせるかのような。
「最初から、あなたは仲間なんかじゃなかったのよ」
「編集長!」
萌市が進み出て、千鶴を庇う。
その眼前に湧き出す白い影。
深舟の上げかけた悲鳴が、雑音を伴ってざりざりと支我の元へ届く。
通称、《白いコートの男の霊》。あの日、地獄へ引きずり込まれたはずの存在が、瞳を赤く輝かせながらそこに君臨していた。
「あのストール……! 遺品だったわけ?」
楓が叫ぶ。聖奈は、笑いながら身を翻した。
ベランダを伝って隣の教室へ抜け、《白いコートの男の霊》が千鶴たちを食い殺す間に逃げるつもりか。支我は画面の反応を目で追いながら、通信を切り替えた。
「山河、龍蔵院、竹、梅。彼女は三階、三年C組の教室へ向かった。その場でゴーストを召喚し、足止めに使う可能性がある。十分に注意してくれ」
「おうよッ」
山河たちのアイコンが、聖奈を迎え撃つべく走り出す。
巡らせていた策が奏功した。昨日のブリーフィングにおいて、護衛役の二人を除く味方を三チームに分け、暮綯學園の敷地内へ配置してある。
通常ならば同時に接続できるウィジャパッドは四台までだが、「こんなこともあろうかと」と萌市がとっておきの改良品を出してきた。
これによって、十数台のウィジャパッドからの情報が、すべて支我の元に集約される。こちらが正しく状況を読み解きさえすれば、多数の戦力を同時に動かすことが可能となる。
今まで、案はありつつも実用化には至っていなかった。支我も「完成していたのか」と目を見張ったほどだ。実体なき《霊》の情報を、リアルタイムで収集可能な端末が複数台。しかも資金の都合上、パーツはジャンク品ばかり。苦労があったことは想像に難くない。
それでも、彼はやり遂げた。二年前、支我の両脚が動かなくなったことを契機に、何日もこもりきりで最初のウィジャパッドを生み出したときと同じ。
支我の手の中へ飛び込んでくる情報は、何があっても仲間を護りたいという萌市の願いそのものだった。
ならばそれを活かし、全員が無事帰還できるようにするのが支我の役目。独自の法則で動くゴーストの行動を予測し、全体を俯瞰しながら味方に助言を送って、斃す。
容易ではない。だからこそ、支我以外にはできない仕事だ。
「――三年C組前廊下に霊体反応出現。《銃を持った不気味な男の霊》」
「なッ……こいつは、あのとき親父を狙った――!」
「あんた、どこかで会うたな。怨霊会の……?」
山河と龍蔵院の声が重なる。ゴーストの攻撃が二人を捉えかけたが、華山兄弟の拳によって防がれた。
「んもう、危ないわよ、虎次郎クン」
「そのヒトに見惚れてる暇はなさそうよ、鉄栴クン」
支我も瞬時に優先順位を組み替え、山河チームへ伝達した。
「外には久伎たちがいる。彼女の確保より、身の安全を優先してくれ」
「ああ、わかったぜ。まさか、こいつと二度もやり合う羽目になるたァな」
「早う斃して、あの女を追うぜよ」
「ツインエンジェル――」
「――パワーアーップ!」
これだけの事態に陥った以上、さすがに警視庁零課も動かざるを得ない。こちらは彼らの到着まで生き延び、彼女を拘束しなければ。
飛び交う銃声を聞きながら、支我はまた通信先を切り替えた。
「久伎。見えているか? 一階、玄関前だ」
「聖奈さんだっけ、その人の姿はまだ見えないけれど、《緑色の霊》は捉えているよ。これから曳目さんの矢が当たる」
「――行きますッ」
凛とした声。聖奈の喚んだ《緑色の霊》の一体に、清浄な矢が突き刺さる。
新たな矢をつがえる曳目を、《緑色の霊》たちが取り囲もうとする。そこに、鋭いギターの音色が響いた。
「おいおい、ここはモッシュ禁止だぜェ?」
小菅の攻撃を受け、ゴーストたちが弾き飛ばされた。先んじてイーグルアイで動きを視ていた久伎が、すかさずとどめを刺す。
混戦のさなか、息を切らして逃げようとする聖奈に、差し伸べられる手もあった。
「マドモワゼル。ボクは、アナタを救いたい。どうかこの手を取ってはくださいませんか」
「救う――?」
聖奈が嘲笑し、白峰の手を叩き落とす。
直後、襲いくる《緑色の霊》から身を守るため、白峰はその手で剣を抜かざるを得なかった。
「くッ――支我クン、左戸井サン!」
暮綯學園の駐車場、その片隅に停めた社用車の中。
ハンドルの上に頬杖をついていた左戸井は、緩やかに体を起こし、グローブボックスを開けてロープを取り出した。
「やれやれ。ロートルに無茶させんなっての」
そうぼやき、支我を振り返る。
「俺はあの女をふん縛ってくる。ここがちっと手薄になるが、用心棒を呼んであるから、そいつに任せな」
対人間という領域において、左戸井はずば抜けて頼りになる。支我は頷いた。
左戸井が運転席のドアを開けた途端、狂ったような大音声が響き渡る。
「UOOOOOOOOO」
ゴーストとしてさえ歪な、つぎはぎだらけの融合霊。一つ残ったその瞳が、左戸井と支我に照準を合わせていた。
左戸井は予備のインカムとウィジャパッドを車外へ放り投げ、ドアを閉めて走り出す。その背中を融合霊が追う。
車の外でインカムをキャッチした人物が、融合霊を力任せに殴り飛ばした。
支我にはその者の顔が窓越しに見えていたが、名は呼ばなかった。
今声にすれば、他の仲間にも伝わる。戦闘以外に注意を分散させるべきではない。勝利に繋がる行為だけが、支我の果たす任務。
代わりに、心の中で呼んだ。
――龍ちゃん。
「スクリーム反応。気を抜くな、五秒後には再び向かってくる」
「了解」
きちんと通信を切り替えてから発した第一声も、返ってきた彼の声も、極めて冷静だった。
◇
三年B組の教室で、千鶴・深舟・楓・萌市が《白いコートの男の霊》と。
三年C組前の廊下で、山河・龍蔵院・華山兄弟が《銃を持った不気味な男の霊》と。
玄関前で、久伎・曳目・小菅・白峰が《緑色の霊》と。
駐車場で、龍介が融合霊と。
それぞれ戦うのと並行して、左戸井が聖奈を捕らえるまでそう時間はかからなかった。
しかし、彼女を拘束すればただちに事態が落ち着くわけではない。除霊作業には手こずったが、護衛を終えた音江と八汐が千鶴たちに合流したあたりから、風向きが変わり始める。
「おッ、敵影はっけーん。誰かと思えば、ダチの仇じゃねェか。楽しませてくれるんだろうなァ?」
「貴様、不謹慎だぞ。……仇であろうとなかろうと関係ない。民間人に危害を及ぼす《霊》は、この私が屠る。戦場の露と散りなさい――」
鍔迫り合いは苛烈さを増し、わずかな油断も許されぬ中での
それは、支我自身の安全が確保され、思考に集中できたことも大きい。一人で巨大な《霊》と渡り合えるほどの成長を遂げていたのだ、彼は。
そんな感慨は毛ほども覗かせず、支我は千鶴たちへアナウンスを入れた。
「――《白いコートの男の霊》の霊体反応消滅。編集長、校庭で左戸井さんが彼女を捕らえました。警視庁零課にも連絡済みです。間もなく到着するでしょう」
「……了解。私たちも校庭へ向かうわ」
千鶴に告げるのと時を同じくして、閉め切った車内にも聞こえるほどの断末魔が夜空をつんざいた。画面上から、そして窓の外から、融合霊の姿が消える。
がたん、と支我の後方で音がした。誰かが扉に手をついたような。
バックドアが開いて、細長く切り取られた外灯の光が差し込む。
龍介が力尽きたように車内へ倒れ込んだ。支我はヘッドセットのマイク部分を押し上げ、音声を拾われないようにする。
「龍ちゃん」
声をひそめて彼を呼ぶ。龍介は、這うようにしてバックドアを閉めた。
「怪我は?」
彼は肩で息をしながら首を横に振った。その顔の左半分に細かな切創が認められる。目を開けるのもつらそうで、見るからに痛々しい。
なのに、彼は支我を視界に入れて、ほっとしたように脱力した。
無線越しに、校庭へ降りた千鶴と聖奈の声が聞こえてくる。
「これから、警視庁の人が来るわ」
「あら、ふふふ、あたしを罪に問えるかしら?」
「正直なところ、難しいでしょうね。でも……変わるきっかけにはなるかもしれない」
支我は、備えつけの救急箱を使って龍介の手当てをすることにした。しかし、車内では車椅子の向きを変えられない。わずかなスペースへ潜り込むようにして、彼にこちらまで来てもらう。
車椅子と前の座席の隙間にへたり込み、龍介は床から支我を仰いだ。
車内灯の下で見る限り、傷自体は浅い。出血もそれほどではなかった。いつもの医師なら、縫合せずに済むだろう。
無言で向かい合う二人の耳には、少しだけノイズの乗った音声が流れてくる。
「……どれだけ時間が経とうと、何も変わらないわ。この力を、この力を持ったあたし自身を認めてくれたのは彼だけよ。家族も、先生も、あなたも、仲間なんかじゃなかった」
「私たちは――」
「愛されて育った人にはわからないわよ。今だって、あなたの周りにはこんなにたくさんの人間がいるじゃないの。ふふふふッ、忌々しい」
龍介の顔の下にタオルを当てて、未開封のミネラルウォーターでざっと傷を洗う。それからガーゼで拭き、かがみ込んで傷パッドを貼る。
水が傷口に滲みたのか、あるいは顔を触られるのがくすぐったかったのか、彼は支我が声をかけるまできつく目を瞑っていた。
「終わったぞ」
龍介はようやく肩の力を抜く。
鳥が羽を休めるかのように、座ったまま支我の膝へ顎を乗せ、再び目を閉じた。
「……お疲れ」
それを見ていた支我は、思わず龍介の頭を撫でてしまった。そういえば自分たちはかなり気まずい別れ方をしたんだっけ、と思い出して手を止めると、彼が上目遣いに見上げてくる。
せがまれたように感じ、また頭を撫でた。龍介は呼吸を整えながら、支我の右脚を抱き締めた。
相変わらず動きはしない脚だが、温もり――というより、熱は感じる。生きている人間にしか持ち得ない体温。
抱き締め返したいと思った。けれど、それには龍介がもう少し上に来てくれないと届かない。なのに彼は、宝物のように支我の脚を抱いて、安心しきった顔で瞼を閉ざしている。
静寂に満ちた冬の夜。校庭に落とされた千鶴の呟きを、マイクはかろうじて拾った。
「私は……あなたのことも愛したかった」
開いたままのノートパソコンに、新たな反応が表示される。支我はヘッドセットのマイクを口元へ引き寄せた。
「編集長。零課が到着したようです」
「ええ。……引き上げましょうか」
千鶴たちが、社用車のほうへ引き返してくる。支我は通信をオフにしてから、足元の龍介に言った。
「聞こえていたな。みんな戻ってくる」
龍介は支我の脚を離そうとせず、ただこちらを見上げてきた。
その目が「やだ」と訴えている気がしたのは、支我の自惚れだろうか。
「いや……そんな顔をされてもな、龍ちゃん」
「たーだいまァ、っと」
左戸井の陽気な声がして、龍介はぱっと支我から離れ、社用車のバックドアを開けた。
「おかえりなさい」
急に放り出された右脚が寒い。ともあれ、スロープを設置してもらい、支我も車の外で皆を出迎えることにした。
全員の顔を見回す。多少の怪我は負っているが、元気そうだ。音江と八汐など、物足りなそうに語り合っている。
「最後の獲物にしちゃあ、ちっと味気なかったなァ」
「まったくだ。我々の成長に対して、敵は過去のまま。口ほどにもない」
「おいおい。困るだろうが、こっちに合わせて向こうも強くなってたら。滅多なことを言いなさんな」
左戸井は二人をたしなめる。小菅が龍介の肩に手を乗せた。
「よォ、旅はもう終わったのかい?」
「え? なにそれ」
龍介はきょとんとする。千鶴が咳払いして、彼に問うた。
「龍介。今ここにいるということは、決心はついたのかしら」
龍介は目を伏せ、一つ息を吸い込んだ。
ぎこちなく左手をこめかみに添える。
「……今日から復帰しまーす」
「だから、敬礼は右手だっつってんだろうが」
左戸井の文句は、巻き起こった歓声に掻き消された。
◇
暮綯學園では、長期休暇中でも教師による特別講義がおこなわれる。
入試に備え、支我も英語の講義を受けていた。終わったのは午後四時過ぎ。音江・八汐の送別会兼忘年会は夜だから、まだいくらか余裕がある。
その時間を使って、龍介に呼ばれていた。
三年C組の教室へ向かう道すがら、らしくもなく不安になってきた。どんな話か見当もつかない。加えて、今朝左戸井から送られてきた妙な写真。なんのつもりか尋ねても、一向に返信がなかった。
思案しながら教室へ入ると、見事な夕焼けが室内を赤く染め上げていた。
眩しくて、手を顔の前にかざす。あらゆるものの形が曖昧になる空間で、中央の机に男子生徒が座り、こちらへ背を向けている。
その光景が記憶とオーバーラップし、息が止まった。
幸い、現実の彼はすぐに振り向き、ぴょんと床へ飛び降りた。
足音がする。ということは、足がある。《霊》ではない。ここは三階であって、封じられたあの四階の教室でもない。
支我が教室の中へ車椅子を進めると、龍介も歩み寄ってきた。
その頭が深く下げられる。
「ごめん、正宗」
「……何がだ?」
謝られる心当たりがなかったので、そう問い返す。龍介は頭を下げたまま続けた。
「おれ、最低なこと言った。『護ってほしいなんて思ってない』って」
二日前、クリスマスイヴの日に言われたことだ。支我はすっかり忘れていた。感謝されたくて龍介を庇ったわけではないし、さすがにすぐには事実を受け止めきれなかったのだろうということも察せられた。
「ああ、いや。まったく気にしていない」
だから率直に述べたのだが、顔を上げた龍介に、しばし時の流れを忘れる。
昨晩治療を受けたおかげで、どこにも傷跡はない。けれど瞳が、夕陽を受けて光っている。
「……護ってくれて、ありがとう」
それを口にするのに、かなりの葛藤があったらしいことは伝わってきた。龍介は支我の両脚に視線を落としている。やはり、友人の下肢と引き換えに助かったようで、気になるのかもしれない。
だが、それでも彼は支我に礼を言った。その意志に報いたいと思った。
手を伸ばすと、龍介も応じてくれた。右手と左手だが、握手するように指を握る。
「どういたしまして」
彼の目は雨に濡れたように光ったままだったが、支我の言葉を受けて笑みをかたちづくった。
その笑顔に、全身の力が抜ける。この二日間、彼の不在を踏まえて理性的に立ち回ったつもりだが、気を張っていたことは否定できない。
「……話というのはこのことだったのか」
「ん?」
「いや……今朝方、左戸井さんからお前の写真が送られてきてな。どういう意味なのか聞いても、返事がないんだ」
スマートフォンを出して、画像を見せる。
寝顔の写真だ。こたつ布団のような毛玉だらけの布をかけている。派手なトレーナーから覗く手首の内側が、日に焼けづらい箇所だということもあるが、やけに、白い。
「なんか変にセクシーだね」
支我は遠慮して口にしなかった感想を、被写体本人が言い放つ。
「左戸井さんのアパートか? ここは」
「そう。いつの間に撮ったんだろ。おととい、泊めてもらったんだ」
「……なるほど」
支我はつとめて平静を装い、スマートフォンをポケットに戻した。龍介が顔をしかめる。
「あっ。なんか誤解してないか?」
「いや、……お前がどこで何をしようと、お前の自由だからな」
「別に何もしてないって」
「俺は、お前が無事で、生きているならそれでいいんだ」
それだけは真意だった。
報われたくて、彼を護ったわけではない。ただ、世界のどこかで元気にしていてくれれば、それで十分。
何一つ偽りのない本心なのに、龍介は身をかがめて支我の顔を覗き込む。
「本気で言ってる?」
「ああ、……龍――?」
固定した車椅子のタイヤに、彼の手がかかる。
きしっ、と軽く軋む音。龍介が車椅子の上に覆い被さっていた。
名前を呼ぼうとした吐息ごと、彼に飲み込まれる。
その瞬間、
「……ちゃんと告白もしてないのに、なんで浮気を疑われなきゃなんねーんだよ。つーか人の話聞けよ、お前は。肝心なとこで鈍いんだから」
龍介が、何事か怒っている。
支我はそれを聞き流しながら、己の唇に触れた。自分で触っても、あの感じはしない。標準的な人間のパーツがそこにあるだけだ。
確かめてみたいと思った。
「おれだってお前のこと護りた――」
支我は
不意をつかれた龍介が、近くにあった机に腰をぶつける。
机の上に尻餅をついた彼を押し倒すようにして、唇を合わせた。
こういうときは、眼鏡がいささか邪魔になることがわかった。気をつけないと肌に当たる。
支我は顔を離して眼鏡の位置を直し、自分の両脚を見下ろした。
「な、……なに、お前、脚っ……」
「ああ。やはりな」
「やはりって」
体の下に敷いた龍介が、泡を食って腕を掴んでくる。
「
龍介の瞳に、支我の影が映っている。その色合いがきれいだと思ったので、じっと見つめた。
「お前を護りたいという思いは呪いにもなり、再び俺の両脚の自由を奪った。そして今、お前の意識が強く俺に向いたために――」
「あー、もういい、もういい」
自信を持って発表できる仮説だったのに、うんざり顔で遮られてしまった。
鼻白む支我の首に、龍介の両腕が回される。机の上から落ちないよう、支我は彼の体を抱きかかえた。
温かい。日なたの匂いがする。
頬に柔らかな髪が触れた。
親指の付け根でするっと襟足を撫でられ、囁かれる。
「もっかい」
味わうのに夢中になりつつも、支我は少し心配だった。
触れるたびに体がぴりぴり痺れるから、また新たな《呪》が生まれたのではないかと。
すっかり暗くなった教室で打ち明けたら、彼に大笑いされた。自身もそうだと教えられ、それが特異な反応ではないことを知る。
実際、それからというもの、支我はずっと自分の脚で歩けたし、龍介を抱き締めたいときにはいつでもそうすることができた。
呪いは解けたのだった。