【二〇〇四年十二月二十六日】


 十二月二十六日の朝、葉佩九龍は病院のベッドで目を覚ました。
 そして、目覚めたことを後悔した。
 痛い。とにかく痛い。ぐらぐらと煮え滾るマグマの塊を腹の中に抱えているようだった。火ならばいつかは消えると念じてみても、汗と震えは止まらない。痛みで眠りが途切れたに違いなかった。
 遺跡の崩壊に伴い、あの魂の井戸という清浄な空間も崩落した。いままでは探索で負った傷をそこで癒してから帰還していたが、その手が使えなくなったので、怪我はまるまる九龍の体に残っていた。
 そういうこと自体は初めてではない。ああいった空間は、《宝》自身が探されたがっているために創り上げたものだ。誰かに発見されたり失われたりすればお役御免というわけである。
 しかし、あの力を頼りにしていた者からすれば、はいさよならで済む話ではない。一時は本当に死にかけた。瑞麗と鴉室が手を尽くしてこの病院に繋いでくれなければ、九龍はいまごろ痛みを感じることすらなかっただろう。
 それだけの力で傷つけられたということだ。阿門の手で撫でられたことも、荒吐神の怨念を受け止めたことも、九龍に軽くはないダメージを負わせた。だが一番は、あいつだ。《生徒会》の副会長。
 なんだ、あのスピードは。あんな力を持っていながら、よくいままで隠し通せたものだ。
 四苦八苦しながら化人に立ち向かう九龍を、彼はどう見ていたのだろう。探索中はずっと背中を向けていたからわからなかった。
 遺跡の中では九龍が前、バディ二人がその後ろという陣形で進む。最初にそう決めたのは彼だった。
 たった三ヶ月前のことだ。

「あー、いだい、ううー」

 声を出せば痛みが紛れるかと思い唸ってみるが、よけいに気が滅入るだけだった。無駄な抵抗は断念しナースコールを押す。服用できる鎮痛剤の量に上限はあるが、朝からこの調子ではやっていられない。ボタンを押すだけの動作で気がついたが、痛いのは腹だけではなく全身だった。気づきたくなかった。
 それでも、薬を入れてしばらく経つと、嘘のように楽になった。数時間すればまたもとどおりだが、わずかでも安息の時間が生まれるのはありがたい。
 かといって起き上がることもできないので、九龍はただ天井の蛍光灯を見上げていた。
 ここは東京都内にあるという、超常的な傷への霊的治療が可能な病院だった。詳しいことは九龍も知らない。説明を受けた気もするが、鴉室が付き添ってくれていたので、安心して意識を飛ばしていた。
 強靭なケブラーベストを装着していてなおこのありさまだ。この傷をつけた相手は、九龍を殺害するつもりで来たということだろう。
 迷いを持って立ち向かわれても戸惑うから、それはべつに構わない。
 けれど、殺す気で襲ってくる相手を殺さずに動きを封じるのは、毛ほどの針穴に糸を通すがごとき至難の技だった。
 いくら相手が疾いとはいえ、彼の命を奪うことは、おそらく技術的には可能だ。だが九龍の技能はあくまで、自らの命を守り《秘宝》を手に入れるためのもの。誰かを殺めるためのものではない。
 必要のない殺しに手を染める者は、《ロゼッタ協会》のハンターとして三流。九龍はそう教えられてきたし、それが信条だった。
 しかし、それが果たせたといえるのは、最低限《秘宝》を手にし、自分の足で安全な領域まで帰還できてからの話だろう。
 九龍にはどちらも成し遂げられなかった。
 荒吐神の墓を荒らしてまで探し求めた宝はそこにはなく、小夜子と真夕子、瑞麗と鴉室の助けがなければ死んでいた。
 探索失敗。
 それが、九龍に突きつけられた事実だ。

「あー……」

 傷は痛まないのに、悔恨に満ちた呻き声が漏れる。
 九龍はこれまで、致命的な失敗はせずにここまで来た。小さなミスは無数にあったが、いずれも次へ進む材料にしてきたつもりだ。
 だから、知らなかった。《秘宝》を掴み損ねることがこれほどまでに悔しいとは。
 無論、九龍が逃した宝は、天香學園の地下に眠るとされていた《九龍の秘宝》だけではない。
 のたうち回りたくなり、九龍は大急ぎで点滴から送られてくる液体を注視する作業に集中した。昨日一日そうしていたように。
 とにかく、《宝探し屋》としての誇りはけちょんけちょんに踏みにじられ、地に落ちた。駄目押しでこの病院だ。瑞麗と鴉室に対して個人的な親愛の情はあっても、組織間の関係を考えれば、借りを作るのは非常にまずい。彼らが主を愛するように、九龍たちは《秘宝》を愛している。信仰が異なる者同士は手を取り合えない。
 なのに、九龍はのうのうとここで治療を受けている。

「うう」

 情けない声も漏れるわけである。
 いくら悩んでも、顔を覆うことさえいまの九龍にはできないのだ。大人しく傷を癒すしかなかった。
 幸い、あの二人に紹介された病院だけあって、怪我は明らかに快方へ向かっていた。ここに運び込まれたときとは雲泥の差だ。あと数日もすれば動き回れるようになるだろう。そうすれば天香にも戻れる。
 天香學園。
 遺跡。
 ……は、なくなったから。
 寮。
 教室。

「ぐう」

 親友の顔が自動的に連想され、九龍はまた声を漏らした。いっそ気絶したい。だが痛み止めを飲んでしまったのでそれも叶わない。
 病室の扉が開いたのはそのときだった。

「失礼する。調子はどうかね、龍」

 すらりとしたシルエットに優美なコートを纏い、ストレートの黒髪を揺らして瑞麗が入ってくる。
 九龍は彼女の来訪を嬉しく思った。人と話していれば、終わりのない思考のループに嵌ることは避けられる。

「ルイ先生。おかげさまで」
「ふむ……顔色はだいぶよくなったな」

 病床の家族に対してそうするように、瑞麗は躊躇いなく九龍の枕元へと身を屈めた。
 香だろうか、落ち着く匂いがふわりと漂う。
 匂い。
 アロマ。
 また余計なことを考えそうになり、九龍は全力で思考をねじ曲げる。

「すぐ見舞いに来られなくてすまなかったね。棺の中で眠りについていた者たちを診るので、昨日一日潰れてしまった」
「ううん、どうせ俺も昨日は寝てばっかだったし。目を覚ました人たち、どうだった?」
「ああ、健康上は問題ない。いまは阿門が、外へ帰すための手続きに奔走しているところさ」
「阿門が?」

 最後に見た阿門の顔を思い出す。
 九龍とバディたちによって退けられ、さらに荒吐神の咆哮によって地面に縫い止められた姿。そして、陽炎の向こうの。
 いっそ気の毒ですらあった。本人がどう思っているかはともかく、阿門帝等という人間は、墓を守るためだけに生を受けたわけではあるまいに。
 お疲れ、と肩を叩いてやりたくなった。案外神鳳と双樹もそんな気持ちで彼に寄り添っていたのかもしれない。

「あいつ、体はもう平気なの?」
「心配かね?」

 ベッドの端に腰かけて脚を組んだ瑞麗が、なぜか質問に質問で返してくる。九龍は首を縦に動かした。

「阿門だけじゃない、白岐も、やっちー……八千穂も、甲太郎も」
「安心したまえ。君がもっとも重傷だ」
「あ、やっぱり?」
「体はな」

 不安になるような一言をさらりと付け足され、九龍は思わず、自らの体の状態を忘れて跳ね起きようとした。もちろん実行に移せたのは、シーツの上で虫のようにもがくことだけだ。

「……友達思いだな。君は」
「だって……心は? ねえ、ルイ先生ッ」
「いまのところ、そちらも大きく調子を崩している者はいない。だが……君が遺跡を解放したことにより、呪いの鎖は引き千切られた。それがいいことばかりではないのは理解できるね?」
「まあ……そちらさんによく言われるけど」

 《宝探し屋》は、遺跡というパンドラの匣の蓋を開け、《秘宝》を盗むだけ盗んで、あとは知らんぷり。ともに封を解かれた妖魔が人に災いをなそうが、見向きもしない。
 《ロゼッタ協会》が《M+M機関》から嫌われている理由の一つだった。
 だが、こと天香遺跡に関していえば、中にいた化人ごと崩落したのだから、妖の類に悩まされることはないはずだ。
 まさか、天御子の創り出した歪な生命体は、それすらものともせずに生き延びたのか。

「……化人が?」
「そちらは私と同僚が目を光らせているから、安心するといい。具体的にいえば、阿門と皆守だ」
「なんでその二人……?」
「ふむ」

 九龍の困惑を感じ取ってか、瑞麗は平易な説明に切り替えた。

「阿門はこの世に生を受けたときから、あの墓を守るために生きてきた。いわばあの墓は、檻であると同時に道標。それがなくなったわけだ。龍、君は方位磁針なしに砂漠を越えられるか?」
「無理です」

 それは即答できる。肌を通り越して骨まで達しそうな灼熱と、少しずつ、だが確実に呼吸の速度が落ちてゆくサラーの体。疲労と脱水で最後のほうの記憶はないが、あの過酷な旅路はしっかり刻み込まれていた。

「阿門は軛を外され、身一つで砂漠に放り込まれたということだ」
「……それは、きついね」
「そして、皆守だ。防衛機制の話は、以前したことがあったな? 人は傷を抱えながら生きていくために、己の感情や記憶を心の底に押し込めてしまうことがある。その蓋が開いたことにより、何年も経ってから一気に揺り戻しがくる者もいる」
「揺り戻しって、たとえば?」
「そうだな、千差万別だが……たとえば不眠や食欲不振、気分の落ち込み、あるいは過覚醒、心的外傷を想起させる状況の回避、フラッシュバック、手の震えや発汗などの身体症状」
「それはなんか、嫌だな」

 胸のあたりにモヤモヤしたものを感じて、九龍は声を落とした。
 皆守がつらい思いをするのは嫌だ。
 飛んでいって、なんとかしてやりたくなる。
 皆守だけではない。阿門も白岐も八千穂も、苦しんでいる顔など見たくない。

「俺に何かできることない?」
「大いにあるぞ」

 瑞麗は笑って、九龍の眉間の皺を人差し指で伸ばした。

「いままでのように、友達でいることだ」
「……それだけ?」
「そうすれば、いざというときにすぐそばで手を握ってやることができるだろう。君たち風の言葉でいえば、友情は何よりの《宝》だということさ」
「けど、……だったら俺、失敗した」
「ほう?」
「《宝》は手に入れられなかった」
「なぜそう思う?」
「だってさ……阿門も甲太郎も、あのとき、死ぬつもりだった……いくら言っても……俺じゃ、あいつらを繋ぎ止められなかったんだよ」

 瑞麗はただじっと九龍の目を見て、同じ問いを静かに繰り返した。

「なぜそう思う?」
「本当に友達になれていれば、死は選ばなかった。そんな気がするんだよ。俺は、死ぬのをやめようって思えるほどの存在にはなれなかったんだ」
「あの二人のどちらかが、君にそう言ったのか?」
「そうじゃないけど」
「では、わかるまい? 君が人の心を読めるというのなら話は別だが」
「でも……でも、もし聞いてみて『そうだ』って言われたら俺、立ち直れないよ」
「ほう。真実を知るのが怖いか。出会って間もない、仕事でたまたま知り合った人間が、そんなに大事かね?」
「大事だよ」

 その答えだけは迷わずに出てきて、九龍は弱々しく繰り返した。

「大事だよ……」

 瑞麗はくすりと笑い、子どもをあやすように九龍の頭を撫でた。また、かすかにあの香りがする。ささくれだっていた心が、ほんのわずかに凪いだ。

「君の恐れることにはならない。だが、いくら他人からそう諭されたところで、怖いものは怖いのだろうな。恐怖は君の中にあるものだから」
「超ヤダー……」
「まあ、そう言うな。時が過ぎれば笑い話になるかもしれん。……ああ、そうそう、忘れるところだった。君のPDAを返しにきたんだが、もう少し預かっておくか?」

 瑞麗が懐からするりとH.A.N.Tを差し出す。ハンターの右腕とも呼べるそれは、クリスマスイヴの深夜から彼女の手もとにあった。
 本来なら、他人に渡すなどあり得ないことだ。だが入院に際し、どうしてもここへ持ち込みたくはなかった。《M+M機関》の異端審問官と繋がりがあるような病院だ。九龍の意識レベルが低下している間、持ち去られて悪用されてはたまったものではない。
 かといって、一般人である学友たちに託すわけにもいかなかった。となると、消去法で瑞麗しかいない。彼女も敵対する組織の人間ではあるが、個人的には信を置いている。
 九龍の考えどおり、瑞麗はH.A.N.Tの中身には指一本触れなかったようだった。枕の下に入れてもらう。

「ありがとう、ルイ先生」
「ああ。無事会えてよかった。私も……さすがに、君の身を案じていたよ」

 珍しくこぼれた一言に九龍が目を丸くしていると、瑞麗は優雅に立ち上がった。

「とにかく、早く体を治したまえ。君がいの一番に取り組むべき仕事はそれだ」
「うん」
「いい返事だ。今日は、ここまでとしよう。再見」

 瑞麗は黒髪を涼やかに翻し、こつこつとヒールを鳴らして部屋を出た。
 去り際、

「そういえば、雛川先生が夕薙に偵察に行かせたが、皆守は元気だったそうだ」

 と、さらに心をかき乱す名前を置いて。

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