葉佩九龍は温厚な男だ。
 天香學園を卒業してから現在に至るまで、声を荒らげているところなど見たためしがなかった。周りの人間がよほどのポカをやらかしたときでも、怒るというよりは静かに諭すさまが印象深い。夕薙自身も危ない橋を渡るタイプではないので、特に揉めることもなくここまでやってきた。
 ところが、その九龍が明らかに機嫌を損ねている。
 原因は夕薙にあるとわかっていても、わくわくしてしまうのは無理もないことだった。
「ちょっとそこへ座りなさい」
 ベッドを指さされ、枕のそばに正座する。九龍も折り畳まれた毛布の上へ、やはり正座した。
 とある安ホテルの一室だ。海外仕様でベッドがゆったりしているのは嬉しいが、シャワーはお湯が出たり出なかったりする。それでも水の残量を気にしなくていい環境はありがたく、数日ぶりの入浴を代わりばんこに満喫してきたところだった。
「大和、いまなんて言った」
「『呪いは解けないかもしれないが、それでもいいという気がしてきた』」
 夕薙は、つい先ほど口にしたばかりの台詞を一字一句誤ることなく復唱した。九龍の眉間に皺が寄る。彼は、怒ると顔がくしゃくしゃになる人間であるらしい。夕薙は熱心に観察する。
「なんでそんなこと言ったんだ」
「いまが幸せだからなぁ。君に帯同して世界を回るのは楽しいし、力もついてきた。もちろんまるっきり諦めたわけじゃないが、そう焦る必要はないと思い始めたところさ」
 九龍が、くしゃっとした顔のまま夕薙を睨んでくる。新鮮だ。夕薙は微笑んで彼を見つめ返した。
「あのな、一緒に世界を回るったって、ハンターとしてライセンス契約してるわけでもない専属バディじゃ、大して金にならないだろ」
「食っていける程度はもらっているぞ」
「夜に野外で過ごさなきゃならないときもある。水分を抜かれるのは負担が大きいって、お前が一番よく知ってるはずだ」
「まあ、多少は堪えるがな。あの姿を見ても変わらずに接してくれる君がいるから、やっていける」
「やっていけて、どうすんだよッ」
 ついに、九龍は大きな声を上げた。いかにも怒鳴り慣れていない彼らしく、怒りよりも困惑の色合いのほうが濃かったが。
 それなのに、声を張り上げたことに罪悪感を抱いたらしいことが面白い。夕薙を、親にも叱られたことのない幼児だとでも思っているのだろうか。彼より二歳も上のいい大人なのに。
 九龍は自分を落ち着かせようと深呼吸をし、抑揚のない口調で話し始めた。
「大きい声出してごめん。……おれはさ、言ってなかったけど、野望があるんだよ」
「ほう。興味深いな」
「大和の呪いを解いて、思う存分夜の散歩をする。本物のおじいちゃんになるまで一緒に過ごす」
「それは……」
 夕薙は、しばらく言葉を探した。彼が語る野望と現状との間には、かなり大きなギャップがあるようだ。
「欲深いな、君は」
「当たり前だろ。欲のない人間は《宝探し屋》にならないほうがいい、死んじゃうよ」
「金言だな」
「お前に言ってるんだよッ。なんなんだよ、甲太郎といい、阿門といい、大和といい。もっと本気で幸せになろうとしろよ、自分の将来のことだぞ、わかってんのか」
「わかっているよ。ありがとう」
 夕薙は心からそう言ったのだが、不興を買ったらしく、九龍は眉を寄せたまま口をつぐんだ。
 九龍が怒っているのは面白いけれど、不快にさせるのは本意ではない。夕薙は考えあぐねて顎をさすった。
「……どんなふうに生まれてきたとしても、思いどおりにいかないことの一つや二つはあるものだ。違うか?」
「そりゃそうだけど、お前のソレは後天的じゃないか」
「後天的に事故や病気で体の自由を失うことなど、よくある。ああ……違うな、そういうことが言いたいんじゃない。要は、こだわりすぎる必要はないと思っているんだ。俺はべつに、呪いのために生きているわけじゃない」
 自分の口から出てきた言葉を聞いて、夕薙は他人事のように驚いた。
 あの日からずっと、夕薙の身を苛む呪いは業で作られた枷であり、同時に道標でもあった。皮肉にも、呪いを解こうと方々に首を突っ込んだおかげで身についたスキルは数多くある。もはや、望むと望まざるとにかかわらず、自分とは切っても切り離せない一部になっていたはずだった。
 それなのに、いつからこんなふうに考えるようになったのか。
 理由ははっきりしている。ほかに道を照らしてくれるものを見つけたからだ。
 その灯火はいま、夕薙の目の前で腕組みをして顔をしかめている。
「諦めたわけじゃない。だが、仮に解けなかったとしても、悲観する必要はないと思うようになった。そんなことで俺の人生は損われないからな」
「やけに自信満々だな」
「君といるからなぁ」
 九龍は崩れるように肩を落とした。風呂上がりでいい匂いになった髪から覗く耳の先がかすかに赤い。人が悪いと言われようとも、夕薙はそういったことを指摘せずにはいられない性分だった。
「なんだ、照れてるのか?」
「呆れてんの!」
「もっと照れさせてもいいかな?」
「話聞いてた?」
 噛みつかれるのが楽しくて、夕薙はとうとう肩を震わせて笑い出した。九龍の怒るポイントは独特だ。それを知っただけでも、今日という日には意味があったといえよう。
 しまいには拗ね始めた九龍を、どうどうとなだめる。
「俺にだって、将来の夢はあるさ。聞いてくれるか?」
「なにさ」
「まず、君を手に入れる。呪いを解く。ハンターになる。君を超える。見たことのない景色を見る。君と二人でな。食べたことのないような美味いものも食べたいし、世界中の人と話してみたい」
「……欲が強い」
「適性はどうだ?」
「合格……」
 九龍が心底悔しそうに言い渡す。夕薙はまだくすくす笑いながら、まずは野望の一つ目を達成すべく、九龍の肘の下を掴んだ。
 いい機会だ。ついでに、夕薙が子供ではないことも知ってもらうとしよう。

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