大三角
龍介が傾いている。
依頼を達成し、夕隙社へと帰還する社用車の中。いつも真ん中を陣取りたがるのに、今日は深舟と席を交換していたから、何かあるのかとは思った。窓へ寄りかかって眠りたかったようだ。
夕隙社に着き、皆が車から降りても、彼はまだ夢の中だった。
「おい、龍ちゃん。とっくに着いたぜ。いい加減起きろ」
左戸井に首根っこを掴まれても、なお眠たげな顔をしている。
除霊中はきっちり仕事をこなしていたが、疲労が溜まっているのか。学校が夏休みに入り、毎日顔を合わせるわけではないから、コンディションが悪化したとしても気づきにくい。支我は、駐車場の壁と一体化する龍介に声をかけた。
「龍ちゃん。ずいぶん疲れているみたいだな」
「ん~……。夏休みになってから、朝も勉強、昼も勉強、夜も勉強……夢の中でも机に向かったの、初めてだよ」
不明瞭な発音ながら、答えが返ってきた。
「そんなに大変なのか? ずいぶん難関校を狙うんだな。あまり根を詰めすぎるなよ」
暮綯學園の生徒なら、普通にしていればそれなりの大学には入れるだろうが、上位校にはやはり専用の対策が必要となる。昼夜問わずの勉強はそのためと解釈したが、違ったらしい。
「いや~……おれ、文転したんだぁ。そしたら思ったより大変だった……」
「そうだったのか?」
初耳だ。龍介はもともと、支我と同じく理系を選択していたはずだった。
もちろん、最終的にどんな学部へ出願するかは個人の自由だ。しかし、学校の時間割だけは途中で変えられない。理系の授業を受けながら、独自に文系科目の勉強も進めるのか。しかも、高校三年生の夏から。
寝不足になるわけである。長期休暇の間にある程度詰め込まなければ厳しいだろう。同級生でも、学年が変わるときに文理選択を変更した生徒はいたが、さすがにこの時期というのは聞いたことがない。
「そうまでして行きたい大学があるのか」
「んーん……具体的な志望校はまだ決まってないんだけどぉ~……」
「決まってない? じゃあ、よほど学びたいことでもあるのか?」
龍介は、うっすらと目を開けた。壁から離れ、頭を重たげにぐらつかせながら歩き出す。
「……内緒ぉ」
こうもあからさまに秘密を作られたことなどなかったので、支我は面食らった。そのくせ、彼は深舟とこんな会話を交わしている。
「さゆりちゃん、この前教えてくれた単語帳、自分でも買った。ありがと~」
「ああ、あれにしたのね。古文単語なんて英語と一緒だから、繰り返してるうちに覚えるわよ。今からでも絶対間に合うわ」
察するに、深舟は龍介が文転したことを知っている様子である。それどころか、参考書を勧めてもいたらしい。
二人の会話はそれだけに留まらなかった。片づけを終えて帰り支度をしていると、龍介が自分のリュックから文庫本を取り出す。書店のカバーがかけられており、表紙は見えない。
「そうだ、これ読み終わったよ。前に映画版は見たことあるけど、小説のほうが面白かった」
「でしょ? 私も原作のほうが好きなの。今度、次の巻を持ってくるわ」
「ありがとう。それを息抜きにして勉強がんばろ~」
深舟が龍介に本を貸したらしかった。ちらりと聞こえてきたタイトルは、数年前にベストセラーとなった時代小説だ。映画がヒットして、頻繁にテレビコマーシャルを打っていたので、支我も耳にしたことはあった。
それにしても、あの二人が書籍の貸し借りとは。深舟は読書が趣味で、ときどき手持ちの文庫本に目を落としているところを見かける。けれど、龍介も本が好きだとは聞いたことがなかった。
明るく染めていた髪を黒くしたこともあって、今の彼は、黙っていれば大人しく人のよい少年に見える。深舟と並ぶと、初々しい高校生カップルのように映らなくもない。
外見を抜きにしても、龍介がちょっかいを出し、深舟が怒るというお決まりのやりとりを楽しんでいるようだ。似合いの二人といえる。
だが、しかし。
仮に三人の中で二人が付き合い始めた場合、残った一人はどうなるのだろう。
もう今までのような関係には戻れないのだろうか。仕事をしていたら後ろから龍介が抱きついてきたり、それを深舟が叱って、支我が取り成したりすることもなくなるのか。
寂しいな、と支我は率直に思った。
友人同士が結ばれるならもちろん祝福してやりたいが、想像してみると、予想以上に寂寥感が大きい。心にぽっかり穴が空いたようだ。
「正宗ぇ。帰ろー」
「……ああ」
オフィスの入口のところで、龍介と深舟が振り返っている。とにかく、今はまだ三人で過ごせるようだった。千鶴と左戸井に挨拶して、ビルを出る。
夜空には、ベガ・デネブ・アルタイル、いわゆる夏の大三角が輝いていた。龍介はやはり半分うとうとして、ふらついては深舟に引っ張られている。
「ちょっと、龍介。危ないでしょ。ちゃんと歩きなさいよ」
「あー……大丈夫だってぇ。さゆりちゃんいるし」
「そんなこと言って、車に轢かれたらどうするのよ。予備校の時間が多すぎるんじゃない?」
「遊びの時間もちゃんと取ってあるよ~。たまたま、今日がコマ数多かっただけ」
「本当に? 無理してるんじゃないの」
「してないよ~。なんでそんな聞くの、大丈夫だってば」
龍介はむにゃむにゃと口にしたが、深舟は失望したように彼を睨んだ。
「――あなたもそれを言うの」
龍介が目を見開く。深舟は「じゃあね、バイバイ」と一方的に言い捨てて、すたすたと歩いていってしまった。夏服にポニーテールの背中が遠ざかる。
「……ああー……」
龍介が声を上げてしゃがみ込む。
何が深舟の逆鱗に触れたのか。いくら身を案じてものらりくらりとかわされるからか、と支我は初め思ったが、それだけにしては反応が大きすぎる。しかも、つい五分前までは和やかな雰囲気であったのに。
龍介が、両手で顔を覆う。
「やってしまった……。正宗と同じ台詞を……」
「俺?」
指の隙間から、龍介の目が覗く。
「……前にさ、あの死刑囚の《霊》と戦った後、お前が『大丈夫だ』って言って聞かなかったことがあっただろ」
「……ああ」
「おれとさゆりちゃんは同じことをやらないようにしようって……約束したわけじゃないけど、そう思ってた。……ああ、お前を責めてるわけじゃない。正宗は何も悪くないからな。そこは誤解しないでよ。こっちが勝手に考えてるだけ」
経緯が経緯であるだけに、安易な相槌を挟むこともできず、支我はただ龍介の告白を聞いていた。
「……あのとき、おれ、めちゃくちゃ悔しかったんだぁ。何言っても駄目で……おれの言葉なんかぺらぺらすぎて……何もできなかった」
「そんなことはない。お前の気持ちは伝わっていたよ」
龍介は、しゃがみ込んだまま首を横に振る。
「おれは……伝わってないと思った。適当な言葉使って、いい加減に人と接してきたから、罰が当たったんだなって。大事な友達が悩んでるのに、おれにはただ見てるだけしかできなかったんだ。けど、さゆりちゃんは違った。おれも本を読んだりすれば、ああやってまっすぐ話せるようになるかなって思った。でも駄目だ。嫌な思いさせちゃったよ」
落ち込んだ顔を見ていたくなくて、支我は言葉を探した。なるほど、場面に即した言い方を見つけるのは、なかなか難しいものだ。
「まだ間に合うんじゃないか。深舟も、そう遠くへは行ってないだろう。今言ったことを伝えれば、わかってくれると思うがな」
「……そうかな」
「この三ヶ月、お前たちと誰よりも一緒にいる俺が言うんだ。間違いない」
ぽんと彼の肩を叩くと、龍介は立ち上がった。
「おれ、さゆりちゃんと話してくる」
「ああ、行ってこい」
「ありがと!」
言い置いて、龍介が駆け出す。
残された支我は、一人で帰路につく。曲がり角の奥に、セーラー服の少女と、半袖のカッターシャツを着た少年の姿が見えた。車椅子のハンドリムを押すと、するりと視界から消える。
遠ざかろうとしていた。眼鏡のレンズの形をした、強制的にクリアになった視界へ、二人のこの先が映る前に。
支我のほうは、あの日龍介に抱き締められた感触を覚えている。言葉にはならずとも、彼が伝えたかった思いを受け取ったつもりでいた。きっと死ぬまで忘れないだろう。
でも、彼もそうとは限らない。龍介にとっては、支我に対する思いよりも、深舟への憧憬のほうが強く印象に残っているのかもしれない。
いつもよりゆっくりと車椅子を進める。夏の初め。夜空の黒も冬より薄くなったようだ。夕隙社を出たときは晴れていたのに、もくもくと雲が湧き始めている。川底で隆起した泥に似ていた。
支我の家へ続く交差点に差しかかったとき、背後から足音が近づいてきた。ジョギングにしては速い。
振り返らずにいると、その人は大声で支我の名を呼んだ。
「正宗!」
顔を見るより先に、背中から飛びつかれた。まだ息も整っていないのに、彼は興奮しながら言う。
「仲直りできたよ、ありがとな! お前が背中押してくれたおかげだ」
「そんなに抱き締めないでもわかるよ、龍ちゃん。よかったな」
「へへー」
龍介は上機嫌で、支我をぎゅうっと抱き締めた。
あの日ほどの切実さは帯びていない。けれど、肩に触れる温もりは同じ。
胸の奥に、苦いものがにじむ。親友といっていい二人が仲直りしたというのに。
「よかったぁ、正宗にも追いつけて」
支我が今感じていたい現実は、いつもと変わらないこの感触だけだった。