【二〇〇四年十二月二十八日】


「葉佩さ〜ん」
「おわッ……は、はいッ」

 前触れなく病室のドアが開き、九龍は慌ててそれを枕の下に隠した。
 この三日間ですっかり顔なじみになった看護婦は、そろそろ自力で移動しても構わないし、中庭に出てもいいが、そのときにはナースステーションに一言声をかけてくれと言い置いて出ていった。

「ふー……」

 看護婦が完全に姿を消してから、枕の下に隠していたものを取り出す。
 H.A.N.Tではない。昨日、鴉室が差し入れてくれた漫画本だ。
 暇潰しになるものが必要だろうという心遣いはありがたい。実際、回復に伴って退屈さを感じる余裕も生じていた。

「若いんだから、トキメキも必要だろう?」

 ウインクとともに手渡されたコミックは、恋愛漫画だった。ただし非常に過激な。
 日本の法律上、未成年が所持していてもいいのか九龍には判断がつかず、こうして人の目を盗みながら読んでいるわけである。
 鴉室は九龍の部屋に忍び込み、着替えや日用品のほか、H.A.N.Tの充電に必要な器具も持ってきてくれた。だから、バッテリーにたっぷりと栄養を食わせる間、甘やかなファンタジーに耽溺していたのであった。
 しかし、病院という場にいるせいだろうか。どうにも食指が動かない。
 九龍はぱたんと漫画本を閉じて何冊か重ねると、充電済みのH.A.N.Tをその合間に差し込んだ。

「あー、いてて」

 癖になってしまったひとりごとは漏れるが、急がなければ自分の足で歩くことはできる。あれだけの怪我としては驚異的なスピードで治癒が進んでいた。
 上着と漫画本を小脇に抱え、ナースステーションに声をかける。
 中庭の、「ゲッカビジン」というプレートが吊るされたサボテンの陰にある、居心地がよさそうなベンチに落ち着いた。

「ふう」

 H.A.N.Tを開く前に深呼吸。
 遺跡統括情報局からありとあらゆるお叱りのメールが届いていても気にしない。探索失敗もそうだが、ここ三、四日音信不通になってしまっていた。

「よし」
『Welcome to H.A.N.T』

 H.A.N.Tを開く。本部からはメールが一件だけ届いていた。恐る恐る開封する。

「……ん?」

 一度最後まで読み終え、もう一度読んだ。

「タオ?」

 さらにもう一回読んだ。

「…………んん?」

 よくわからなかった。
 あれ、さては苦手なロシア語か、と思ったが、機械翻訳を噛まされたせいで硬い文章ではあるものの、れっきとした日本語だった。
 曰く、コードネーム《タオ》と称するハンターが、天香遺跡の《秘宝》を入手した。
 《ロゼッタ協会》としての任務はこれにて終了。
 ID-0999には、協会独自の算出基準に則り、所定の報酬が振り込まれる。
 なお、次の依頼に関しては現在調整中であるため、追って連絡を待つように。
 九龍は久しぶりの英語で、知り合いの担当者に返信を打った。

『意味わからん』

 すぐに返事が来た。

『ほかの奴に出し抜かれてやんのバーカバーカ』

 音信不通になっていたことを怒っているらしい。
 九龍はそっとH.A.N.Tを閉じた。

『Good luck』

 つまり、こういうことだ。
 九龍は数多の罠を解除し、化人のデータを集め、天香學園の遺跡の最奥まで到達することに成功した。
 その分の報酬は支払われる。
 だが、最後の最後で《秘宝》はべつのハンターに掻っ攫われた。
 《ロゼッタ協会》としては、誰が手に入れようが《秘宝》は《秘宝》。九龍に支払われるそれよりも一桁多い報酬は、そのトンビ野郎の懐に入る。これにて一件落着。
 九龍は手で顔を覆い、天を仰いだ。

「ジーザス」

 特段信仰心に篤いわけではなかったが、頭に思い浮かんだ言葉の中で、口にしても問題なさそうな言葉はこれしかなかった。

「ああ……」
『Welcome to H.A.N.T』
『Good luck』
『Welcome to H.A.N.T』
『Good luck』

 やり場のない気持ちを紛らわすかのように、H.A.N.Tを何度も閉じたり開いたりする。大して紛れなかった。

「マジかよぉー……」

 《秘宝》は最後に手に入れたもの勝ち。
 詰めが甘いんじゃ青二才め、と顔も知らない《タオ》の嘲笑が聞こえた気がする。
 がっくりと肩を落としてうなだれる。隣にエロ漫画積んで前屈みになってたら誤解されるって、と思うも、さすがに根こそぎ気力を持っていかれた。
 タオって誰だ。ほかに潜入中のハンターがいたなら、知らせてくれればいいのに。
 遠くカイロまでは届きやしない泡沫のような恨み言が、浮かんでは消える。《ロゼッタ協会》は巨大な組織のようでいて、その実、《宝探し屋》と遺跡とを繋ぐネットワークに過ぎない。わざわざほかの個人事業主の動向を教えてやる義理はない、といったところか。

「もうやだぁ、なんだよそれー」

 いくら声を上げたところで、現状は変わらない。
 九龍はベンチの背もたれにだらりと寄りかかり、腕を目の上に乗せた。
 そういえば、前にもこんなことがあったっけ。
 壊滅的に苦手な国語の小テストで零点を取ったときだ。雛川の沈んだ表情に突き動かされ、九龍にしては猛勉強して再テストに挑んだものの、そちらもヤマが外れて赤点だった。

「甲ちゃん、聞いてよ、もうやだぁ」

 半泣きで愚痴りに行ったとき、親友はいつものように屋上でアロマをくゆらせていた。九龍が握り締めていた答案用紙を一瞥して、一言。

「まッ、妥当だな」
「えー!」
「お前、いくら帰国子女だっつったって、そのボキャブラリーの乏しさはまずいだろ。いい機会だから徹底的に鍛えてもらえよ」

 それで話は終わりとばかりに、皆守は答案用紙をくしゃくしゃと丸めて九龍の制服のポケットに突っ込んでしまった。
 九龍は目頭を押さえ、さめざめと皆守に縋りつく。

「そんなこと言うなよー。一緒に再々テスト受けようよー」
「あいにく、俺は国語の成績は悪くないんでな」
「薄情者ー! 甲ちゃんにも見捨てられたら、俺はどうすればいいんだよ」
「くっつくな」

 いとも簡単にぺろんと皆守から引き剥がされる。
 それでも九龍が目をしょぼしょぼさせて落ち込んでいると、皆守は仕方なさそうに言った。

「誰か得意な奴に教えてもらえばいいだろ、七瀬とか。山ほど知り合いがいるだろうが」
「こんなかっこ悪いとこ見せらんないよ」
「お前な。俺はいいのかよ」
「いいよ、だって……」

 だって。
 がっ、と跳ね起きそうになって、九龍は浮かせかけた腰をかろうじて中庭のベンチに押しとどめた。
 どっ、どっ、どっ、どっ、と耳の奥で心臓の脈打つ音が聞こえる。

(あれ)
(なんて答えたっけ)
(なんで甲ちゃんには恥ずかしいところを見られてもよかったんだっけ)
(あれ?)

 真冬だというのに、かっと顔が熱くなり、体中に汗をかく。
 燃え盛る炎のそばにでもいるみたいだ。

(炎)
(熱い)

 そうだ、この熱には覚えがある。

(待て待て待て)

 ぎゅっと入院着の胸もとを掴む。その手が小さく震えている。
 この震えは痛みによるものか。
 右手が滑り落ちて、鳩尾を撫でる。
 皆守によってぐちゃぐちゃにされ、焔の塊でも呑んだかのように燃え続けているところ。

(いや、違うよ、ふつうに大怪我だったから、あの野郎思いっきり蹴りやがって)
(だから熱いんであって)
(べつに、甲ちゃんがつけた傷だからでは)

 あっという間に思考が行き詰まり、ろくに頭が回らなくなる。混乱をきたした九龍は指の背で顔に触れた。じっとりと汗ばんでいる。呼吸が浅く速い。
 砂漠の真ん中で立ち往生したときより、墓地の地下で化人に囲まれたときより、心臓が弾んでいた。

(いやいやいやいや、いくらなんでもまずいだろ、やばいだろそれは、変態だろ)

 叫び声が出そうになって、九龍は手で自分の口を塞いだ。
 天香學園でのほとんどの時間、九龍は皆守と一緒だった。
 だから、思い出はたくさんある。離れた場所にいたとしても、何気ない香りや言葉をきっかけにして、関連する記憶が蘇ってくるほど。
 その一つ一つが脳裏を駆け抜けた。
 声、瞳の影、指先の爪の形、香り、手のひらの温度、背中、並んで食べたカレーの味、腹にめり込んだ脚、まあ最後のはともかくとして。
 何より、あのクリスマスイヴの深夜だ。果たし合いのあと、「これは甲ちゃんのものだから」といい子ぶって《秘宝》を返したとき、九龍が本当はどう思っていたか。
 彼に告げたことも決して嘘ではない。でも、感情の奥の奥、心の最下層にある墓場の石の下に埋まっている亡者は、こう嘆いてはいなかったか。

 ――これを渡さなければ、皆守の心が九龍の知らない人間に向かうのを止めることができる。皆守甲太郎という《宝》は何もかも自分のものになるのに。

 すべてを思い出し、九龍はがっくりと肩を落とした。
 いつからこんなことになってしまったのか。負け戦の分析でもするかのように、記憶の糸をたぐり寄せてみる。
 ここ、と明確に定めることはできない。強いていえば、授業中にちらっと窓ガラスに映る横顔を眺めたとき、机をくっつけて食事を取ったとき、戦闘で昂った気持ちがラベンダーの香りですっと安らいだとき。積み重ねてきた時間の一秒一秒が、皆守甲太郎という存在を葉佩九龍の魂の中にすり込んでいた。
 ただあいつがかわいい。苦しむ顔なんて見たくない。でもどうしてもというなら自分の前でだけは見せてもらいたい。何もかもが欲しい。

(あっ……俺、変態だったわ)

 しみじみと自覚する。ハンターには典型的なタイプだった。生身の人間に向けてはいけないような渇望に苛まれているから、長い時間をかけ危険を冒してまでも《秘宝》を探し出せるのだ。
 自分の気持ちの出どころが判明すると、いよいよ九龍は燃え尽きた。
 だらしなく両脚を投げ出して座り、右手で目もとを覆う。

(だけど、甲ちゃんは俺のことが欲しいなんて思ってなかったよ)

 避けて通れない真実にぶん殴られ、腹の中の灼熱が冷えてどす黒く固まる。
 九龍は皆守に対して飢えるほどの思いを抱いていても、その逆は違う。
 もし皆守が九龍と同じ感情を持っていたら、あんなふうにこちらを崖から突き落とすような別れを選びはしなかったはずだ。
 九龍はずるずると背もたれから滑り落ちた。

(片思いかよ、しかも)
(振られてんじゃん、何か言う前から)
(俺が悲しむだろうとすら思ってなかった)
(甲ちゃんの中で俺はその程度の存在ってことか)

 吐きそうになって口を閉じる。
 本当にショックを受けたとき、人は声すら出せないのだということを、九龍はこの日初めて知った。

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