【二〇〇四年十二月三十一日】


 一階から屋上まで一息に階段を上るのは、少々骨が折れた。
 それでもわざわざ足を伸ばしたのは、見覚えのある姿がそこに佇んでいたからだ。
 話すことは特にない。一年生のころからの顔見知りではあるものの、二人の間に会話はそう多くなかった。
 そのせいか、彼のことは何も知らないに等しいと、階段を上がっている途中で気づいた。
 こんな場所にいるからといって、まさか身を投げたりはすまい。
 そう思うが、確証を持てない。

「阿門」

 扉を開けた皆守がその後ろ姿に呼びかけても、彼は振り返らなかった。
 ただ、眼下に一望できる天香學園を、ずいぶんと熱心に見下ろしていた。
 何を考えているのか知りたい。ふと思う。ただ黙って後ろに控えるのではなく、彼は何を好み、何に苦しんでいるのか、真正面から彼の言葉で聞きたい。
 だが、皆守はその意志を伝える術をまだ持たなかった。代わりに、阿門から少し距離を取って立ち、彼とは反対にフェンスへ背を向けた。
 フェンスに寄りかかると、かしゃん、と軽い音がする。アロマに火をつけて、香りを吸い込んだ。
 複雑な気分になる匂い。安寧をもたらすだけでは決してない。だが、ラベンダーの香りが招くわずかな疼痛も含めて、もはやいまの皆守にとってなくてはならないものだった。
 幸い風もなく、午後の日差しは暖かい。
 十二月の短い昼は過ぎてしまったが、日が暮れるまでにはまだ時間がある。

「あ」

 皆守は短く声を上げ、阿門のほうへ向き直った。

「そういえばお前、年越し蕎麦って食ったことあるか」

 奇妙な問いだ。皆守自身もそう思ったし、阿門もあの明るい水色の瞳を数回瞬く。

「……厳十郎が、毎年欠かさず手配している」
「ま、そうだよな」

 答えて、またフェンスに寄りかかる。あの執事はそういうところもきっちりしていそうなので、意外とは感じなかった。
 細く長く、健康に生きていけますように。
 そう願ってくれる人が、阿門のすぐそばにはいたわけだ。

「よかったな」
「……ああ」

 何が、とは言わなかったので、真意が伝わったか定かではないが、阿門は頷いた。
 顎を上げると、うっすらした雲がぷかぷかと青い空を横切ってゆく。さすがにここからではうかがい知れないが、あの雲を追って新宿の街へ繰り出せば、師走らしく人波が押し寄せているであろうことは想像がついた。

「特別講義を」

 と、出し抜けに阿門が言う。

「受けるそうだな」
「まァな。何せ、成績優秀すぎて、このままじゃ入れる大学がない」
「……ふッ」
「なんだよ」
「よかったな」
「何がだよッ」

 突っ込んでから、皆守は自分の肩の力が抜けていることに気がついた。
 案外、こんなくだらないやりとりでよかったのかもしれない。彼とコミュニケーションを取るには。
 そんな簡単なことを理解するまでに、どれだけの時間を要したのだろう。

「あー、寒ィ。俺は寮に戻るぜ」
「皆守」

 フェンスから離れて体を起こすと、阿門に呼び止められた。
 阿門はそこで初めて、向き直って皆守と相対する。
 まっすぐな眼差しだった。

「《転校生》が退院したそうだ」
「……ッ、九ちゃん……九龍が?」
「ああ。じきに戻ってくるだろう」
「……そうか」

 いよいよ、差しで会う時が来た。
 不思議と逃げ出したい気持ちにはならず、安堵が去来する。裏切りを許してもらえなくてもいい。ただ、素直に思ったままを話そうと思った。
 気になるのは怪我の容態だ。向かい合ったあの瞬間、皆守は確かに殺すつもりで彼を傷つけた。退院ということは回復したのだろうが、どの程度までだろうか。後遺症はないのか。
 足を止めた皆守のすぐ横を、コートの裾を翻しながら、阿門がゆっくりと歩いてゆく。

「阿門?」
「ここからは校内を見渡せる。誰かを待つのなら、うってつけだろう」
「……そうだな」

 阿門はそれきり振り向きもせず、校舎内へと続く扉を開けた。広い背中が挨拶のようなものだった。
 屋上に残された皆守は、常のごとくアロマパイプをふかしながら、フェンスに指を絡めた。
 こうして一人で静かな時間を過ごすのが日常だったはずなのに、いまやその日々は遠い。
 傾き始めた日がこぼれんばかりに地平線へ近づき、あたりが黄金色に染まったころになって、ようやく待ち人はやってきた。
 豪快に扉が開く。
 皆守の記憶にある姿とは異なっていた。学生服も着ていなければ、妙な装備も身につけていない。特徴の乏しいコートにジーンズ、どこにでもありそうなスニーカー。街中ですれ違ったとしても、印象にすら残らないだろう。
 耳もとが光を受けてきらめいたと思ったら、小さな金色のピアスなんかしていた。夜、彼の部屋へ行ったとき目にしたことはあったが、外でつけているのを見たのは初めてだった。
 何より表情だ。笑ったり焦ったりと忙しく動いていたはずが、いっぱしに大人びた微笑みなど浮かべている。
 まるで、残虐な振る舞いで観客を震え上がらせた悪役が、カーテンコールで平身低頭して出てきたような違和感。
 これが本来の葉佩九龍ということか。
 寂しいような、取り残されたような、なんともいえない気持ちになったが、それも九龍が声を発するまでだった。

「甲ちゃんよ……もしかして俺のこと心配してた?」
「……は?」
「そんな幽霊見たような顔して。やっぱりアレ? 夜ごと『あいつ、大丈夫かな……』『やり過ぎたかな……』『痛くないかな……』って思いが募ったりした?」

 小芝居混じりの猿真似はいただけないが、おおむね事実だったので、皆守は押し黙る。九龍は針を刺した風船のように吹き出した。

「ぶはッ……マジで? 毎晩?」
「朝も昼もだよ」

 皆守がぶすっとして言うと、九龍はいよいよ腹を抱えて笑い出す。

「引きずり過ぎだろ!」
「うるさい。……怪我の具合はもういいんだな?」
「見ての通り」

 九龍は大いばりで華麗なターンを決めた。自信に満ちた笑顔に、皆守はほっと胸を撫で下ろす。

「九ちゃん」
「あ?」
「あんまり回らないでもらえるか。ピアスに夕日が反射して、眩しくてしょうがない」
「あらら」

 九龍はあっさりと両耳のピアスを外し、無造作にポケットへ入れた。
 これでもう眩しくない。九龍の顔を見られない理由はなくなった。
 九龍は躊躇いなく皆守の隣に立った。心なしか肉が落ち薄くなった頬が、鮮やかな茜色に染まる。よく晴れた一日の締めくくりにふさわしい、燃えるような夕景だった。

「《墓》の底でお前を残して死んでいたら」

 気がついたら、皆守はそう吐露していた。

「二人でこの景色を眺めることもできなかったんだな……」

 九龍の目線が皆守を捉える。
 右の拳が握り締められた。
 皆守は口を結んで、そのときを待つ。
 生まれて初めて誰かの攻撃が怖いと思った。
 やはり傷が治りきっていないのか、ろくに体重も乗っていない、軸足のぐらついた一撃が、である。
 銃口を向けられようが、爆弾を眼前に突き出されようが、これほどの恐怖は湧き起こらない。
 なぜ怖いか。当たるのがわかっていながら、絶対に避けられないからだ。
 この拳からだけは逃げるわけにいかなかった。ここで逃げたら、ほかの誰が許したとしても、今度こそ死ぬまで自分を許せない。
 ありふれたスニーカーが、一歩踏み込む。
 九龍の拳はよく効いた。心臓の奥まで突き刺さるようだった。
 見る間に腫れ出した頬に触れる。皆守がきちんと罰を受けた証。
 肩が軽くなった。知らぬ間に積んでいた重い荷物が、いまの衝撃で吹き飛ばされたらしい。

「……さすが《宝探し屋》。魂まで揺さぶるいい拳だ」
「うるせ」

 口調はじゃれ合うようなのに、水をたたえた九龍の瞳は、沈む太陽を映して色づいていた。
 二人は並んで立ち、フェンス越しに外を眺める。
 やがて皆守は、ぽつぽつと昔語りを始めた。
 九龍は相変わらず聞いているんだかいないんだかよくわからない顔をしていたが、ときおり自分が傷ついたかのように唇を噛むので、耳を傾けていると知れた。
 その顔を見ていて、あああのときの自分は傷ついていたのかと、何周も遅れて腑に落ちた。こんがらがって解けなくなった糸がするりと一本の直線に戻るような、不思議な心地がした。
 同じ傷を負わせるところだった。九龍や八千穂や白岐……皆守が自覚していないだけで、投げ入れられた石の波紋が届く範囲はもっと広かったかもしれない。
 石に近いほど、水面は激しく揺れる。

「許してくれ、九ちゃん」
「そもそも怒ってねえし」

 九龍の横顔が即答した。こちらを向かない理由はよくわかる。皆守が彼の立場だったら、泣きそうな顔なんて男友達には死んでも見られたくない。
 なので、皆守はただこう言い直した。

「ありがとな」
「……おー」

 九龍が頷いたとき、彼の懐で小さな音がした。
 携帯電話のバイブレーション。いや、違う。彼が持ち歩いている怪しげな情報端末だ。
 ざっと画面を流し見て、九龍は端末を閉じた。
 その双眸はすでにこの先を見据えている。

「行くのか」
「行ってくる。まったく、売れっ子で困っちゃうよな」
「卒業式までには戻ってこいよ」
「……卒業式?」

 情報端末をしまおうと、懐に手を入れたままの体勢で、九龍がこっちを見た。
 よくある造りのコートかと思いきや、内側には異様に広い収納スペースがありそうだ。
 腐っても《宝探し屋》。ガワを取り替えたところで、本質までは容易に変わらない。

「当たり前だろ。お前、まさか出ないつもりだったのか?」

 九龍は首を横に振った。

「出たい」
「なら、決まりだな。次の《秘宝》を見つけてからでいいから」
「てことは、春までに見つけないといけないじゃん……」
「余裕だろ? この學園を救い、忌まわしい鎖に繋がれた多くの者たちをも解き放った《宝探し屋》なら、な」
「言ってくれるよ」
「それとも、こういう言い方のほうがやる気が出るか? ――また俺に会いに来いよ、ってことだ」

 日が沈む。
 太陽と入れ替わりに注ぎ込まれたかのごとく、九龍の瞳に焔が灯る。
 闇に移り変わる空の下、光は笑っていた。
 皆守の眼にはそう映った。

「次、甲ちゃんに会うときは、もうちょっとだけ大人になってるから。……絶対に」

 それは、こちらの台詞だった。

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