春風の熱
「君は……幽霊を信じるかい?」
問いかけられた転校生は、黒板の前で瞬きをした。
人のよさそうな垂れ目に明るい色の髪。どことなく笑っているような顔立ちは、見る者に警戒心を抱かせない。
慣れた様子で黒板へ記したところによれば、名は東摩龍介という。
初めて訪れる場所で集団から注目を浴びれば、萎縮しても無理はない。しかし東摩はへらっと笑い、問いを発した支我と躊躇なく視線を合わせた。
「信じるよぉ。おれ、実は見えちゃうほうなんだよねぇ。今朝もここ来るときにさぁ、そこのカドで赤い靴履いた女の子がうらめしや~って」
東摩の大げさな裏声に、三年B組の生徒たちが笑う。全員ではない。支我の斜め前方、学級委員長の深舟さゆりだけは、人間と鉢合わせた猫のように身を固くしている。生真面目なたちだから、初対面でふざける男子生徒は気に食わないのだろう。
支我は皆と同じように笑みを浮かべた。転校生も、自分のジョークが通じたと思ったのか、眉尻を下げて笑った。
「なんつって」
「くくくッ、……あはははははッ。今の質問は、冗談だよ。幽霊なんて、いるわけがない。変な質問をして悪かったな」
支我の言葉に、クラスメイトたちは「もう、変なこと言うなよー」とますます笑う。和気藹々とした空気が流れ、教室にいるほとんどの人間が、この転校生とは楽しくやっていけそうだと感じていた。
支我も例外ではなかったが、微笑みながらも頭の中に地図を呼び起こす。
新宿駅方面から暮綯學園へ向かう途中にある、見通しの悪い交差点。
そこには確かに、少女の《霊》がいたはずだ。
ただうつむいてべそをかくだけで、人に危害を加えるそぶりは見受けられないから、除霊は後回しになっている。支我はそうした低級霊の情報も取りまとめていたので間違いない。
もっとも、それを言い当てたからとて、彼が《霊》を視ることのできる人間だと断定するのは早計だろう。《赤い靴を履いた女の子の霊》など、フィクションでもありふれたモチーフだ。
現時点で答えの出ない疑問に拘泥しても意味はない。支我は、夕隙社のアルバイトから、一介の男子高校生である自分へと頭を切り替えた。転校生がどんな人間だろうと、これから一年間をともに過ごす学友だ。可能なら親しくなりたい。
東摩が席へ着きながら振り返り、目が合った。彼はまたへらっと笑ったが、次の瞬間には隣の深舟から睨まれてあたふたしていた。
◇
なぜ彼が自己紹介の場で堂々としていたかといえば、親が転勤族で、転校には慣れているからとのことだった。
「だから、あんなにふざける余裕があったってわけね」
「いや~、支我の質問にはびっくりしたけどねぇ」
「はは、それはすまなかったな。……攻撃。俺の勝ちだ」
「えっ」
他のメンバーは先に脱落させたから、これでゲームセットだ。深舟と話していた東摩が、まじまじと盤面を見つめた。
「うそ、まじで? どこにいたぁ?」
「さっき、東摩の隣の池に移動したんだ」
「気づかなかったの? ヒントが出たでしょう?」
「ぜーんぜん……。はーあ、また負けたぁ。池から出てくることもあるんだな。メモっとこ~」
東摩は肩を落とし、制服のポケットから出した小さなノートにメモをした。
チームビルディングも兼ねてか、千鶴は新人二人をよくボードゲームに誘っていた。深舟は何度かプレイして要領を把握したようだが、東摩は未だ一勝もできていない。学んだことを細かく書きつけているし、同じ失敗を繰り返しはしないから、前に進んでいるとは思われる。
たかが遊びとはいえ、このボードゲームはウィジャパッドを使った実戦の訓練にもなる。一日も早い成長が待たれるところであった。
「じゃ、東摩君、罰ゲームってことで、コンビニへ行って全員分の飲み物を買ってきてちょうだい。買うものは前と同じ。領収書を忘れずにね」
「はぁーい」
「戻ってきたら肩揉んで」
「はぁーい」
「しかし、編集長……」
東摩は支我の言葉も待たず、「それじゃ、いってきまーす」と扉を開けた。千鶴の命令にも嫌な顔一つしない。比較的我の強い人間が揃った夕隙社においては、稀少なタイプだ。「煙草も頼めりゃなあ」と左戸井が残念がっている。コンビニまで歩くのが億劫らしい。
「制服姿では、さすがに難しいでしょうね。……編集長、そろそろブリーフィングの時間だったのでは?」
「まだ少しあるでしょう?」
「東摩と深舟がいますから、時間に余裕を持って開始したほうがいいのでは」
「まァ、そうね。支我、東摩君に連絡して。深舟さん、地下へ行って萌市を呼んできてもらえるかしら」
「わかりました」
深舟が萌市を呼ぶ間に、支我は東摩へ電話をかけた。まだ建物を出たばかりだったらしく、すぐに戻ってくる。
千鶴、左戸井、支我、萌市、深舟、東摩、それにシークロアを加えた六人と一匹で、ブリーフィングデスクを囲む。現場の見取り図を眺めていた東摩が、あっと声を上げた。
「ここのコンセントって、塞いでおいたほうがよくないですか? 急にゴーストが出てくるかもしれないし。さっきの池みたいに」
「いい着眼点ね。では、どこに何を置けばいいかしら?」
「えっとー、コンセントの周りに塩撒いて、あ、部屋の入り口にもか」
まだおぼつかない手つきでシミュレーションする東摩に、千鶴が笑みを浮かべる。なんだかんだ言って、若手を育てるのが好きな人だ。
「これでいいかなぁ」
「待って。西と東から二手に分かれて突入するわけでしょ? ゴーストの目撃位置は中央。EMF探知機と罠を設置しておいたほうがいいんじゃないかしら」
深舟の提案に、千鶴の笑みが深くなる。
「結構。それじゃ、夕隙社、出動よ。気をつけていってらっしゃい」
「いってきます!」
「敬礼は右手な」
「……いってきまぁーす」
左戸井に指摘され、東摩がへにゃっとした敬礼をやり直す。
現地に着いたところで、支我は愛用のノートパソコンを開いた。ここからは、余分な感情は必要ない。機械のように冷静沈着であれ。それがゴーストを斃すための最善の手段だ。全体の状況を俯瞰できる者は、ただ一人しかいないのだから。
各員のウィジャパッドから、支我のもとへ次々に情報が飛び込んでくる。ゴーストの出現位置は部屋の中央。電気の配線を経由して移動する習性を持つが、前もって封じてあるために心配はいらない。
画面上で動いていた霊体反応が、ある一点へ引き寄せられてゆく。
「敵が罠にかかった」
「やったぁ」
アナウンスを入れるやいなや、東摩が喜び勇んで狙いに行くが、ゴーストは既に罠を破壊していた。鉄パイプが空を切る音。
「あれっ……、いってぇ」
がつん、と音がして、東摩からの映像が大きく乱れる。彼を襲ったゴーストの背中を、萌市が一気呵成に焼き払った。罠の破壊も想定していたのだろう。
「東摩氏! 大丈夫ですかッ?」
「痛いけど平気~」
「もう、しっかりしてよ」
「ごめーん」
目まぐるしく変遷する状況を逐次追いながら、支我は反省する。情報を伝達するタイミングが悪かった。《霊》との戦いに不慣れな東摩が突っ込んでいくのは、予想し得たことだ。即座に対策を考える。すぐに修正しなければ、メンバーの命に関わるのだから。
「……東摩! 左から来るぞ。二十秒後だ」
「おっけー! せーのっ」
東摩が豪快に振り回した鉄パイプが、彼を追ってきたゴーストを打ち砕く。
「霊体反応消滅。依頼完了だ」
「終わったぁ。お疲れ~」
現場の東摩たちはねぎらいあって撤収作業に入るが、こちらはその間も神経を尖らせている。彼らが無事帰還するまで気は抜けない。
幸い、三人は意気揚々と社用車へ戻ってきた。まどろんでいた左戸井が、あくびをして車のエンジンを入れる。乗り心地よりも装備の搭載量を優先した車体は、ときに大きく揺れた。
「あでっ、いて、うっ」
「ちょっと、記録は後にしてじっとしてなさいよ。集中できないわ」
「はぁーい……」
「毎回メモを取っているのですか?」
「早くできるようになりたいんだもん」
三人の会話が聞こえてくる。暗い車内にぱっと光がこぼれて、東摩の声が元気になった。深舟に怪我を治してもらったらしい。
「痛くない! ありがとー」
「いちいち寄らないでくれる?」
「痛い! ごめんなさーい」
「東摩氏、見事に尻に敷かれてますね……」
「何か言った?」
「あッ、いえ、なんでも」
三人はそれきり静かになった。
窓の外を、東京の夜景が流れてゆく。支我の前の席に座した東摩の横顔を、青白いネオンの光が横切っていった。
◇
東摩龍介に顕著な成長が認められたのは、それから一週間ほど後のことだった。
「あ」
支我が《鮮血の美女》のカードをひっくり返すと、そうさせた張本人である東摩は、ぽかんと口を開けた。
カードの裏側には、炎のマークが描かれている。ゲーム終了。東摩の勝ちだ。
「……勝ったぁ!」
「やられたよ。初勝利おめでとう、東摩」
「おれ、このゲームのやり方わかった気がする!」
興奮混じりに語るとおり、東摩のプレイスタイルは着実に改善されつつあった。コツを理解するまでは難解なゲームだが、一度掴んでしまえば戦略次第で楽しみ方の幅が広がる。
支我の煽りも効いたのだろう。こちらとしては挑発したつもりはなく、ただ純粋に「そんなに苦手なら無理して取り組む必要はないのではないか」と声をかけただけなのだが、なぜか東摩はいたく燃え上がってしまった。熱気のこもったオフィスへ風を入れようと、深舟が窓を開ける。
新宿の風が、さざめきを乗せてカードの裏面を撫でた。
「やっと支我に勝てたぁ~。そのうち戦績追い抜いちゃったりして~」
「……東摩、もう一戦しようか」
こちらにも火が燃え広がって、室内は熱気が増す一方だった。