葉佩九龍は困っていた。
 まんざら嫌でもないから、なおのこと困る。
 ついつい問題を見て見ぬふりで先送りし、九龍は今日も呼び鈴を押す。時刻は夜八時。晩夏とはいえ、夜の帳は降りていた。
 しばらくして扉が開き、中から顔を覗かせた男がゆるく笑う。

「よォ、おかえり」

 これだ。困りごとの原因。最初は「なんで家にいるがわが『おかえり』なんだよ」と突っ込んでいたが、「お前がこっちにいる間は言いたいんだよ」と主張されてしまえば、大人しく受け取るほかなかった。
 なんかドギマギするからやめてくれ。
 率直にそう言えれば楽なのだが、さすがにそこまで正直にはなれない。なす術なしだ。

「ただいま」
「もうできてるから、手洗ってこいよ」
「おー」

 まるで家族の会話だが、九龍はここに住んでいるわけではない。ときどき立ち寄って一緒に食事を取るだけだ。
 高校のころなんて、夕食どころか一日三食をともにしたこともあるのに。それとは比較にならないほど神経がぶわっと興奮状態になるのは、相手の完全にプライベートな部分へ足を踏み入れているからだろう。
 なんの変哲もない古アパートの一室だが、ここには確かに皆守甲太郎が過ごしてきた時間が詰まっている。
 いつでもちょっとしたメモが取れるように出してある筆記用具とか、端の塗装が剥げ気味のノートパソコンとか。冷蔵庫の中の野菜とミネラルウォーター、洗面台の脇にかかったタオル、本棚に並んだ専門書。どこを向いても皆守でいっぱいだ。
 心臓に悪い、と感じるのは、過去に死んだはずの思いがのうのうと息を吹き返して、ことあるごとに主張してくるからだった。日本に拠点を移して一ヶ月近く。そろそろ限界かもしれないと思いつつ、皆守と食卓を囲む誘惑に負けてこの部屋へ寄り続けている。
 夕食は案の定カレーだった。といっても、日によって種類が違う。今日はフライドオニオンが乗っている。

「うまそう」
「当たり前だろ?」

 自慢げな顔がちょっとかわいいとすら思ってしまい、いやいやそうじゃないだろ、と全力で思考をねじ曲げる。二人でスプーンを取り、いただきますと手を合わせた。

「お前、ほんとうまそうに食うな」

 九龍を眺めながら、皆守が嬉しそうに笑う。たちまち味が分からなくなり、九龍は辛さにやられたふりをしてコップの水をがぶ飲みした。



 皆守甲太郎は、九龍にとって生まれて初めて、失恋を経験した相手だった。
 付き合っていたわけでも、告白して振られたわけでもない。
 ほとんど暴力に近い衝撃を浴びせられ、自分でもなにがなんだかわからないまま必死に叫んで、もがいて、どうやら自分は彼のことが好きだったらしいと理解したのはあとになってからだ。
 自覚したのと同時に終わった。
 九龍は皆守を救えなかった。
 恋心は生まれてすぐ死んで、その亡霊みたいなものが、今九龍の心の大半を占めている。



 今回の遺跡は、都内にある大学の地下に広がっていた。《ロゼッタ協会》では貴重な日本人、しかも二十代ということで、潜入しやすい条件を兼ね備えた九龍が歓迎されるのは当然といえる。
 推測される遺跡の規模も報酬も、実のところはかなりこじんまりとしていた。本来はトップランクのハンターが請け負う案件ではない。一ヶ月前、ふだんと違う様子の皆守が心配になり、日本を訪れる口実として受けた仕事だった。
 正直、その前までは会う回数を意図的に減らしていた。十年前、皆守を救い損ねたことは九龍にとって大きな傷だった。顔を合わせていればいやがおうにもその痛みが蘇る。
 本人に面と向かって聞けば、救い損ねてなどいないと言ってくれるかもしれない。だがこの傷は深すぎて、あれ以来触れることさえできていないのだった。
 天香學園を離れてからも、九龍はいたく反省して、バディへの接し方を変えた。何があっても守れるように。しかし、入れ込みすぎないように。またあんな痛みを経験するなんて耐えられそうにない。幸い、天香で鍛えた腕前はよそでも役に立ったし、バディに心を寄せすぎることもなかった。何度か危ういことはあったが、途中で気づいて踏みとどまれた。
 これで大丈夫、あのときのことは過去の思い出として生きていける、と考えられるようになった矢先、まさか張本人のもとへ舞い戻ることになろうとは。
 今回の遺跡が眠る大学とは、皆守の母校だった。おかげで地理から人の少ない時間帯から、なんでも教えてもらえた。遺跡の探索にも興味を示していたが、それだけは断固として拒否し、九龍一人で潜っていた。だからなかなか進まないが、お互いのためにはこれが一番いいと信じている。
 夜になると皆守の部屋へ寄り、一緒に食事を取る。遺跡への侵入口となる大学図書館が閉まるのが夜九時。朝七時には職員が出勤し始めるので、最近の九龍はもっぱら夜行性だ。
 皆守も合わせてくれているのか、はたまたもとからのサイクルなのかは定かではないが、九龍が出発するのを見送ってから寝ているようだ。

「忘れ物なし、と」

 皆守の部屋を出る前に最終確認する。皆守は壁に寄りかかって九龍を眺めていた。
 一つ一つ装備を指で辿るたびに、かち、かち、かち、と九龍のスイッチが入る。二十八歳のしょうもない男から、世界中の夜を潜り抜けて《秘宝》を掴み取る《宝探し屋》へと。

「じゃ、行ってきます」
「ああ」

 心なしか寂しそうな表情に見えたのは、九龍の願望に過ぎないのだろうか。皆守が唇の端を上げて笑う。

「行ってきな」

 皆守の部屋を一歩出れば、仕事はもう始まっている。単独での探索だから、毎日慎重に少しずつ進めていた。おかげで、まるで会社員のように決まった時間に遺跡へと潜り、帰還する。日本人っぽいな、と《ロゼッタ》のなじみの事務方には言われた。
 移動式の書架が立ち並ぶ、大学図書館の地下五階。特定のハンドルを決まった順序で操作すると、壁際の書架が動き、人一人がやっと通れる程度の隙間ができる。
 この隘路を必ず通過しなければならないのと、行き帰りに市街地を経由するため、大きな装備は持ち込めない。愛用のアサルトライフルは、今回の任務では休憩中だった。

『ナビゲーションシステムを起動します』

 H.A.N.Tのアシストを受けながら、慎重に歩を進める。
 この遺跡はいわば、膨大な量の本が並ぶ古い書庫だった。
 本に使われている文字や内容からおよそ紀元前三千年ごろ、縄文時代終期のものと推定されるが、もちろんその時代に紙の本は一般的でないし、恐ろしいほど劣化が進んでいない。
 本を精査したいところだが、一つ一つの棚にトラップが仕掛けられており、うかつには手を出せない。どんな時代であっても、知識は権力と結びつく。この遺跡をこしらえた権力者は、よほど己の力が他者へ流れるのを厭っていたと見えた。
 ギキッ、と金属の擦れるような鳴き声。長い時をこの場所で過ごしたコウモリは、遺跡の持つ氣を酸素のように取り込んで、幼稚園児ほどの大きさまで発達を遂げていた。

『敵影を確認』

 腰に吊るしていた鞭を手に取る。林立する書架に収められた本が純粋な紙でできているかは疑問だが、万が一引火すると困るので、火気厳禁ということにしていた。
 囲まれれば脅威。しかし少数なら九龍の敵ではない。あっさりと打ち破り、先へ進む。古代文字で書かれた碑文を読み解き、複雑なギミックを一つずつ解除してゆく。
 地道な作業だ。たまに派手な仕事と勘違いされたりもするが、実際の《宝探し屋》は、事前調査や慎重な仮説検証の繰り返しが物を言う。
 いくらも進まないうちに、夜が明けようとしていた。今日はここらが潮時だろう。深追いはせず、引き上げる。
 朝焼けに移り変わる空の下、仮の寝床として契約しているウィークリーマンションへと戻る。寝に帰るだけだ。
 誰かいてくれたらいいのにな、と無意識に考えて、慌てて打ち消した。そんなことがあれば、また気持ちを傾けすぎてしまう。
 もう傷つきたくない。
 葉佩九龍は後進に憧れてもらえるような《宝探し屋》に成長したかもしれないが、一人の男としては臆病で卑怯だった。



「九龍! 久しぶりね」

 彼女とはカフェで待ち合わせをしていた。向こうのほうが先に着いていて、九龍を見て立ち上がる。たおやかな手に手を握られたかと思えば、あっという間に右腕へと抱きつかれた。
 密着する柔らかい感触に、十代のころは内心冷静ではいられなかったが、いまは余裕ぶって笑みを返せる。

「咲重ちゃん、元気だった?」

 九龍の腕を抱いた双樹が、唇をきゅっと上げて笑う。あのころと同じく、もともとの長身に高いヒールを履いているせいで、九龍とほとんど視線の位置が変わらない。

「えェ、もちろん。世界で一番イイ男に会えたから、今日はなおさら調子がいいわ」
「咲重ちゃんにそう言ってもらえるなんて光栄。そんなにかっこいいもんじゃないけどね」
「ふふ。だからよ。はりぼての色男に興味はないわ。そんなの、自分の理想を鏡に映しているだけで、自分に恋するようなものでしょう? 傷だらけの生身の人間だから愛おしいのよ」

 プラム色に塗られた爪で、優しく頬をつつかれる。

「そんなもん?」
「そうよ。……なんてね、あのころはわからなかった。九龍、あなたがあたしに本物の恋を教えてくれたのよ」

 赤みがかった瞳が、すぐ近くで情熱的に笑う。これで九龍への思いはしっかり過去のことに分類されているのだから、彼女は繊細だがしたたかだ。
 十年前、何人かの少女たちが九龍に思いを預けてくれようとした。けれど結局、九龍はそれらを受け取らなかった。当時は無自覚だったが、自分の心は他の人間に向いていたから、不実な真似はできなかった。
 二人がけの席に向かい合って座り、しばし香りのよい紅茶と昔話を楽しむ。依頼したものを双樹がテーブルに出したのは、ともに頼んだケーキの皿が空になってからだった。

「はい、どうぞ。人体には影響のない材料を使っているわ」
「ありがとう。いま、試しにちょっと嗅いでみてもいい?」

 双樹が頷くので、九龍は小瓶の蓋を開けてみる。甘酸っぱい果物の香りがした。

「スモモ?」
「メインはね。コウモリが好む、熟れた果物の香り。風のない環境ならしばらく持続するわ」
「助かる」

 双樹に依頼していたのは、あの書庫の形をした遺跡の中で、異常な発達を遂げたコウモリを一網打尽にするための道具だった。一ヶ所に集めてまとめて倒さないことには、罠の解除に集中できない。一人での探索だから、集中しているときに背後を取られても、教えてくれる人はいないのだ。
 手渡しでは落ち着かなくなる額の報酬は、すでに振り込んであった。もう一度礼を言い、九龍は氷が溶けて薄くなったアイスティーを口に含む。双樹が唇を尖らせた。

「あたしを連れていってくれればいいのに」
「気持ちだけもらっとくよ。咲重ちゃんにはお店があるしね」
「そうだけど。まさか一人で潜っているわけじゃないでしょう?」

 とっさに言葉を返せず、九龍は口ごもった。双樹の眉が不審そうに吊り上がる。

「どうして? 皆守甲太郎は一緒じゃないの?」
「なッ、なぜ甲太郎が」
「九龍が日本に戻ってきてるのに、あの男が放っておくとは思えないわ。香りの違いもわからないくせに、そういうことにだけは鼻が利くんだから」

 鬱陶しそうに言い、双樹は豊かな髪を掻き上げた。

「へ、へー……。咲重ちゃんしか知らない一面かな、それは……。そういえば、俺が転校してくる前の甲太郎ってどんな感じだったの?」
「気になる?」
「……まあ」
「あたしの口から勝手に教えるわけにはいかないわね。本人に聞いてごらんなさい」

 なーんだ、と安堵半分、落胆半分で肩を落とす九龍に、双樹は微笑んだ。長い指がつんと九龍の頬をつつく。かつて伴っていた、甘美だが脳の一部を痺れさせるような芳香ではなく、上品で気高い香りがした。

「……朱堂ちゃんが昔、『九龍は自由の匂いがする』と言っていたのを覚えていて? 悔しかったわ。《抱香師》たるこのあたしが、それを嗅ぎ分けられなかったことが。でも、あとで理由がわかったの。あたしが見るあなたは、常に皆守と一緒にいた。そして、あの男と一緒にいるときのあなたは、ほんの少しだけ自由じゃなくなるのよ」
「どういうこと?」
「人間、守るものができたら、いつまでも自由にフラフラしているわけにはいかないでしょう? そういうこと」
「……赤ん坊が生まれたばかりのお父さんみたいだなぁ」



 赤ん坊、もとい二十八歳の皆守甲太郎に直接昔のことを尋ねてみたが、あっさりとかわされてしまった。九龍としても深追いするつもりはなかったので、包丁を動かす手に意識を戻す。
 いつも作ってもらうばかりでは悪いから、たまにはこちらが夕食を用意すると申し出たばかりだった。皆守がやけに九龍を凝視してくるので、他人に台所をいじられるのが嫌だったのかと思ったが、違った。

「お前……、ふつうに包丁とまな板で料理ができたんだな」
「そりゃ、かんたんな調理くらいできるって。潜入先で必要になることもあるし。天香にいたころも作ってただろ?」
「あれは『調理』じゃなくて『調合』だろ。しかもわけのわからない食材で……。まさか、ソレも遺跡産じゃないだろうな?」

 胡乱な目つきの先にあるのは、九龍がスーパーで買ってきた肉と野菜だった。うねうね動いてもいないし、どこかに産みつけられた卵が孵ってもいない。それを説明すると、皆守は疑惑の眼差しを向けながらも引き下がった。疑り深いことだ。
 持参した鍋(大昔に皆守からもらったやつだ)に具材を入れ、水とともに煮込んでいると、そういえば、と皆守が何かを投げてよこした。
 オーソドックスな形状の鍵だ。鍵自体に細工はなく、キーホルダーなどの装飾もついていない。

「今週は仕事が立て込んでてな。帰りが遅くなるから、それで勝手に上がっててくれ」
「って、合鍵かよッ。甲ちゃんさぁ……」
「なんだよ」
「信頼してくれるのはありがたいけど……そんなホイホイ渡していいの? 俺に軸足置きすぎじゃない?」
「迷惑か」

 微妙に傷ついた顔をされると、惚れた弱みで強く出られない。いやそんなことは、とモゴモゴ言いながらおたまで鍋の中身をかき回す。
 皆守が自分を好ましく思い、当たり前のように生活の一部として組み込んでくれることは嬉しい。ただ、九龍が不安なだけだ。いつかまた失ったら。いつかまたその手を掴み損ねたら。
 考えてみれば結局、自分が傷つくのが怖いのかもしれなかった。二〇〇四年のクリスマスを二度は繰り返せない。精神が死ぬ。物理的な距離を保っている間は忘れておくことができたが、温もりをそばで感じれば感じるほど、あの恐怖は生々しくひたひたと這い寄ってくる。
 ともあれ、その恐れを皆守にぶつけるのは筋違いだと考え直し、九龍は謝罪の言葉を口にした。そもそもこんなふうに思い悩むのは自分らしくない。いつだってどこまでも直進し、細かいことは壁にぶち当たってから考えてきた。

「ごめん、ぜんぜん迷惑じゃないよ。ただなんか、真っ当な暮らしをしてる甲ちゃんを誑かしてるような罪悪感がちょっと」
「いまさら何言ってんだ。お前が天香に転校してきた時点で、俺は変わっちまったんだから、いい加減諦めて責任を取ったらどうだ」
「そっか」
「だいたい、こっちの希望で誑かされてるんだからいいんだよ」

 至極どうでもよさそうに携帯へと目を落としながらそんなことを言うので、九龍は百面相が湯気に隠れるよう、慌てて一歩下がらなければならなかった。
 やはり、何がなんでも遺跡を掘り尽くして早めにこの男のそばを離れなければならない。そうでないと葉佩九龍という男の輪郭がでろでろに溶けて目も当てられない事態になりそうな気がする。もうなっているかも、という可能性には全力で目を瞑った。
 気を取り直して味つけに専念していると、皆守がぴくっと反応してこちらを向いた。

「この匂い……。C社のルーか」
「ご名答」

 カレーか、をすっ飛ばして食品会社の名前まで当てたことに、もはや驚きはない。日本全国どこのスーパーでも売っている固形のカレールーだ。箱の裏に書いてあるとおりの分量で鍋に投げ入れ、溶けるまでぐるぐると掻き回す。

「ポピュラーすぎて甲ちゃんの口には合わないかもしれないけどさ。よく考えたら俺、こういうふつうのキッチンで料理するの慣れてないんだよね」
「やっぱりか……」
「肉じゃがとかのほうがよかったかな」
「いや」

 皆守がとことこ歩いてきて、鍋の中を覗き込む。

「俺が初めて作ったカレーもこれだったな」
「ええっ」

 どちらかといえば皆守が過去の話をしたことに驚いて大きな声を上げてしまう。なんだよ、と不審そうな顔をされて、九龍はぶんぶんと頭を横に振った。

「……ん? 九ちゃん、そんなところに傷なんてあったか?」

 ふと、皆守の視線が九龍の二の腕に吸い寄せられる。右の上腕には真新しい裂傷の痕がくっきりと残っていた。半袖の服を着ていればぎりぎり隠れる位置だが、夏場の台所が暑くて捲り上げていたので見つかったのだろう。

「ああ、この前のトルコでちょっとね」
「……へェ」
「えっなんで掴むの?」
「さあな」
「えっなんで不機嫌? 甲ちゃんってわかるようでよくわかんねーよなぁ」
「わかれよ」
「わかんねーよ」

 適当な言い合いをしながらできあがったカレーをご飯にかけ、二人で食べ始める。皆守もがつがつと完食してくれたのでほっとした。

「今日も一人で潜るのか」
「うん。咲重ちゃんに作ってもらった秘密兵器があるし」
「……双樹?」
「そう。今日会ってきたんだ。元気そうだったよ」
「それはよかったが……双樹には頼るんだな、お前は」
「ちゃんとお金払ったよ」
「そういうことじゃない。まあいい。気をつけて行けよ、何かあったらすぐ連絡してこい」
「ありがと。けど悪いな、今週忙しいんだろ」
「べつに大したことはない」

 本当だろうか。九龍はスプーンをくわえたまま、じとっと皆守を見つめる。「だるい」「眠い」「めんどくさい」は口にしても、「つらい」「苦しい」「助けてほしい」は天地がひっくり返ったところで言わなそうだ。九龍の疑念に気づき、皆守は苦笑気味に破顔した。

「本当に切羽詰まってたら、そう言うさ」
「ホントに〜?」

 皆守は笑いながら、本当に、と答えた。その笑顔に嘘がないことだけはわかったので、よしとする。
 無駄話を重ねているうちに時間が経って、後片づけをし、九龍は探索の準備を開始した。やはり皆守の視線を感じて振り返ると、当の本人も不思議そうな顔をしている。

「……なんか気になる?」
「いや……?」

 なんとなく見てしまうらしい。「そんな熱烈に見つめられたら穴が空いちゃうッ」とおどけると、「アホ」と短くどつかれた。
 時刻は午後十時を過ぎたところ。双樹にもらったパルファムの小瓶もしっかりポケットに入れた。準備は万端。叶うなら、多少時間がかかっても今日でやっつけてしまいたい。
 そうしたら、九龍はまた海外に行くつもりだった。すでに遺跡統括情報局からめぼしい潜入先の候補がいくつか届いている。
 また慌ただしい日々が始まる。屋根も床もないようなところで栄養補給をして、世界中の誰も知らない領域から《秘宝》を持ち帰る。九龍にとっては愛おしい毎日。
 だが、そこに皆守はいない。
 胸を突き刺した痛烈な寂しさを堪え、皆守に笑いかける。少なくともいまこの瞬間は二人でいるのだ。

「じゃ、行ってきます。おやすみ」
「ああ、おやすみ」

 皆守が穏やかに笑った。



 遺跡探索は予想よりも少々手こずった。奥に入れば入るほど、あの巨大化したコウモリが数多く蔓延っている。こちらの使える武器が制限されている状況下では、危険とまではいかないが面倒だ。
 双樹の調合した香水でコウモリたちを呼び寄せ、まとめて始末する。その間に罠を解除し、しばらく行ってまた同じことを繰り返す。いい加減鞭を振るう右手がだるくなってきた。
 わずかな休憩を挟み、また扉のロックを開ける。足を踏み入れた先は大広間のように開けたスペースで、壁際に床から天井までの巨大な本棚があった。
 しかし、

「多いわ!」

 思わず吐き捨ててしまったほど、びっちりとコウモリが目を光らせている。
 ギィギィ。ギィギィ。
 一つ一つは小さいものであろう鳴き声が重なり、不快な地響きと化す。
 かちっ、と背後で音がした。いましがた開けたばかりの扉が閉まる。

『作動音を確認。敵影を確認。戦闘態勢に移行します』
「だぁ、めんどくせぇ」

 思わず皆守のような台詞を口にするが、当然ここで立ち尽くしていても喰われて死ぬだけだ。ぱっと視線を走らせ、部屋の奥にレバーらしきものを確認する。あれを操作すればいいなら、罠としては単純な作りだ。障壁になるのは敵の数。それも、囲まれては面倒だが、こちらには双樹の秘密兵器がある。

「こっちに来な」

 残り少なくなってきた香水を布に染み込ませ、レバーとは反対側の方向に投げる。たちまちコウモリたちがそこへ群がった。
 香りだけで、実際の餌ではないことは向こうにもすぐに知れる。それまでの間に狩り尽くすか、あるいはレバーを引く。地味で単調な仕事。
 だが実際のところ、《宝探し屋》に地味で単調な仕事など存在しない。あるとすれば、天国への階段を数えるときだけだ。
 一定の時間が経過したあと、がん、と高い天井が大きな音を立て、九龍は顔を上げた。

「……マジ?」

 天井の一部が開いて、そこからコウモリどもがうじゃうじゃと飛び出してくる。それらは餌の匂いがするほうへ、すなわち先に死んだコウモリと葉佩がいるほうへ突進してきた。
 急いで距離を取る。だが、あまりにも敵影が密集しすぎていて、ほとんどもみくちゃになる形で牙や爪が肌を掠めた。

『攻撃を受けています』

 H.A.N.Tの冷静さに諌められ、九龍は膝をつく。相手が空を飛んでいるならその下を潜ろう。万が一にも眼球を損傷しないよう、目を庇って転がる。
 そして再び目を開けたとき、世界は相変わらず暗かった。

「あ……?」

 戸惑いは一瞬。自分の身に起きた出来事を察して武器を構え直すが、どこからともなく攻撃を受ける。
 視力に影響を受けていた。
 一時的なものだ。生きてさえいれば。
 いける、と自分に言い聞かせ、いまの状況から生き延びる術を探る。視覚は封じられたが、ほかの感覚はすべて残存していた。
 音の反響から敵の位置を探り、比較的安全な場所を確保する。
 しかし、相手は単なるコウモリではない。自壊しそうなほどに太く筋肉の盛り上がった脚が、九龍に思いきりぶつかってくる。

「つっ」

 と同時に、足もとでかしゃんと儚げな音がした。
 小瓶の割れる音。次いで、果実の香りが鼻をつく。
 さすがに焦りが胸を満たした。
 ぐっ、と鞭を握る手に力がこもり、一瞬退避が遅れる。その一瞬が命取りだった。
 ギィ、ギィ、ギィ!
 音の奔流と身の毛もよだつような空気が九龍めがけて飛んでくる。
 ひゅっと息を呑んだそのとき。
 自分でも敵でもない、べつの力に後ろから引っ張られた。
 双樹の香水とは違う匂いが鼻腔に届く。
 花の香りだ。

 利かぬ視界に、ぱん、と過去の光景がフラッシュバックする。



 ふざけんなよ……、何言ってんだよ! 俺を見ろよ! 俺の声を聞けよ! ……なあ、甲太郎ッ!

 ……じゃあな。



 痛みで叫び出しそうになったとき、耳もとで気怠げな声がした。

「落ち着け。俺を見ろ。俺の声を聞け」

 その声で、いくぶんか我に返る。
 視力は未だ戻らなかった。真っ暗な視界。嗅覚は仄かなラベンダーの香りを、触覚は後ろから胴体に回された腕を、聴覚は彼の声をすくい取る。
 正気を取り戻すには十分だった。

「どっち!」

 さまざまな言葉を省略した問いかけに、声の主はそれでも応えてくれる。

「二時の方向」

 言われたとおりの方向へ鞭を振るうと、確かな手応えがあった。獣の悲鳴が聞こえる。

「よくやった」

 九龍を敵の攻撃から逃れさせた手が、くしゃっと頭を撫でてくれた。
 その感触に、九龍はとうとう我慢しきれなくなった。

「好きだ、甲ちゃん、結婚して」
「あ?」

 声の主はさすがに面食らった様子で黙り込むが、すぐに笑い出す。

「もっと早く言えよ。お前の誕生日、過ぎちまっただろ」

 次の瞬間、打撃音と何かが潰れる音がした。まるで生き物に鋭い蹴りを叩き込んだかのような。

「見えるようになるまで、お前はそこで休んでな」
「……はーい」

 悔しかったので、九龍はその場で足踏みを始めた。
 視力が回復したら、すぐ加勢できるように。



 敵の大群も遺跡に仕掛けられた罠も、二人で立ち向かえばどうということはなかった。もともと危険度はそれほど高くないと査定されている遺跡だ。他のハンターならさっさとバディに頼り、メインのお宝以外は多少損傷しても厭わずに突破していただろう。九龍の意地と丁寧さが逆効果をもたらしていた。
 戦闘を終えた皆守が、ふうと息をついてアロマパイプに火をつける。その首筋を汗が伝っていた。こいつでも汗かくんだな、と九龍は物珍しげに見つめる。天香にいたのは秋から冬にかけてのことだったし、バディには目立って汗をかくようなレベルの動作はあまりさせていなかった。

「どうかしたか」
「いや……アロマ、まだ吸ってるんだと思って」
「昔ほどじゃないが、たまにはな」

 さすがに汗を見ていたというのは憚られてその次に目についた点を指摘すると、皆守はかちんと音を立ててライターの蓋を閉じた。

「なんか、息ぴったりだったな。十年ぶりなのに」
「バディなんだから当たり前だろ。そんなことより、さっさと《秘宝》とやらを手に入れて帰ろうぜ」

 皆守があくびをする。すっかりいつもの調子だった。まるであのころに帰ったかのようだが、確かに二人とも十年分の時間を重ねていた。
 その証拠に、天香學園ではない場所に立っている。二人とも生きている。
 喉の奥が震えた。

「なんで来てくれたわけ」

 この期に及んでまだ言うのか、とばかりに、皆守が九龍を睥睨する。

「バディだからに決まってるだろうが」
「……ってのは、わかった。おかげさまで。一人で来たんだよね」
「ああ。お前が出発したあと、久しぶりに寝つけなくて……虫の知らせってやつか? 夜の散歩にな。まあ、遺跡の護り手は倒されてるし、罠もそれほど難しくなかったからなんとかなった」
「さすが。甲ちゃん頭イイ」
「いいわけないだろ。大学受験と大学院受験でどれだけ苦労したと思ってんだ。自慢じゃないが、高校の授業の大半はサボってたからな」
「努力したのはすごいけど、それはほんとに自慢じゃないな」

 話しながら、九龍は動物の皮が表紙に張られた書物を取り上げる。遺跡の最奥にあった書棚の中央に、宝石のごとく厳かに展示されていた。
 鍵、というよりもオカルト的な要素を感じさせる封がなされていて、この場では表紙をめくれない。一度本部に情報を送り、指示を仰ぐ必要がありそうだ。ときおりあるパターンだが、報酬の分け前が減るので九龍は好きではなかった。どうせ手に入れるならすべてが欲しい。舌打ちしたくなる。金銭の問題というより、ハンター特有の占有欲のようなもの。
 けれど、成果は成果だ。皆守の声を聞きながら、《秘宝》を手中に収める。
 皆守はアロマパイプをくわえたまま、横目でふっと笑った。こんな場所で何が楽しいのか、やたらと上機嫌だ。

「取り繕っても仕方ないだろ? 俺がサボっていたことも、逃げ回っていたことも、お前には全部知られてるんだからな」
「……そうかな。いまになって初めて知ることもたくさんあるよ」

 九龍は、皆守が目を細めるのを見つめながら呟いた。
 たとえば、キスするときに相手の体の一部を押さえつける癖があるんだな、とか。
 そっちこそ、もっと早く言えよ。



 皆守が力を貸してくれたおかげで、予想よりも早く探索を終えることができた。遺跡を逆戻りし、大学図書館を抜け、市街地へと歩を進める。まだ街は眠りにつかず、ビルにはたくさんの明かりが灯っていた。

「おー。夜景がきれいだな」
「いまさらか? ずっと通ってたんだろ」
「一人だったからな、わざわざ立ち止まりはしないよ」

 四車線の道路を跨ぐ歩道橋の真ん中に立ち、しばし二人で夜の東京を眺める。昼間の熱気はやや引いて、一仕事終えた身に夜風が心地よい。

「いま何時くらい?」
「ちょうど十二時だ」

 H.A.N.Tを起動させればいいのだが、隣の皆守に甘えて時間を尋ねてみる。皆守はポケットから携帯を出して答えた。社会人なのに腕時計の一つもしていないあたりが、皆守らしいといえば皆守らしい。
 ふと、あることに気づいて、九龍は声を上げた。

「今日から九月か」
「そうだな。なんだ、今年も結局夏らしいことは何もしなかったな」
「やろう……来年は」
「だな」

 頷いた皆守は、ひどく眠そうにあくびをした。

「ふァ〜あ……眠い。久々に体を動かしたんで疲れたぜ」
「お疲れさん。ありがとな。帰って一眠りしよう」

 おう、と再び頷き、二人は皆守の部屋に向かって歩き出した。べつにあらかじめ帰る先を示し合わせておいたわけではないが、互いに選ぶ道が重なった。
 皆守はうとうとしていて、歩きながらでも眠ってしまいそうだったので、九龍は道中いろいろと話しかける必要があった。

「あ、甲ちゃんちって予備の歯ブラシある?」
「どうだったかな……切らしてるかもな」
「じゃ、コンビニ寄ってっていい?」
「ああ。うちのアパートの角を曲がって、二つ目の通りにあるぜ」
「そこ行こ。何かついでに買うもんある?」
「特にない」
「俺は唐揚げ買おうかな」
「お前……、こんな夜中によく油もん食えるな」
「え、甲ちゃん食えない派? やっぱりわっかんねーなぁ……」

 とりとめのない、翌朝には忘れてしまいそうな会話が、夜の空気にゆらゆらとたゆたう。数年間の空白などなかったかのように、時間はのんびりと流れ始めていた。

 時計の針が動き出す。長針と短針が重なり、刹那的に同じ時を過ごす。


 そしてひとたび離れても、必ず重なるときがくる。

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