祭囃子の間は

 二学期が始まり、うだるような暑さがようやく和らいできたころ、莢が「お祭りに行きたい」と言い出した。
「花園神社で、年に一度の縁日があるんだよ。去年まではさゆりちゃんと二人で行ってたんだけど、今年は四人で行きたいなァ」
「縁日かぁ。もう何年も行ってないなぁ」
 興味を示す龍介に、莢が力説する。
「さゆりちゃんの浴衣姿、とってもかわいかったんだよ!」
「莢こそ、去年着てた朝顔柄の浴衣、すごく似合ってたわ」
「へぇ~。いいね、浴衣」
 龍介は、隣の支我へ視線を移した。盛りは過ぎたとはいえ暑さにだらけ気味の教室で、姿勢よく購買のパンを食べている。
「なんだ」
「別にぃ」
 似合いそうだと思っただけだ。
「けどさぁ、おれたちが一緒でいいの?」
「お祭りは、みんなで行ったほうが楽しいでしょ? さゆりちゃんにもOKもらってるから」
 莢がそう答え、隣の深舟も頷く。女子二人の間では、既に合意が形成されていたらしい。
 パンの包み紙を畳んで支我が言う。
「そういうことなら、俺も行こうかな。龍ちゃんも来るだろ?」
「行く~。何日?」
 莢に日程を聞いてスケジュールを確認すると、その日は支我とテニスをする予定だった。予約は夕方だから、夜の縁日には十分間に合う。
 莢がぱっちりした瞳を輝かせた。
「ね、ね、二人も浴衣着てくるよね?」
「俺は着つけが難しいから、普通の格好で行くよ。龍ちゃんは着てくるんじゃないか?」
 支我の答えに、莢は「そっかァ」と落胆した様子だった。せっかくの機会だ。日頃と違う装いで揃えたい気持ちは理解できる。何より龍介自身、彼の浴衣姿が見てみたかった。
 しかし本人の言うとおり、自力で立ち上がれない以上、和装の着つけは困難だろう。せめて代用になるものがあればいいのだが。
「……あっ、あれは? ズボンみたいになってるやつ。甚平?」
 身ぶり手ぶりで伝える。大きな花火大会があった日の夜、取材帰りの電車で、それを着ている男性を何人か見かけた。
「ああ……あれなら一人で着られそうだな。やってみるか」
「じゃあ、おれも甚平にする」
「気を遣わなくていいぞ?」
「だって同じのがいいし」
 と言ってしまってから、深舟と莢の微妙な視線に気づいた。
「あっ、いや、違うぞ、別にお前のためじゃないから、まじで、ほんとに。単に着てみたいだけだから。調子乗んなよぉ」
「ははは、わかったわかった。じゃあ、今日の帰りにでも買いに行こうか」
「おっ、おう」
 難を逃れたかは怪しいが、そういうわけで、放課後に二人して甚平を買いに行った。
 約束の日までは半月ほど。受験勉強の忙しさで、あっという間に時間が過ぎ去る。
 当日は幸い天候もよく、絶好のテニス日和だった。支我とコートで向かい合うのは久しぶりだが、相変わらず鬼のような強さだ。
 左右への移動が困難な特性上、車椅子テニスのプレイヤーは、相手がサーブを打った瞬間からボールの行き先を予測している。凄まじいスピードでハンドリムを切り返し、落下地点へ向かうわけである。
 性格も身体能力も把握されている龍介は、あっさりコースを読まれ、容赦なく点を取られた。守備も強いが打撃も強い。なんとか食らいついても、ラケットが持っていかれそうになる。
 除霊作業でついた体力のおかげか、以前よりは健闘したものの、やはり負けてしまった。支我が澄まし顔で言う。
「お疲れ様。ずいぶん強くなったじゃないか」
「はっ、腹立つぅ~……次こそ負けないからな」
「楽しみだな。俺もトレーニングを強化するよ」
「ちょっとは油断してくれよ~……」
 支我は愉快そうに笑っているが、連敗記録を更新中の龍介は、ぶつぶつ言いながら売店でアイスを買った。抹茶味は彼の分、バニラ味は自分の分だ。プラスチックのスプーンを二本持って、ベンチへ戻る。
「あと一種類で、すべての味を制覇できるな」
「うるせー。させるか。この前の数学も負けたし」
「まあ、龍ちゃんは文転したわけだし、日本史は勝ってたじゃないか」
「危ないところだったぜ。最後の記述、諦めないで書いといてよかったぁ~」
 先日学校で実施された模試の話だ。休日に登校しなければならないので評判は悪いが、友人に会えるから、龍介はそれほど嫌ではなかった。終了後に支我や深舟と答え合わせをするのも楽しい。
 アイスを食べ終わるころには、日が傾き始めていた。二人分のカップとスプーンをゴミ箱に入れる。
「そろそろ着替えるかぁ」
「もう行くのか? まだだいぶ時間があるぞ」
「混むのやだからさ。あと、早めに行って、何を食べるか慎重に検討したい」
「それは重要だな」
 支我が笑い、二人で更衣室へ向かう。本当は、混み出すと車椅子での通行に苦労しそうなので、早めに着いておきたかった。
 着替えを済ませ、スポーツセンターを出発する。支我は甚平の上に大きなラケットバッグ、龍介はリュックを背負った。妙な装いの二人組だ。
 屋台を見てしまったら我慢できなくなり、二人してりんご飴をほおばっているところを、深舟と莢に発見された。
「あ~ッ、もう食べてるゥ!」
 莢が指さしてくる。青地に大ぶりの菊が描かれた浴衣を着て、鮮やかな黄色の帯を締めていた。
「悪いな、長南」
「ふは、正宗、舌あかーい」
「お前もだぞ」
 舌を出す二人に、深舟が苦笑を浮かべた。長い黒髪は編み込んで結い上げ、白地に赤い椿の描かれた浴衣を着ている。髪飾りの意匠は控えめだったが、かえって上品に見え、彼女の美貌を彩っていた。
「お揃いの甚平で来るかと思ったら、違ったのね」
「さすがにそこまで真似しないってぇ」
 一瞬よぎった後ろめたさで、龍介の声は小さくなる。支我は紺色の無地の甚平を着用していた。二人で買いに行った際、隣にあった色違いに心惹かれたのは事実だ。
 しかし、柄のあるほうが似合うと彼が言うので、黒地に縞模様の入ったものにした。着てみると、確かに龍介の雰囲気には合っている。案外、他人のほうが見立てるのはうまいのかもしれない。
 莢が、期待に満ちた目で龍介と支我を交互に見つめている。緩く巻かれた後れ毛が色っぽい。
「それで、それで? どう? かわいいでしょ、さゆりちゃんの浴衣姿!」
「ち、ちょっと、莢。私はいいから」
「よくないよォ。あたしだけが見られるなんてもったいないから、二人と共有したいの!」
「へへっ、二人とも超かわい~。なあ、正宗」
「そうだな。制服とはまた全然雰囲気が違って、驚いたよ」
「えへへ~」
 莢が満面の笑みを浮かべ、浴衣とお揃いの青い巾着からスマートフォンを取り出す。
「せっかくだから、写真撮ろ! 支我くんが真ん中ねッ」
「深舟、かがむのはいいが、裾が汚れないように気をつけろよ」
「おお~、さすが莢ちゃん、自撮りうまいね。さゆりちゃんとは雲泥の差」
「う、うるさいわね。莢と龍介が慣れすぎなのッ」
「もォ、喧嘩しないの。ほら東摩くん、もっと近寄ってくれないと入らないよ~」
 がやがやしながら、全員インカメラの画角に入る。少し迷ったが、龍介は支我の肩に手を置いた。これくらいなら不自然ではないだろう。
 写真を撮り終えて、「後で送るね」と莢がスマートフォンをしまう。一行はさっそく屋台を覗いてみることにした。
「さ~て、何食べよっかなァ。わたあめは持って帰るとして……、あ、ベビーカステラ! う~、焼きそばもいい匂い。あとりんご飴と、かき氷とォ」
「そんなに食べたらお腹壊すわよ。帯で締めつけられてて、あんまり入らないし」
「四人もいるから大丈夫!」
「おー、任せろぉ。……あ。うわ、射的とか懐かしいなぁ」
 屋台が目に入り、龍介は思わず呟いた。意外にも、支我が同調する。
「俺も子どものころは、射的の屋台で粘って、家族に叱られたものだったな」
「え、支我くんがァ? 『取れな~い!』って?」
「ああ。入射角、飛距離、弾の重さ、どれだけ考えても完璧に箱を倒せるはずなのに、なぜか景品が取れなくてな。どうしてもその謎を解き明かしたかった」
「目に浮かぶわね……。あッ、金魚すくい。黒いのもいるわ。かわいい」
 深舟が足を止め、すいすい泳ぐ出目金に目を留める。愛嬌のある顔をしていた。
「あたしが小さいころ、地元のお祭りで亀すくいっていうのもあったなァ」
「亀か……、ふふッ、それもいいかもね」
「あれェ? さゆりちゃん、亀とか平気だったっけ?」
「最近、あれはあれでかわいいんじゃないかなって思うようになったの」
 四人で喋りながら縁日を回ると、学校では出てこないような話題も顔を覗かせて、瞬く間に時間が過ぎた。莢は意外な健啖家ぶりを発揮し、「苦し~い」と帯の上をさすっている。集合時間が早めだったせいか、混雑もそこまでひどくはなかった。
 最後に、全員の志望校合格を願って参拝する。「花園神社の祭神は、学業成就の神というわけでは……」と支我が語り出そうとしたが、莢と龍介が勢いで押し切った。ついでに引いたおみくじも大吉だったので、都合よく前途有望と捉える。
 異変が起きたのは最後の最後、花園神社の鳥居をくぐり、外へ出ようとしたときだった。
「う~、……なんか寒気がする。苦しい……」
 そう言って、莢がうずくまる。深舟もそばへかがみ込んだ。
「大丈夫? あっちに座れそうなところがあったわね。少し休む?」
「うん……」
「おれ、何か飲み物でも買ってこようか?」
「大丈夫~。ありがとう」
 莢は微笑むが、みるみるうちに顔色が悪くなってゆく。見かねて、深舟が龍介と支我に言った。
「悪いけど、やっぱりお水か何か買ってきてもらえるかしら。私、莢についているから」
「ああ。確か、道路へ出たところに自販機があったな」
 境内へ戻る二人と別れ、龍介と支我は自動販売機のほうへ向かう。
 そのとき、ぬめるような寒気が肌を舐めた。
 足を止める。支我が、ラケットバッグの中からノートパソコンのケースを取り出した。
「……急激な気温低下を確認。大気中の硫黄濃度、光の遮蔽率上昇」
「まさか……」
 神社から出てきた人々が、次々にその場へしゃがみ込む。薄暗い裏道の明かりがさらに絞られてゆく。
「ねェ、遊んで――」
 つい先刻まで月が出ていた空に、ぷらんと小さな体が揺れた。黒髪はざんばらに切られ、黒目があるはずの窪みは着物と同じ、血のような赤。
「――霊体反応出現。人形のゴーストだ」
「な、……嘘だろ、こんなところで……」
 縁日の客で、細い道はごった返している。誰一人として宙へ浮かぶ《霊》に気づいた様子はないが、幾人かが道端へ倒れ込み、悲鳴とざわめきが伝播する。
 とても庇いきれるような人数ではない。その上、こちらにはマイナスの電荷を持った武器の一つもないのだ。
「龍ちゃん――」
「正宗! さゆりちゃんに電話して、絶対境内から出るなって言っといて!」
 そう言い残して走り出す。支我の呼ぶ声が聞こえたが、悠長に話している時間はない。《霊》の真下に立ち、顔を上げる。
 目が合った。
 破壊衝動を根こそぎ差し向けられる、何度経験しても慣れない怖気。
 だが、これで狙いは龍介一人だ。敵を引きつけて人の少ないところへ移動し、援軍を待って叩ければ。残った支我が応援を呼ぶかは不明だが、彼ならそうするだろうと思った。
 《霊》に背を向けて走り出す。案の定、寒気が追ってくる。視えない人々の合間を縫って、新宿の街を駆け抜けた。サンダルが滑って脱げそうになる。
 人気ひとけのないほう。居酒屋の立ち並ぶ表通りは駄目だ。ホテル街。そうだ、建物内はともかく、あそこの周辺は閑散としている。曲がり角に小さな公園があったはず。この時間なら喫煙スペースも空いているだろう。
 公園に駆け込む寸前、一度だけ後ろを振り返った。対話の余地は。
 わずかに走るスピードが緩む。人形が、がぷりと口を開けた。
 音の奔流に弾き飛ばされ、植え込みへ突っ込んだ。
「いっ、……てぇ」
 リュックがクッション代わりになった。しかし、立ち止まれば最後、確実に捕まる。説得不可。悔やむ余裕はない。頭を振って起き上がった。
 相手の攻撃を引きつけながら逃げ回る中で、ふと遊具へ目が行った。
 ブランコを掴み、《霊》を待ち受ける。攻撃を食らうぎりぎりのタイミングまで引き寄せて、座面を投げつけた。正確には、それを吊るす一対の太いチェーンを。
 耳障りな悲鳴が響く。鉄製の鎖が、《霊》の中心を捉えた。
 今のは手応えがあった。そう感じた直後、遠くから聞こえてくる祭囃子が掻き消されるほどの金切り声で、フェンスに叩きつけられる。
「ぐっ……」
 金網が背中を受け止め、がしゃんと歪んだ。巻きついていたカラスウリの、気が狂いそうなほど繊細な白い花が潰れる。
 あと一歩のところで仕留め損ねた。すぐ後ろはホテルだ。これ以上行かせては、他に被害が出る。ここで食い止めるしかない。
 軒下に並ぶ空調の室外機が、ごうごうと唸りを上げる。
 すーっと水平に移動してきた人形の《霊》が、自壊しそうなほどに大きく口を開けた。
「――そこをどいてくれ、龍ちゃん」
 落ち着いた声がして、龍介は反射的に飛びのいた。
 がこっ、と遥か頭上で衝撃音がする。続いて、メリメリメリ、と何かが裂ける音。
 木の葉が舞うほどの間を置いて、古びたホテルの看板が落下してきた。
 《霊》の真上へと。
「いぃぃぃやぁぁぁぁああああ、遊ぼう、遊んで、遊んでよぉぉぉ」
 ぞっとするような怨嗟の声を残し、ゴーストの姿が砕け散った。
「敵影消滅。――怪我はないか?」
 落下の余韻で弾むテニスボールを拾い上げ、彼が言う。
 ラケットを手にした支我正宗が、そこにいた。
「……ない」
「そうか」
 ラケットをバッグにしまい込み、支我が近づいてくる。龍介は気が抜けて砂場の上に座り込んだ。
 支我が両手を伸ばし、ぺちっと龍介の頬を挟む。
「緊急時の単独行動は控えてくれ。俺はお前と同じようには走れないんだ」
「……ごめん」
 思いがけず真摯に言われ、龍介はつい謝った。支我が微笑んで、「間に合ってよかったよ」と改めて声をかけてくれる。
「ありがと。よくここがわかったね」
「自分が囮になり、人のまばらな場所へゴーストを誘導するつもりだろうと推測した。花園神社から徒歩圏内で、かつ戦闘に有利な立地条件が揃うところは、そう多くない。……それにしても、この看板」
 砂を払って立ち上がりながら、龍介も地面に落下した古い看板を見下ろした。
 成分に鉄が含まれると気づいた支我が、テニスボールで留め金を破壊し、《霊》の脳天へと看板を落としたのだろう。荒技だが助かった。
「修理費が高くないといいんだが」
「おれも半分払うよ。仲よくバイト代から引かれようぜぇ」
「赤字になって、しばらくただ働きかもしれないな」
 笑い合っていると、公園の入り口に古いワゴン車が急停止した。
「龍ちゃん、無事かッ?」
 山河が駆け込んでくる。今にも銃を抜きかねない勢いだった。
「虎次郎ぉ。おっそいよ~。もう斃しちゃいました~」
「何だと? 丸腰じゃなかったのかよ? いったいどうやって」
「おれと正宗の華麗な連携プレーで」
 胸を張る龍介の台詞は当てにせず、山河は支我に目線で問うた。
「幸い、危機は脱した。他の皆は?」
「念のため、花園神社のほうへ回ってるぜ。まあ、無事だったんならよかった。拳銃こいつを使わないに越したことはねェからな」
「ありがとう。だが、遠慮はいらない。必要なときにはためらわず撃ってくれ」
 支我が言い切るが、龍介には話の流れが読めなかった。
「ん? どういうこと?」
「なんでもねェよ。つーか、龍ちゃんよォ……」
 山河は言い淀んだものの、運転席の左戸井がにやにや笑って続きを口にした。
「どうした龍ちゃん、そのみすぼらしい格好は。支我に乱暴でもされたのかよ? すぐそこへ宿があるってのに、野外たァ恐れ入るね」
 言われてみると、植え込みに突っ込んだせいで細かい枝と葉っぱだらけだ。足には砂場の砂がついているし、甚平の上衣は紐がほどけかかっていた。
 支我が渋面を作る。
「左戸井さん、そういう冗談は……」
「へいへい。ンだよ、いつになく厳しいじゃねェか」
「これでも着とくか?」
 山河が、さっとジャケットを脱いで差し出してくれる。龍介は礼を言って断った。服自体が損傷したわけではないから、汚れをはたいて、ちゃんと紐を結び直せば着られる。
「今回の報告書は、後で上げておきます。依頼による除霊ではありませんが、現場の物を壊したので」
 支我が、落下の衝撃で歪んだ看板に目をやる。
「はいよ。ま、適当に頼む。さて、今連絡がないってことは何事もなかったんだろうが、一応花園神社組の様子を見に行って帰るかね。千鶴に頼まれた焼きそばとイカ焼きも買ってってやるか」
「俺はバイトに戻るぜ。またな、龍ちゃん、支我」
「おー、ありがとなぁ、来てくれて」
 走り去るワゴン車を、二人で見送った。
 龍介はひとまずリュックを置く。髪に絡まった木の葉を払って、甚平の上衣を脱いだ。通りがかる人が少ないのをいいことに、上半身裸になり、布を振るってごみを落とす。
「龍ちゃん、……脚にもついてる」
「ありがと」
 太腿の裏側は自分では見えない。支我が細かい砂を落としてくれた。
 甚平を羽織って襟を整え、紐を結ぼうとすると、支我がはっと息を呑んだ。
「胸の傷……」
「え?」
 知らぬ間に怪我を負っていたのかと再び甚平の前を開くが、裸の胸に傷はない。触ってみても、なんの変哲もない十七歳の肌が押し返してくるだけだ。
「なんもないよ」
「ああ、……ないな。安心したよ」
「何言ってんだよ。元からない――」
 言いかけて、龍介はふと思い出した。
 ここに傷を受けたことがあった。支我の眼前で。
 覚えている。まだ生きていたからだろう。衝撃、熱、寒気、埃、天井の蛍光灯、――引きちぎられるような悲鳴。
「……なーんだ。撃つとか撃たないとかって、そういう話かよぉ」
「山河が、俺と深舟のことをずっと気にしていてな。構わなくていいと言ったんだが。あいつもかつては《霊》にトラウマを抱えていたようだし、思うところがあったのかもしれないな」
 目の前で友人が撃たれて死ねば、拳銃など視界に入るだけでも気分が悪くなるに違いない。山河の配慮には得心がいった。
 しかし、凶弾に倒れたはずの人間は、なんの因果かこの世へ戻ってきた。傷一つなく。
 支我の頭を抱き寄せる。
「忘れろ、忘れろ。おれ生きてるから」
「……ああ」
 平気だと言い張るかと思ったが、支我は素直に答えた。
「龍ちゃん……」
「ん~?」
「いい加減、ちゃんと服を着てくれないか。顔に肌が当たって、微妙な気持ちになる」
「ムードのない奴め……。暮綯學園がっこうの女子は騙されてるぞぉ」
 ぶつくさ言いながら、今度こそきちんと甚平を着込む。ひととおり身だしなみを整えたところで、重要なことを思い出した。
「……あっ。なぁなぁ、今回、おれの機転で一般人を巻き込まずに済んだよな?」
「そうだな。聞く耳も持たず、危険な独断専行に走ったとも言うがな」
「怒んなよぉ。がんばったのは事実だろ? なっ」
「何が言いたいんだ?」
「おれ、働いた分の報酬が欲しいなぁ~」
 支我は、意表をつかれたような表情を浮かべた。
「報酬? ……正式な依頼ではないからな。金銭的な対価は発生しないと思うが」
「お金はいらないからさぁ、正宗の写真撮っていい?」
 スマートフォンを出すと、支我が困惑をあらわにする。
「またか……。前にも聞いたが、俺の写真なんか撮ってどうするんだ」
「前にも答えたけど、見る・・んだよ。なぁ、お願い」
「……なら俺も、討ち損ねた《霊》にとどめを刺した分の報酬をもらえるか? お前と二人で写った写真が欲しい。俺一人じゃなく」
 思いのほかかわいらしいお願いをされ、龍介は笑った。今時の高校生らしく、自撮りが得意でよかった。支我を明かりの下へ連れてゆく。
「なぁ、こっち。さすがにホテルを背景にしてツーショットはおかしいし」
「夜の公園というのも変じゃないか?」
「まあ、おれとお前が一緒に行ったところなんて、だいたい変だっただろ。夜の廃ビルとか、夜の病院とか。だからよし。……ん、もうちょっとこっち来て、……いいよ、その辺。いくよ? さん、にー、いち」
 二人しかいないのだからそう密着する必要はなかったけれど、なんとなく寄り添って写真を撮った。
 かすかに響いていた祭囃子が、いよいよ終わりを告げる。もう言い訳がない。
「……お祭りも終わりかぁ。そろそろ帰んないとな」
「そうだな。混む前に移動しようか」
「うん――」
 本当は帰りたくないと打ち明ける勇気は、まだなかった。