おまけ
葉佩九龍の今宵の寝床は、都内某所にあるシティホテルの一室だった。
《ロゼッタ協会》日本支部に顔を出したあとである。今日からおこなわれる一週間の研修に参加しなければならないのだが、宿を取っているのは今夜だけだ。明日になれば、出張中のバディが帰ってくる。すでに何度かそうしていたように、彼の部屋へ転がり込むつもりだった。
一泊だけならと、事務方がそこそこいい部屋を用意してくれたのもありがたい。協会の研修施設も宿泊可能だが、妙な仕掛けが山ほどあり、新人時代ならともかくそれなりのキャリアを積んだハンターが泊まりたい場所ではない。
そういうわけで、無事に研修の一日目を終え、九龍は部屋に備えつけのソファへ座って本日の報告書を作成していた。
しかし、どうにも筆が進まない。九龍はキーボードを叩く手をしばし休め、研修で調合方法を会得した品々をいま一度眺めることにした。
食糧確保の困難な状況下でいかにして食材を調合するか、というのが今日の主なテーマだったが、完成品には一つだけ変わり種が混じっていた。
それは、プラスチックの小さなボトルに入っている。手のひらで握り込んでしまえるほど小さく、素材も半透明なので、一見して中身を看破できる人間は稀であろう。
中に入っているのは、媚薬だった。
最新のキットを使えばこんなものも容易に作れるが火遊びはほどほどに、と紹介されたものだ。参加者は男女問わずさばけた性格のハンターが多く、どっと受けていた。
研修では全員が調合に挑戦するので、できあがった品はすべて持ち帰ることになる。だから、九龍の荷物の中にもこれが含まれていたというわけである。
九龍はミニボトルを前にして、しばし考え込んだ。明日からバディの家に泊まるとなれば、この薬が見つかってしまうおそれがある。あまりいい結果にはならなそうだったので、事前に処分しておきたかった。
とはいえ、うかつに捨てて一般人の手に渡っては厄介だ。
九龍は考えを巡らせ、一つの解決法にたどり着いた。
外に捨てられないなら、体の中に捨ててしまえばいい。つまり、飲んでしまえばいいのだ。
この量なら、明朝には抜けている。残りの研修には差し支えない。下世話な内容ではあるが、さっそく効能を試したということで、報告書の字数稼ぎにもなる。
だいたい、協会の人遣いが荒いせいで、九龍はここしばらく日本にも寄ることができず、めっぽう寂しいハンターライフを送っていたのだ。少しくらいハッピーな思いをしてもいいではないか。
決断してしまえば、実行までは速かった。蓋を回して開け、一気に飲み干す。
液体というよりは軽くとろみがついた餡に近く、むせそうになる。味は甘ったるくて、喉に絡みつくようだった。どうにか飲み下し、容器の蓋を閉める。
ちょうどそのとき部屋の呼び鈴が鳴り、九龍は飛び上がって膝をテーブルに強打した。
「いって」
だが、来客は待ってはくれない。二度、三度と呼び鈴が鳴る。九龍はとっさに容器をソファの隙間へと押し込み、ドアのロックを外した。
「はーい、どちら……様……」
「よォ」
なんということだろう、海外にいるときは会いたくてたまらなかった、しかしいまこの瞬間においてはこの世でもっとも顔を合わせたくない相手がそこに立っていた。
「甲ちゃん……」
「早く終わったんで、新幹線で帰ってきた」
今夜の宿泊先については、あらかじめ伝えてあった。検索すれば立地は簡単に知れるだろうし、新幹線が停まる駅からは徒歩五分というアクセスのよさだ。
だからといって、基本的には省エネモードで生きているあの皆守が、用事を済ませてすぐに飛んでくるとは思わなかった。ドアノブから手も離さずに硬直した九龍を、彼は怪訝そうに見やる。
「どうした、変な顔して」
「あ、あー、いや、久しぶりに会えて嬉しいなぁっていうのと、まだ今日の分の報告書終わってないからどうしようっていうのが同時に」
「長くかかりそうなのか?」
「いやー……」
文書自体はもう間もなく規定の字数に達するが、お楽しみの時間を含めて構わないのならば深夜までかかる見通しである。さすがに正直には言えず言葉を濁すと、皆守は鞄でトンと九龍の胸を押した。
「迷惑じゃないなら入れてくれ。いちおう自分の部屋も取ったが、こっちのほうが居心地よさそうだ」
「あっ、あー、おう、もちろん」
九龍はなるべくギクシャクしないよう細心の注意を払いながら、皆守を部屋へ招き入れた。ドアが閉まると同時に、オートロックの作動音が響く。九龍は泣きたくなった。
鞄を置いた皆守は、真っ先に九龍を呼ぶ。
「九ちゃん」
「うん?」
「研修お疲れさん。よく帰ってきたな」
ほかの誰にも向けられないような優しい言い方で髪を撫でられ、今度は罪悪感で涙が出そうになった。言えない。まさか、お前のいない間一人の夜を玉虫色に彩ろうとしていたなんて、口が裂けても言えない。
「ありがとー……」
「はは、大袈裟な奴だな。何も泣くことないだろ?」
「う……、うん……」
「報告書、あと少しなら完成させちまえよ。待ってるから」
皆守はいつになく寛大な対応を見せ、ジャケットをハンガーにかけると、鞄から出した本を片手にベッドへと転がった。
九龍は仕方なくソファに戻る。ぱら、ぱら、と背後からページをめくる音が聞こえてくる以外は静かだ。どうやら、本当に報告書へ集中させてくれるらしい。
とはいえ、書ける事柄はとうに底をついている。文章を打ち込むふりでキーボードを叩いたり、誤字脱字をチェックしたりと、苦しいごまかし方が続いた。
ぱらり。
後ろからの音は、マイペースに続いている。
一度振り返ると、皆守はベッドに寝転がり、難しそうな専門書に目を落としていた。視線が文字列に沿って動き、終端まで行ってまた先頭へ戻る。本のページを繰ることに慣れた指が、最低限の動きでまたぱらっと音を立てた。
「ん? 気になるか」
「あ、いや、ぜんぜん」
首を横に振り、再び背中を丸めてH.A.N.Tの画面と睨めっこする。
遅々として進まない。
ぱらり。
音とともに、たったいま見たばかりの皆守の指先を思い出した。冷静な目の動きも。
あの本の立場になったことが、九龍にはある。当たり前のようにめくられて、視線を向けられたことが。
かっと顔が熱くなり、それどころか全身の温度が急激に上がって、九龍は慌てて水の入ったペットボトルを頬に当てた。
いけない。報告書に集中しなくては。心頭滅却すれば火もまた涼し。気合を入れて書き上げれば、煩悩など飛んでゆくだろう。
ところが、ページをめくる音が聞こえるたびに、過去のできごとが引きずり出されて鮮明な絵を描く。頭を抱えようが耳を塞ごうが、頭の中にある記憶が蘇ってくるのは止めようがない。
「九ちゃん」
「うわあッ」
すぐ後ろで声がして、九龍は全力の悲鳴を上げた。振り向けない。声の反響から推測するに、皆守は本当にすぐそばにいる。それが推測から事実に変わってしまったら大変なことになる。九龍が。
かすかに笑う気配がして、ソファが軽く揺れた。背もたれに肘をついたらしい。
「進んでないようだな」
「あ、いや、まあ、ね」
「手伝ってやろうか」
口ぶりも手つきも、まるで疲れているだろうからマッサージでもしようかと言わんばかりの気遣いようだ。だが、両手で肩を掴み、親指を肩甲骨に沿って動かしたりなんかされては困るのだ。また悲鳴が上がりそうになるので。こんなふうに。
「いい、いいから」
「そうか?」
残念そうな声は先ほどよりもさらに距離が近く、九龍はぎゅっと目を瞑った。
皆守は悪くない。ただ、些細な刺激を過去の記憶に紐づけてしまう九龍がいけないのだ。思い出は持ち主の都合で捨てたり拾ったりすることができない。気がつけば、リアルな質感を伴っていつでも蘇る。
「なあ」
「なッ、なに」
がちがちに力のこもった肩を、皆守の手がほぐすようにさする。もう駄目だ。何もかもが恥ずかしい記憶を想起させてくる。わかっていてやっているのではないかと思うほど、皆守の声は手荒に九龍の脳髄を撫でていた。
「これはなんだ?」
「これ……えっ?」
ぱちっと目を開けると、皆守が背後から何かを九龍の鼻先にぶら下げた。
それは、ソファの背もたれと座面の合間に押し込んだはずの、小さなプラスチック容器だった。
「それは」
落ち着け、となけなしの理性が語りかけてくる。焦っておかしな反応をしなければ、うまく切り抜けられるはずだ。
「研修でもらった抗生剤なんだ、もう使っちゃってからっぽだから捨てようと思って」
「ふーん」
皆守は興味なさそうに答え、手を引っ込めた。
やり過ごせたか、と九龍がほっとしていると、おもむろに容器の蓋を開けて入り口に舌を這わせる。
「甘いな。この味、どこかで……」
「そう? まあシロップなんてどれも似たような味をつけてあるんじゃないかなぁ」
声を上擦らせながら、九龍はH.A.N.Tに文字を打ち込もうとした。
背後から手が重ねられて、キーボードとは引き離される。手の甲に触れた彼の手のひらはひんやりして、ずっと触っていたくなるほど心地よい。
直後、首の後ろに硬い痛みが走った。
「痛っ……」
「九龍」
皆守の手に喉を掴まれ、反射的に心拍数が上がる。絞めようと思えば絞められる位置。皆守の親指の下で、頸動脈が脈打っている。
九龍の首に噛みついた歯は、次いで耳の後ろに触れた。
「吐け」
嘘をつき続けて、己の奥から溢れ出した記憶の海で溺れるか。
それとも真実を告白して、この男にいまここで絞め上げられるか。
究極の選択を突きつけられ、九龍はおそるおそる、自分の選んだ道を口にした。