ケミカルリリカルロリポップ
その日、皆守甲太郎は虫の居所が悪かった。
いい気持ちで寝ていたのに、知人からメールが来て起こされたからだ。
保健室を出て知人のもとへ向かい、校舎というおなじみの牢獄に戻ってきたころには、六時限目が終わろうとしていた。
荷物は教室に置いたままだ。回収して帰らなければならない。いやというほど聞いた終業のチャイムが階段を上がっている途中で流れ始め、ますますうんざりする。部活や寮に向かう生徒たちの流れに逆行しながら、三年C組の教室までたどり着いた。
さっさと校舎を出ようと考えていたが、ふと教室の中から聞こえてきた話し声に、皆守は引き戸の陰へ身を隠した。
「……キミもそうは思わないか?」
ぺらぺらの愛想でくるまれた、冷ややかな口調。つい先日同じクラスにやってきた《転校生》、喪部銛矢に相違なかった。
皆守が彼と直接言葉を交わした回数は多くない。ほとんどないといってもいい。にもかかわらず、感覚がぴりっとざわめくのには理由があった。
人を小馬鹿にしたような態度もその一端だが、最大の要因は皆守の親友、葉佩九龍の受け答えだ。
「知らねーよ」
薄い引き戸越しに、つっけんどんな九龍の声が聞こえる。喪部との間で何かあったのか、皆守は詳しく尋ねたわけではない。だが、彼がこんな態度を取る相手であるというだけで、警戒するには十分だった。敵対する《生徒会》の長にさえ、会えば挨拶は欠かさないあの九龍がだ。
他人の話を盗み聞きする趣味はない。しかしこのまま立ち去るには、場の雰囲気が緊張感を帯び過ぎていた。
「くくくッ……そう固くなることはないだろう。ボクとキミは、クラスメイトじゃないか」
「単なる、な」
「キミと、あの虫けらどもの関係と同じように?」
「……あ?」
九龍の声音が凄みを帯びる。
対して、喪部はあくまで泰然とした語り口を崩さない。無数の蟻の群れでできた山のようだ。
その山は一見大きいようだが、山裾ではもぞもぞと蟻が蠢き、自在に形を変える。表面に気を取られたが最後、足もとをすくわれてしまうだろう。九龍の声が硬くなればなるほど、喪部の薄笑いはいや増した。
「まさか、友人などと言うつもりはないだろう?」
「言ったら悪いか」
「キミがそんなものを懐に忍ばせていると、『お友達』は知っているのかい?」
「これは、……必要があって、たまたま」
「へェ? そんな薬がね」
「べつに、毒でもないし……」
「なら、堂々と喧伝して回ればいい。自分はこんなものを精製し、持ち歩いているとね。それをしないのは、薬の価値も理解できない愚鈍な『お友達』には知られたくないからだ、違うか?」
皆守は人知れず顔をしかめた。あの《転校生》相手に舌戦では分が悪い。九龍では勝てそうにない。
「……お前には関係ないだろ」
「認めてしまえばいい。キミの周りにいるのは友人などではない。残りわずかな寿命が尽きれば泥水に浮かぶだけの、小蝿だ」
ぷつっ、と皆守の中の何かが切れた。
もとより急な呼び出しでむしゃくしゃしているところだった。外は寒いし、三階まで一気に上がるのは疲れたし、せめて気の合う仲間と一緒に帰ろうと思えば、こうして邪魔が入る。
ここまで悪条件が重なっていなければ、こんな短絡的な行動は取らなかったはずだ。
「盛り上がってるところ悪いが」
皆守は、あえてのんびりと声をかけた。躊躇なく教室へ踏み込み、椅子の上で目を丸くしている九龍の手から、丸っこい小瓶を奪い取る。
斜向かいに立つ喪部の目を直視したまま、瓶の中身を煽った。
粘性の強い液体が、どろりと喉を滑り降りてゆく。味は甘い。素材の風味ではなく、えぐみをごまかそうとあとから加えたような、人工的な甘さだった。
手の甲で雑に口もとを拭い、小瓶には元どおり栓をして九龍へ投げ返す。
「帰るぞ、九ちゃん」
「こ、……」
「もう鐘が鳴った。放課後、正当な理由なく校舎に残っている生徒は、《生徒会》による処罰の対象になる。覚えておくんだな、《転校生》」
二学期になって、三年C組にやってきた転校生は二人。
だが、皆守がどちらを指してそう呼んだかは、喪部にもはっきりと伝わったらしい。
だらりと垂れた前髪の奥から、感情の読めない瞳が見返してくる。
「……忠告、痛み入るよ」
温度に欠けた声を残し、喪部は教室から出て行った。
皆守は自分の席に置いてあった荷物を掴み、まだ呆けている九龍の二の腕も掴んだ。
「ほら、いい加減立て」
「こ、甲ちゃん」
「なんだよ。話なら歩きながらにしてくれ」
「吐いて」
「は?」
「吐いて、さっき飲んだやつ、いますぐ吐いて」
ようやく廊下に出たところで勢いよく両肩を掴まれ、背中を壁にぶつけた。皆守よりも筋肉が発達した九龍の体躯は、払いのけるには重たい。
「固形の食い物じゃあるまいし、吐けと言われてもな。毒じゃないんだろ?」
「ないけど」
「ならいいんじゃないのか」
「い……くはないっていうか……、そうだ、甲ちゃんって体重何キロ?」
「また、唐突だな」
「いいから答えてくれ。なるべく正確に」
痛いほどの力で肩を押さえつけられたまま、皆守は今春の身体測定を思い出した。当然ばっくれようとしたが、去年赴任してきた保健医の瑞麗は見逃してくれず、きっちり己の成長を記録する羽目になったのだった。
「六十……一キロ、だったか」
「六十一キロね。それで摂取量が……」
九龍はいつものH.A.N.Tとかいう情報端末を取り出し、何事か必死に計算を始めた。
皆守が見る限りでは同じ計算式を三回入力していたので、試し算まできっちりおこなったようだが、弾き出された結果は変わらなかったらしい。
「半減期、十六時間。いま午後四時だから、明日の朝八時。マジかよ……。その間何かあったら甲ちゃんのご両親に顔向けが……」
「計算は終わったか?」
慌てふためく九龍を最後まで見守り、皆守は優しく問いかける。九龍は困り果てた様子で顔を上げた。
「うん、終わっ、ぐえッ」
答えを聞くやいなや、皆守は九龍の胸倉を掴み、くるっと体を反転させて壁に押しつけた。九龍の顔が絞った雑巾のように変形してゆく。
毒ではないというなら、何を口にしたのだとしても構わない。
でも、害があるなら話はべつだ。
「毒じゃないって言ったよな、九ちゃん」
「毒じゃない、毒じゃないよー、ぐえ」
「じゃあ、正体はなんだ。吐け」
「うッ、絞ま、絞ま、絞ま、絞まってて吐けない、ぐえー」
『血圧低下、心拍数低下、自発呼吸に異常』
「……校舎内での私闘は、校則で禁じられている」
背後で低い声がした。
九龍を吊るしたまま皆守が振り返ると、廊下の奥に阿門が立っている。
表情は常と変わらぬようだが、ほんのわずかに当惑しているようでもあった。
皆守は視線で訴える。いまこっちに来るな。話がややこしくなる。だいたい、授業時間中に人を呼びつけるのはいかがなものか。あれがせめて放課後だったならこんなことには。
怒涛のアイコンタクトがうまくいったかはともかく、阿門は九龍のほうへ目をやり、皆守を諭した。
「……離してやれ。《転校生》が失神しかけている」
「げほっ……あ、ありがと、阿門」
九龍は胸もとをさすっている。皆守は舌打ちした。今日はとにかくありとあらゆることがままならない。きっとおひつじ座の星占いは最下位だ。
「私闘じゃない。ちょっとしたじゃれ合いだ」
「甲ちゃんそれ、いじめっ子が言うやつ」
「俺もこいつも忘れ物を取りに来ただけで、すぐ下校する。ほら、行くぞ。さっさと歩け」
「鬼って伝説上の生き物だと思ってたけど、まさかこんな近くにいたなんて……」
九龍の尻を蹴りながら、阿門の横を通り過ぎる。阿門は物言いたげではあったが、問題なしと判断したらしく、無言で校内の見回りを再開していた。
昇降口まで来たところで、
「で、俺は何を飲んだんだ」
と問うと、すのこの上で靴を履き替えようとしていた九龍が、叱られた子供のように肩をすぼめる。
「……ビヤク」
皆守の脳は数秒遅れて、その聞き慣れない音を「媚薬」と変換した。
「媚薬? 要は精力剤の類か?」
「いや、厳密には作用機序が違う。精力剤は直接股間に効く。媚薬は神経に効いて、結果股間に効く。まあいわゆる惚れ薬に近いかな。興奮するって意味では同じだけど」
九龍がご丁寧にも手ぶりを交えて教えてくれる。周囲に誰もいなくてよかった。女子生徒にはとても見せられない。
「なんでそんなもん持ち歩いてたんだよ」
「ちょっと、そのぉ、興味あるって言ってる人がいたんで、試作品を」
「どこのどいつだ、そのクソ野郎は」
そいつとは天地がひっくり返っても仲よくなれそうにない。皆守は自分の靴をタイルの上に放り投げ、足を突っ込んだ。九月からこっち、アスファルト以外の地面を踏み続けたために、少々くたびれている。
「さっき、明日の朝八時がどうとか言ってたな」
「ああ、うん。薬の血中濃度が半分になって、効果が落ちていくのがだいたい十六時間後。つまり、明日の朝八時」
「効果ってのは」
「体に害はないよ、まったくないんだけど、ちょ〜っと興奮しやすくなるかも……甲ちゃんサッパリ系だからプラマイゼロでちょうどよかったり……しないよな……ごめん」
九龍の声はだんだん小さくなってゆき、しまいには消え入りそうなボリュームになった。
「俺が勝手に飲んだんだから、お前が落ち込む必要はないだろ」
「でもさぁ、ちゃんと管理しとかなきゃいけなかったわけだし。あとじつはちょっと嬉しくて、それも申し訳ない」
「嬉しい?」
「怪しげな薬も飲めるくらい、俺の言葉を信じてくれたんだなぁと思ってさ」
中庭を並んで歩きながら、九龍が相好を崩す。まるっきり的外れではないものの真正面から認めるのも気恥ずかしく、皆守は「小蝿呼ばわりされてムカついただけだ」と返した。
「それより、寮へ戻る前にメシでも食ってかないか」
「いいけど……いまのところ、体の変化はなさそう?」
「特に感じないな」
「心配だから、ムラムラしてきたらいちおう教えて」
それを九龍に教えてどうしてくれるというのだろう。甚だ疑問ではあったが、早めに食事を済ませてしまいたかったので、適当に頷いた。
マミーズまでの道中、それとなく神経を働かせてはみたものの、さしたる異常は感じられなかった。しいていえば、先ほどの呼び出しによる倦怠感が消失した程度か。皆守はふだんから自分の心身の状態に気を配っているとは言いがたく、変化が生じてもよほどのレベルでなければ気づかないおそれはあった。
九龍がマミーズのガラス扉を押し開けると、カランカラン、とベルが鳴った。奈々子がいそいそやってくる。
「いらっしゃいませ、マミーズへようこそ〜。何名様ですか?」
皆守が答えようとすると、なぜか九龍は二人の間に割り込んできた。「二人でお願いします!」と指を二本立てる。
「二名様ですね、お席へご案内しま〜す」
「念のため、甲ちゃんは女子に接触しないほうがいいんじゃないかと」
「はあ」
奈々子のあとを歩きながら、ひそひそ声で話し合う。きゅっとウエストをしぼった制服にミニスカートは、そういう目で見ようと思えば煽情的といえなくもない。食指が動いたとは感じなかったが、万が一あの薬の効果が発動しては大変なことになる。余計な刺激を受けないようにしておくのが無難だろう。さしもの皆守も性的な分野での問題児扱いはされたくなかった。
奥まったところにあるソファ席へ滑り込み、二人で夕食の献立を選ぶ。大きなメニュー表に隠れて、九龍の目が忙しなく動くのだけが見えた。
「えーっと俺は、チーズハンバーグと海藻サラダと、スープとプリン」
「相変わらずよく食うな」
「だって腹ぺこなんだもん。甲ちゃんは?」
九龍が片手でぱたんとメニューを閉じる。男っぽい、指の骨が太くて胼胝のある手だ。
「チーズカレー」
「お、チーズお揃いじゃん。すいませーん、注文いいですかぁ」
「はァ〜い」
九龍は奈々子を呼び、皆守の分まで注文を伝えた。
皆守はテーブルに頬杖をつきながら、アロマパイプが落っこちないよう唇を曲げる。九龍の大食らいには奈々子も慣れっこで、平然と垂れ流される複数の料理名を逃すことなく書き取っていた。
「少々お待ちくださいませ〜」
注文を受けた奈々子が、一礼して去ってゆく。九龍はこちらへ向き直った。
よく動く目玉だ。つい先ほどまでメニューの上を縦横無尽に走り回っていたかと思えば、奈々子の顔と料理名の間を行ったり来たり。そして、今度は皆守のことを捉えている。
動くのは目玉だけではない。顔全体がそうだ。大人しくしているときの九龍はカピバラのようにとぼけた顔をしているが、そんな時間はわずかしかない。持ち主に似て、顔のパーツもひとところにじっとしていられない性状なのだろう。
手足も主張が激しい。いまだって、皆守が一人静かに物思いに耽っているのを、目の前でぶんぶん手を振って妨害しようとしてくる。
「俺のこと見えてる?」
「見てる」
「ならいいけどさ。もうムラムラした?」
「まだだ。……って、なんだよこの会話」
「媚薬っつっても、要はドパミンがぐわ〜ってなる薬じゃん? わかりやすいのは対女子だけどさ、『くわぁ! キタキタキタ〜!』って感じ、ない?」
「お前の説明は知性に欠けすぎてて理解できない」
「もっとパッションで理解してほしいな」
「俺は、まだ理解を諦めてないことを褒めてほしいぜ。まったく……」
無理な要望をぶつけ合っているうちに、頼んだ品が次々と届き始めた。
皆守がスプーンを持ち上げると、チーズがとろーんと糸を引いた。それをくるくる巻き取って熱いうちに食べる。
一方で、九龍はチーズハンバーグをがつがつ掻き込み「ふぁふい!」と悲鳴を上げていた。わざわざ指摘はしてやらないが、一口の分量を見誤っているようだ。人の口の容量には限度があるし、特別それが大きいふうでもない。ありていにいえばアホなのだ。
「火傷するぞ。ゆっくり食えよ」
「ちょっと舌剥がれた」
九龍が悲しそうにコップの水を飲む。確かに、覗いた舌はやたらと赤かった。その舌の先端が、器用にぺろっと唇を舐める。
「今日の夜さ、ほんとは甲ちゃんに声かけようかとも思ってたけど、やめとくよ。いま受けてるクエストだけこなしてくる」
「ああ、……いや、俺も行く」
途中で考え直し、皆守はそう伝えた。あの狭苦しい男子寮の一室で一人悶々と夜を明かすくらいなら、体を動かして発散するほうがまだましだ。
「そう? じゃあたまには二人でしっぽり行くか。そんなに奥まで入らないから、早めに出れば消灯時間までに戻ってこられるんじゃないかな」
「わかった」
「今日もよろしくなー」
九龍がスプーン片手に笑う。熱い食品はひとまず置いておき、ぬるくならないうちにまずプリンを食べてしまう方針へと転換したらしい。ぷるぷるした艶のある表面にスプーンを差し込み、慎重に口へ運ぶ。火傷したばかりの舌に染みたのか、一瞬渋い顔になるが、幸せそうに咀嚼する。
皆守はかすかに違和感を覚えたが、瞬きの合間に消えてしまった。出どころがわからないとどことなく気持ちが悪い。
九龍はプリンを完食して、海藻サラダに取りかかっていた。前菜だのデザートだのという上品な概念は、彼にはないのだろうか。
まだ一部だけ赤い舌のふちが、ときどき見え隠れする。いままで注視したことはなかったが、薄い形をしていた。
皆守はいったんスプーンを置き、自分のTシャツの襟ぐりに指を差し込んだ。暖房が効きすぎているのか、暑い。水を一口飲む。
「マミーズのスープってお得だしいいよなぁ。今日みたいに寒い日はあったまるよ」
「……寒い日?」
「うん。寒い日にあったかいの飲むとほっとしない? ほら、前に張り込みしたときさ、缶コーヒーくれたじゃん。あのときも」
「そんなこともあったか。で? 今日は何時にするんだよ?」
夜間の外出は校則違反だ。周りに聞き咎められても面倒なので、顔を寄せて小さな声で尋ねる。
「八時でどう? 部屋まで迎えに行くから」
「八時だな」
「寝ないでよ」
「さァ、確約はしかねるが、嫌なら早く起こしに来い」
「よーし」
九龍は張り切って腕をぐるぐる回す。その腕が、ふいにぴたりと止まった。
「あっ。いまから八時までって、けっこう時間空くよな。お宝写真いる……?」
「いるかッ。なんだ、その斜め上の気遣いは」
「いやーほら、いくら男同士っつっても、デリケートな問題かなーって」
皆守がふざけて九龍の頬をぎゅーっと引っ張ると、九龍が明るい笑い声を上げる。
無駄話をしながらだったので、それからさらに小一時間かけてテーブルの皿をからっぽにし、二人はマミーズを出た。ぼやけた空気を介して見上げる黒い空には、星が点々と瞬いている。
「なんか星少ないな」
「新宿だからな。大気汚染で、遠い星はよく見えないんじゃないか」
「同じ空の下にいても、場所によって見えるものは違うってことかぁ」
白い息を吐きながら、男子寮までの道のりを進む。ところどころに立っている街灯は完璧な球形の明かりを宿していた。冬が深まるにつれて闇は濃くなる一方だが、光の強さは変わらない。少し前を歩く九龍の髪が照らされて、明るい色になったり暗い色になったりした。
皆守はふと、去年の冬は一人で夜道を歩いていたことを思い出す。
九龍が振り返った。
「本当にお宝写真いらない?」
「いらないって言ってるだろ」
寒いのでポケットに両手を突っ込んだまま、肩を使って九龍をどつく。二人は笑いながら男子寮へ足を踏み入れた。
「じゃ、またあとで」
「ああ、またな」
「起きててよ!」
わざわざ廊下の向こうから振り返って九龍が叫ぶ。防音性に欠ける男子寮のこと、苦情に発展しても不思議はないが、順応力の高い天香學園の生徒たちは、もはやドアを開けて顔を覗かせることすらしなかった。
九龍にはああ言われたものの、人間の生理として、食後は副交感神経が働き眠くなる。学生服の上着だけ椅子の背にかけ、ベッドの上へ仰向けになった。
腹の上で手を組み、自分の体調について考えてみる。著しくおかしい点はない。なんとなく熱っぽい気はするが、べつのことに集中していれば紛れる程度だ。もとより激しやすいたちでもないから、興奮が増すように仕向けられたところで、大した影響はないのかもしれない。
そうしているうちにまどろんでしまい、こつこつ、と窓を叩く音で意識が覚醒した。
目を擦りつつカーテンを開ける。フル装備の不審者が窓の外で手を振っていた。
鍵を開け、建てつけの悪い窓ガラスを苦労しながらスライドさせると、九龍は靴箱から持ってきたらしい皆守の靴を差し出した。
「窓から来るなよ……」
思わず呟く。九龍はグローブをした手で皆守の口を覆った。指先の部分は布地がないので、直接皆守の頬に触れている。
「しーっ。はい、こっち」
差し出された手を借りながら、雨樋を外壁に固定するための金具へ足を置く。外から窓を閉め、九龍を追って樋を伝い降りた。
男子寮の脇にある自動販売機の上に着地する。体を低くして人がいないかうかがってから、やっと地面に足をつけた。
「とんだ不審者がいたもんだな」
「この時間だと寮内に人がいすぎて、この格好じゃ出歩けなかったんだよ。うっかりしてたね」
「かといって、外から来るとは思わなかったぜ」
「嫌だった? リカちゃんは喜んでくれたんだけど」
平然と言われ、皆守は思わず体を引いた。
「お前……、女子寮でも同じことをしてたのか?」
「お茶しただけだよ。昼間だし……、えーと、やばかった?」
「ほかの女子に見つかりでもしてみろ、死ぬより恐ろしい目に遭うぞ。俺の部屋だけにしとけ」
「はーい……」
九龍が小さくなる。墓地に着いたところで、気を取り直して顔を上げた。
「よし。じゃあ、行こう」
受けていたクエストは遺跡の中でも手前のエリアで達成可能なものがほとんどであり、立ちはだかる化人もいまの九龍の敵ではない。口笛を吹きながら弱点を撃ち抜き、次へ向かう。後ろに控える皆守は何もやることがなかった。
巨大な手の形をした足場からほかの足場へ危なげなく飛び移ると、扉の前で待っていた九龍が拍手した。グローブをしているせいで、ぱふぱふと間の抜けた音になる。
「すげーな、どんな体幹してんの」
称賛するほどだろうかと思ったら、両手をポケットに入れたままだった。その状態でこの動きは、確かに一般的な男子高校生の域を外れている。皆守はさらりと両手を挙げ「もっと褒めてくれてもいいぜ」と冗談に変えて口の端を曲げた。
「すごーい、甲サマ、マジかっこいい〜」
にやっと笑った九龍が扉を蹴り開ける。上機嫌のまま、ハンドガンを引き抜いた。まるで己の手足を操るかのような淀みない動作だ。
右手側の【塩垂】の水槽に弾丸を撃ち込む。銃声が口笛の伴奏を務めた。ものの一、二秒で一体撃破し、柱の陰から瞬時にもう一体へ狙いをつける。壁画が刻まれた壁に、得体の知れない水槽の水がぶち撒けられた。
くるんと回して銃を収め、武器を鞭に持ち替える。しなった先端は、吸い込まれるように【蚊欲】を巻き取った。もう一匹は少々距離があったためか、再びハンドガンで眉間をぶち抜く。
「鮮やかなもんだな」
敵側の全滅を確認してから、九龍に声をかける。八千穂と三人で初めてここに来たときは、もう少し手間取っていたはずだ。
「まあこの辺のエリアはね。人は成長するってことよ」
九龍が胸を張る。皆守が適当に聞き流していると、不満げに唇を尖らせた。
「『すごーい、九サマ、かっこい〜』は?」
「言われたいか? 俺に」
「わりと」
「なら、そうだな。次で一分以内に敵を倒せたら、褒めてやってもいいぜ」
九龍が開いていたH.A.N.Tの画面を指さす。残り一つのクエストは、より奥まった区画での討伐任務だった。しかもまったく光が入らないロケーションだから、暗視ゴーグルの使用は必須。九龍の力量を思えば、一分以内という条件は達成できるか微妙なラインだ。
九龍は歯を剥き出しにして笑った。犬歯が目立つので完全に正しい配置ではないかもしれないが、なぜかきれいな歯並びだと皆守は感じた。それは、獲物の喉笛に噛みつくべく躍動する肉食獣を美しいと思うのに似ていた。待っているのは哀れな餌の死だけなのに。
「難しい条件出すねぇ」
「自信がないなら、やめてもいいけどな」
「いや、俺、そういうの燃えるたちなんだよね。まッ、見てな」
九龍は軽い足取りで遺跡の奥へ進む。目当ての部屋の前で立ち止まって目配せをするので、皆守は携帯を出してアラームをセットした。
「一分間。お前が扉を開けたらスタートだ」
「四十五秒」
「無理すんな」
「するよ、褒められたいもん俺」
ここまでのクエストを軒並み順調に達成できたせいか、九龍の高揚は皆守にも伝播してくるほどだった。呼吸と鼓動のスピードが上がり、とっ、とっ、とっ、と音を立てる。
それらが最高潮に達したとき、九龍は額の暗視ゴーグルを引き下ろした。
笑っていた顔が引き締まる。皆守の体も呼応して緊張する。ここからは命のやり取りだ。
九龍が扉を開けた瞬間、皆守はアラームのカウントダウンを開始させた。
部屋の中は暗い。暗視ゴーグルがあるとはいえ、視覚の順応には数秒かかる。しかし九龍は躊躇うことなく、右手で待ち受けていた【加賀智】を鞭で薙ぎ払った。化人が身を潜ませやすいポイントを記憶しているのか。
砂塵と化す敵影には目もくれず、九龍は奥へと突き進む。
腰の鞘から、暗闇でもぎらぎらと赤く輝く日本刀を引き抜いた。横顔が照り返しを受けて浮かび上がる。
笑っていた。やはり、歯を剥いて。
九龍が刀を振り抜くと、軌道にそのまま大小の火の粉が散った。ほんの一呼吸遅れて、ごうと炎が燃え上がる。
灼熱の剣で一文字に斬られた化人は、皆守のもとまで届くほどの苦悶の声を上げた。
「何秒?」
九龍が意気揚々と叫ぶ。皆守は部屋の奥へと足早に歩み寄りながら、携帯をポケットに戻した。
「四十二秒」
そして、九龍の襟首を掴んで思いきり引き寄せる。
次の瞬間、いまのいままで九龍が立っていた地面が割れ、硬い触手のようなものが突き上げてきた。
「うおっ!」
正面にいた化人は一掃したが、一体だけ部屋の端に潜んでいた化人を討ち漏らしたのだ。
九龍は外そうとしていた暗視ゴーグルをつけ直し、後ろ手に皆守を押して化人から距離を取らせる。
炎を鋭く固めたような剣は、今度こそ【霊嗣】の首を討ち取った。
【加賀智】を鞭で仕留めるという任務は達成したし、怪我も負っていない。上出来といえたが、九龍は急に動きを止めておろおろし始めた。
「やべ、暗視ゴーグルのバッテリー切れたッ。ねぇ、もういない?」
「いない。……締まらない奴だな」
「だって〜」
九龍は光の当たる通路のほうまで出てきて、ふう、と息を吐きながらゴーグルを上げた。一緒に前髪も持ち上がり、珍しく額が露わになる。こめかみには汗がにじみ、頬骨を伝ってつるりと一滴滑り落ちた。九龍がぱちぱちと瞬きをすると、睫毛の先で微細な水滴が弾け、明かりの下で火の粉のようにきらめいた。
「油断してた。ありがと」
「お前、一個のことに気を取られるとほかがすっぽ抜ける癖があるな」
「あと、甲ちゃんがいると甘えちゃう癖もある。ごめーん。怪我しなかった?」
両手を広げて無事な姿を示すと、九龍は「よかった」と笑った。グローブを嵌めた手の甲で額の汗を払い、H.A.N.Tに目を落とす。
「これで全部だな」
汗をかいて暑くなったのか、九龍はグローブの端を噛んで手のひらから剥がすように外した。皮が剥けるように生の手が現れる。H.A.N.Tを持ち替えて、反対側も。その間も視線は画面に注がれており、ぞんざいな仕草だった。
皆守は、締めつけられるような喉の渇きに気づいた。さほど運動した覚えはないが、九龍について回るだけでも水分を消費したのだろうか。
「まだ九時過ぎだ。消灯時間には間に合いそうだね」
「……ああ」
「暑い? 水でも飲もうか」
服をつまんでぱたぱた仰いでいたためか、九龍の発案で休憩してから寮へ戻ることになった。九龍が魂の井戸と呼んでいる小部屋に入り、ミネラルウォーターを取り出す。
ぬるかったが、一口飲むと生き返った心地がした。クエストの後処理をしていた九龍のほうへ振り返る。
「もう帰……」
九龍と目が合った瞬間、渇きは再発した。喉を鳴らしてまた水を飲む。
「いい飲みっぷり」
人懐っこい笑みを浮かべた九龍からこっそり距離を取って、皆守は遺跡からの帰路についた。
外は寒く、熱を孕んだ体を冷ましてくれる。九龍がまた自動販売機によじ登り始めたときはうんざりしたが、正面から入るよりも早いことに気づき、たまには悪くないかもしれないと不謹慎な感想を抱いた。
「今日もありがとう。おやすみ」
窓の外から、九龍が密やかに告げる。彼が姿を消してもしばらく、皆守は窓の隣で立ち尽くしていた。
寮監の点呼が間近に迫っている。皆守は急いで入浴を済ませ、消灯時刻には自室へ戻った。九龍とはタイミングが合わず、出くわすことはなかった。
点呼が終われば、あとは寝るだけだ。明かりを消してベッドに入った。
しかし、眠れない。疲労を感じないわけではないのに目が冴えてしまっている。小一時間格闘したところで、皆守は観念して起き上がった。
きっとあの薬のせいだ。製造責任者にクレームを入れることを決意する。
音が響かないよう自室の扉を閉める。ひたひたと無人の廊下を歩いて、九龍の部屋の前まで来た。
ノックを数回。応答はない。眠っているのか、ゲームにでも熱中しているのか。
次に返事がなければ押し入るつもりで扉の隅を軽く蹴ると、ジャージ姿の九龍がやっと顔を出した。
「どしたぁ、甲ちゃん」
「責任を取れ、九ちゃん」
「はぁ……?」
九龍は不思議そうにしていたが、とりあえず皆守を室内へ招き入れた。風呂に入ったあと書き物を始めたらしく、机の上にはH.A.N.Tが開いたままになっている。
よく見れば九龍の髪はまだ湿っていた。首にかけられたタオルは活用されていないようだ。
「お前な、風呂から出たらまず髪を乾かせよ。いい加減風邪引くぞ」
「もうほとんど乾いたよ」
「冷たっ……どこがだよ」
毛先は確かに乾きつつあったが、地肌に指を差し込んでみると、残った水気が皆守の手を濡らした。九龍が面白がって、犬のようにぶるぶると頭を振る。皆守はその勢いと飛んでくる水滴に思わず笑ってしまいながら、「ふざけんな」と九龍のタオルを彼の頭に被せた。
「書いてる間に髪の毛のこと忘れてたわ。さみー」
「お前は日本の十二月を舐めすぎだ」
九龍が両手でわしゃわしゃとタオルを動かす。
ふと、彼の首回りに目が留まった。
皆守と違って特別寒がりではない九龍は、ジャージの襟を折って寝かせている。だから、うしろに立つ皆守の位置からは、ちらりと首筋の肌の色がうかがえた。
男の首というのは、どうしてこんなに無防備なのだろう。女ならば長い髪で隠れることも多いのに、九龍のそこを覆うものは何もない。きめ細かいとは評しがたいが、ぴんと張った肌が広がっている。
「で、責任って何よ」
「……ああ、……どうにも寝つきが悪くてな。眠りたいのに眠れないってのも嫌なもんだ」
「媚薬効果? お宝写真いる? いや冗談だって。んー、じゃあおしゃべりでもしていくか」
「おしゃべり?」
「眠れない眠れないって思い続けるのも逆にイライラしそうだからさ。あと、万が一具合が悪くなったりしないか心配だから、目の届くとこにいてくれたほうが俺的にも安心」
皆守が了承すると、九龍は嬉々として部屋の隅の荷物を漁り始めた。校内からせしめたさまざまな物品が溢れかえっており、しかも統一性がない。弾薬などを調達するのに使っているらしい通販の段ボール箱は、意外にもきれいにまとめられて家具の隙間に置かれていた。
「いま寝袋出すから、いったんそっち座ってて。これ持ってて」
ぽんと放り投げられたものを反射的にキャッチすると、それは遮光器土偶の形をしたクッションだった。肥大化した目玉が不気味だ。
「なんだこれ」
「遮光器ぬいぐるみ」
答えになっていないものの、何かに集中しているときの九龍に話しかけても無駄だということは知っているので、大人しくベッドに腰かける。手遊びに遮光器ぬいぐるみとやらを抱いてみると、腕の沈み込む感触が驚くほど心地よかった。ぬいぐるみなど部屋に置いたことはないが、初めてこういったものの愛好家の気持ちが理解できた気がする。ビジュアルはいただけないが。
「抱き心地いいだろ、それ。リカちゃんにもらったんだ」
「ふーん。仲いいな、お前ら」
「へへ、そうかな」
「そうだろ」
もちもちした遮光器土偶の頭に顎を置いて答える。少なくとも、皆守は彼女からこんな品物を受け取るような付き合いはしていない。
そして九龍とも、ふかふかした手触りのものを贈るような付き合いはしていない。
なぜか胸の奥がモヤモヤしてきて、膝の上に置いた遮光器ぬいぐるみをぎゅーっと握り、押し潰すように抱き竦めた。皆守の八つ当たりは、アルカイックスマイルとともに柔らかく受け止められる。
「あった! 甲ちゃん、ベッドと寝袋どっちがいい?」
「寝袋」
「はいよ」
九龍は荷物の中から発掘した寝袋を広げ、もし寒かったらと毛布も一枚余計につけてくれた。皆守は遮光器ぬいぐるみに悪いことをしたような気持ちになって、表面を撫でてからベッドに置いた。
九龍は入れ替わりでベッドの上にあぐらをかき、ぬいぐるみを抱き締める。先ほどまで皆守がしていたのと同じように、背中を曲げて顎を埋めた。裸足の足の指が連動してきゅっと丸まる。
「靴下ぐらい履いたらどうだ」
「すぐ寝る予定だったからさ」
九龍はぬいぐるみを寝袋の枕元に置き、布団の中でうつ伏せになって枕を抱いた。
「なんの話する? 旅行みたいでテンション上がるなー、こういうの」
「お前はなんでもテンション上がるだろ」
「そんなことない。楽しくないと上がんないよ」
嘘をつけ、と皆守は思ったが、実際に九龍はとても楽しそうだった。遺跡で新たなギミックに出会ったときと同じ顔をしている。布団の下で足がぱたぱたと動いていた。
皆守の意識は、九龍があれこれ挙げるトピックの数々ではなく、彼の姿に引きつけられた。
それはたとえば、枕の上に頬杖をついて頭を支える指の関節であったり、考えるときに宙を泳ぐ眼差しであったり。変わる表情、尖る唇、ぐっと伸ばされる腕のまっすぐさ、枕に押しつけられて形を変える頬の輪郭。
均整の取れた骨格に肉がつき、葉佩九龍の体を形成している。遺跡で日々武器を操り、化人を抹殺する過程でついた筋肉は、ジャージを着て布団を被ってしまえばおおかた隠れる。いまの九龍は単なる男子高校生だ。呆れるほど無防備で、皆守がこの上に覆い被されば、あっという間に背後を取れる。がっしりした首のうしろを皆守の親指と人差し指で掴むことだって造作もない。
何かがおかしいとそのとき初めて気づいた。
皆守は人よりも段違いに目がいい。視界に入るすべてを追ってしまえるからこそ、捉えたものの奔流が頭の中に押し寄せてくる。視覚的な情報が多い場所では、神経が過敏になって負荷がかかりやすい。
だが、いまは九龍と二人きりだ。新しい環境でもなんでもない、皆守の部屋と同じ間取りの狭い部屋。この眼が処理しなければならない情報は限られている。
それなのに、吸い寄せられて止まらない。飢えきって涎を垂らす獣のように、皆守は九龍の何もかもを見ていた。
皆守が何もかもといったら、本当に何もかもだ。気が狂いそうなほど精密な世界。コマ送りにしてもまだ足りない。
薄く開いた口から覗く歯並び。遺跡の中では肉食獣に似ていると思った。
見えてしまったら感触を確かめたくなる。あの歯に触れたら、舐めたら、噛まれたら?
皆守はそれ以上の感情を拒否した。
「九龍」
「お?」
「アイマスクか何かないか」
「あー、飛行機乗ったときのがどっかに。待ってな」
九龍が起き出してまたごそごそやりだすのを、目を瞑ることで強制的に意識から排除する。こめかみが熱を持ってずきずきと痛んでいた。のたくるように寝袋へ入り、横になる。
「あったあった。悪い、甲ちゃん真っ暗じゃないと寝れないタイプだった? 電気消すな」
なにがしかのエンブレムが刺繍された黒いアイマスクを差し出し、九龍は電灯の紐を引っ張った。皆守はアイマスクをつけ、ようやく力を抜く。
へへへ、と素直な笑い声が聞こえてきた。
「やばい、マジでテンション上がるわ。移動中の雑魚寝はあっても、こういうのは初めてかも」
声が弾んでいる。言葉に偽りがないのはよくわかる。九龍は間違いなく、気を高ぶらせていた。《秘宝》を追い求めるときと同じように。
真っ暗な瞼の裏に、つい数時間前に遺跡でかいま見たばかりの獰猛な横顔が浮かぶ。
都会で見上げる星空のように、汚れた空気が妨害してくれればいい。
けれど、記憶が心に結ぶ像は、どうあがいても打ち消せない。
九龍の声が鼓膜を震わせる。きらきらした黒い瞳も、それが愉快そうに細められるところも、もはや絵に描けそうなほど網膜に刷り込まれていた。
布団の衣擦れの音と声の反響から、九龍が仰向けになったことが察せられる。寝た体勢からでは声を張りにくいのだろう、いつもよりもトーンは低く吐息混じりで、しかしこの上なく楽しそうだ。笑い声による空気の振動さえ、皆守の肌をしっとりと濡らすようだった。いま彼の喉に触れたら、きっと指先に感じる微細な痺れが心地よい。
「話したいことありすぎ。どうしよう。一晩じゃ足りないよ」
聞き慣れているはずの声が、背筋をざわざわと粟立たせる。視覚を封じても、わずかなかけらを拾おうとほかの感覚がいっせいにさざめき立つ。
これが薬の力か。こんなものを「試しに」と作ってしまえる九龍はいったいなんなのだろう。
感覚器官を塞いでも、精神までは遮断できない。ベッドからこぼれ落ちてくる声が、背骨の奥の、皆守自身でさえ知らないところをふつふつと沸かせてしまう。
下心でも恋心でもない、もっと理不尽に呑み込まれるような、皆守という人間の皮を突き破り揺さぶってくるこの感覚はなんだ。
皆守はついに恐れをなし、「耳栓も貸してくれ」と頼みかけたが、聞こえてきた寝息に思いとどまった。
「……九龍?」
呼びかけても返事はない。皆守は意を決してアイマスクをずらし、寝袋から這い出た。
すぐ横のベッドに手をついて、部屋の主の顔を覗き込む。
九龍はすでに夢の中だった。いかな皆守といえど夜目まで利くわけではないが、間に合わせの薄いカーテンでは眩い月の光を遮りきれず、寝顔をぼんやりと照らしている。
「九ちゃん」
すぐそばで呟いてみたが、九龍は布団の端を握り締めたまま眠りについていた。
よく食べてよく寝る。シンプルな行動パターンでおめでたいことだ。
人の気も知らないで。
皆守はアイマスクを遮光器ぬいぐるみに被せてやると、暖かい寝袋の中へ戻った。
かすかに土埃のにおいはするし、横の墓荒らしは静かになったと思いきや寝言がむにゃむにゃうるさいし、お世辞にも安眠できそうな環境ではなかったが、体の芯を引っこ抜かれそうなあの衝動は鳴りを潜めていた。
「朝だよ、朝、おはよう甲太郎くーん」
よく通る声に鼓膜を、太陽光に瞼をそれぞれ突き刺され、強制的に眠りから覚める。
手を顔の前にかざして目を開けると、すでに着替え済みの九龍が、膝をついて皆守に覆いかぶさるところだった。
ぴっちり上まで閉めていた寝袋のファスナーを、一思いにジャッと開けられる。せっかくちょうどよい温度だったのに、瞬く間に冷気が流れ込んできた。
「寒い……」
「はいはい、起きて味噌汁でも飲めばあったかかくなるよ」
「まだ眠い」
「わかったわかった」
と言いながら、すでに九龍の手は寝袋を剥がしにかかっている。何がわかったんだ。問い詰めるのも億劫になるほど、寝起きの頭は回転が鈍い。九龍に引っ張られて上半身だけ起き上がり、皆守は左手で目もとを覆った。即席の暗闇に心ばかり視神経が休まる。
「予想はついたけど、寝起き悪いなーお前」
「そっちがよすぎるんだ。俺は繊細なんだよ」
「繊細な奴が責任取れって押しかけてくるかよ」
「責任……」
なんの責任だったか。記憶のページをめくる指さえものろのろとしか動かない。
ようやく光に慣れてきて、顔に当てていた手を外す。床に転がる遮光器土偶と目が合った。なぜかいっぱしにアイマスクをつけている。持ち主に似て生意気だ。
皆守に跨る形で片膝をついた九龍が、ふっと真剣な表情になった。
「体は? 痛いトコとか、違和感あるトコとかないか?」
言われるがまま、自分の体を見下ろしてみる。床で寝ていたわりに痛みはない。いつもどおりといってよかった。
「ない」
「よかった。もうそろそろ効果が切れてくるころだから。朝ご飯一緒に食べよ」
「あー……べつにわざわざ言わなくても食うって……」
「うん」
頭の半分くらいで九龍の言葉を聞き、半分くらいで返すと、どうしてか彼は耐えきれなくなったように笑った。
「今日も一緒だな。そうと決まったら支度して」
「眠ィ」
「おい、話ループしてんぞ。赤ちゃんかよ。しょうがないなぁもう」
フルネルソンの体勢で寝袋から引きずり出され、壁に立てかけられる。ちょっとうとうとした隙に寝袋はくるくる巻かれて収納されてしまい、皆守は安息の地を失った。とにかくこの世は悲劇ばかりだ。
「ねむ……」
「眠いのはわかったから。もう、じゃあ、どうする? 俺とすっぱり授業に出るか、一人でぐっすり二度寝するか、どっちでも好きなほう選べよ」
九龍は腕組みしてご立腹の様子だ。どうして怒っているのかはいまひとつピンとこなかったが、皆守は比較的勘が鋭いので、「授業に出る」と答えてさらなる噴火を回避した。一転、九龍が破顔一笑する。
「よし。それじゃあ、着替えてマミーズだな。俺も一緒に部屋まで行く、一人で帰したら甲ちゃん寝そうだから」
九龍は皆守の背中を押して自室を出ると、皆守の部屋までついてきた。放っておけば柱に寄りかかってでも眠りそうな皆守をアシストして、準備を整えさせる。
さすがにふだんはここまで寝穢くはないが、眠りが浅かったのか疲れていたのか、皆守はまだ夢うつつの状態だった。九龍が「介護じゃないんだから」と失礼なことを口走ったのは聞こえたので、肩で小突いておく。眠たくて力が入らない。九龍は苦笑混じりにそれを受け止め、皆守の鞄を持って部屋を出た。
寮の外に出ると、空気は冷たいながらもきんと澄み渡っていて、まだ朝焼けの余韻がわずかに空の端へ残っていた。いつもの皆守なら目に留めずに部屋へ回れ右して二度寝を決め込むところだが、九龍が「きれいだな」としみじみするのでつられてしまう。
二人と同様にマミーズへ向かう生徒は、数える程度しか見当たらなかった。部屋での飲食は禁止されていないのだから、この時期の朝食は各自で取り、少しでも長く布団にくるまっていたいと思うのが人情だ。皆守もこれまでは例外なくそうしていた。今年は例外が服を着て歩いているような男が隣にいるため、致し方ない。
店内に入って席を確保し、九龍はぼうっとしている皆守をよそにてきぱきとモーニングを注文した。モーニングといっても、マミーズは学食も兼ねているため、育ち盛りの朝にふさわしい栄養たっぷりなメニューだ。
「ほら甲ちゃん、いい加減起きろよ」
「起きてるって……」
「声が寝てんだよ」
腕組みしたままかくんと船を漕ぐ皆守を、九龍はなんとか起こそうとつついてくる。
と、九龍の表情からすっと緩みが抜け落ち、皆守は瞬きを繰り返しながら顔を上げた。
三年C組のもう一人の《転校生》、喪部銛矢が歩いてくるところだった。相変わらず顔色は悪く、おとがいを上げてつんと澄ましている。
喪部は通りがけにちらりと二人を見下ろして、九龍に言った。
「やァ。どうやら、ご自慢の秘薬は効かなかったようだね」
「……自慢なんかしたっけ?」
九龍が好戦的に目を細める。皆守は何食わぬ顔で、テーブルの端に置いてある水のグラスを取ろうとした。やや距離が遠かったため、九龍が喪部から視線を外さぬままに渡してくれる。
喪部の横顔に、一瞬侮蔑のような色がよぎった。
「あの量でもろくに効果を出せないとは。どうやら、ボクの見込み違いだったようだ」
「あぁ?」
「九ちゃん、箸」
「まだ早いだろ。ていうか『箸』じゃなくて『お箸取って』でしょうが」
「伝わってんだからいいだろ」
皆守と九龍が言い合いをしている間に、喪部は音もなく姿を消していた。入れ替わりに朝食が運ばれてくる。皆守には喪部越しに、店の奥から出てきた店員の姿が見えていたのだった。
「って、あいついなくなってるし。なんだよもー」
「いいから食おうぜ」
皆守が先に汁椀の蓋を開けると、九龍もぶつぶつ言いながらそれに続いた。鮭の塩焼きに卵焼きとほうれん草のお浸し、白飯と味噌汁。コテコテの和朝食だが、自称帰国子女はうまそうに平らげている。
食べ物を腹に入れて、ようやく皆守の目も覚めてきた。九龍は珍しくまだ渋面を崩さない。
「なんだよあいつ。薬が効かないのはいいことじゃんか、事故で飲んじゃったみたいなもんなんだから」
「効いてないとは一言も言ってないけどな」
「……へ?」
醤油を取ろうとした九龍が、右手を中途半端に掲げたままフリーズする。皆守は代わりに醤油の小瓶を取ってやった。
「まさか効いて……」
「あっ、九チャンに皆守クン! おっはよーッ」
九龍が言いかけたところで、早朝のマミーズに元気いっぱいな声が響き渡った。必要以上に大きな声で名前を呼ぶなと口を酸っぱくして訴えているのに、彼女はまるで聞き入れようとしない。
八千穂明日香と、A組の七瀬月魅が連れだって入店してきていた。七瀬のほうはごく常識的に「おはようございます」と一礼する。
「お二人とこの時間にここでお会いするなんて、初めてですね」
「えへへッ、二人は相変わらず仲良しだねッ」
七瀬と八千穂が、やたらと微笑ましげに頷き合う。心当たりのない皆守と九龍は顔を見合わせた。とりあえず、九龍が醤油の入った小瓶を傾けて持っているせいでこぼれそうなので、上から軽く押してテーブルに着地させる。
ふと思い当たったことがあり、皆守は八千穂と七瀬に尋ねてみた。
「なあ、俺たちはいつもと変わりがないように見えるか?」
「え? うん」
「見えますが……?」
二人と、ついでに九龍がきょとんとした表情を浮かべる。皆守はひらひらと手を振った。
「ならいい。妙なことを聞いて悪かったな」
「変な皆守クン。じゃあ、また教室でねッ」
「それじゃあ、また」
八千穂は手を振って、七瀬は会釈して、それぞれ奥のテーブル席についた。
二人が離れてから、九龍が身を乗り出して聞いてくる。
「なに、甲ちゃん。いまのどういう意味?」
「なんでもない。それより、アロマを吸っても構わないか」
「いいけど。周りにお客さんもいないし」
まだ不思議そうな九龍の了承を得て、食後の一服を満喫すべく、皆守はカチリとライターの蓋を開けた。
皆守が飲んだのは、惚れ薬に近いもの。
実際、効果はあったのだろう。昨夜の皆守はおかしかった。
九龍の話では、この効果は今朝まで持続しているそうだから、まだ完全に正常な状態とはいえないはず。
にもかかわらず、喪部は皆守に媚薬の影響などなかったと判断し、八千穂と七瀬もふだんと変わりはないと答えた。
つまり、おかしな薬を飲もうが飲むまいが、恋に落ちていようがいまいが、皆守の九龍に対する態度はこんなものだということだ。
皆守はアロマパイプに火をつけて、小さく息を吐いた。九龍は茶碗片手に首を傾げている。
慣れた香りに包まれて、皆守はひとりごちた。
「アロマがうまいぜ……」