妹殺し
夢を見た。
兄の夢だ。
夢の中で、オシュトルは笑っている。身動きさえ叶わぬネコネを、どこまでも優しく抱き締める。
その瞬間、ネコネの頭の中は破裂しそうになった。
――やめて! やめて!
腰に佩いた刀で刺し貫くか、さもなくば打擲してくれるならよい。
抱擁なんて。
喘ぐように兄の名を呼びかけたところで、目が覚めた。
また泣いていた。
腫れた目元の処置にも慣れたものだ。自らの指先すら闇と溶け合う薄明の中、手探りで手巾を濡らし、かんばせに当てる。膚が切れそうなほどの冷たい水は、ネコネにいくばくかの安心をもたらした。
自分は痛みを得ている。
そう思えたときだけが、わずかな安息の時間だった。
手巾を押さえる手は、紙のように薄い。家へこもりきりで勉学にばかり励んでいた幼少時代、ネコネの躰は細かった。やがて帝都へ移り、兄の近くで暮らすうち、ようやく娘らしいふくふくとした輪郭になった。オシュトルが、あれこれ理由をつけて食べさせたからだ。
早くに生家を離れた兄なりの気遣いだったのであろう。帝に下賜されたという舶来の菓子さえ、密かに手招きして分けてくれた。エンナカムイでよくあるようなほのかな滋味とも、帝都のはっきりとした味つけとも違う、ほっぺたが落ちそうになる幸せの味。
否、あのひとときが幸福であったのは、菓子のせいではない。表向きには兄妹と名乗ることすらできぬオシュトルが、郷里にいたころのようにネコネだけを慈しんでくれたからだ。
ネコネの躰は愛情でできている。
だからこそ、今は痩せっぽちだ。
顔の肉が削げた分、やや飛び出したようにも見える眼は、すぐに冷やしたおかげで落ち着きつつあった。ネコネは手巾を片づけて身支度をする。
朝起きたから、顔を洗わねばならない。顔を洗ったら、着替えねばならない。着替えたら髪を結って、朝餉を摂って、今日一日の予定を立てねばならない。
「ねばならない」から、そうするだけ。
学徒がよく身につける、最近少々きつくなってきた装束に着替え、髪を梳る。
「痛っ……」
櫛の歯が髪に引っかかった。ここへ来てからというもの、満足な手入れなどできた試しがない。最低限の身だしなみをどうにかこうにか整えるのみであった。
ゆえに、さしたる葛藤もなく櫛を思い切り引くと、ぷちぷちと音を立てて痩せ細った髪が切れた。
残った髪を二つに分け、細長い布で結う。戸を開けて外へ出ると、まだ肌寒い城の廊下に、滑稽なほど軽い足音が響いた。
食堂へ降りて朝餉を流し込み、係の者に器を返す。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったのです」
ネコネの喉がそう震える。本当は、味などろくにわからない。もうずっとだ。ただ母と兄に、食事を振る舞われたときは必ず礼を述べるよう躾けられていた。それだけだった。
母の作ってくれたご飯が食べたい。反射のようにそう思って、胃の奥から何かがせり上がってくる。
エンナカムイへ戻ってきたのだから、生家にも帰ろうと思えば帰れる。事実、少し前にほんの数刻とはいえ帰省したばかりであるし、手料理を食べたいと聞けば、母は腕によりをかけてネコネの好物をこしらえてくれるだろう。
にもかかわらず、その願いが叶わぬのはなぜか。
答えを知る数少ない人物の私室の前で、ネコネは頭を下げた。
「おはようございますです。兄さまはお目覚めですか」
廊下の端からでは姿形の見えなかった鎖の巫二人が、どこからともなく現れて一礼する。鏡に映したような同じ動作だった。
「まだ」
「ですが、そろそろ床を出られる頃合いかと」
朝焼けの日の霞をそのまま形にしたような声で、ウルゥルとサラァナはネコネに告げる。
ネコネは、とんとんと部屋の戸を叩き、断りを入れて入室した。
褥の上に腰かけていた『オシュトル』が顔を上げる。ゆるりと束ねた髪に、空色の衣。夏の雲のように白い
その姿はまさに、誉高きヤマトの武人、右近衛大将オシュトルその人であった。
「おはようございますです」
「ネコネか、おはよう」
その声音は、記憶にあるよりも軽い。ネコネは眉をひそめた。指摘はせずに、頭へ入れた今日の予定を羅列する。
私塾の視察と聞いて、「なぜそんなところへ」と口走りかけた『オシュトル』に、ネコネはぴしゃりと言った。
「兄さまも昔、通っていたことがあったのですよ。忘れてしまったのですか?」
「む、……そうであったな。それに、あと数年もすれば兵士となり得る者たちへ、『英雄オシュトル』の姿を見せておくのは悪くない」
「ハイなのです。兄さまに憧れ、身命を賭してエンナカムイを、ヤマトを守ろうと決心する学童が必ずいるはずなのです」
あえて言葉には出さなかったが、二人の間には暗黙の了解があった。
近いうちに訪れるであろう戦乱を思えば、この國の兵力はあまりに心もとない。徴兵の開始も視野に入ってはいるが、使い物になるのは果たしてそのうちのいかほどか。
なれば、英雄は必要だ。民草が夢と命を預け、このヒトのためならばと気持ちよく散ってくれるような、毛ほどの瑕もない完璧な偶像が。
かような目論見が子らの二親の耳に入れば、詰られるだけでは済むまい。一つの形にぴたりと固まってもなお脆弱なエンナカムイが、内側からぼろぼろと崩れてしまう。であるから、ネコネも『オシュトル』も、絶対に口には出さない。
「昔、兄さまを教えていた御師様もいらっしゃるですが、こちらへは話しかけないよう言ってあるです。昔日の思い出に浸るよりも、明日を担う子らを激励したいからと」
そうしておけば、『オシュトル』がかつての教え子でないと知られる危険も減る。彼は外套を身につけながら頷いた。
「承知した。時に、ネコネ……」
返事をするより前に、『オシュトル』がネコネの手を取る。焼けた石のように熱い。いや、違う。こちらの指先が冷え切っているのだ。手巾を濡らしたからというだけではなく、血の通う路まで細くなってしまったようだった。
胸の裡では思うところもあったのだろう。『オシュトル』の、よくよく見るとネコネの実兄よりは丸い瞳が、痛ましげに揺れる。しかし、その口から発されたのはごく凡庸な問いだった。
「……朝餉はもう食べたか?」
「ハイなのです。兄さまの分は、もうじき巫様たちが持ってくるのです」
「そうか」
問いがあり、答えがあった。だが『オシュトル』は、ネコネの手を離さない。まだ質したいことがあるのは明白だった。
口にしないのは、彼の賢しさゆえだ。いくら身を案じても、ネコネが取り合わないことを学んだのだろう。
代わりに、手と手を重ね合わせて、じわじわと体温を移している。
そのとき蘇った記憶に、ネコネは焼けた鋼で打ち据えられたような感覚を覚えた。
幼き日の冬の朝。水で顔を洗うと、小さな手はそれだけでひび割れそうなほど冷たくなった。
囲炉裏のそばで母の手助けをしていたオシュトルが、大きな手でくるむようにして暖めてくれたものだった。
「兄さま」
「うん?」
目の前の『オシュトル』に聞き返され、知らぬ間に兄を呼んでいたのだと気づく。後悔と恥ずかしさで臓腑が黒く煮えた。
「いえ、なんでもないのです」
そう偽りながらも、ネコネは今思い出した記憶が去っていかないよう、何度も何度も頭の中で繰り返す。そうだ、確かあのときの兄は浅黄色の羽織を着ていた。ふかふかした尻尾が母の膝を暖めていて。
忘れるものか。ネコネが忘れたら、兄はもっと遠くへ行ってしまう。
もうどこにもないまほろばを映すのに必死であった瞳は、『オシュトル』が手を挙げたことに気づかなかった。
とん、と手のひらが頭の上に乗り、ネコネを優しく撫でる。
「……兄さま」
今度は声が震えた。隠し切れなかった。しかしネコネは、その手をさりげなく退けて歩き出す。
「巫様たちが戻ってきたようなのです。戸を開けてさしあげないと」
『オシュトル』は、追ってはこなかった。
こんなふうに前触れもなく、毎日兄のことを思い出す。空気に、温度に、風の匂いに、オシュトルの存在は染み込んでいて、ふとしたときに襲いくる。
そのたびにネコネの心は千々に乱れた。自室の外では自制していたが、夜更けに一人落涙することも日常茶飯事であった。
オシュトルの記憶はすべて優しい。こんなに優しいオシュトルを殺したのは、ネコネ自身。
母から息子を奪ったのも、エンナカムイから英雄を奪ったのも、ヤマトから右近衛大将を奪ったのも、アンジュ皇女から寵臣を奪ったのも、義姉から愛しい男を奪ったのも、これから無辜の民の命を奪うことになるのも、すべてネコネだ。
委細を承知しているはずの『オシュトル』は、ネコネを決して責めなかった。
いっそ咎めを与えてくれればいいのに、と考えて、すぐさま己を恥じる。この期に及んで他人に責を負わせるとは。
ネコネは罪人だ。裁けるような罪状がたまたまこの國にないだけで、死んだらきっと
裁いてくれるヒトがいないから、ネコネは自分で自分を罰する。
殺してくれないから、自分で殺す。
戸を開けようとすると、ちょうど膳を抱えた鎖の巫たちが戻ってきた。肉食文化のないエンナカムイではあるが、山菜と川魚が所狭しと並び、この國としては贅を尽くした朝食であった。
「これはまた……朝から、ずいぶんと豪華だな」
それがわかったのか、『オシュトル』も声を上げる。ウルゥルとサラァナは頭を下げた。
「在庫」
「皆さん『もったいない』とおっしゃって召し上がらないようでしたので、遠慮なく。譲り合っているうちに悪くなってしまうといけませんから」
大國ヤマトに擁されながら、今まさに主の手へ噛みつかんとしているエンナカムイは、従来のように通商で食料を調達することが難しい。自然と、食事は土地で採れたものが中心になる。すると、みなどことなく遠慮し合うようになった。ここが豊かな國でないことは誰もが知っている。
とはいえ、さすがに指揮官の食事が貧相では勝てる戦にも勝てない。また『オシュトル』の身を何より大事に思う鎖の巫の意向もあり、この部屋で供されるものはいつもある程度豪勢だった。
器の蓋を開けた『オシュトル』が、おずおずとネコネを呼ばわる。
「ネコネよ。少し食べぬか? さすがにこの量は、某一人には荷が重い」
武人ではないことを差し引いても、『オシュトル』となる前の青年は食が細かった。ネコネはそのことを思い出したが、首を横に振った。
「いえ。……兄さまは、帝都にいらっしゃるときもこのくらいは召し上がっていたと思うです。むしろ、もっと多かったくらいなのです。それなのに完食できぬとあっては、皆から心配されてしまうのです」
「そ、そうか……」
腹を括った顔で、『オシュトル』が汁椀を手に取る。
ネコネにとっては嗅ぎ慣れた、出汁の匂い。小魚を干したものだが、これを水に入れて湯を沸かすと、なんとも複雑な風味がまろび出る。帝都の枕で夢に見たことすらある故郷の味であった。
なのに、ちっとも食欲が湧かない。
「……お口に合いますか? 兄さま」
「ああ。不思議なもので、鼻から香りが抜けるとまた味が変化する。美味い」
その言葉に嘘はないようで、イラワジが選び抜いた器の数々は、時間をかけながらも空になってゆく。
ネコネは切り出した岩のように四角い姿勢で、その向かいへ座していた。
『オシュトル』には、滋養のあるものを食してもらわなければ困る。
けれど、ネコネには必要ない。
死人はものを食べない。
ネコネはこうして少しずつ、ネコネ自身を殺している。