チョコレート、融ける

 奇妙な二重奏が響いている。
「ナォウ~ゴロニイナ~ナァ」
「ニャニ~、ミ~オ~オ~」
 夕隙社の二階、編集部の入口で、シークロアと東摩が会話していた。
 時に発音が呼応する点からなんらかの法則性はありそうだが、データ数の不十分さから解析には至っていない。猫語の分析以上に優先順位の高い仕事はいくらでもある。
「よッ、お疲れ……うおッ、なんだァ、ンなトコにうずくまって」
 勢いよく出勤してきた小菅が、足元にいた東摩とシークロアをドアで潰しかけ、すんでのところで踏みとどまった。
 シークロアはぴゃっとロッカーの上へ逃げ、東摩も立ち上がる。
「おう東摩、例のブツ持ってきたぜ」
「おー、ありがとー」
 小菅が取り出したのは、彼が愛するロックバンド、SLIVE BRRICHのCDだった。
「どの曲がおすすめ?」
「そうだなァ、捨て曲は一つもねェけど、DISC2に入ってるライブ音源から聴くのもアリだぜ。初心者でも絶対ブチ上がる」
「あーいいねぇ、盛り上がりそう」
 東摩はもう一度礼を言い、席へ戻ってCDをリュックに入れた。その後、ゴソゴソと音を立てながら何かを取り出す。
「深舟さん、この前くれたチョコ、期間限定バージョンが売ってたよ~。一個あげる」
「どれ? ……ああ、本当ね。ありがとう。ん……、いい香り」
 深舟の声がほろっと柔らかくなり、ほのかにチョコレートと桜の香りが漂った。小菅が「俺様にも」と主張する。
「うッ、……東摩には悪いが、俺様には苦手な匂いだぜ」
「ああ、桜のフレーバーって好み分かれるよなぁ。でも味はおいしくない?」
「美味ェな。どっちかっつーと大人向けか?」
「じゃ、大人にもあげよう。左戸井さぁーん」
 左戸井は自分の席で熟睡している。声をかけても起きないので、東摩はティッシュペーパーを一枚敷き、その上にチョコレートを置いた。神妙な顔で手を合わせる。
「お供え」
「ぶふッ」
「浅間にもあげてくるかぁ」
「いいけど、すぐ戻ってきてよね。編集長が帰ってきたら、原稿をチェックできるようにしておかなきゃ」
「はぁーい」
 東摩が早足で、といっても日ごろのトロトロした歩き方よりも若干速い程度のスピードで、地下へ向かう。
 小菅の笑いが収まるころに彼は戻ってきた。なぜかその手にはチョコレート菓子の箱だけでなく、金属の皿に乗ったレモンゼリーがある。
「支我にもチョコあげるよ~」
「ありがとう。そのレモンゼリーは、萌市が作ったものか?」
 キーボードを叩く手を止め、手のひらにチョコレートを乗せてもらう。あの皿、というか実験器具は、M.I.T謹製の証だ。支我も何度となく夜食をご馳走になっている。
「うん。みんなの分もあるってさぁ。後でもらいに行きなよ」
「ふーん、萌市くんってデザートも作れるのね」
「なんか、作るつもりはなかったけどできちゃったって」
「どういう理屈よ?」
「さあ」
 支我と小菅にとっては慣れたことだが、新人二人は首を傾げている。
 食べ物を受け取って放置するのも失礼なので、支我は作成途中のデータを保存し、チョコレートを口に入れた。濃厚な味に桜のリキュールが香る。コンビニで購入するのは除霊用品か軽食くらいだから、こんな商品が販売されているとは知らなかった。人によって視点が異なることを実感する。
 肩を回したら、長時間打ち込みを続けていたせいか、ぱきぱきと関節が鳴った。休憩にはいい頃合いだ。
 後ろを振り返ると、眠る左戸井の前にチョコレートを一粒ずつ積み上げていた東摩が顔を上げた。
「ん? どうかしたかぁ?」
「いや。東摩はついこの前バイトを始めたばかりなのに、馴染むのが早いと思ってな」
「あー、おれ、昔っから初めて会った人と仲よくなるの早いんだよねぇ」
「軽薄ってことね」
「ひどぉ~い」
 東摩はしょんぼり顔を作ってみせるが、彼の反応にも深舟の口調にも、どことなく気安さが感じられた。関係が構築されているからこその軽口に聞こえる。
 深舟とこの短期間で仲を深めたのは大したものだ。先般、協力して《ロックを奏でるギタリストの霊》に立ち向かったのが功を奏したのかもしれない。小菅も調子よくフォローを入れる。
「それも特技だろ。きっと何かの役に立つさ! YEAHッ!」
「そーかなぁ。だったらいいなー」
「小菅の言うとおり、夕隙社うちには必要な人材だと思うぞ。なんと言っても……」
 支我の声に重なるようにして、オフィスのドアが蹴り開けられた。
「はァ~もォ、やんなっちゃうわね。素面しらふじゃやってられないわ」
「あ、編集長。おかえりなさーい」
「ただいま」
 カッ、カッ、カッとせかせかした足音を立てながら、千鶴が片手を挙げる。自身の机に積まれた書類の塔をドザザザザと崩し、下のほうにあった茶封筒を取り上げた。
「左戸井、私はまた区役所に戻ってその後直帰するから、戸締まりはお願いね」
 左戸井は夢でも見ているのか、むにゃむにゃと寝言を言うばかりだ。
 と、千鶴は突然、左戸井の椅子を横に倒した。
 重力に従いずるんと滑り落ちた左戸井が、床の上で目を覚ます。
「いてッ……なんだァ?」
「戸・締・ま・りッ。じゃあみんな、遅くならないうちに帰りなさいね。お疲れ様」
「あ、お疲れ様でーす……」
 と東摩が返すころには、既に階段を下りる音が聞こえていた。深舟が原稿を差し出す隙もなかった。
 後には散らばったままの書類と、腰をさする左戸井が残される。
「台風みたいね」
 深舟がぽつりと感想を漏らす。支我は、千鶴が襲来する前にしようとしていた話を続けた。
「……ここには個性的な・・・・人間が多いから、東摩みたいな奴が一人いてくれると、俺としてはやりやすい」
「なるほど……」
 新人二人は深く納得したようだ。
「ンだよ、千鶴の奴。せっかく尻の夢を見てたってのによ」
 左戸井がぶつくさ言いながら、腰をとんとん叩く。倒れたついでに書類まみれになってしまった椅子を起こし、また午睡の体勢に入った。
 小菅の爪弾くやけに物悲しい旋律が、真面目な若者たちを抱擁した。