【二〇十四年十二月二十五日】
葉佩九龍は、一人で朝を迎えた。
瞼に触れる空気はぽかぽかと暖かく、柔らかいものに全身を包まれている。
このまま二度寝を楽しみたいところであったが、同じアパートの中から聞こえてくる騒音に阻まれた。
ザッ、ザッ、ザッ、ガン、ザッ、ザッ、ガン。
最後にさーっとシャワーで流すような音がして、洗面所と風呂場へ続く引き戸が開いた。
肘や膝の下まで服を捲った皆守甲太郎が、濡れた手足をタオルで拭いている。
「やっと起きたか」
「そりゃ起きるよ。なぜ朝から風呂掃除?」
「お前が使うかと思ってな」
「え、もしかしてまだ臭う? いちおうシャワー浴びてから来たんだけど」
布団にくるまったまま、九龍は自らの腕を近づけてにおいを嗅いだ。自己判断では、気になるような臭いはしない。だが、嗅覚が順応して感じなくなっている可能性もある。
「いや、べつに。風呂に入れないような環境だったのか?」
「っていうか、最後の最後で象に蹴っ飛ばされてミンネリヤの貯水池に落っこちた」
「何やってんだ……」
呆れを隠そうともせず、皆守は部屋着を脱いで着替え始めた。部屋の片隅に引っ掛けてあったスーツに。
「え? 皆守さん?」
「なんだよ」
「もしかして、出勤なさるおつもりですか?」
「当然だろ。どうせ上に白衣を着ちまうが、行き帰りくらいはちゃんとした格好をしろって職場がうるさいんでな」
「クリスマス休暇は?」
「外資じゃあるまいし、そんなもんあるか。ったく、帰ってくるときは事前に連絡しろって言ってるだろうが」
「あれ、メールしたはず……」
毛布を被ったままベッドの上に体を起こし、H.A.N.Tを起動させる。
「……下書きフォルダに入ってるぅー……」
「アホか」
ベッドに突っ伏す九龍には目もくれず、皆守は慣れた手つきで袖口のボタンを留める。ネクタイを締める動作は堂に入っていて、九龍は思わず見とれてしまった。
「おおー。社会人って感じ。写真撮っていい?」
「はァ?」
正面から撮影許可を申請しても跳ね除けられるに決まっているので、九龍は問いかけながら同時に写真を撮ろうとした。
しかし敵もさるもの、毛布ごと九龍を抱えてさっとスマートフォンを奪い取り、インカメラにしてシャッター音を響かせる。
「これで満足か」
ぽいと投げてよこされたスマートフォンの画面を確認すると、怠そうな皆守の顔が写っていた。ただし、首から下は毛布の塊に隠れている。
「……俺が邪魔!」
わなわなと拳を震わせる九龍をよそに、皆守は手早く身支度を終えた。
「九ちゃん、何か今夜食いたいものはあるか? といっても、レストランなんかは予約でいっぱいだろうが……」
「え? あーっと、どん兵衛」
「……なんでだよ?」
「池の底に沈みかけたとき、走馬灯みたいに出てきた」
「まあ、お前がどうしても食いたいっていうなら付き合うけどな……。それだとうちで食うことになるが、いいのか?」
「もちろん! 甲ちゃん、仕事終わるの何時くらい?」
「遅くなるぞ。……ああ、コーヒー飲むか?」
「飲む飲む、ありがと。人に入れてもらうとうまいね。……いい、いい。何時でもぜんぜん待つ。でもそっかー、いま起きなかったら、次に会えるのは夜だったのか」
「だから起こしてやったんだろうが」
「……マジ? だからやたら風呂掃除でガンガンいってたの? 甲ちゃんぶきっちょだなーって思ってた」
「お前な」
「ふつうに起こしてくれたらいいのに」
「寝顔見物してたら、起こしそびれた」
「ぐふっ……」
飲んでいたコーヒーが気管に入り、九龍はマグカップを持ったままひどくむせた。皆守がまた「何やってんだ」とぼやきながら背中をさする。
「甲ちゃんがびっくりさせるからだろ!」
「びっくりするなよ」
「無茶言うな。はー、目ェ覚めたー……」
「いつまで夢見てんだ」
皆守がふっと笑う。九龍はマグカップをテーブルに置き、ぺちぺちと頬を叩いた。
結局、出会ってから十年経ってもなお、九龍は皆守のすべてを手に入れられていない。不可解なところもあるし、ちょっと直したほうがいいんじゃないかと思うところもある。
けれど、何もかもひっくるめて、九龍が惹かれた皆守甲太郎という人物なのだ。彼の過去の傷は抱き締めるし、未来の傷からは可能な限り九龍が守る。そばにいることで不要な傷を受ける機会が増えてしまうのではないかと懸念した期間も長かったが、皆守はどうやら、それも織り込み済みで九龍の隣に在ることを選んだらしい。
ならば、未来へ至る道は二人で歩く。選択の責任も利益も半分ずつだ。
この十年で得られた結論はたったそれだけだが、当人にとっては大きな一歩だった。
「……あ、夕飯がどん兵衛だけじゃ寂しいよな。俺、適当に買っとくよ。一回日本支部に顔出さなきゃならないけど、そのあと空いてるから」
「わかった。俺もなるべく早く帰る」
「おー、無理しない程度にな」
「無駄の多い仕事を、グレーな手段で効率化してやるだけだ」
「へへッ、不良研究員め」
「三つ子の魂百まで、ってやつだな」
玄関まで、皆守のあとをついていく。髪もぼさぼさの九龍とは対照的に、すっかり大人の男の装いだ。インドア生活で少しは肉がついただろうかと思い、服の上から彼の腹を触ってみる。変化なし。見本のような腹筋。必要に迫られてついた九龍の筋肉とはタイプが違う。ジムなどで計画的に鍛えているわけではないから、こんなふうにきれいにはならない。
革靴を履いた皆守に、お返しのごとくぺたぺたと顔を触られる。
「ちょっと痩せたか?」
「ちょっとね。こっちにいる間、食い倒れる予定だから大丈夫」
「お前……そんな食生活だと、引退してから太るぞ」
「いよいよヤバいと思ったら止めて」
「自分で管理しろよ。言っとくが、俺は厳しいぞ」
軽口を叩き合い、つい笑い声を上げそうになって、二人とも慌てて口を押さえる。ドアを一枚隔てた向こうは共用の廊下だ。
お互いに熱いキスで別れるような性分でもないので、軽くハイタッチを一回。皆守が背を向け、ドアノブをひねる。
「またあとでな、九ちゃん」
九龍は笑って手を挙げながら、日本支部での仕事をどう片付けるか算段していた。
絶対に早く終わらせる。そして、楽しい夜を過ごすのだ。
不真面目かもしれない。けれど、大人なんてこんなものだと九龍は思う。あのころ描いていた理想とは違って、失敗するし、寝坊もするし、思い人の気持ちさえ百パーセントはわからない。やるべきことも手を抜いて、自分の欲望を優先させたりする。
だが、そんなくだらない毎日こそ、九龍が守り抜いた《宝》だった。
ドアが閉まるまでの数秒間、もう一度目を合わせて手を振る。
「いってらっしゃい」
さあ、今夜は何を食べようか。