スタートライン

 最後の支部大会。
 四〇〇メートルでは、自己ベストを〇・七秒更新してゴールした。
 けれど深舟は、都大会へ進めなかった。

「さゆり先輩、ナイスランでした。おかえりなさい」
「お疲れ様でした。ありがとうございました」
 後輩が出迎えてくれて、一人一人と抱き合う。
 こうしてユニフォーム姿で対面するのは、今日が最後。泣いている子も少なからずいた。達成感、喪失感、悔しさ――数えきれない感情が詰まった涙だろう。深舟もつられそうになった。でも、こらえた。
 泣いたって、上に進めるわけでもないし、永遠に部活を続けられるわけでもないから。
 一生懸命やってきた。出版社でアルバイトを始めてからは、陸上だけに打ち込んでいたわけではないけれど、できる限りの努力はしたと自信を持って言える。
 だから、泣く理由なんてない。
 この後打ち上げをする予定なのもあり、みんな試合が終わってもなかなか動こうとしなかった。見に来てくれた友人や家族と語り合っている。
 入学以来、ずっとそばで応援してくれた莢は、バイオリンの発表会と日程が被って来られなかった。これが最後の大会になることを予測していたのだろう。彼女は相当怒り狂ったが、ほっぺを真っ赤にして地団駄を踏むので、かわいらしいだけだった。
 家族は仕事があったので、最後の最後はいよいよ一人かな、と思っていたが。
「さゆりちゃん」
 競技場のロビーで、龍介が手を振る。意外に背が高いので、女子の多い会場では目立った。隣には支我の姿もある。
 何を言おう。「来てくれてありがとう」か、「我ながら惜しかったわ」か。「なんで目が赤いの」は胸にしまっておこう。どうせ、あちこちで繰り広げられるドラマに当てられたに違いない。
 考えながら駆け寄ったが、龍介にぎゅっと抱き締められて、声を発する間はなかった。
「お疲れ、さゆりちゃん。よくがんばった。めちゃめちゃかっこよかった」
 陸上部のユニフォームは、空気抵抗を減らすためにぴったりしていて、好んで男子の前へ晒したいものではない。お腹も太腿も出ている。今の深舟は、その上にタオルを羽織っただけだ。
 抱きつかれるなんて、言語道断。
 なのに。
「……う、……」
 深舟は、龍介の服を握り締めた。
「うぅー……」
 おかしなうめき声ばかり出る。
 涙を流したって何にもならない。子どものころ、周りにいた男の子たちは、深舟が泣けば泣くほど大声で囃し立てた。だから代わりに怒りへ変えて、前だけを見て生きてきたのに。
 龍介の手が、深舟の頭を撫でる。
 自分より大きくて、ごつごつして、かさついた手。
 でも、嫌じゃない。
「……深舟。いい走りだったよ、お疲れ様。ほら、これを使うといい」
 深舟の腕に、支我の手が優しく触れて、ハンカチを差し出した。
「う、……うぅ、……う」
 一度溢れたら、止まらなかった。
 この二人は深舟を傷つけたりしない。
 深舟はよく知っている。
 支我が貸してくれたハンカチを顔に押し当て、うーうー唸る。
 悔しかった。人生で一番がんばって、これ以上は絶対に無理というくらい速く駆けて、それでも上がたくさんいる。
 けれど、走り続けた先には二人がいた。
 ――人と人とは見えない何かで繋がっていて、この広い世界で生きている。人の出会いには意味があり、その行いはどこかの未来に繋がっている。
 この未来へ至るために、今まで走ってきたのかもしれない。十七年という年月をかけて。
 深舟が転んで負ったいくつもの傷は、ただみじめなだけの異端の烙印なんかじゃなかった。怖くて、痛くて、だけどその中で意地でも顔を上げ続けたことには意味があった。
 自分でもびっくりするほど自然に、そう思えた。
「――支我先輩っ?」
 素っ頓狂な声がして、三人はいっせいにそちらを向いた。
 陸上部二年の女子三人組が、口をOの形にして立ち尽くしている。
 声を上げたのは、二年生のエースだ。今大会でも、ぶっちぎりで都大会への切符をもぎ取った。来年度は名実ともに部を引っ張る存在となるだろう。成績とは関係ないが、顔もかわいい。
「ああ……久しぶり。中学のときも速かったが、さらに努力したんだな。客席から見ていたよ。おめでとう」
「みっ、みっみっみっ、見てくださったんですかっ」
 彼女は小ぶりなミンミンゼミのようになって顔を真っ赤にした。
 両脇の二年生が、必死になって囁くのが漏れ聞こえる。
「ねえ、絶対チャンスだよ」
「こんな機会めったにないよ、運命だって」
 ああ、これは。
 深舟は雰囲気を察して、龍介の腕の中で目尻を拭ったが、男二人はきょとんとしている。
 彼女はキッと支我を見据えた。いい目をしているな、と思った。正念場でこの腹の括り方ができるからこそ、結果を残してこられたのだろう。
「支我先輩、お話があるんですがっ」
「俺にか?」
「はいっ、あっちへお願いしますっ」
 右手と右足を一緒に出しながら、彼女が歩き出す。支我は「ちょっと行ってくる」と声をかけ、車椅子を走らせた。後に残った二年生二人が無言のエールを送る。
「龍……」
 すぐそばにある龍介の顔を見上げて、深舟は気づいた。
 龍介の瞳は、支我の背中を追っていた。人ごみにまぎれて、遠ざかって、見えなくなってもずっと。
 深舟は背伸びをして、ひそひそ声で言った。
「龍介って」
「……ん?」
「支我くんのこと好きなの?」
 返事は、すぐには返ってこなかった。
「……あー、……いや……、……どうかな。……わかんない」
「NOじゃなかったら、YESじゃないの?」
「……わかんないよ」
 龍介は同じ答えを繰り返す。
 鏡を見たらすぐわかるのにな、と深舟は思った。
 恋しているかどうかなんて、だいたい顔を見ればわかる。男子は違うのかもしれない。
「ねえ、誰かを好きになるって、どんな感じ?」
 興味が湧いて聞いてみた。自分にはまだ経験がない。龍介は長いこと考え込んで、こう答えた。
「……地球がひっくり返りそうな感じ?」
「ふーん」
 そういうものなんだ、と思った。
 本人には絶対に言わないけれど、深舟も、龍介のことをちょっといいなと思っていた。弟みたいだし、下手したらペットの犬みたいになるときもある。でも、大事な男の子が誰かと問われれば、きっと真っ先に彼を連想する。
 だが、どうにかなりそうなほどの思いではない。そんな気持ちを深舟はまだ知らない。
 支我が帰ってきたときの龍介の顔を見て、応援しようときっぱり思える程度のもの。
「まあ、がんばったら? 競争率は高いと思うけど」
「……うん」
 並んで支我を待ちながら、龍介がはにかむように笑った。
 その笑顔に、深舟はヘアゴムを外して自分の髪を梳く。
「私も染めようかな」
「え、なんで? 黒いのかわいいじゃん、おれは好きだけどなぁ」
「そういうところなのよね……」
 戻ってきた支我が、口説き文句のような賛辞に戸惑うのを目にして、深舟はため息をついた。
 まったく、前途多難だ。