鬼の霍乱
「おはよー。……あれ?」
龍介がいつものように後ろから教室へ入ると、そこに友人の姿はなかった。
支我は基本的に龍介より早く登校してくる。クラスメイトと談笑していることもあれば、一人で黙々と勉強や作業に打ち込んでいることもある。その彼がいない。代わりに、何人かの同級生がいっせいに振り向いた。
「うわっ、びっくりしたぁ。なに、どうしたのみんな」
「東摩、お前……」
「……見たか?」
たちまち教室の片隅へ追い込まれる。深刻な顔をされる心当たりがなく、龍介は全員の顔を見回した。
「なんのこと?」
「試験の順位だよ、順位ッ」
言われて、ようやく話の内容がわかった。暮綯學園では、一学年百二十人のうち、成績優秀者だけが順位と点数、名前を貼り出されるのだった。龍介には縁がないので忘れていた。
「まだ見てないよ。どうせおれ、今回やばかったし」
そう答えると、皆が頭を抱える。龍介はおそるおそる尋ねた。
「なんかあったの?」
「支我が……」
「正宗が?」
「二位だった」
おごそかな口調で告げられる。龍介は、言われたことを頭の中で噛み砕いてみた。
支我が二位だった。
今回の期末テストで、彼が学年二位の成績を収めたという以外に、解釈のしようはない。
「へー。すごいね」
「馬鹿、お前ッ。あの支我だぞ? 入学してからずーっとトップを独走してた奴が二位なんだぞ?」
「逆に万年二位だった生徒会長が一位なんだぞ? 頭が割れそうになるわ、あの高笑い」
「はあ……。まあ、そういうこともあるんじゃねーのかなぁ」
「いや、ないね。俺、一年のときも支我と同じクラスだったけど、あいつ、事故って車椅子になった直後のテストも一位だったんだぞ」
その話を聞いて、龍介は顔色を変えた。二年前の「事故」が字義どおりのアクシデントでなかったことは、本人の口から聞いている。
あれほどの事件でもペースを崩さなかった支我が、なんらかの理由で本来の力を発揮できなかったのだとしたら。友人として放っておくわけにはいかない。
クラスメイトの一人が、龍介の首を抱え込んで耳打ちした。
「つーかさ……思うんだけど、東摩のことがあったからじゃねえかな」
「あッ、おい。本人に言うなよ、悪いだろ」
「けどよォ」
「おれ?」
「ほら、お前が亡くなったって誤報が流れたことがあったじゃん」
龍介は、否定も肯定もしないでおいた。その時点では誤報ではなかったのだが、彼らに詳しい事情を話すわけにもいかない。当人でさえ、なぜそれが誤りになったのか説明できないのだ。
「思うに、あれがよっぽどショックだったんじゃねえかな。その日、学校休んでたし」
「そう……、なの、かなぁ」
「あいつはいい奴だけど、特定の人間と一緒にいることって少なかったんだよ。お前が例外なんだ。気に入ってたんだろ」
「それなのに、いきなり知らされて、もう二度と会えないなんてな。……俺たちだって、勉強なんか手につかなかったよ」
思いがけず場がしんみりしてしまった。皆でうなだれていると、「おはよう」と支我が教室へ入ってきた。
「どうしたんだ、そんなところで暗い顔して」
龍介はとっさに視線を逸らしてしまった。もし本当に自分の死が彼を深く傷つけたのなら、とても平気な顔では話しかけられない。クラスメイトたちが口々に取り繕う。
「あッ、いやァ。ほら、夏期講習に向けて決起集会をな」
「そんなことより、遅かったな、支我。もう予鈴鳴ったぞ」
「ああ、たまたま生徒会室の前を通ったら捕まってしまってな」
その主犯はどうやら、万年二位であり、今回晴れて学年トップを奪取した人物であるらしい。長らく支我をライバル視していたとのことだった。
「あいつ、『支我に勝った』ってめちゃめちゃ調子に乗ってたからなァ」
「まあ、結果がすべてだからな。今回は残念だったが、また次回全力を尽くすまでだ」
殊勝な決意表明をする支我に、翳りは見受けられない。本鈴が鳴り、生徒たちが急いで席に着く中、手際よく授業の準備をしている。
ホームルームの間、龍介は思い悩んでいた。
果たして、彼の成績が(ほんのちょっぴりとはいえ)落ちたことに、自分は関与しているのだろうか?
◇
「龍ちゃん。食べないのか?」
ぼーっと箸で掴んでいたウィンナーを、龍介は慌てて口に放り込んだ。
七月に入り、さすがに外で食べるには暑くなってきて、昼食はもっぱら教室で取っている。深舟や莢が加わることも多かったのに、今日に限って別行動だ。彼女たちの見解も聞きたかった。
一足先に食事を終えた支我が、龍介の顔を覗き込む。
「朝から様子がおかしいが、体調でも悪いのか?」
「えッ? あ、いや、全然。いつもおかしいだろ」
「そのとおりだな」
「おい。否定しろよ」
支我は笑って、「大丈夫そうだな」と答えた。何気ない会話の中で状態を観察していたらしい。
ふと、真顔になる。
「……具合が悪いのでなければ、何か悩み事か?」
「いや、……」
龍介は返答に窮した。人がごった返すランチタイムの教室で、「おれが死んでそんなにショックだった?」と聞けるほど、無神経ではないつもりだ。
しかし、このままぐずぐずと心配をかけるのも支我に悪い。龍介は意を決して切り出した。
「あのさ、正宗がずっと学年トップで、今回のテストは二位だった、って話を聞いたんだけど」
「ああ。それがどうかしたか?」
「……その、……考えすぎだったら笑ってくれていいんだけど、……おれが
つい、声が小さくなる。
支我は真剣な表情で考え込んだ。
「そうだな。正直なところ、まったく影響がなかったとはいえないだろうな。……さすがにショックだったよ。言葉では言い表せないほど」
胸の奥が、ずしっと重たくなる。しかし、支我はすぐに笑みを浮かべた。
「だが、それだけが原因というわけじゃない。人が増えたり編集長がいなくなったりでバイトも忙しかったし、部活も夏の大会に向けて追い込む時期だしな。まあ、つまりは俺の努力不足だ」
「努力不足から一番遠い奴が何言ってんだよ。……なんか、ごめんな」
「お前が謝る必要はないさ。別に、俺の順位を下げてやろうと思ってああいうことになったわけじゃないだろ?」
「そうだけど」
「なら気にするなよ。順位なんて相対的なものだ、下がるときは下がる」
龍介がたまにふざけてやるように、くしゃくしゃと頭を撫でられる。彼の手のひらのほうが大きい気がした。より多くの難局を乗り越えてきた手だからだろうか。優しくて心地よかった。
「正宗って手ぇおっきいな」
「そうか?」
「そうだよ、ほら」
龍介も手を伸ばして、ぺたっと手のひらを合わせる。支我の指先のほうがわずかに上へ出ていた。
「今のは位置の問題だろう。始点を決めてちゃんと測れば……」
「いや、そこまではいいって」
いそいそと定規を出そうとする支我を止める。非常に残念そうな顔をされた。
悩み事が解決したために食欲も回復し、龍介はやっと弁当を食べ終えた。
「つーか、二位だって十分すごいよなぁ」
「ああ、目標もできたしな」
「目標?」
支我は頷き、スマートフォンの予定表を見せてきた。休日平日を問わず、「数学」「英語」「物理」などの文字で埋め尽くされている。
「次は俺が勝つ。さっそく、夏期講習の追加を検討していたところだ」
「お前なぁ……、そんなに勉強ばっかしてたら、おれと遊ぶ時間がないだろうが。高校最後の夏休みだぞ~。思い出作らないでどうすんだよ」
「それもそうか。再検討しておこう。……龍ちゃん、言うことが左戸井さんに似てきたな」
「げっ、まじ? 左戸井さんは好きだけど、ちょっと嫌かも……」
二人でひとしきり笑う。支我は、机の中から英語の単語集を出した。午後一発目に小テストがある。
「お互いに問題を出し合わないか?」
「そんなことしなくても、お前なら全部覚えてんだろ。テスト範囲、最初のほうじゃん」
「念には念を入れて、な」
「わかったよ~。やるからには負けねーぞぉ」
龍介も気合いを入れて単語集を開く。予習をさぼっているとこうしたところで支我に負けて悔しい思いをするので、必然的に勉強するようになっていた。
当然のように正解を連発する支我を前にして、龍介は密かに思う。件の万年二位だった人物は、これからこの男の追い上げに怯え続けることになるわけだ。
――こいつに本気で追われる側になるの、おれなら三億円もらっても嫌だなぁ。ご愁傷様~。
果たして彼がその精神的重圧に勝てるのか否か、次の試験までの間、口さがない生徒たちの噂の的であったという。