おもてうら <おもて>
とにかく最悪の目覚めだった。
支我はこめかみを手で押さえた。普段通りの時間に登校したものの、コンディションは万全とはいいがたい。
原因は、昨晩のアルバイトだった。舐めてかかったつもりは毛頭なかったが、龍介が軽くない怪我を負った上、メインターゲットを撃破できぬままに退却を余儀なくされた。
インカム越しに聞こえた悲鳴は、まだ支我の頭の中にべっとりとこびりついている。仲間の助けを借りてやっと引き上げてきた彼の苦しげな息づかいも、血で染まり切り裂かれた制服のシャツも。
あんな結果を招いてよいわけがなかった。もっと早く撤退を提案すべきだった。一夜明けても、なかなか後悔と苛立ちから抜け出せない。
もっとも、負傷したのが彼でなければここまで尾を引くことはなかっただろう。かつて龍介が命を落とし、そして奇跡的に、本当に奇跡的に生還を果たして以来、支我には致命的なウィークポイントができてしまった。
またあんな思いをしなくて済むように、地道な努力を重ねてきた。だが、不十分だったというわけだ。昨夜の出来事は、支我にとってまるで過去の再来だった。
そんな状態で眠りについたせいだろうか、龍介が動かなくなる夢まで見てしまい、気分は荒れていた。あれが単なる悪夢ではなく実際に起こり得る可能性の一つだと、支我はもう知っている。
静けさに満ちた早朝の教室で、一人瞑目する。こんな顔は誰にも見せられない。
が、廊下のほうから足音が聞こえてきて、支我はどうにか気持ちを切り替えた。
「おはよー」
顔を覗かせたのは当の龍介だ。支我もさすがに夢の内容を現実として捉えてはいなかったが、元気そうな様子を見てほっとする。すぐ病院へ運ぶことができて本当によかったと思った。
「おはよう」
挨拶を返したところで、また別の不安がちらついた。龍介はいつもホームルームが始まる直前に登校してくるのに、今日はやけに早い。怪我が原因で眠れなかったのではないか。
しかしそこまで考えて、支我は自らの思考を冷静に手放した。囚われすぎだ。どうやら今日は本当に調子がよくないらしい。
教室に入ってきた龍介がぶるっと震えて、暖房のスイッチがあるところへ歩いてゆく。
「さむ。暖房入ってないじゃん」
彼がボタンを押すと、重い音を立てて教室の空調が動き始める。暖房をつけるのは毎日最初に登校してくる者、すなわち支我というのが三年B組における暗黙の了解だった。今朝は他にも考えることがたくさんあったので忘れていた。
寒いのが苦手な龍介は、縮こまってもそもそとこちらへ戻ってくる。支我はその動きを見てつい笑いそうになった。澱んでいた気分が、息を吹きかけられたかのように少しずつ消えてゆく。
龍介は支我の前ではなく、なぜか背後へ回った。おや、と思う間もなく、背中にぴたりと手が添えられる。
「あ。あったけー」
コートを纏った支我の背中とフードの間に手を入れ、温もりを得ているらしい。厚い布越しに、かすかな感触が伝わってくる。
なんと冷たい手だろう。
冷たい。
まるで、死人のように。
支我は顔色ひとつ変えず、連想しかけた記憶を叩き潰した。
「正宗?」
思い出すな。
「ん? ああ、そういえば、ゆうべの怪我はもういいのか?」
「あ~、大丈夫。もうすっかり治った」
のんびりした声に、支我の肩から力が抜けた。
龍介の声はいい。いつでも支我をあるべき場所へ帰してくれる。
「なら、よかったよ。出血がひどかったから心配していたんだ」
「いや~、ごめんなぁ、かっこ悪いとこ見せちゃって。次はうまくやるからさ」
笑い混じりに龍介が言う。
もしかしたら、彼は二度と笑えなくなっていたかもしれなかった。支我が判断を誤ったせいで。
同じ間違いは犯さない。大切なものをみすみす奪い去られるような、愚かな真似などもうしない。
「ああ。次は必ずあの《霊》を斃す」
「……ん~?」
龍介が後ろから抱きつくようにくっついてきて、支我の肩越しに身を乗り出す。
「正宗、なんか顔色悪くない?」
「そうか? まあ、昨日は寝たのが遅かったからな」
笑ってみせる。事実、帰宅したのはテレビにカラーバーが映る頃だった。
龍介が支我の背中から離れる。やっと少し暖まったのに、また寒くなってしまった。
「なぁ、やっぱ顔色悪いよ。少し休んだら?」
「単なる寝不足だから大丈夫だ。お前のほうこそ、昨日はかなり消耗しただろう。今日は無理をしないようにな」
「……ん~」
龍介が顔をしかめる。昨日のことを思い出したのだろう。ゴーストによる渾身のカウンターは、相当恐ろしかったに違いない。
話題が自分のことに移ったからか、龍介が軽い口調に戻った。
「それならいいんだけどさ」
と、リュックを下ろそうとした彼が、痛みをこらえるようにうずくまった。
「痛っ……」
「おい、大丈夫か?」
嫌な緊張に襲われる。龍介の背中をゆっくりさすると、彼は不安そうな顔でこちらを向いた。
「ごめん、昨日怪我したところが痛くて……」
声が弱々しい。治療こそ済ませたとはいえ、《霊》による受傷は普通の怪我ではない。時間が経ってから症状が現れることもあった。
代われるものなら代わってやりたいが、あいにくそうもいかない。支我は教室の時計を見上げた。
「この時間なら、保健室は開いているはずだな。少し横になるといい」
「保健室……、か」
彼が困ったように声を落とす。そういえば、龍介が転校してきて以来、保健室を利用しているところは見たことがないかもしれない。入りづらいと感じるのもあり得そうな話だった。それに、具合の悪い時は誰かに寄り添ってほしくなるものだ――一般論としては。
「俺も一緒に行くよ。歩けるか?」
「うん」
龍介が頷く。支我は彼を連れて、やや離れたところにあるエレベーターへ向かった。
この時間は職員会議中だから、養護教諭は一時的に保健室を施錠しているはずだ。行きしな、職員室へ寄って鍵を借りる。龍介は半歩ほど後ろをついてきていた。
無人の保健室はほどよい湿度に保たれており、暖かい。指先に血の通う感覚が生じたことで、支我は自分の体の冷えに気がついた。
しかし、今はそれよりも龍介のことだ。車椅子を操って奥へ進み、彼のほうを振り返る。
「龍ちゃん、こっちに……」
「よし」
先ほどまでとは裏腹に、しっかりした声で龍介が言う。ふいに車椅子の背もたれを掴まれ、強く押し出された。車輪の性質上、後ろから力を加えられれば、持ち主の意志とは関係なく前へ進んでしまう。足が動けば踏ん張れるだろうが、今の支我には不可能だった。
「おい、龍ちゃん。なんのつもりだ」
「いいから、いいから」
龍介は車椅子ごと、ずるずると支我を引きずってゆく。特別力が強いわけではなくても、標準的な男子高校生程度の腕力があれば、これくらいのことはできてしまう。結局、ベッドのすぐそばまで連れて行かれた。
ようやく彼の意図を悟る。つまり、最初から支我を休ませるのが目的だったというわけだ。
「……そういうことか」
途中で芝居だと見破ってもよかったはずなのに、昨日の今日で傷が痛むと言われ、しかも何よりそれを口にしたのが龍介だったから、気が動転してしまった。
「ほら、寝てろよ」
龍介が掛け布団をめくってベッドを叩く。だが、支我は動かなかった。
車椅子からベッドへ移るところを見られたくない。
なぜか、そう思ってしまった。初めこそ苦労したが、器用な支我はあっという間にその技術を身につけて、コンプレックスに思う暇もほとんどなかったのに。
それに「見られる」といったって、相手は龍介だ。
いや、彼だからこそか。
「龍ちゃん」
優しくできなくなって、思っていた以上に余裕がないのだとわかった。
「お前の気持ちはありがたいが」
やめてくれ、と支我は続けようとしたが、その前に手のひらで口を塞がれた。
気を取られた隙に、腕を回されて力ずくで抱え上げられる。とにかく下手だ。彼のほうが腰を痛めそうだった。
本気でやめろと言えば、引き下がるだろう。しかし、あまりに一生懸命なので、支我は止めることもできずにベッドへ転がされた。
「龍ちゃん……」
支我がため息をつくと、怒られるとでも思ったのか、龍介が身構える。
「わかったよ。抵抗はしないから、そう警戒するのはやめてくれないか」
さすがにそこまで意地を張るつもりはなかった。支我が告げると、龍介はしゅんとしてうつむく。
自分のためを思ってしてくれたのはわかっていたので、支我は潔く受け入れることにした。寝不足なのは事実だ。起き上がり、コートと学生服を脱ぐ。龍介が形を整え、ハンガーにかけてくれた。
眼鏡を外して横になると、龍介がそうっと布団をかける。どれほど大事に思われているかが伝わってくるようで、面映かった。日ごろよく喋る人間は、口をつぐんでも雄弁だ。
支我は素直に「すまなかった」と切り出した。先に体調の悪さをごまかそうとしたのはこちらだ。
「何が?」
「今日のことと……、昨日は、俺のミスだった。俺がもっと早く引くように言っていれば、お前はあんな怪我をせずに済んだはずだ」
「なんだ、そんなことかぁ」
昨晩の惨状を目の当たりにした支我にはとても「そんなこと」とは思えぬのだが、龍介はただ明るく笑った。
「あと少しで斃せると思ったんだろ? お前だけじゃなくて、全員がそう思ってたよ。難しいよなぁ、引き際って」
支我が答えずにいると、龍介はベッドの端に座り、にやにやと笑う。ただ優等生の些細なミスをからかっているだけだとでもいうように。
「なんだよ、気にしてんの? しょうがねぇな~。じゃあ特別に、おれの好きなところを三つ言ってくれたら手打ちにしてやろう」
「……難しいな。考えておくよ」
「え~」
龍介がむくれる。支我はたまらず笑った。彼にはいいところがたくさんあるから、三つだけを選ぶのは骨の折れる作業になりそうだ。
これが支我にとっての日常だった。昨夜からこわばっていた体が、ようやく弛緩してくる。自然と瞼が重くなった。
日常とはすなわち、注意しておかなければある日突然奪われてしまうもの。両脚の自由も、千鶴も、夕隙社も、龍介も、みな冗談のように忽然と消えた。
護ってみせる。支我にはそれができるはずだし、そうしなければならないと思った。
「眠い? 寝な、寝な」
龍介の手が布団の上から、とん、とん、と支我を撫でる。
それが心地よくて支我がうつらうつらし出すと、龍介はやがてそっと手を離した。背を向け、ベッドのふちに座り直す。
「……お前は、教室に戻らないのか?」
腰を上げる気配がないので、掠れた声で聞いてみる。
「おれにも授業をサボる権利がある」
やけに堂々と彼が言い、支我は喉を鳴らして笑った。
理由をつけて付き添ってくれるつもりなのだろう。その気遣いがありがたかった。彼が傍らにいると、あたかも日なたでまどろむかのように、穏やかな気分になれる。
だが、自分ばかりに付き合わせるわけにはいかないとも思った。年が明ければ間もなくセンター試験があり、いよいよ受験が始まる。
龍介に触れる。背中を押すように。
「受験前だ。なるべく出席したほうがいいぞ」
龍介は、支我に背を向けたまま頷いた。
「うん。もうちょっとしたら戻るよ。……おやすみ」
「ああ、おやすみ」
支我は目を閉じた。
凍えていた体が、今は春の日のごとく温かい。
ベッドの左端に軽く沈み込んだ部分があり、瞼を閉ざしていても彼がそこにいるとわかった。
もう、あの冷たい手の感触を思い出すこともない。
どうかしていた。彼に触れられて、嫌な思い出を呼び起こすなんて。
龍介自身には、支我と同じ記憶はない。彼から聞いた話では、命を落としたと思われる瞬間に意識が途切れ、次に目を覚ました時は病院のベッドの上だったという。
それは支我にとってこの上なく素晴らしい答えだった。
一度取り戻した両脚の自由は、龍介を《白いコートの男の霊》から庇ったことで失った。その事実を彼が知れば、きっと気にするだろう。それは支我の望むところではない。
だから、事故に遭ったせいだということにしてある。彼も最初は半信半疑だったようだが、今では疑問を口にすることはなくなった。もっとも、何を聞かれたところで、何百回でも何千回でも同じ答えを返すだけだが。
支我は死ぬまで嘘をつき続けるだろう。
それが、護るということだった。