Change the World/東摩龍介の世界
受験の結果報告をしようと、龍介はしばらくぶりに暮綯學園へ登校した。
三年の半ばで進路を変更したため、担任は何かと気を配ってくれており、合格を伝えると我がことのように喜んだ。龍介も嬉しかった。彼と聖奈が、手紙でのやりとりを続けていると聞いたからだ。
報告自体は予定よりも短い時間で終わった。いったん部活へ顔を出すと言っていた支我を、部室まで迎えに行くことにする。いざ近づくと、何やら黄色い声が聞こえた。校庭の隅だ。
「支我先輩がいなくなっちゃうなんて、寂しいです~」
「たまには来てくれますよね?」
「OBがいつまでも顔を出していたら、やりづらいだろう」
「でもォ」
寒空に生足が眩しいテニス部の女子たちは、龍介に気づいて一礼した。支我も遅れて振り返る。その手には、山ほどの菓子が入った紙袋を提げていた。
今日は二月十四日、バレンタインデー。暮綯學園の運動部では、お歳暮やお中元のごとく菓子の贈答を交わすのが慣例らしく、龍介も昨日は弓道部の面々とチョコレートを交換した。
女子部員が去り一人になった支我を、龍介は生温かく見やる。
「へえー」
その視線が紙袋へ注がれていることに気づき、支我がにわかに慌て出した。
「ちッ、違うぞ。これは」
テニス部は人数が多い。俗にいう義理チョコだけでも相当な数になるだろう。挨拶のようなもので、他意はない。
そんなことは百も承知だが、焦る彼が面白かったので、ラッピングされた箱をわざとらしく見せびらかしてみる。
「そんなにあるなら、おれからのチョコはいらないよなぁ~」
「龍ちゃん」
支我が追いかけてくる。リハビリの甲斐あって、歩行器も杖ももはや必要なかった。まだ走るのは難しいが、そのうちできるようになるだろう。
男子高校生にとって、バレンタインデーは浮き足立つ日。好きな子からのチョコを目前にぶら下げられればなおさら。支我も例外ではないようだ。それがわかったので、龍介は足を止め、紙袋のてっぺんに箱を置いた。
青いリボンをかけてもらったその中身は、龍介からすれば甘さが抑えられすぎている。
「なんつってな。はい、プレゼント」
「ありがとう。俺からも」
「おー、ありがと」
支我もチョコレートをくれた。どんな顔で買いに行ったのかと思うと、ついにやにやしてしまう。
「昼食べようぜ。教室でいい?」
「ああ」
三年生は自由登校になっているし、今日は土曜日だから、外食でも構わない。だが、なぜか二人とも通い慣れた三年B組の教室へ向かっていた。時間をかけて階段を上り、誰もいない廊下を歩く。
教室に着き、照明と暖房のスイッチを入れた。机を向かい合わせにくっつけて弁当を広げる。
「こうやって学校でお昼食べるのも、あと何回かなぁ」
「もしかしたら、これが最後かもしれないな」
「えっ、ほんとに?」
「卒業式は午前中で終わりだろう」
「うわー。写真撮っとこ、写真」
スマートフォンを出して支我にレンズを向けると、彼は苦笑して龍介の腕を引いた。一緒に写れということらしい。
「背景がメインとはいえ、食べかけの写真でいいのか? 食事を始める前に撮ればよかったな」
「こーゆー何気ないのが思い出になんのぉ~。多分。なんならチューして撮る?」
「食事中は、食事に集中したほうがいいんじゃないか」
「冗談だってぇ」
軽く笑ってみせながらも、了承されたらどうしようとドキドキしていたので、龍介は安堵した。
「ところで、龍ちゃん。ずっと気になっていたんだが、卒業後は引っ越すのか?」
「また親の転勤に巻き込まれても困るし、一人暮らしはするけど、都内だよ。なんで?」
「そうか。……知られたくないみたいだったからどこを受けるか聞かなかったが、もし遠くに行ってしまうなら、連絡手段を考える必要があると思ってな」
龍介が進路をひた隠しにするものだから、彼は彼で気を回していたらしい。それは申し訳ないことをした。
「四年間東京の予定。福祉学部って郊外のキャンパスも多いから、いろいろ考えたけどね」
「へえ、お前が福祉に興味を持っていたとは知らなかったな」
「まあ、他にやりたいこともなかったからさぁ」
心から何かを学びたいと思ったことなど、一度もなかった。学校ではただ、必要最低限のテスト対策をし、留年しない程度の成績を収めてきただけだ。
けれど去年の六月、病室の天井を見上げながらふと思った。
世の中にはさまざまな仕事がある。病院にいるようなリハビリの専門家、福祉用具――たとえば車椅子――のメーカーで働く人。
初めてそうした職業に関心を持った。受け身でいることが多かった息子の変化に、両親は喜んで背中を押してくれた。勉強は大変ではあったが、目的へ至るための手段だと思えばがんばれた。
疲れたときには、講師の顔を盗み見れば回復できたし。
生徒の下心も知らず、支我は「行きたい学部に合格が決まってよかったな」と微笑んだ。照れくさいから、進路選択のきっかけはまだ内緒にしておく。
「ありがと。いい先生がいたからな」
「お前も深舟も謙虚だな。本人が努力したからだろう」
「それも大いにある。もっと褒めて」
支我は笑いながら褒めてくれた。龍介はいたく満足する。
「へへー。……お前も本番がんばってな。正宗なら絶対大丈夫」
「ありがとう。この前のカロリーメイトも会場へ持っていくよ」
「おれが渡したやつ? まだ持ってたのかよ。食え食え、早く」
「せっかくメッセージを書いてくれたから、もったいなくてな」
支我が笑う。彼が受ける国立大学の入試はこれからだ。センター試験は足切りどころか余裕で合格だったようなので、心配はしていない。
弁当を食べ終えた後、デザート代わりに、もらったばかりのチョコレートの包みを開けた。支我にあげたものも一つ味見したが、やはり龍介の口には合わなかった。こちらにくれたチョコを食べて、彼も同様の感想を抱いたらしい。仏頂面で冷めかけのコーヒーを啜っている。
一気に完食するには多かったので、半分を残し、後は家で食べることにした。家族に見つかったら厄介だ。東摩家の人々は、色恋沙汰には嬉々として口を突っ込んでくる。
それも、せいぜいあと一ヶ月のこと。
「……なぁ、おれが一人暮らししたら、遊びに来てくれる?」
「当たり前だろ。会いに行くよ」
「よかったぁ。おれ、やっぱり寂しいの駄目なんだよなぁ。慣れなきゃとは思ってるけど、最初は耐えらんないかも。特に夜とか。……誰か呼べばいっか」
「まあ、ゆっくり慣れていけばいいんじゃないか。……もし本当に耐えられなくなったら、遠慮なく俺を呼んでくれ。左戸井さんではなく」
つけ足された名前に、龍介は思わず笑い出す。クリスマスに左戸井が撮った写真は、自分でもあだっぽく写っていたと思う。あのときは好きな人のことで頭がいっぱいだったから――とは、さすがに口には出せない。
新しい家の話をしながら、からになった弁当箱を包み、机の位置を戻す。
まだ口の中が甘い。教室を出ようとする支我の腕を掴み、龍介は手探りでスマートフォンの画面をタップした。
シャッター音が響く。
「……冗談なんじゃなかったのか?」
「へへへ、やっぱりしたくなった。……あれ? うまく撮れてないなぁ」
撮影したばかりの写真は、画角がずれてしまっている。龍介は支我の袖口を引っ張った。
「なぁ」
「龍ちゃん。お前の希望には応えてやりたいが、ここは学校だぞ」
「いいじゃん、誰も来ないんだから」
「それは……まあ、確かに」
支我には事実を提示するのが一番効く。龍介は彼の手を引き、教室の中へ戻った。
教卓の下へと支我を押し込む。「狭い」と訴えられたが、万が一にも他人に目撃されたくないのなら、隠れるしかない。手足をはみ出させながら強引に彼を収め、龍介もその上に乗る。
「この空間に二人分の体積は、無理がある、痛っ」
「ほーらぁ、暴れると舌噛むぞぉ。大人しく天井の染みでも数えてろよ」
「お前の顔と教卓の裏側しか見えないが」
減らない口だ。塞いでしまおう。
パシャシャシャシャシャ、とシャッター音が響く。
「……連写にしたのか」
「うん、これなら撮り逃しがないかと思って」
龍介は支我の脚に跨ったまま、彼の首へ腕を回す格好で画面を確認する。
「……あ。これは駄目だ」
支我の鼻先にスマートフォンをぶら下げる。彼は数秒間の黙考を挟み、「駄目だな」と同意した。
物陰で無造作に抱き合う男二人。露光不足でシルエットがぶれており、生々しさに拍車をかけている。連写したものをすべてチェックしたが、どれもいかがわしい代物に仕上がっていた。高校生にはまだ早い。
支我の手が、とんとんと龍介の背中に触れた。
「もういいのか?」
「え」
どきっとして固まる。
「いいなら、どいてもらえるか。さすがに窮屈でな」
「……なーんだ。まだ。もうちょっと」
スマートフォンはポケットに戻したけれど、再び顔を擦り寄せる。口の中で二種類の味が混ざり合った。
「……んー、……やっぱ、苦い」
「お前が選んでくれたんじゃないのか」
「おれは食べる予定じゃなかったんだもん」
こうなるのであれば、来年は龍介の好みにも合うものを探そう。心に決める。
「なぁ、脚痺れた?」
「別に、大丈夫だよ。……お前こそ、首が痛くないか?」
「平気」
無理に曲げた上半身を、支我の手がいたわるように撫でる。龍介は彼の体をぎゅっと抱き締めた。
日だまりにいるかのようで、ぽかぽかして眠くなる。しかし、ずっとここで過ごすわけにもいかない。龍介は支我の手を引き、教卓の下から出た。二人揃って目をぱちぱちさせる。昼の白い陽光が、教室に差し込んでいた。
「行こ」
龍介は支我の背中を押して、教室を出た。見慣れた廊下。何代もの生徒たちによって、無数の細かな傷が刻まれている。古いものは水底で削られた石のようになだらかだった。真新しい凹凸も、これから人の手に撫でられ丸くなってゆくのだろう。
去年の春まで知らなかった、今は自分の一部のようにすら感じる景色が広がっている。
世界は変わった。一年前とは比べ物にならないほど。
いい匂いがして、鮮烈で、時に痛くて、苦しくて、だけどかけがえがなく愛おしい。
これが、東摩龍介の世界だ。