あなたの世界

「甲ちゃん?」
「九ちゃんか?」
 二人は互いに指さし合った。
 九龍の前には九龍がいて、ぽかんと口を開けている。賢そうとはいいがたい顔だ。両耳には皆守がくれたピアスをつけており、光が当たるとそこだけはキラキラ輝く。
 そちらの九龍に洗面所まで連れてゆかれ、九龍は鏡をのぞき込んだ。たっぷりした癖っ毛に、重たげな瞼。肩幅が広くすらりとした体つき。
「甲ちゃん」
「なんだ?」
 思わず鏡の中の自分に呼びかけると、隣の九龍から返答があった。
 九龍が二人、ではない。葉佩九龍と皆守甲太郎が一人ずつ。しかし、明らかに中身が入れ替わっている。
 柄にもなく頭痛がしてきた。九龍は額を押さえ、傍らの冴えない男に尋ねる。
「……甲ちゃんだよな?」
「ああ。そういうお前は九ちゃんだよな?」
「うん。でも、なぜか見た目は甲ちゃんだけど」
 まじまじと鏡を見る。九龍が瞬きをすれば、反転した皆守の像も同じように動く。それが新鮮で楽しんでいたが、「俺の顔で遊ぶな」と首根っこを掴まれ、ベッドルームへ連れ戻された。
 安っぽい部屋には大きなベッドが一つ。昨夜眠りについた時と何ら変わりはない。依頼のために現地入りしたのが昨日の夜で、今日はさっそく遺跡へ向かう予定だった。ここはそのための仮宿だ。
 とりあえず、二人並んでベッドの端に座ってみる。体は軽い。今ならバランスボールの上で倒立だってできそうだ。いつもと違う感覚が興味深く、つい無駄に動いてしまう。
「面白い」
「面白がってる場合か。何なんだ、このイカれた状況は」
 九龍が、いや皆守が顔をしかめる。九龍はベッドの上で転がるのをやめて考え込んだ。
「寝る前はこうじゃなかったよな?」
「ああ。朝起きたらこの有様だ」
「なんでだろう。寝相が悪くて、寝てる間にぶつかったとか?」
「そんなもんで人格が入れ替わってたまるか」
 ところがどっこい、入れ替わるのである。九龍は身をもって知っている。だが、七瀬月魅との一件は本人たちだけの秘密ということになっていたので、皆守には「そうだよな」と曖昧に返事をした。
 原因不明。対処法も不明。白旗を揚げざるを得ない。いくら九龍でも現実逃避したくなる。
「甲ちゃんの目ってよく見えるなあ」
 ベッドに寝転がったまま、窓を見上げる。鳥の風切羽まで肉眼で追えた。
 ふと興味が湧き、窓際へ寄って外を眺める。
「おお」
 九龍は窓ガラスに張りついた。視界の広さは変わらないのに、飛び込んでくる情報量が桁違いだ。
「で? どうするつもりだ、九ちゃん?」
「どうしようか。まあしばらく様子を見て、戻らなかったらルイ先生にでも診てもらおう」
「そんな悠長なことを言ってていいのか?」
「焦っても仕方ないよ。案外あっさり元に戻るかもしれないし。甲ちゃんの体、面白いし」
「それが本音か。ったく」
 皆守が、九龍の声で呆れをあらわにする。
「甲ちゃんも俺の体を楽しんでくれていいよ。お、すごい、電車に乗ってる人の顔までよく見える」
「楽しめったってな。違いといえば、せいぜい体が重く感じるってことくらいだぜ」
「最近ちょっと大きくしたからなあ」
 と返しながら、九龍は目を擦った。
 さっきから頭が重い。横になりたくなって、皆守のいるベッドへ戻る。
「また寝るのか?」
「あー……、なんか疲れた。気持ち悪いというか……」
 皆守が九龍の横に手をつき、顔を覗き込んでくる。
「そういや、俺も初めはそうだったな」
「初めは、って?」
「よく視える分、入ってくる情報が多すぎて脳に負担がかかるんだとさ。まあ、寝とけば収まるし、じきに慣れる」
 さらりと言われ、九龍のほうが絶句した。皆守の運動神経と動体視力についてはもちろん知っていたが、それが彼の体にどう影響を及ぼすかまでは考えていなかった。
「それでよくだるいとか眠いとか言ってた……?」
「どうだかな。やる気が起きないのは昔からだ」
 皆守が九龍の隣へ横たわり、じっと視線を注いでくる。毎朝鏡で見ていた黒い瞳は、まるで別人のように瞬きもしない。
「お前の体はいいな。疲れなくて済む」
「甲ちゃん……」
 するっと目元を触られ、九龍は反射的に瞼を閉じる。
 再び目を開けると、間近に自分の顔があった。
「……いや、待ってくれ、甲ちゃん」
「なんだよ」
「いくら中身がお前とはいえ、自分の顔に迫られるのは気色悪い」
「気が合うな。俺もだぜ」
 らしくもなく爽やかに笑いながら、皆守が手を伸ばしてくる。
「じゃあやめろよ! うわっ、無理、マジで無理」
「《宝探し屋》の辞書に不可能の文字はないだろ?」
「あるよ! 一ページ目にでっかく載ってるから! なあ、無理だって、マジ、俺は甲ちゃん以外無理だからー!」

 

「……何、叫んでんだよ」
 皆守の声がして、九龍はぱちっと目を開けた。
 昨晩チェックインした安ホテル。九龍はベッドから落ちかけており、コーヒーを手にした皆守が窓際から振り返っていた。
 そう、皆守だ。たっぷりした癖っ毛に、重たげな瞼。肩幅が広くすらりとした体つき。ああ、なんて愛おしい。
 抱きついて撫で回すと「暑苦しい」と邪険にされたが、九龍は構わずいじくり回した。かすかなラベンダーの香りに、心臓の鼓動も落ち着く。
 正真正銘本物の皆守の瞳が、怪訝そうにこちらを見ていた。
 九龍は胸を撫で下ろす。
「夢かぁ~……」

back