【二〇〇四年十二月二十九日】


 皆守は、新鮮な焦燥を感じていた。
 雛川がくれた赤本。大学入試の過去問など解いたことはなかったが、暇に飽かして挑んでみたところ、結果は惨憺たるものだった。生物の点数だけはそこそこ取れていたものの、ほかがひどい。
 募集要項に同封されていたパンフレットを流し読みしてみると、なかなか落ち着いた雰囲気のキャンパスだった。この學園を出ることは想定していなかったので、大学の授業の仕組みもよく知らなかったが、組み合わせ方にはある程度自由が利くようだ。四年間で一定の単位を取ればいいらしい。
 ただし、この大学を受けて合格すればの話だ。皆守はパンフレットを封筒に戻し、赤本を閉じた。あまり感じたことがなかった種類の焦りも、そこで立ち消えになった。
 そろそろ昼になる。冬休みは規則正しい生活習慣を送るようにとお達しがあったことだし、食堂へ向かうことにした。一方的に言い渡されたからといって従うような性格ではないのだが、あれだけいろいろなことがあったのに不摂生で健康を害しては、さすがに多方面へ申し訳が立たない。
 年の瀬が迫り、學園内は閑散としていた。日ごろの外出は厳しく制限されるため、長期休暇は帰省する生徒が多い。残っているのはわけありか、よほどの親不孝者だけだった。
 いつもくっついてくる人間が不在にしているので、しっかり防寒具を身につけないと北風が堪える。そいつはいまごろ寒い思いをしていないだろうか。何度となく頭に浮かんだことを、また考えていた。
 モノトーンに近くなった木々を横目に、肩をすぼめてマミーズまで歩く。カラカラとベルを鳴らして扉を開けると、暖かい空気が体を包み込んだ。
 奈々子が気づいて出てくる。

「いらっしゃいませ〜、マミーズへようこそッ。何名様ですか?」
「ひと……」
「二人で」

 斜め上から快活な声がする。皆守は嘆息した。

「大和」
「たまにはいいだろう?」

 嫌だと言ってもついてきそうなので、仕方なく同じテーブルにつく。今日は体調がいいのか、皆守の正面に収まった夕薙は、上機嫌でメニューを開いた。

「帰省したんじゃなかったのか」
「ああ、もう実家がないんでな。よし、やはりビフテキにしよう」

 まったく一定のテンションでそう口にした夕薙は、メニューを皆守の向きに合わせて渡そうとし、何かに気づいてふっと笑った。

「気にするな」
「……悪い」
「気にするなと言っているだろう? ああ、そうだ、甲太郎が頼むのはいつも同じか。じゃあもう注文できるな」

 夕薙が奈々子を呼んで、注文を伝えようとする。
 少しむっとして、皆守は先手を打った。

「ビフテキ二つ」
「は〜い、ビフテキがお二つですね。ご注文を繰り返します、ビフテキがお二つ……えぇ〜ッ!?」

 奈々子が素っ頓狂な声を上げてのけ反る。店内のBGMとして流れていたジャズが見事にかき消された。

「どッ、ど、ど、どーしたんですかッ!? あ、お熱? お風邪? インフルエンザ?」
「俺は極めて健康だ」
「……くっ」

 奈々子の動揺をよそに平然とメニューを閉じる皆守を見て、夕薙は耐えかねた様子で笑い出した。

「ふ、はははッ……甲太郎も変わったな。別人のようだ」
「ふん……ほんの気まぐれだ。郷に入っては郷に従えっていうしな」
「まあ、そういうことにしておこうか」
「あのォ〜……ご注文は以上でよろしいですか? それと……九龍くんは一緒じゃないんですか? まさか、喧嘩したりとか……」

 奈々子は不安げに身を屈める。
 喧嘩というわけではないが、何もなかったわけではない。説明が思い浮かばなかった皆守を、夕薙がいやに紳士的な態度でフォローする。

「まさか。甲太郎はただ単に、友達の輪を広げようとしているだけさ」
「なら、いいんですけど〜」
「……注文は以上だ。あいつならそのうち帰ってくるだろ。とっとと厨房にオーダーを伝えてこい」
「そう、そうですよね〜。かしこまりました、少々お待ちくださいませ」
「帰る場所がここかは、わからないがな」

 奈々子の背中が小さくなってから、皆守はぽつりと呟いた。夕薙は傷跡の残る顎をさすり、カトラリー類の中にあった個包装のウェットティッシュを皆守の前に置く。

「そればかりは、本人にしかわからないな。だが……少なくとも俺にとっては、ここは悪くない家になった。彼にとってもそうであって欲しいと願うよ」
「家? こんな學園がか」
「ああ。きっと、今後どこかで苦難に立ち向かうとき、俺は九龍やお前たちの顔、ここで過ごした日々を思い出すだろう」
「それが、家か」
「俺はそう思う。血の繋がった家族がいる、生まれ育った土地がある、そういうことも大事だがな」

 大切なことに気づかせてくれた九龍には感謝しているのだと、夕薙は言った。
 ビフテキが運ばれてくるのを待つ間、皆守はしばし考えてみる。これから先、自分が苦しいときに思い出すのは誰の顔か。
 輪郭はまだぼんやりしていたが、浮かんだイメージは九龍に似ていたと思う。
 どんな苦しみが将来の自分を待ち受けているのか、具体的には想像できなかった。ただ、もしも二年前の温室での一件のように、地獄に向かって身を投げる羽目になったら。また立ち上がろうと思わせてくれる人間は、一人しかいない気がした。
 しかし、と皆守は気づく。
 その張本人が困難に遭遇したときは、誰が助けてくれるのだろう?
 皆守がこの三ヶ月間見ていた限りでは、彼は年相応にアホなところもあるし、やらかして打ちひしがれたりもしていたようだが。
 皆守はソファに寄りかかったまま、瞳だけを動かして夕薙を見上げた。

「うん?」
「お前、進路が見えてきたとか言ってたな」
「ああ」
「あいつに関係することか」

 夕薙は驚きに目を見張ったが、次いで顔全体で大きく笑った。

「気づいたということは、さては同じことを考えてるな」
「べつにそういうわけじゃないが」

 ただ雛川が、漠然としていてもいいからやりたいことを考えろなどと言うから、適当に想像してみただけだ。
 その未来の中に、彼がいた。
 それだけのこと。
 どんな形かはまだわからないが、どうせこの先も生きていかなければならないのなら、彼と並び立つ存在でありたい。いますぐには無理でも、彼が困っているときに助けてやれるようになりたい。
 九龍は皆守にとって親友だからだ。
 なんの色もない、現時点では絵空事に近いような地図だったが、これを持って大人になるのは悪くない気がした。
 さて、そのためには何が必要だろうか。いつの間にか皆守より半歩先を進んでいたらしい夕薙は、運ばれてきたビフテキの湯気の向こうで笑っている。

「では、まず腹ごしらえからだな。腹が減っては戦はできぬというしな」

 マミーズでビフテキを食べるのは初めてだったが、意外と口に合った。男二人、黙々と平らげる。食べ終わると、夕薙は「ライバルが増えてしまったなあ」と残念そうに、そしてなぜか嬉しそうに去っていった。
 皆守は男子寮の自室に戻り、ベッドに座って携帯電話を出した。
 何かあればと教えられた連絡先。いざ画面に呼び出したはいいが、コールするまでにたっぷり十分間は逡巡した。
 埒が明かない。深呼吸して、一思いにボタンを押す。
 しかし、今は冬季休暇中だ。部活や特別講義なども行われてはいるが、さすがに年末年始はそれも休みになる。ということは教師たちも帰省する頃合いではないか。
 その可能性に思い至ったのは、相手が電話に出たのとほぼ同時だった。

「はい、雛川です」
「あ、……えーと」

 切ろうとした直前に相手の声が聞こえてきて、皆守はまごついた。雛川が不思議そうに問い返してくる。

「皆守くん?」

 胃の奥からせり上がってきた何かを、膝の上で拳を握ってやり過ごす。雛川に名前を呼ばれるのは苦手だった。彼女のせいではない。皆守が乗り越えなければならないことだ。

「ちょっと待ってね。先生、いま職員室にいるの。落ち着いて話せるところに移動するわ」

 雛川はそう言い置き、しばらく無言になった。ガラガラと職員室の引き戸を開ける音が聞こえ、皆守は眉根を寄せて目を瞑る。とっ、とっ、とっ、と軽やかな足音、次いでギィと重たい扉を押し開ける音。移動中も携帯電話を耳もとに添えたままなのか、かすかな息遣いがそれらに重なる。

「……もしもし。いま、講堂に来たわ。ここなら誰もいないから」
「あー……いや、べつにわざわざ……年明けでも」
「せっかく電話してきてくれたんだもの、いま話したいわ」

 皆守のもごもごしたいいわけは、きっぱりと切り捨てられる。
 そこからの会話は、皆守が予想していたよりも遥かに長い時間を要した。
 緊張を隠すために虚勢を張ろうとして失敗し、話は飛ぶわ、言葉に詰まるわで、皆守としてはさんざんだった。こんな要領を得ない訴え、相手が雛川ではなくほかの教師なら、最後まで聞かずに切り上げていたかもしれない。
 話を整理すればこうだ。
 やりたいことと言われても特に浮かばないが、できるなら九龍の助けになりたい。それが難しくても、胸を張って隣に立てる人間でいたい。具体的な手段はわからないが、現在の自分が選び得る選択肢の一つとして、大学受験が浮かんだ。アロマとして愛用しているラベンダーなど、植物には少し興味がある。大学に行くなら、そちらの方面に進みたい。雛川がくれた入試問題も解いてみた。だが、合格するにはまだ学力が足りないと感じた。なので、受験当日までの間、可能な限りの悪あがきをしたい。
 自分が雛川に何を求めているのかも判然としなかったが、正直に思いの丈を話した。
 救いだったのは、雛川が大仰な反応を取らずにいてくれたことだった。驚いてはいたようだが、皆守が将来について考え始めたことを喜び、冬休みの特別講義にいまから参加できるか確認してみると請け合った。もし難しくても、個別に勉強を教えてもらえるよう、各科目の先生に頼んであげる、とまで。

「話してくれてありがとう、皆守くん。先生、とっても嬉しいわ」

 最後には感謝の言葉まで添えて、雛川は電話を切った。世話になるのはこちらなのに。皆守より背丈が小さく華奢でも、彼女はれっきとした成人女性で、教師だった。
 通話が終わり、皆守はそのまま一直線にベッドの上へ倒れ込んだ。ずっと携帯を持っていた右手が、バッテリーの熱を吸い取って熱い。

「はー……」

 大きく息をつく。ダサい。ダサすぎる。いまの電話のことは、絶対に誰にも知られたくない。
 数少ない友人と呼べる人々は、皆守がてんやわんやになりながら担任へ電話したからといって、からかいはしなそうだった。けれど、これは沽券に関わる問題だ。当分は黙っておこうと強く決意する。
 いつか大人になって、あんなこともあったっけと笑い飛ばせるようになるまでは。

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