おもてうら <うら>
傷は治った後も痛むものだと知ったのは、夕隙社で働き始めてからのことだった。
昨夜アルバイト中に龍介が負った怪我は、特殊な治療によって既に治癒している。だが、寝床の中で身じろぐたび、傷のあったところがちりちり痛んだ。
おかげで珍しく早起きしてしまい、かといって二度寝する気にもなれなかったので、龍介は朝焼けの尾がたなびく中を学校へ向かった。
「おはよー」
一番乗りかと思ったけれど、教室には支我がいた。彼も登校したばかりなのか、まだコートを着たままだ。いつものようにまっすぐこちらを見上げて「おはよう」と返してくれた。深夜まで続いたアルバイトの疲れはうかがえない。
支我は涼しい顔をしているが、教室の中は外と同じくらい寒くて、龍介はコートの襟元を掻き合わせた。
「さむ。暖房入ってないじゃん」
壁のパネルを操作して、設定温度を思い切り上げる。部屋が暖まるまでの間だ。教師には見逃してもらいたい。
エアコンが作動して、重い息を吐き始める。だが、そうすぐに室温は変わらない。龍介は別の手段で暖を取ることにした。
「あ。あったけー」
支我の後ろに回り、彼のコートのフードの下へ手を挟み込む。手のひらにじわじわと温もりが伝わってきた。
苦笑されるかとも思ったが、支我は何も言わない。
「正宗?」
「ん? ああ、そういえば、ゆうべの怪我はもういいのか?」
「あ~、大丈夫。もうすっかり治った」
本当はまだ違和感があるのだが、傷自体は塞がって跡もないので、龍介は胸を張った。
「なら、よかったよ。出血がひどかったから心配していたんだ」
「いや~、ごめんなぁ、かっこ悪いとこ見せちゃって。次はうまくやるからさ」
昨夜の依頼では結局、メインターゲットを取り逃がしていた。龍介が深手を負った時点で、支我が退却を決断したからだ。撤退するか否かの最終判断は、戦況を俯瞰して見ることが可能な彼の仕事だった。
幸い、その《霊》の出現場所はもう使われていない廃屋だから、一般人が被害に遭う可能性は低い。後日、再挑戦することになった。
危険な相手ではあるが、昨夜の戦闘でデータは得られたはずだ。支我のことだから、それを最大限に活かして依頼達成へ導いてくれるだろう。龍介は心配していない。
支我の後ろ姿が頷いた。
「ああ。次は必ずあの《霊》を斃す」
「……ん~?」
支我の言葉自体は何もおかしくないが、どことなく気負いが感じられて、龍介は首を傾げた。抱きつくようにして、斜め上から彼の顔を覗き込む。
「正宗、なんか顔色悪くない?」
「そうか? まあ、昨日は寝たのが遅かったからな」
と微笑む様子は龍介の知る支我正宗そのものだが、やはり引っかかりを覚えて、彼の前に回り込む。まじまじと顔を見つめた。
「なぁ、やっぱ顔色悪いよ。少し休んだら?」
「単なる寝不足だから大丈夫だよ。お前のほうこそ、昨日はかなり消耗しただろう。今日は無理をしないようにな」
「……ん~」
心配してくれているのは確かだろうが、どうにもはぐらかされた気がした。だが、こうなると支我は頑固だ。いくら仲のいい龍介とはいえ、やすやすと踏み込めるものではなかった。
頭を使わなければ。考えに考え、龍介は卑怯な手段を選んだ。
「それならいいんだけどさ」
といったん引いたふりをして、リュックを肩から下ろそうとする。そして、ぎくりと身をこわばらせ、床にうずくまった。
「痛っ……」
「おい、大丈夫か?」
予想通り、優しい支我は気遣わしげに背中をさすってくれる。龍介は心の中で彼に手を合わせながら、弱々しい声で言った。
「ごめん、昨日怪我したところが痛くて……」
「この時間なら、保健室は開いているはずだな。少し横になるといい」
「保健室……、か」
戸惑いを声に乗せて龍介がうつむくと、支我は安心させるように微笑んだ。
「俺も一緒に行くよ。歩けるか?」
「うん」
ゆっくりと立ち上がる。こればかりは演技ではなく、本当に引きつるような感覚があった。やはり、体を曲げたり伸ばしたりするとまだ痛みが走る。だが、それは支我が知らなくてよいことだった。
支我に付き添われながら、まず職員室に向かう。ちょうど職員会議が開かれているところで、養護教諭もそこにいた。
支我が手短に事情を説明すると、なんら疑われることなく保健室の鍵を借りることができた。彼の日ごろの行いがよいからだろう。
そんな優等生を騙したことはおくびにも出さず、龍介はただ哀れな怪我人の顔をして、支我が鍵を開けるのを待った。保健室の中は暖房が効いている。養護教諭は会議が終了した後すぐに戻ってくるつもりでいたのだろう、照明はついたままだった。
「龍ちゃん、こっちに……」
「よし」
龍介は頷いた。ここまでくれば、計画の八割は成功したといってよい。支我を車椅子ごとベッドサイドまで引きずってゆく。手押しハンドルがないので一苦労だったが、車輪がロックされていなかったのでなんとかなった。
「おい、龍ちゃん。なんのつもりだ」
「いいから、いいから」
ベッドにぴたりと車椅子をつけたところで、支我は事の真相に気づいたようだった。
「……そういうことか」
「ほら、寝てろよ」
龍介が掛け布団をめくって横たわりやすいようにしてやったのに、支我は硬い声で言う。
「龍ちゃん」
その声に明確な拒絶を感じて、龍介は首をすくめた。支我が苦々しげに続ける。
「お前の気持ちはありがたいが」
やめてくれ、と言われてしまえば、龍介はその一線を越えられなくなる。そうしたら、支我は平気な顔で教室へ戻って、授業を受けてアルバイトをして、誰にも何も思われずに一日を終えるのだろう。
そんな未来を迎える気はなかった。力ずくで支我の体を抱き起こす。しっかり抱え上げられたらよかったのに、自分とそう身長の変わらぬ相手だからそうはゆかず、揉み合うようにしてどうにかベッドへ乗せた。
傷のあったところが痛んで、こっそりさすってしまう。支我は珍しく露骨にため息をついた。
「龍ちゃん……」
おそらく呆れられた。だからといって、このまま逃がすわけにはいかない。龍介以外の誰が、この男を休ませられるというのだろう。
逃亡防止のためには投げ出された彼の脚の位置を整えたいところだったが、さすがにためらわれて手が止まった。そこに触れたら支我の自尊心を傷つけると思った。
支我は枕の上から龍介を見上げる。
「わかったよ。抵抗はしないから、そう警戒するのはやめてくれないか」
先に折れてくれるあたり、支我のほうが大人だ。彼は苦笑して、自らの脚をベッドの中央へと移動させた。自分の意志では動かせない。龍介には見せたくなかっただろうと思い、今さらながらに罪悪感が強くなってくる。
だが、謝罪はしなかった。今の支我に休養が必要なのは確かだ。こうして間近で見ると、やはり冴えない顔色をしている。
支我は腕と腹筋を使って上体を起こし、学生服のボタンを外した。龍介が受け取り、ハンガーにかける。
横たわった体に布団を被せることは許されたようだった。ベッドの上で眼鏡を外した支我が、唐突に「すまなかった」と言う。
「何が?」
「今日のことと……、昨日は、俺のミスだった。俺がもっと早く引くように言っていれば、お前はあんな怪我をせずに済んだはずだ」
「なんだ、そんなことかぁ」
龍介はベッドに座り、レンズ越しではない支我の目を見下ろした。
「あと少しで斃せると思ったんだろ? お前だけじゃなくて、全員がそう思ってたよ。難しいよなぁ、引き際って」
大仰に肩をすくめてみせる。実際、あの《霊》はもう消滅間近で、順調にゆけば予定していた時間内に斃せるはずだった。まさか起死回生の一手があそこまでの威力を持つとは、現場にいた誰も予測することができなかった。
しかし、支我は自身の読みの甘さを絶対に許容しないだろう。だから、代わりに龍介が許してやることにする。
「なんだよ、気にしてんの? しょうがねぇな~。じゃあ特別に、おれの好きなところを三つ言ってくれたら手打ちにしてやろう」
「……難しいな。考えておくよ」
「え~」
ぶうぶう言っていると、支我が笑って、真剣に考えるからと約束してくれた。
そんなことを話しているうちに、支我の瞬きの速度が緩やかになってきた。龍介はぽんぽんと布団を叩く。
「眠い? 寝な、寝な」
そう言って、支我には背中を向け、ベッドのへりへ座り直した。
「……お前は、教室に戻らないのか?」
「おれにも授業をサボる権利がある」
振り返らぬままに主張すると、背後で支我が声を上げて笑った。
「受験前だ。なるべく出席したほうがいいぞ」
背中、というよりも腰の後ろあたりに触れられる。彼の手のひらはいつも温かくて、触られた場所がじわっと弛んだ。
本当はずっとこうしていたい。だが、支我は真面目な男だから、きっと賛成はしないだろう。
「うん。もうちょっとしたら戻るよ。……おやすみ」
「ああ、おやすみ」
やがて、いくらもしないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。龍介は背中を丸め、制服のポケットから小さなノートを出す。
そこには、アルバイトに関するさまざまなことを書き留めてあった。もうページも残り少ない。
最初は教わったことをメモするためだけのノートだった。だが、ある時期を境に、書き込む内容が変化していた。
龍介が死んで蘇生した日。
その頃から、周囲の言動にわずかな違和感を覚えることが増えた。ふと思いついて密かに記録しておくようになり、以来、ぽつりぽつりと続いている。
今日だってそうだ。支我が自身の判断ミスで龍介の怪我を招いたと悔やむのは理解できる。だが、そこまで引きずるようなことだろうか。いつもの彼なら、一晩も経てば教訓の一つとしてうまく消化しそうなのに。
支我はなぜ、まだ過去を見ているのだろう?
ぱらぱらとノートをめくってみる。そこには夕隙社で、つまりは支我とともに過ごしてきた日々の蓄積があった。
龍介には、自分が死んで《霊》となっていた間の記憶がない。だから、その期間の記述は途切れている。だが夕隙社の仲間は違う。
龍介の知らない欠落を、支我は知っている。
何か、大きな出来事があったのかもしれない。
それが彼を過去に縛りつけている?
龍介はぱたんとノートを閉じた。今まで何度も考えてはみたが、答えが出たことはなかった。
ちらりと支我の寝顔に目をやる。
いつだって何手先までも見据えている男だ。彼が歩みを止めるところなど、想像もつかなかった。
そんなところを見たいとも思わない。どこまでも自分の歩きたいように歩いてほしい。背中は龍介が護る。
残念ながら、本人の前で宣言できるほど今の龍介は強くない。だが、いつかはそうなりたいと思っていた。戦って、戦って、もっと成長して、彼が未来へ向かって歩くための手助けをするのだ。支我がいつもしてくれるのと同じように。
まだ口には出せないけれど、それが龍介の望みだった。