【二〇〇四年十二月二十五日】


 クリスマスの朝、皆守甲太郎は男子寮の自室で目を覚ました。
 次の瞬間、目を覚ましたことに戸惑った。
 ここ数年深く眠れたことなどなかったのに、驚くほど頭がすっきりしている。前の晩、あまりにも力を酷使したおかげで、神経が焼き切れたかのように頭が重く、夢も見ず昏々と眠ったのだった。
 皆守に与えられた力は強力なものだが、当然多用すれば体に負担がかかる。いくら動体視力や運動神経を底上げされていても、情報を処理する脳の働きや体力そのものには限界があった。
 深い睡眠によって、それらの疲労もおおよそ取れたようだ。
 起きたところで何をすればいいかわからなかったが、ベッドを出てカーテンを開けてみる。霜の下りた草木は銀色に光り、赤ん坊の頬のような色の太陽が雲間から顔を覗かせていた。裸足の足の裏に感じるフローリングが冷たく、皆守はそこでようやく着替えるという行為を思い出した。
 適当な服を身につけ、部屋を出る。休日の男子寮は未だ静まり返っていた。
 朝起きたら顔を洗う。その習慣に則り、共用の洗面所へ向かう。冬場は水が冷たいので、適温のお湯が出てくるまでしばらく待った。
 もういいだろうというころになってお湯で顔を洗うと、途端にじりっと頬が痛んだ。

「つっ……」

 反射的に蛇口から顔を離すと、あっという間に冷めた水滴が首元まで伝い落ちる。そこにも同様の痛みを感じた。
 タオルで軽く押さえながら、正面にある鏡へ目をやる。
 鏡の中の男の顔や首には、擦り傷のような痛々しい跡が散らばっていた。
 そっと触れてみると、ぴりっとした痛みが走る。これでも時間の経過でかなり癒えた。昨夜はもっと深かったはずだ。
 葉佩九龍がつけた傷。
 皆守は、半ば途方に暮れて鏡と対面した。
 怪我を負っているということは、生きているということだ。
 クリスマスの朝が来る前に、一生を終えていたはずだったのに。
 ところが、傷跡を差し引けば、皆守は顔色もよく健康そうだった。誰だお前、と問いかけたくなる。

「あっ、皆守くん」

 心の中だけでの疑問に、背後から答えが返ってきた。
 肥後が体を揺らして洗面所へ入ってきたところだった。

「おはようでしゅ」
「……ああ」

 皆守の顔の傷が目に入らなかったわけはないが、肥後はそれには触れなかった。もこもこしたピンク色のヘアバンドをつけ、丸っこい手で顔を洗う。ぎゅっと目を瞑ったままお湯を止め、タオルで顔を拭いて、ふう、と爽快そうな表情を浮かべた。

「朝ゴハンはもう食べたでしゅか?」
「いや、まだだ」

 すると肥後は、まるで自分が怪我をしたかのように悲しげな表情を浮かべ、しょんぼりと肩を落とした。

「それは、よくないでしゅね……」

 そこまで落ち込まれるとは思わず、皆守はひそかに焦った。だが肥後は何かを思いつき、ぱっと明るい顔になる。

「そうだ、ここで待っていてくださいでしゅ」

 そう言い残して足早に洗面所を去り、皆守だけが残される。タオルを首にかけたまま待っていると、肥後は間もなく小ぶりの包みを持って戻ってきた。

「これをどうぞでしゅ」

 見ると、中身はホットドッグだ。冷めた状態でもおいしいが、ソーセージに切れ目を入れてあるので、レンジで温めて食べることもできると教えてくれた。
 気持ちはありがたいが、なぜか二つもある。肥後の顔を見上げると、天使のように純真な笑みが返ってきた。

「九龍くんと二人で食べるといいのでしゅ。ゴハンは誰かと分け合って食べるとおいしくなるのでしゅ」
「九龍は……」
「九龍くんと分け合えないなら、ほかの誰かと。誰かと分け合えないなら、いつかは。それでいいのでしゅよ」
「……そうか」

 それ以上言葉を返せなくなって俯くと、皆守の手の上にホットドッグの包みが置かれた。
 それを見ていたら、急に食欲が湧いてきた。考えてみれば、もう何時間も食べ物を口にしていない。
 肥後に礼を言い、部屋へ戻ってホットドッグを食べた。ケチャップとマスタードのチープな味がやたらとおいしく感じた。
 九龍にも分けてやりたい。皆守と一緒のテーブルについてくれるのであればの話だが。今日は男子寮に戻ってこないだろうから、食事をともにするのはまたの機会にした。
 朝食を食べ終えて歯磨きをすると、いよいよやることがなくなった。時計の針だけが規則正しく回転する。
 何十分か経ったところで、こんこん、と部屋の扉がノックされ、誰何するいとまもなく訪問者が顔を出した。そんなはずはないと知っていても、九龍が来たのかと期待してしまう。こんな無遠慮な入り方をする人間は限られている。

「おはよう、甲太郎。なんだ、意外に元気だな」

 朝っぱらから失礼なことを言ってけらけら笑ったのは九龍ではなく、夕薙大和だった。クリアファイルを小脇へ抱え、くりっとした目は愉快そうに細められている。

「勝手に入ってくるなよ。……『意外に』?」

 言葉では撥ねつけておきながら入室を止めはせず、皆守は気になった一節を繰り返した。夕薙はマイペースにきょろきょろと部屋の中を見回している。彼がこの部屋に足を踏み入れるのは初めてだった。逆も然り。
 構造自体はどの部屋も同じなのだから、特に目新しいものがあったとも思えないが、ひとしきり観察して満足したらしい。勝手にデスクの前の椅子を引き寄せて座った。

「おっと、これから朝食だったか?」

 残っていたもう一つのホットドッグに気づき、夕薙が問う。皆守は首を横に振った。

「いや。もう食べ終わった。……よかったら、やるよ」
「何?」

 夕薙は大げさに眉を上げ、驚きを表した。芝居がかった所作がいちいちうさんくさい、と以前は思っていたが、最近は捉え方が変わった。いや、これ自体はやはり処世術の一端なのかもしれないが、もはや意識せずとも彼のうちから自然ににじみ出ていることを理解したからだった。
 演技がいつしか血肉に染み込み、リアルになる。そのなだらかな変化は誰よりも皆守が経験していたところだ。
 傍から見る限りは嘘偽りなく嬉しそうに、夕薙はホットドッグを食べ始めた。

「ありがとう。起きてすぐはあまり入らなくて、ちょうど小腹が空いていたところだったんだ。それにしても、甲太郎から食べ物をもらうなんて初めてだな」
「そうだったか?」
「ああ。以前ならあり得なかった。九龍様々だな。少し妬けるよ」
「はあ?」
「だって、そうだろう。ものの三ヶ月でお前の心の扉を開いて去っていったんだからな」
「まだ……」

 反論しかけて、皆守は言葉を切る。
 まだ去ってはいない。
 本当にそうだろうか。確証はない。
 昨夜、遺跡は崩壊した。九龍はその際に負った怪我の治療のため、一時的に學園の外の医療機関へと送られていた。
 治療が済めば帰ってくるものだと思っていたが、遺跡もなく、探すべき《秘宝》もなくなった場所に戻ってくる理由はあるだろうか。高校に在籍していたのは、あくまで仕事のため。それが終われば新たな任地へ向けて旅立つと考えたほうが、むしろ自然だ。
 そうなったら、どのようにして九龍と連絡を取ればいいのだろう。あの連絡先はいつまで生きているのか。そもそも皆守が知っている九龍の、どこまでが真実なのか。
 言い淀む皆守の心を読んだかのように、夕薙が微笑する。

「ああ、すまない、言葉の綾だ。俺も『まだ』だと思っているさ」
「ふん、どうだかな」
「なんだ。胸襟を開いていたように見えたが、意外と信じてはいないのか? そんなに簡単に動揺するとはな」
「……何が言いたい」
「あの九龍が、黙って連絡を断つなんて不義理な真似をすると思うか? よそへ行くにしても、挨拶ぐらいしていくさ」
「なぜそう言い切れる?」
「俺はお前と違って、後ろ暗いところがないからな。いや、正確にはあったが、本人に直接謝って許しを得た。だから疑心暗鬼になることもない。他人を信じられないというのは結局、己の後ろめたさの裏返しだ。……ごちそうさま、うまかったよ」

 夕薙はいけしゃあしゃあと言い放ち、ホットドッグの包み紙を四つ折りにしてゴミ箱へ捨てた。
 皆守はベッドに腰かけたまま、口をへの字にしてアロマパイプに火をつける。布団の上で火気を扱うべきではないだろうし、狭い部屋で香りが充満すれば慣れていない人間にはきついかもしれないが、知ったことではなかった。突然訪ねてくるほうが悪いのだ。

「で、本当は何の用だ、大和」
「用がなければ友人の部屋に来てはいけないか? ……そんな顔をしなくてもいいじゃないか。これだよ、雛川先生から渡すように頼まれたんだ。ほら、終業式どころではなくなってしまったからな」

 ホールドアップした夕薙が、持参していたクリアファイルから書類を取り出した。皆守はそれを受け取り、ぱらぱらと内容を確認する。
 一番上。冬休みの過ごし方。規則正しい生活習慣を心がけ、風邪やインフルエンザを予防しましょう。受験までのラストスパートです。

「小学生かよ」
「体調管理は重要だろう」

 二枚目。外出許可申請書。冬季休暇中、帰省等で學園の敷地外に出る場合は、クラス、出席番号、氏名、外出日時、緊急時の連絡先を記入の上、事前にクラス担任まで提出すること。

「帰る予定はないし、俺には必要ないな」
「まあ、そう言わず取っておいたらどうだ? 初詣に行きたくなるかもしれないぞ」

 三枚目。進路希望調査票。就職・進学のいずれかにマルをつけ、以下に詳細を記入すること。
 プリントの右上に付箋が貼られており、ペン習字のお手本のような筆跡で「大まかでも構わないので、いまの希望を教えてください。一緒にがんばりましょう 雛川」と書かれている。

「高三の十二月に聞くか?」
「お前がいままで出していなかったからだろう」
「それはそうだが、……なんだよ、いちいち。気味の悪い」

 皆守の知る夕薙は、こうしたままごとに迎合する人間ではなかった。批判こそしなかったが、シニカルな笑みを浮かべて距離を置いていたはずだ。
 それがいまやどうだ。人生の先輩面をして、微笑ましげに皆守を見守っている。少なくとも、皆守にはそう感じられた。

「ご挨拶だな。……まあ、浮かれているのは認める。俺にもやっと、目指すべき進路が見えてきたからな」
「へえ? 第一希望はなんだ、高校卒業か?」
「それは、目的のために当然達成すべき課題だ」

 混ぜっ返すつもりで唇の端を曲げてみれば、大真面目に返されてしまい、皆守はいたく閉口した。
 いままでの夕薙とは違う。こんなにあっさりと、他人に感情を悟らせる男ではなかった。
 誰が彼を変えたかは明白だ。
 面白くない。
 深く息を吸うと、ラベンダーの香りが気道を刺す。

「じゃあ、なんだよ」
「内緒だ」
「……はァ?」
「おあいこだろう? 俺だって、お前が《生徒会》の副会長だったなんて、昨日まで知らなかったぞ」

 痛いところを突かれ、皆守は押し黙る。自分なりの考えがあってのこととはいえ、周りの人間を欺いていたことに変わりはない。嗅覚の鋭い夕薙に対しては特に、ボロを出せば正体を見破られると踏んで、意識的にごまかしていた自覚はある。
 彼のことは信用できなかった。否、夕薙の論法からいえば、信じられなかったのは自分自身か。
 壁を作る皆守に対し、夕薙は無理に踏み込もうとはしなかった。學園の謎にまつわることはともかく、個人的な部分は触れてこずにいた。
 それに安堵しながら、一方では失望していたのかもしれない。隠したい反面暴かれたいというジレンマ。
 そうでなければ、境界線をやすやすと踏み越えてくる九龍に、あそこまで気を許しはしなかっただろうから。
 夕薙は年上らしい笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。手狭な部屋がさらに狭く感じる。

「なんてな。べつに責めてるわけじゃない。俺も呪いのことは話していなかったしな。夢が叶った暁には、お前にも話すよ」
「……そうかよ」
「ああ。だから、卒業しても音信不通になんてなってくれるなよ?」

 卒業。なんの実感も湧かない言葉だった。
 今朝目覚めてから、ずっとそうだ。生きて十二月二十五日を迎えることも、どうやら高校を卒業することになりそうなことも、その先の人生が延々と続いていくことも、すべてが計算外。あまりにも縁遠く、自分のものとして認識できない。
 そんな皆守に、夕薙は洋画の登場人物のごとく肩を竦め、椅子の位置を戻した。

「九龍はいいクリスマスプレゼントをお前にくれたものだな」
「プレゼント?」
「ああ。嘘をつかなくていい毎日は、何にも替えがたいよ。先に体験したこの俺が保証する。では、よいクリスマスを」

 入ってきたときのように勝手な口ぶりで、夕薙は皆守の部屋を去っていった。
 あとには皆守と、夕薙の座っていた椅子が残される。
 昨日の晩、皆守と話をするために、九龍が腰かけた椅子だった。

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