【二〇〇四年十二月二十七日】


 阿門の手伝いをしていたら夕方までかかってしまった。
 皆守は「はー……」と生徒会室前の壁に背を預けて一服する。
 大人しく休んでいればいいものを、阿門は墓地で眠りについていた者たちへの対応に駆けずり回っていた。果たして、神鳳と双樹の気遣わしげな視線に気づいているのかどうか。千貫がすぐ横に控えていたので、本当に限度を超えた無理はしないだろうが。
 心情は理解できた。やることがあったほうが楽なのだ。だから皆守も、寮を出て彼に手を貸したというわけだった。一人でいると余計な考えに呑まれそうになる。
 ラベンダーの香りがほこほこと立ち昇り、遅れてようやく疲労を感じてきた。
 阿門だけに押しつけるわけにもいくまいと始めた今日の作業だったが、皆守にとっては己の罪と向き合わされるにも等しい時間だった。目覚めた者の中には、過去に皆守が騙してきた相手もいたからだ。
 そのころはさほど罪悪感を抱くこともなく、《生徒会》副会長としての職務を遂行していた。學園の規律を乱す者や《転校生》に近づき、いつまでとも知れぬ眠りにつかせる。それが墓守としての役割だった。当時は執行役員もいなかったので、皆守が手にかけた者は片手の指では数えきれない。
 棺から出たときよりも、皆守と顔を合わせたときのほうが、彼らはよほど夢から醒めたような顔をしていた。

 皆守?
 本当に皆守?
 別人みたい。
 だって、そんな瞳をする奴じゃなかったよ。

 どいつもこいつも、口裏を合わせたかのように同じことを言う。
 戸惑いを隠せない彼らに、話せることは話し、話せぬことは話さず、外の世界との繋ぎをつける。
 最後のほうは相当強引だったかもしれないが、長い時間をかけてなんとか全員を解放した。
 自業自得とはいえ、すべてが済むころには疲労困憊だった。けれど、皆守をもっとも苛んだのは、無意識に抱いていた期待を自覚したときだった。
 次に会うのは、あの人ではないか。
 長髪の若い女性がいると、そう思って反射的に顔を見てしまう。《墓》から取り戻した脆弱さの発露。
 唾棄すべき行為だ。皆守の目の前であの人は逝った。肉体はすでに灰へと帰し、名もなき墓碑の下に眠っている。
 永久に。
 当然ながら、あの人に出会うことはなかった。どこからともなく仄かなラベンダーの香りがすることも、あの声で名前を呼ばれることも。

 皆守くん。

 そう名を呼ぶ声は生々しく耳に残っている。
 あの寒々しい殺し合いのあと、九龍は皆守が《墓》に預けていた《秘宝》を返してくれた。「これは甲ちゃんのものだから」と。
 余計な感情も一緒に戻ってはきたものの、以来、皆守はあの写真を大切にしている。
 せめて皆守だけは、彼女のことを一生忘れないように。
 正直なところ、まだ痛みのほうが強い記憶だったけれど、それも罰だと思えば受け入れられる。
 今日はもう一歩たりとも動きたくないような気持ちだったが、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。だらだらした足取りで、男子寮に向かって歩き出す。
 中庭に差しかかったところで、いま一番会いたくない相手に呼び止められた。

「皆守くん」

 ころころと愛らしい、それでいて落ち着きのある女性の声。
 担任の雛川亜柚子が、小走りに駆け寄ってきていた。
 私服姿で、ふわふわしたアイボリーのコートにマフラーを巻いている。数歩あとから、同じく私服らしきコートに身を包んだ瑞麗が悠然と歩いてくる。
 最悪な組み合わせだ。
 足を止めたくなどなかったが、雛川が暮れかけた夕日の下でもわかるほど鼻と頬を真っ赤にして走ってくるので、皆守は仕方なく立ち止まった。

「よかったわ。あなたに渡したいものがあるの」

 また書類だろうか。一昨日、夕薙を介して手渡されたくだらない紙切れを思い出し、皆守はげんなりする。暇だったので出すものはさっさと出したが、まだほかにもあるのだろうか。
 ところが、雛川は手にしていた濃い色のビニール袋を開けると、分厚い本を取り出した。表紙には皆守も聞いたことくらいはある大学名が書かれている。

「……赤本?」
「えェ。ほら、進路希望調査票に進学希望と書いてくれたでしょう?」

 進学か就職の二択だったので、比較的マシと思えたほうに丸をつけただけだ。具体的な大学名は思い浮かばなかったので、あとは自分の名前だけ書いて提出した。

「この大学、キャンパスは少し遠いけど、受験の日程は三月だし、科目が二科目で済むの。皆守くん、生物が得意でしょう。本気でがんばれば、いまからでも間に合うわ。もちろん、先生も全力でサポートするから」

 熱く語られ、皆守はアロマパイプをくわえたまま黙り込んだ。返答がないことを不安に思ったのか、雛川の童顔が曇る。

「得意分野を活かせるところがいいかと思って、生物や植物に関する学部にしたのだけど……希望に合わなかったかしら」
「考えたこともなかったから、わからない」

 正直に吐露すると、雛川は自信を取り戻したようだった。

「そうよね、これから考えていきましょうね。これ、募集要項なんだけど、中に大学のパンフレットが入っているから、よければ見てみてね」

 雛川は分厚い紙袋を見せ、赤本とまとめてビニール袋に収める。新宿駅の近くにある大きな書店のロゴが入っていた。
 まさか、進路指導室にあるものではなく、わざわざ外で買ってきたのか。思わず瑞麗を見る。

「買い物帰りに本屋の前を通ったのでな」
「一緒に探してくれてありがとうございました、瑞麗先生」
「ふッ。いえ」

 ほんわかした空気にこの場から去りたくなるが、雛川にビニール袋を差し出され、つい受け取ってしまった。大量の紙の束が詰め込まれた袋はずっしりと重く、よく見ると持ち手になる部分が伸びかけている。
 なんだか、雛川の思いが形をなして渡されたかのようだ。
 捨てにくいことこの上ない。
 雛川が笑うと、大きな目が三日月の形になった。

「やりたいことが見つかるといいわね。漠然としていても、なんでもいいから」

 先生は皆守くんの味方だから、いつでも相談してね。
 そう言い残して、雛川は去っていった。
 隣にいた瑞麗の人を食ったような笑みが癇に障るが、八つ当たりだとわかっていた。皆守は片手にビニール袋をぶら下げ、また歩き出そうとする。
 が、途中で温室と、その中にいる人物が目に入り、方向転換した。
 用事がない限り自発的に寄ろうだなんて思いもしなかった場所だが、吸い寄せられるように足を踏み入れる。
 こぼれんばかりに咲くブーゲンビリアの前には、女子生徒の後ろ姿があった。
 彼女はたおやかに振り返る。その首もとに戒めはない。

「白岐」
「こんにちは。皆守さん」

 そしてまた、花の前に向き直る。皆守を無視しているわけではなく、空気の一部として捉えているような動作だった。
 完璧に調整された温室の空気は、息が詰まる。
 そう思っていたころもあったはずだが、不思議といまは違った。
 二人並んでブーゲンビリアの前に立つ。白、オレンジ、マゼンタ。本来は南国の花だが、日本の冬でもきれいに咲いている。

「体はもういいのか」
「ええ」

 それきり言葉は返ってこないかと思ったが、意外にもこう続いた。

「これから、八千穂さんとご飯を食べに行くの」
「……へえ」

 白岐は皆守を見上げ、形のよい頭をわずかに傾げた。

「あなたも、一緒に来る?」
「白岐から食事の誘いとはな。大和が知ったら地団駄踏んで悔しがるんじゃないか」
「夕薙さん?」

 白岐は不思議そうにしている。どうやら、二人でのディナーはまだ達成できていないようだ。

「悪いが、今回はパスだ。……そうだな、もう一人ぐらい賑やかしがいたら、話は別だが」

 言外に誰のことを指しているか、白岐には伝わったらしい。
 彼女が微笑むと、凍てついた薔薇のような雰囲気が驚くほどに和らいだ。

「それなら、もうすぐ行けるわね」
「そうなのか? お前は知ってるのか」
「いいえ。なんとなく、そんな気がするだけ」

 白岐の返答に、自分勝手な落胆が去来する。
 葉佩九龍はいまどこにいて、どんな状態なのか。皆守が負わせた怪我の具合は。
 本当は気になって仕方がないのに、誰にも聞けないこと。
 ずっと逃げていること。
 臓腑がずんと重くなる。瑞麗に感じた苛立ちの正体は、知りたいことを聞けない自分への感情に相違なかった。
 もちろん、聞いたところで教えられはしないだろう。真っ当な病院にいるなら、尋ねずとも伝えられそうなものだ。そうではないということは、皆守には入れない場所ということ。
 九龍と皆守では生きている世界が違う。たまに交差することがあるから、隣にいるかのように錯覚しているだけだ。
 白岐が瞬きをすると、長い睫毛が柔らかそうな頬の上に影を作った。

「彼のことが心配?」
「……まあ、な」
「きっと大丈夫よ」

 慰めを与えられてしまった。白岐は皆守が九龍を殺そうとする場面に居合わせたのに。
 白岐も、八千穂も、雛川も、瑞麗も、夕薙も、誰も皆守を責めない。
 それどころか、白岐ははっきりと笑みを浮かべた。

「あなたも、大丈夫」
「……そうかね」
「そう思うわ」

 どいつもこいつも、なぜそう自信ありげに断言できるのだろう。未来なんて不確定要素の塊で、人の心なんか瞬く間に様変わりするのに。
 皆守にはまだわからない。
 もう少しでわかりそうな気もするが、それには一人では無理だろうという予感があった。
 彼がいないと。
 つい最近まで存在すら知らなかった人間が必要不可欠だなんて、おかしな話だ。この短期間ですっかり作り変えられてしまった。おそらく、それは皆守だけではない。
 白岐はオレンジ色の花弁を見上げていた。
 真紅を帯びた瞳は、薄暮の中でもきらめいている。
 誰かと同じように。

「今晩、何を食べようかと考えるのが、楽しみなの」

 宝物を見つけたかのように白岐が言う。

「八千穂さんと会ったら、また考えが変わるかもしれない。それでも。こんな楽しみ、知らなかったわ」
「そりゃ、よかったな」

 羨望が声ににじみ出るのを、皆守は抑えきれなかった。
 白岐は気分を害すこともなく、皆守が持っているビニール袋に目を留める。

「きっと、すぐね。みんなで食事に行ける日は」

 彼女の声を聞きながら、八千穂と白岐と九龍、ついでに夕薙と、五人でマミーズのテーブルを囲む風景を思い浮かべて。
 皆守は次の瞬間、自分が未来を想像したことにひどく狼狽した。

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