長針と短針

「ありがと、甲ちゃん。マジ助かったよ」

 技術の進歩とは素晴らしいものだ。遠く海を越えた異国の地にいる九龍の声も、少々のタイムラグを挟んだだけで普通に届いた。
 会話に応じながら、皆守は眺めるともなしにパソコンのディスプレイを眺める。スピーカーは標準搭載されていたごくふつうのもので、当たり前だが、記憶にある九龍の声よりも音質が劣化して聞こえた。
 もっとも、最後に直接顔を合わせたのは、もういつかも定かではないくらい前だ。年単位で会っていないことは間違いない。
 出会ってから十年。わりと凄腕の《宝探し屋》へと成長したらしい九龍は、息つく間もなく世界を飛び回っていた。それで、研究職のまねごとをしている皆守のところに、資料や情報を求めてときどき連絡してくるというわけだった。
 今はトルコにいるとかで、あちらは夜の六時。こちらは零時を回ったところだ。

「あんなものでよかったのか? そっちでも手に入るだろ」
「日本語訳されたのがよかったんだ。やっぱり母語とそれ以外じゃ理解のスピードが違うよ。それに資料だけあっても、読み解いてくれる人がいないと」

 それこそ、《ロゼッタ協会》とやらの中に優秀な人材がいそうなものだが。自分でなくても、というのはさすがに卑屈すぎる気がして、皆守は口をつぐんだ。連絡がもらえるのは素直に嬉しい。疲れているときならなおさら。
 男友達相手にさらっと打ち明けるには重たい本音の代わりとして、九龍の近況を聞いてみることにした。

「その後は順調か」
「おかげさまで。これは、今回もハンターランク一位もらっちゃうね」
「そりゃ何よりだ。今度のバディは役に立つのか?」
「今度の?」

 九龍が不思議そうに聞き返してくる。
 現地で雇ったバディがガチガチの不良少年で、当初はまったく聞く耳を持たなかった、でも探索中に少しずつ仲良くなれた……と苦労話をしていたのは、前回直接会ったときだ。感動的なエピソードに聞こえたが、本人にとっては忘れてしまう程度の相手だったらしい。
 無理はない。もうかなり前のことだし、九龍の周りには人が多い。
 皆守は中古で買ったオフィスチェアをかすかに軋ませながら、画面のこちらがわで伸びをした。九龍に頼まれた資料を準備するのに時間がかかり、もとの仕事とも相まって多少疲労が残っている。
 資料自体はすぐに見つけたのだが、中身を噛み砕いて九龍に伝えるまでが大変だった。大正時代の和綴じの本で、現代に生きる皆守にはひどく読みにくい。それだけではなく、記されている内容も、字義どおりではなく当時の研究を踏まえて解釈する必要があった。
 骨は折れたが、九龍の弾んだ声を聞いていると、無駄ではなかったと思える。

「いや、うまくいってるならいい」
「すこぶる好調。甲ちゃんを頼って正解だった。それに正直仕事は口実で、単純に甲ちゃんと話したかったのもある。なにせ、俺の恥ずかしい新人時代まで知られてるからさ、肩肘張らなくていいんだよね。そのままの自分で話せるっていうのかなぁ」
「……未だにそういう言葉をぽんぽん発してるのか、お前は」

 皆守にとって、いや、あの學園にいた者にとって何にも代えがたい三ヶ月間は、九龍の中では若かりしころの青き記憶と化しているらしい。一抹の寂しさを感じないといえば嘘になるが、理解はできた。その後の人生の密度はすさまじいものだっただろうから。
 なので、変に追及せず、皆守はいつものように軽口を叩く。案の定慣れたテンポで、本気かどうか怪しい弁明が返ってくる。

「甲ちゃんだけだって!」
「どうだかな」
「もー。……あっ、ちょっと待って」

 断りを入れて、九龍は誰かと言葉を交わし出した。皆守の耳には十分すぎるほど流暢に聞こえる英語だ。

「ごめん、そろそろ行くよ」
「ああ。気をつけてな。また何かあれば、いつでも声かけろよ」
「うん、ありがとう。それじゃあ、また」

 変わらぬ弾んだ声を残して、通話は切れた。
 ふー、と息を吐き、皆守は通話ソフトを終了させる。そのままパソコンの電源も落とす。
 明日は学会で自分のところのボスが発表するので、若い皆守は準備に走り回らなければならない。若いといっても三十路が見えてきた年齢だが、この世界では駆け出しに当たる。
 会場は、現在の住居から電車で二時間半ほどのところにある大学だ。もろもろ逆算すると朝五時には起きねばなるまい。
 受付の準備をして、発表会場は小教室だから机と椅子をセッティングして、発表用のノートパソコンを繋いで。もちろん先輩の研究者たちには挨拶して顔を売っておく必要があるし、夜は懇親会があるので有力な相手を見極めた上で名刺を交換しておこう。
 ……くだらない。
 皆守の中の純粋な部分は、そう感想を漏らす。
 自分で選んだ道だ。だからやめるつもりはないが、いかんせん付随する業務の一つ一つが不毛すぎる。
 だが、これも必要なこと。そう言い聞かせてさっさと床につく。最低でも三時間は寝ておかないと、お歴々の長話の途中で居眠りしてしまう。本来、皆守が必要とする睡眠時間はもっと長いのだが。
 やれやれ、と立ち上がって肩を鳴らす。
 正直、最近限界を感じ始めていた。
 思うように前へ進めず、ただ九龍を眩しく感じるだけの、この現状に。



「こんなにフレッシュなお弟子さんがいるなんて、先生も安心ですね」
「……恐縮です」

 およそ皆守の性格とはほど遠い形容詞で表され、苦笑とともに言葉を返す。
 夏休みの時期ということもあってか学会はけっこうな賑わいで、ボスの発表にもそれなりの人数が参加していた。事前予約制だったので心配はしていなかったが、キャンセルが少なく済んでよかった。あまり聴衆が少ないと語り手がへそを曲げてしまう。
 発表終わりに後片づけをしていると、見知らぬ参加者が声をかけてきた。年齢は五十代くらいだろうか。しばらく、内容の薄い立ち話をする。

「なぜか、この分野は若い方に人気がなくてねぇ。ほら、僕も含めておじさんばかりでしょ」

 自虐ネタには曖昧な愛想笑いで返す。男はいそいそと名刺入れを取り出した。皆守もスラックスのポケットから淡い紫色の名刺入れを出す。

「皆守くん、ですか。今後ともぜひよろしくお願いします。なんて、引き抜きだと思われちゃうかな」

 男が冗談めかしてボスのほうを窺う。向こうはなじみのメンツと談笑中で、こちらに気づくそぶりはない。
 男が右手を差し出したので、皆守もその手を握った。会場の冷房がきついせいか、こちらの背筋が冷たくなるほどひんやりした手だった。
 男は微笑して去っていった。

「皆守さん」

 若い女の声に呼びかけられ、振り返る。
 さすがに驚いて声を上げた。

「七瀬」

 高校時代の同級生、七瀬月魅が立っていた。理知的な印象を際立たせる眼鏡に涼しげなブラウス、タイトスカート。首から学会の参加証を提げている。
 七瀬は小首を傾げて微笑んだ。オーパーツをかたどったイヤリングが耳元で揺れている。

「お久しぶりです」
「どうした、こんなところで」

 七瀬も皆守と同じく大学院へ進学した組だが、専攻はまるで違う。こんなマイナーな植物の発表などに用はないはずだ。

「大会場のシンポジウムで、上司がゲストに呼ばれたので、それを聴きに。事前にプログラムを見ていたら皆守さんのところの名前があったので、もしかしてお会いできるかと」
「そうだったのか」

 こんな小会場にはマニアしか来ないが、講堂ではゲストスピーカーを招いてのシンポジウムが行われている。異なる専門分野の人間を呼んで、そちらの関係者も取り込もうという腹だ。七瀬の上司も、言葉は悪いが客寄せパンダの一人であったのだろう。
 七瀬はあのころと変わらない落ち着いた瞳で、先ほどの男が去っていった方向を眺めた。もちろん、見た目からは想像もつかぬほどの情熱を秘めていることは、皆守もよく知っている。

「お知り合いですか?」
「いや、ちょっと立ち話をしただけだ。それより、お前に会うとは思わなかった」
「クラスが違うから、クラス会でもお会いしませんしね。お元気でしたか」
「まあな。お前は?」
「ええ、充実しています。ときどき、熱中しすぎて寝食を忘れますけど」
「それは分野が違っても一緒か」

 皆守は苦笑いした。睡眠や食事を後回しにして研究に打ち込む者は、皆守の領域でも珍しくない。一つの道を極めんとする者の性なのだろう。

「ところで、最近九龍さんに会われましたか?」

 その名前に内心どきりとする。
 いつでも郷愁に似た感傷と、わずかな痛みを呼び起こす名前。
 平静を装って頷いた。

「対面じゃもう長いこと会ってないが、昨日スカイプで話したぜ」
「そうでしたか。お元気そうでした?」
「ああ、相変わらずだった。七瀬のところには? 連絡取ってないのか」
「調べものなどでときどき。でも、私も直接はお会いしていません。……会いたいですね」

 可憐な唇から、素直な本音がこぼれる。皆守には逆立ちをしても吐けない、てらいのない言葉だった。
 遠くから七瀬めがけて年嵩の研究者が歩いてくるのに気づき、皆守はそちらに話を切り替えた。不本意ながら感情に蓋をするのは得意だ。

「おっと、お呼びのようだな」
「あら、いけない。もうそんな時間でしたか。……皆守さん」
「ん?」
「気をつけてくださいね」

 唐突な言葉に、皆守はぽかんと口を開けた。

「何にだよ」
「……特に、何というわけではありませんが。失礼ですけど、あなたはたまに、ひどく危なっかしく見えます」

 心外だ。八千穂ではあるまいし。唇を曲げると、七瀬は微笑んだ。

「古人曰く……、心暗きときは、すなわち遇うところことごとく禍いなり。眼明らかなれば途にふれてみな《宝》なり。どうかあなたの進む道が明るいものでありますように」

 七瀬は一礼して、上司のもとへ歩いていった。
 だから、女というのは厄介だ。
 あっさりと大人になって、まだ思春期の出口を引きずっているこちらへ、えらく優しい手を差し伸べてくれる。
 その手を取るのをためらうほど。



 三日間の学会は無事に終わり、また日常がやってきた。
 言葉を交わした人間や名刺交換した相手にメールを打ったり、返したりする。一時間ほどがそれで潰れた。
 たいていは「今後ともよろしくお願いいたします」の往復で終わるが、さらにそこからメールを返してきた人物がいた。皆守のボスの発表が終わったあとに話しかけてきた、あの男性だ。
 顔はうろ覚えだったが、どちらかといえばその勤務先のほうが目を引いた。業界の権威が在籍する大学。気難しいので有名な教授で、皆守もまだコンタクトに成功したことはなかった。
 まずは周りから攻めるか、という下心もあり、そこそこ好意的な文章を返す。何往復かメールが続き、今度会おうということになった。先方は皆守の熱心さに驚きつつも喜んだ様子だ。
 相手の大学は、中央アメリカを中心に分布する月下美人の近縁種の研究で有名だった。夜に花開き、人ならざるものが跋扈する時間を統べる植物。信仰の対象としている少数民族もあったはず。ある集落の奥深くに花畑があり、さらにその奥に遺跡らしきものが見受けられるが、なかなか探索に至れないと聞いたことがあった。
 もちろん集落ごと殲滅させてしまえば奪い取れないことはないが、《ロゼッタ協会》はあくまで宝を探すのが目的であり、極力無駄な犠牲は出さない方針らしい。反対に、手立てを選ばない《秘宝の夜明け》との鍔迫り合いが激化しているとか。
 直接的に何か役に立てるかは分からないが、一助くらいにはなるかもしれない。
 彼のために。
 スケジュールに男性と会う予定を記入したところで、ポケットへ突っ込んでいた私用の携帯が震えた。

「……っと」

 緊急の連絡が来るような心当たりは特にないが、念のため誰からかだけ確認する。
 八千穂からだ。
 こちらも友達の多い人種で、根が人懐っこいので、どうでもいい用事ですぐ連絡してくる。いちおうこちらを気にかけての行動らしく、皆守もぶつくさ言いながら応じていた。
 べつにすぐ折り返す必要もあるまい、とまた携帯をポケットに戻したが、その後もしつこく震え続ける。
 根負けした皆守は、財布を持って席を立った。変わり者揃いの職場だから少々の離席に文句を言われることはないが、いちおう仕事中だ。

「コーヒー買ってきます」

 うぃー、という低い返事を背に部屋を出る。自販機のある休憩スペースまで行き、観葉植物の陰にあるソファへと腰を下ろした。背もたれによりかかり、脚を組んだ姿勢で携帯を耳に当てる。

「……なんだよ」
「あ、やっと出たッ。もう、急用だったらどうするのよ」
「だから仕事中にわざわざ出てやったんだろうが」
「あれ? まだ学生さんじゃなかったっけ?」
「いつの話だ……。とっくに卒業して就職してるっての」
「あっちゃー、ごめーんッ」

 皆守のほうも仕事の話はろくすっぽしていなかったのでおあいこだ。用件を促すと、少し時間を取っても構わないかと確認があったあと、電話の向こうでパラパラと紙をめくる音が聞こえた。手帳を開いているらしい。

「えっとね、急なんだけど、来週の土曜って空いてる?」
「土曜? 夜なら……その日は京都にいるんで、遅くはなっちまうが」

 ついさっき男性と会う約束をしたばかりだ。先方の大学に着くまでには、新幹線と在来線を乗り継がねばならない。早めに解散したとしても、こちらに戻るころには日が暮れている。

「何かあったのか」

 妙なことに巻き込まれているのではないかと心配になり、探りを入れてみる。が、八千穂は朗らかな声で否定した。

「ううん、予定があるならいいんだ。日曜日は?」
「終日、スパイスの研究に勤しむ予定だ」
「つまり空いてるってことだねッ」
「おい」
「カレーより大事な予定が入るから、空けといて!」
「カレーより大事な予定?」

 そんなもの、数えるほどしかないだろうに。サプライズの意向なのか、八千穂はそれ以上詳しいことを教えてくれなかった。皆守は頭を掻いてため息をつく。

「まったく、七瀬といいお前といい……」
「月魅? あ、聞いたよ、会ったんだって? そうそう、そういえば……」

 八千穂が話を広げようとするが、いい加減そろそろ仕事に戻らねばならない。また今度な、と告げて電話を切る。飲み物を買うという名目で出てきたので、缶コーヒーを一本買った。
 部屋に戻ると、デスクのパーテーションの上から先輩どもが目だけ覗かせてきた。どいつもこいつも、三日間続いた懇親会という名の飲み会で、心なしかげっそりとしている。

「おかえり。……携帯? さては電話? さては彼女?」
「えっ、彼女?」
「彼女?」

 ぽこん、ぽこん、ぽこん、とモグラ叩きのモグラのようにパーテーションから頭が飛び出す。「違いますよ」と慌てて否定するが、疲れた男たちにしばしいじられた。
 八千穂め。



 例の大学は思った以上に遠かった。が、電車の中でうつらうつらしているうちに着いたので、距離にしては早く感じた。
 皆守が卒業した都内の大学に比べれば、キャンパスは恐ろしく広い。指定された建物に入るまでの間、附属の植物園の横を通った。中庭には盆地の暑さにも負けずバドミントンやテニスに興じる学生がおり、どことなくゆったりした空気が流れていた。
 同じつくりの研究室が並んでいて若干迷ったが、そうかからずに目当ての部屋へたどり着く。ドアには細長いガラス窓が嵌まっていたが、廊下を通る学生から室内を覗かれないためにだろう、内側から紙が貼られていた。
 ノックすると、入室を許可する声が聞こえた。

「やあ、はるばるご足労いただいて」

 男性は柔和な笑みを浮かべ、皆守をソファに案内した。長方形の部屋の手前側が応接スペースになっており、衝立を挟んで奥側に彼の机などが置かれているようだ。突き当たりには日射しの差し込む大きな窓があった。
 こぽこぽこぽ、と衝立の向こうから飲み物を注いでいるらしき音が聞こえてくる。学生があれだけ中庭でははしゃいでいたのでうるさいかと思ったが、さすがに私立大学の研究室だけあって、静かに集中できる環境は整っているらしい。

「どうぞ」
「ああ、お構いなく」

 とはいえ真夏の炎天下を歩いてきたので水分は欲しており、ありがたくいただく。濃いめに淹れられた麦茶だった。からん、と氷がグラスにぶつかって涼しげな音を立てる。趣味のよいコースターは、皆守のほうに置かれたものと彼のほうに置かれたものとで色違いだった。

「狭くてすみません。お荷物はそちらへどうぞ」

 皆守の斜め後ろ、ドアとの隙間に、ピンク色の丸椅子が置かれる。
 そこへ荷物を置かせてもらい、皆守は改めて軽く頭を下げた。

「先日はどうも」
「こちらこそ。こんなに熱心な若手がいてくれて、僕も嬉しいですよ」

 男はにこにこ笑いながら、専門的な話を始める。皆守の質問に「いい視点ですね」と嬉しそうにしながら、本棚の本を取ってあれこれ解説した。

「僕、自分の頭でしっかりものごとを考えられる若手は大好きなんですよ。こちらも勉強になりますしね」

 などと言いながら、ますます弁舌も滑らかになる。教員という人種は、教えを請われれば喜ぶものなのかもしれない。皆守のほうも参考になることばかりだった。これでこの大学に繋がりができれば言うことなしだ。

「ところで、あの植物園は部外者でも見学できるんですか?」

 ふと思い出してそう尋ねたのは、だいぶ場が盛り上がったあとだった。
 男は頷く。

「ええ。よかったら、今から行ってみますか」
「ぜひ」

 そうして立ち上がったはいいが、くらりと目眩がして、皆守は本棚に手をついた。
 なんだ、と思う間もなく足が萎え、ずるずると座り込む。

「どうしました、大丈夫ですか」

 男が血相を変えて飛んでくる。
 が、皆守の目は、彼が後ろ手に部屋の鍵を閉めたことも、靴の踵で荷物の置かれた丸椅子をドアの前に押しやったことも見逃さなかった。
 ……おいおい。
 舌打ちしたくなる。
 そこにその配置でいられたら、部屋から出られない。

「……ほんの立ちくらみです」

 親切ぶった手をやんわりかわそうとするが、うまく力が入らない。金属の本棚に背中を預け、本格的に座り込む。男が覆い被さるようにして覗き込んでくる。清潔な匂いがした。視覚も嗅覚も問題なし。だが、手足の自由が利かない。
 飲み物に何か盛られたか。
 それも、皆守の動きを封じるほどのものだ。間違っても、ちょっとしたサプリメントを間違ってグラスに落としちゃいましたという風情ではない。
 布越しでも冷たく感じる男の手が、皆守の肩を掴む。その一瞬の触れ方で伝わってくるものがあった。ぞわりと背筋が総毛立つ。
 あー、そうか、そういうことか。よりにもよって。
 七瀬が言ったとおり、やさぐれているときは災いが起こるのだろうか。心を入れ替えて前向きに生きるんだった。半ば逃避のような後悔が頭に浮かぶ。

「……自分の頭でしっかりものごとを考えられる若手は大好き」
「え?」

 呟いた皆守に、男は困惑の表情を浮かべる。

「この分野に若手が一人もいないのはなぜだ?」
「……どうしてだと思われますか?」
「あんたが好き勝手食っちまったから」

 低い声で囁くと、男の顔から人好きのする笑みが消えた。
 代わりに、下卑た眼差しが皆守の肌を這う。

「正解です」

 五十がらみの男の目玉が数ミリ規模で動いているだけなのに、嫌悪感を催すのはどうしてだろうか。ぬらぬらと濡れたなめくじがのたくっているかのようだ。いまなら墨木の気持ちもわかる気がする。

「でも、合意の上ですよ」
「こんな狭い世界で、合意だと?」

 皆守は呆れも露わに吐き捨てた。先方は業界の権威に連なる立場で、こちらは吹けば飛ぶような駆け出しの一人。職を得るのでさえ容易ではない。
 このヒエラルキーの制御下にあって、誘いを断ったり、ことを荒立てたりできるだろうか。泣き寝入りで静かに業界を去るのが関の山ではないか。
 皆守の態度に逆上するかと思いきや、男の瞳はますます熱を帯びる。どうやら、そういうタイプの変態だったようだ。

「べつに傷つけたいわけではありません。僕はただ、自分の好みのタイプの子と恋愛がしたいだけですよ」

 寒気を感じながらも、一方で皆守は計算を始めていた。
 このような男に体を差し出す趣味は断じてないが、犬に噛まれたと思えば、得るものは大きい取引ではないか? 九龍の役に立つ知識が得られるかもしれないし。
 ……九龍。
 彼の名と、耳の奥に残る明るい笑い声が脳裏に蘇る。
 こんな申し出に応じたと知ったら、彼はどんな反応をするだろう。
 今度こそ、皆守を軽蔑するだろうか。
 もうとっくにされているかもしれない。だから、長いこと顔を出さないのかもしれないけれど。
 ぎしりと胸の奥が痛み、男の笑みが深くなったそのとき、がちゃん、と耳障りな破壊音がした。

「なんだ」

 男が愕然として顔を上げる。皆守もその視線の先を追うと、部屋の奥にある窓ガラスの一部が割れていた。
 粉砕されてきらめく破片の上に、てん、てん、てん、と転がるのは。

「……テニスボール?」
『ワイヤーを発射します』

 かすかに機械音声が響き、割れた窓の外から鋼鉄のロープが発射されて、本棚の耐震用の支柱に巻きついた。目にも留まらぬスピードだったが、皆守にはよく視えていた。
 振り子の要領で、窓の外から黒い影が突っ込んでくる。

「うわあッ」

 男が腰を抜かす。盛大に窓ガラスの割れる音。
 腕で顔をかばいながらガラスこと突っ込んできた非常識な青年は、皆守と目が合ってほっとしたように笑ったが、次いで男に射殺すような視線を向けた。

「おい、俺のバディに何してんだ、アンタ」

 あ、怒ってる。
 数年ぶりの再会で九龍に対して抱いた感想は、それだった。



 九龍は男に対してきつく灸を据えたがったが、なにせ窓ガラスを粉々にしてしまったので、速やかにこの場を去る必要があった。とりあえず、九龍が銃刀法違反になりそうなものを見せて念入りに脅したので、再犯の抑止力にはなりそうだった。

「皆守クンッ」

 九龍に背負われて植物園の裏手に向かうと、八千穂がひょっこり顔を出した。手にはテニスラケットを持っている。本人の雰囲気が溌剌としているせいで、大学生でも十分通りそうだ。

「やっぱりお前のスマッシュか。当たってたら人死にが出てたな」

 皆守の軽口に、八千穂が泣き出しそうな顔をする。

「ごめん、あたし、月魅から聞いてたの。気のせいかもしれないけど、皆守クンと話してた人が、ずっと前に月魅の大学で問題を起こして辞めた人と似てたって。立ち話してただけみたいって言ってたから話さなかったんだけど……この前電話したときにちゃんと言えばよかった……」
「べつに、お前が謝ることじゃないだろ」

 すっかり萎れてしまった八千穂に焦り、皆守は慌ててフォローする。七瀬と会った時点では本当にあれきりの可能性もあったし、評判を調べもせずのこのこ会いに行ったのも、あまつさえ自分の利益と天秤にかけて身を差し出そうとしたのも自分だ。最後のはこの二人の前では口が裂けても言えないが。
 木陰のベンチに皆守を下ろし、九龍がその横に座る。皆守が一瞬バランスを崩しただけで、過保護にも抱きかかえるように体を支えてきた。
 懐かしい温度だ。
 糸が切れたように、余計な力が抜ける。体がこわばっていたことに遅れて気づいた。

「大丈夫か」
「ああ。何か薬を盛られたみたいだが、少しずつ元に戻ってきた。それより、どうしてお前がここにいる?」

 九龍と、肩を落として立っていた八千穂が視線を交わす。

「あのね……九チャンからこの前、皆守クンは元気かって連絡があったの。話したときに元気がないみたいだったからって」
「ああ、あのときか。確かに疲れてはいたな」
「お前……言えよ、そういうことは」
「忙しいんじゃなかったのか」
「忙しいは忙しいけど、お前が元気ないなら飛んでくるよ、今みたいに。当たり前だろ」

 九龍がやるせなさそうに言い、皆守を抱き締めて頭をぐりぐり撫でる。いつもなら呆れているところだが、いまはそれが染み入るように心地よかった。
 遠慮なく九龍の肩に寄りかかり、目を伏せる。こりゃ重症だ、という顔で九龍と八千穂がアイコンタクトを取り合っているが、もうどうでもいい。この二人に虚勢を張ろうとしても無駄だ。

「それで、土曜日だったら日本に帰ってこられるっていうから、皆守クンに電話したの。でも土曜は予定あるって言ってたでしょ、だから本当は明日、九チャンが皆守クンのところに行くはずだったんだ」
「今日は先にやっちーと会ってたんだけどさ。さっきの変態の話を聞いて、ふと今の勤務地を調べてみたら、お前が今日行くって行ってた場所と一致するじゃないか。当の本人は電話しても出ねーし」
「あ?」

 言われて、荷物の奥底にしまい込んでいた携帯を出す。確かに着信履歴が複数残っていた。ちょうど移動中の時刻だ。

「悪い、寝てた」
「あのなぁ……」

 軽く睨まれるが、その眉がだんだん下がってハの字になる。

「……心配したよ」
「……悪かった」

 その顔を見ていたら、素直に謝罪の言葉が出た。やっと思いどおりに持ち上がるようになった手で、わしゃわしゃと黒い髪を撫でる。九龍が唇を噛んで目を細めている。
 ふと見たら八千穂も同じ顔をしていて、思わず笑ってしまった。同時に二人からどやされる。

「ホントに心配したんだからねッ!」
「そうだぞ!」
「悪かったって」

 こんなふうに声を上げて笑ったのはいつ以来だろうか。知らず肩の上に積み重なっていたものが、淡雪のように溶けてゆく。
 木製のベンチはちょうど植物園の陰にあって、さわやかな夏の風が汗を引かせる。空は青く、雲は白く、誰が植えたのか中庭の端に並ぶアガパンサスは皆守の好きな色をしていた。
 けして色あせた世界で生きていたわけではないのに、鮮やかな色彩が押し寄せてくる。
 九龍に寄りかかって、額を預ける。「重い」と九龍が笑う。

「なあ、今度はいつまで日本にいられるんだ?」
「舐めんなよ。世界各国から引く手数多だっつーの。日本でできる仕事を選んで請けたっつーの」
「じゃあ……」

 八千穂が大きな瞳を輝かせる。
 九龍がにっと笑った。

「当分はいるよ」
「やったー! ホント? 九チャン!」
「ほんと、ほんと!」
「ね、ね、じゃあみんなで集まろうよ! 白岐サンも月魅も会いたいって言ってたの!」
「おー、いいな」
「九ちゃん、今夜泊まる場所は?」
「直でここ来たから、まだ決めてないけど」
「じゃあ、うちに来いよ」

 背中を九龍に預けたまま、皆守は笑った。
 安心して息ができる。
 あれから、落ち着いて呼吸ができたこともできなかったこともあったけれど、九龍の横にいる時間だけは特別だ。
 自分がいるべき場所はここだと思う。
 鳥が空に在るように、魚が水中に在るように。
 ガラスを割って九龍が飛び込んできたあのとき、再確認した。
 さあ、それをすぐに話すべきか、時間をおくべきか。焦る必要はない。彼は帰ってきたのだから。

「とっておきをご馳走してやる」
「えーッ、いいなァ、あたしも食べたーいッ。あ、もう五時だよ! ちょっと早いけど、帰る前にご飯食べてかない?」
「おッ、いいね。甲ちゃん、動けそうか?」
「ああ」

 皆守は頷いて、自分の力で立ち上がった。
 八千穂とともに九龍を見下ろす。しばらく会わない間に、体つきはますます引き締まり、肌も日に焼けたようだ。精悍になった。しっかりした大人の男だ。
 こちらだってきっと、負けてはいない。この十年、彼に追いつきたくて努力してきたのだから。
 手を差し出す。いくつもの《宝》を檻から救い出してきた、それでいて皆守のものとさして変わらない手のひらが、その手を掴む。

「さあ、行こうぜ、九ちゃん」

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