真夏の少年
「ちょっと、支我。この数字、本当に合ってる?」
千鶴に請求書を突きつけられ、支我は作業の手を止めた。
八月。編集部は冷房の効きがかんばしくなく、動き回ると汗がにじむ。例年、左戸井の服装がだらしなくなってゆく季節だった。
「合ってますよ。壁の修繕費です」
「壁? ……ああ。わかったわ。ありがとう」
誤りでなかったことに意気消沈し、千鶴はとぼとぼと席へ戻っていった。六月に暮綯學園四階の壁を破壊したのは、とあるのっぴきならない事情ゆえだが、だからといって修理代が値引きされるわけではない。
二人が交わした会話の切なさも知らず、支我の背中側でバイトたちが盛り上がっている。
曳目の所属するゆきみヶ原高校の弓道部では、毎年夏に他校を招いて交流試合をおこなうらしい。今年は暮綯學園が相手に選ばれたそうだ。
ゆきみヶ原の弓道部は名門で、敷地内に立派な弓道場を備えていると聞くが、対する暮綯學園側は弱小も弱小だった。部として認可される人数の確保すら危うく、毎年春にはビラ配りに必死な部員の姿が見られる。
その貴重な暮綯學園弓道部のメンバーは、曳目を前にひたすら恐縮していた。
「いや、他の子はともかく、おれはほんと当たんないんだぁ」
「でも、一年生のときからやってらしたんでしょう?」
「活動日数が少ないから入ったようなもので。勝負になんないよ」
「ふふっ、ご謙遜を。それに、弓道は勝ち負けがすべてではありませんから」
龍介が頭を掻く。ときどき部活に顔を出しているのは知っていたが、腕前に関してはちっとも自信がなさそうだ。
二人のやりとりに耳を傾けていた久伎が、興味津々で尋ねる。
「弓道の試合は、やっぱり和服を着るの? 僕の学校にはアーチェリー部しかないから、見たことがなくって」
「道着のことでしょうか? ええ、もちろん」
「なッ」
曳目の返答を聞きかじった萌市が、はんだづけの手を止め、かっと目を見開く。
「曳目氏の道着姿ですかッ」
「え、ええ、白い上衣に黒い袴を……」
「マスター、マスター! これは由々しき事態ですよ!」
詰め寄られた龍介が、脚を組んでふっと笑う。椅子が皮肉げにキィと軋んだ。
「……見たいのかぁ? 萌市」
「首を縦に振らざるを得ませんね、マスター」
「なら、応援に来て直接――って言いたいところだけど、ゆきみヶ原ってお嬢様高校なんだろ? もうずいぶん前から、部外者は入れないようになってるらしいんだよなぁ」
「そんな……」
萌市が膝から崩れ落ちた。その手からはんだごてを救出して台ヘ置きつつ、久伎が言う。
「僕も二人の道着姿、見てみたいな。もし余裕があったら、写真を撮って送ってよ」
「そ、そんな。恥ずかしいです」
曳目の丸みを帯びた頬が、ぽっと赤くなる。一方の龍介は力強く請け合った。
「おれ、がんばるよ」
龍介が有言実行し、萌市宛に写真を送ってきたのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。
あいにく久伎は塾で不在だったが、編集部にいた萌市と小菅が目を輝かせて画面を覗き込む。
「……って、ツーショットかよッ! そこは空気読めよ、龍ちゃん」
小菅が悪態をつく。曳目のレアショットだけが欲しかったらしい。
萌市がわざわざ画面を見せてくれたので、支我もその写真を眺めた。
二人とも、爽やかな道着姿だ。特に曳目はあつらえたように似合っている。右手に嵌めた小指と薬指だけ布のない手袋は、ゆがけと呼ばれる指の保護具だろう。色味を抑えた装いが、本人の柔和な雰囲気を引き立てていた。
龍介は少し距離を挟んで隣にいる。気の抜けたダブルピースがそう思わせるのか、服に着られている感が否めない。女性とのツーショットでも色気がうかがえぬ点は、彼の美徳なのか、瑕疵なのか。
萌市が、久伎を含むアルバイト全員に写真を転送する。話が膨らみ、我も我もと希望者が続出していたのだった。
手元のスマートフォンが震え、画像の到着を告げる。
龍介の道着姿も初めてだった。かっちりした襟元と、そこへ繋がる首筋のラインが新鮮だ。案外体の線が出る。
上半身だけでいえば、支我のほうが鍛えられているように思えた。一緒にテニスをした次の日、筋肉痛でひーひー言っていた彼の姿を思い出す。
せっかく送ってもらったから、その写真を保存した。小菅はトリミングに悪戦苦闘している。
しばらくして、制服に着替えた二人が出勤してきた。曳目は涼しげな水色の襟のセーラー服を纏っている。
「こんにちは。皆さん、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす。はぁー、あっちー」
ふと小さな違和感を覚え、支我はスマートフォンの中の写真と、実物の龍介を見比べた。その視線に気づき、彼はオレンジのアイスキャンディをくわえたま見返してくる。
「……ああ。髪型が違うのか」
相違点はすぐ判明した。写真の中の龍介はいつものふわっとしたヘアスタイルだが、今は何もつけていないのか、すんなりと髪が下りている。
「そんなに雰囲気変わんないっしょ? 正宗はだいぶ違ったけど。泊めてもらったときとか……、ほら、この前、急に雨降ってきてさ」
そういえば、二人で学校から夕隙社へ向かう途中、激しい夕立に降られたことがあった。濡れ鼠で編集部へ転がり込んだ記憶が残っている。
「眼鏡も外してたからかなぁ?」
龍介はアイスキャンディのバーをゴミ箱へ捨て、こちらの机の端に腰を乗せた。両手でするっと眼鏡を奪われる。突然視界がぼやけて、支我は目を細めた。また視力が落ちたようだ。
輪郭のにじんだ龍介が、微笑んで支我の眼鏡をかけた。途端に渋い顔になる。
「うっ、きつ……」
「度の合わない眼鏡は、眼精疲労に繋がるぞ。ほら、外せ」
見慣れぬ姿が他人のようで、落ち着かない。眼鏡そのものは見覚えがありすぎるのだが。
龍介は眼鏡を外して上を向き、目頭を押さえて瞬きをした。なぜかまだ返してくれない。
「なぁ、眼鏡ないとどれくらい見えないの?」
「裸眼は〇・五だ。読書程度なら支障はないが、この距離でお前の顔がぼやけるくらいか」
「え、そんなに? 結構悪いんだ。……これぐらい近づいたら見える?」
龍介が顔を寄せてきて、ようやくピントが合った。
近い。
「オレンジ――と、石鹸の匂いがする」
龍介みたいなことを呟いたからか、彼はにっと笑った。
「いい匂いする? 汗かいたから、シャワー浴びてきた」
「おいおいおい、まさか、どこで浴びてきたんだよッ」
「み、みッ、見損ないましたよ、マスターッ」
「うるさいわよ、そこの二人」
小菅と萌市が騒ぎ出し、千鶴に叱責を受ける。龍介は人の悪い笑みを浮かべた。
「どこでって、ゆきみヶ原で」
「女子校のシャワーを……お前、それはロックが過ぎるだろ……」
「もちろん、おれだけじゃなくて部員全員が借りたんだけど。ドキドキはしたよな~、いろんな意味で。ていちゃんって向こうの下級生にすんごい人気でさぁ、弓道場で喋ってたらザワつかれて……」
可憐な先輩が、どこの馬の骨とも知れぬ男子と親しげに話していれば、耳目を集めるのは必然だろう。小菅が眉尻を下げる。
「じゃあ、あの写真撮るのも一苦労だったんじゃねェか?」
「そりゃもう。『あと五センチ近づいたらお前を巻藁にしてやる』的な圧を感じた。っていうか、実際遠くのほうからキリキリキリって音が聞こえた。ほんと、無事に弓道場出れてよかったぁ~」
「そんな、大げさですよ。みんな男性の方が珍しかっただけで」
「龍ちゃんよォ……せっかく助けてもらった命、もっと大事にしろって」
「そこまでして僕たちのために……。マスターの心意気、忘れませんッ」
おろおろする曳目。小菅と萌市が男泣きに泣く。
支我は、やっと返してもらった眼鏡をかけた。フレームには龍介の手の体温が残っている。
ほのかな石鹸の香りが甦った錯覚に囚われ、支我はノートパソコンをぱたんと閉じた。
「――来て早々で悪いが、龍ちゃん。世田谷区で目撃されている地縛霊に関する依頼が入った。聞き込みをするから、一緒に回ってもらえるか」
「おっ、はぁーい」
「気をつけて行ってくるのよ」
千鶴が、請求書の山と格闘しつつ声をかける。
「了解です。いってきまーす」
置いたばかりのリュックを肩に引っかけ、飛び跳ねるようにして龍介がついてきた。
「二人だけ?」
「ああ。俺たちがシフトに入れない分、他のメンバーに仕事が偏っていたからな」
高校という檻から抜け出した小菅はもとより、萌市は内部進学、曳目は引き続き神社で働くそうで、いずれも大学受験はしない。彼らの厚意でこちらは勉強に集中させてもらっているが、任せきりというのも悪い。
「なるほどな。せめてこの暑い中を歩き回るのくらい、おれたちがやるかぁ」
「そういうことだ」
話しながらスマートフォンを出し、先ほど調べた電車の乗り換え案内を確認する。余裕を持って出たから、暗くなる前には現地に着けるだろう。まずは目撃情報の洗い出しだ。
支我のスマートフォンを、龍介が目で追っている。
「なー。さっきの写真、お前は持ってるわけだろ」
「ん? ああ、まあな」
「おれとていちゃんだけ一方的に画像を保存されてるの、不公平じゃねぇ? お前のテニスウェアの写真とかないの?」
「……テニス部の集合写真なら、学校案内に」
「そういうんじゃなくて~。画質いいやつ。一人で写ってるとなおよし。かつ、そこそこアップで」
ねだられたところで、ないものはない。撮ろうとすら思ったことがなかった。
「ないな。部活中は携帯禁止だから、他の連中も持ってないだろう。だいたいそんな写真、手に入れてどうするんだ」
「そりゃ~…………見る」
不自然な間があった。
「……気のせいかもしれないが、今、虚偽の申告をしなかったか?」
「あははっ、大親友の正宗に嘘なんかつくわけないじゃ~ん」
目が泳いでいる。ことさらに大親友などと形容するのも怪しい。
支我が手招きすると、龍介は素直に腰をかがめた。
左手で彼の手首を掴む。振り払えばこちらが体勢を崩すという気遣いからか、まるで拒まれない。
支我はおもむろに右手を伸ばし、ぺたっと龍介の胸に当てた。薄い布地の下で、とっとっとっとっ、と心臓が脈打っている。
「速いな」
「はっ、はやっ、いやお前のせいだわ! なんだよいきなり!」
「ポリグラフ装置というのを知っているか? 皮膚の電気活動や呼吸、心拍などを同時に測定する機械だ。俗にいう嘘発見器に使われる。で、もう一度聞くが、龍ちゃん。俺の写真をどうするつもりだ?」
呼吸を追える程度の力で彼の胸を押さえながら、目を見て問いただす。
「……黙秘権行使ッ」
支我の両手をべりっと剥がし、龍介は後ずさりして雑居ビルの壁際まで逃げた。
「ったく、そんな気軽に人を尋問すんなよなぁ。油断も隙もない奴め」
「どうしても言いたくないなら、これ以上は聞かないが……今度の試合に来てくれれば、いくらでも撮れると思うぜ」
龍介が瞳をきらめかせる。
「撮っていいの?」
「私的利用の範囲ならな」
「それはもちろん。やった~。おれが行くんだから、絶対勝てよ?」
「ああ、そのつもりだよ」
「お前が勝ったら、どこでも行きたいところに付き合ってやるぞぉ。どうせ小難しい場所が好きなんだろ。科学未来館とか、プラネタリウムとか」
戦果の押し売りだ。支我は思わず笑ってしまう。単に、龍介が出かけたいだけだろう。文転したとはいえ彼は理科が好きだし、街中に貼られているポスターを見つめているときがある。
「負けたら一緒に来てくれないのか?」
からかうように聞いてみると、龍介はまんざらでもなさそうに答えた。
「それはぁ~……お前のお願いの仕方次第かなぁ」
どうやら、一言頼めばどこへでも来てくれるようだ。夏休みも折り返しを過ぎたが、まだまだ楽しみな予定が増えそうだった。
他の誰かを誘ってもいいけれど、これは支我へのご褒美だから、こっそり独り占めすることにしよう。