新宿という土地柄ゆえか、暮綯學園のあたりは店舗の入れ替わりが激しい。
つい最近カフェの跡地で工事が始まったと思ったら、いつの間にか完成していたようだ。歩道の片隅に折りたたみ式の看板が置かれている。
一人の男子高校生が、それを真剣に見つめていた。入ってみたいなぁ、でもなぁ、という葛藤が背中から聞こえてくるかのようだ。
深舟はやや離れたところで足を止める。どうやら、新しくオープンしたのはパンケーキのお店らしい。明るい印象の大きなガラス窓から、若い女の子たちがテーブルを囲んで談笑するのが見えた。
そういえば、最近流行っているのだと莢が言っていたっけ。一緒に行かないかと誘われ、そういう子どもっぽい流行には興味がないからと断った。深舟はメディアを通じてしか知らなかったが、ホイップクリームやフルーツをふんだんに盛ったパンケーキは、スイーツというより粘土で作ったおもちゃのように見えたのだ。そんなものに盛り上がるのは、なんだか幼稚だしミーハーっぽくて恥ずかしい。
カラカラとベルを鳴らしてドアが開き、まさにテレビに映っていたような女の子たちが出てきた。
「はぁ、おいしかった。幸せ~」
彼女たちは満足そうに笑いながら、足取りも軽く深舟の横を通り過ぎていった。
――幸せ、か。
深舟の語彙にはない言葉だ。もちろん日常生活の中で幸福を感じる瞬間はあるけれど、素直に口に出すという選択肢はまず浮かんだことがなかった。キャラじゃない、というやつだ。
しかし、彼女たちの笑顔を見て、「なんだかいいな」とも思った。楽しい気持ちが自然にあふれ出していて、こちらまで気分が軽くなりそうだ。
看板の前で立ち止まっていた男子生徒もそう思ったのか、去ってゆく女の子たちにちらりと目をやった。
「あっ」
そして、深舟に気づく。
油断した。
深舟は急いで他人のふりをしようとしたが、素早く回り込まれた。
「さゆりちゃん」
「何よ」
その先の言葉が正確に予測できたからこそ、つっけんどんな物言いになってしまう。
東摩龍介はこういう時、予想を裏切らない。
「一緒に入らない?」
「嫌」
ほら、こうなると思った。深舟は一歩後ずさるが、同じだけ距離を詰められる。
「冷たぁーい。なんでだよ~」
「どうして龍介と二人でこんなお店に入らなきゃならないわけ? 他を当たってよ」
外から見る限り、店内にも男女の二人連れはいるが、明らかにカップルだ。深舟と龍介が一緒に入店したら、勘違いされてしまうではないか。
だが、龍介は一歩も引かない。深舟にちくちく言われるのはいつものことだから、すっかり耐性ができてしまったようだ。
「今すぐ入りたいんだよ~。ここはいっつも混んでて、空席があるのは珍しいんだから。さすがに正宗をこんな女子ばっかのところには誘えないし、莢ちゃんは発表会で忙しそうだし」
「だからって……」
深舟がなおも撥ねつけようとすると、龍介は非難の眼差しを向けてきた。
「ラーメンは二人で食べに行ったのに」
「それは……お店の雰囲気が全然違うじゃない。私の希望だったし……」
「ふーん。自分が行きたいところには付き合わせるくせに、おれが行きたいところには付き合ってくれないんだ。さゆりちゃんってそういうことするんだ」
そこを突かれると弱い。深舟はたじろいだ。確かに、一人では入りづらいと感じていたラーメン屋へ彼を誘ったことがある。一緒に来てくれたのはありがたかったし、新鮮な経験ができて楽しかった。自分だけおいしい思いをするのはいかがなものかと問われれば返す言葉もない。
深舟が躊躇した隙を見逃さず、龍介がたたみかける。
「なぁ、お願い。一回だけでいいから。次はどこでもさゆりちゃんの行きたいとこに付き合うから」
「……仕方ないわね。わかったわよ」
「やった。ありがと」
深舟が折れた途端、龍介はぱっと笑顔になり、なんのためらいもなくドアを押し開けた。心の準備くらいさせてほしい。
「いらっしゃいませェ。何名様ですか?」
「二人です。予約してないんですけど、大丈夫ですか?」
「はァ~い。大丈夫ですよォ。二名様、ご案内しま~す」
カスタードに練乳と糖蜜を混ぜたような声の店員が、二人を隅のテーブル席へ案内する。
かわいらしい、華奢なテーブルだ。それはいい。だが、その上に盛り立てられた風船はなんだろう。さすがの龍介もちょっと気後れしたようだった。
「はぁ、すごいなぁ。店じゅうがキラキラぴかぴかしてる」
「馬鹿馬鹿しい……」
「まぁそう言わないで、せっかく来たんだから楽しもうよ。ほら、さゆりちゃんが好きそうなのもあるよ」
メニューを開いて見せられたのは、いちごをたっぷり使ったパンケーキだった。深舟の好みに合っているのは確かなので何も言い返せない。一応ひととおり確認したが、やはりこの甘酸っぱそうな色合いにもっとも心惹かれた。
「……これにしようかしら」
「いいね。おれはどうしようかなぁ~」
メニューをためつすがめつする龍介に、疑問をぶつけてみる。
「どうして私の好きそうなものがわかったの?」
「え~? そりゃわかるよ~」
顔も上げずに返された。彼にとっては当然のことらしい。
深舟が納得できずにいるのが伝わったのか、龍介はメニューを閉じながら言い直した。
「おれはこのりんごのやつにしよ~。――さゆりちゃんの好みも、正宗の好みもわかるよ。二人とも結構わかりやすいから」
「そうかしら」
深舟は龍介が転校してくる前から支我のことを知っていたが、彼の食べ物の好みまではわからない。夕隙社のメンバーで焼き肉をする時はどことなくいきいきしているけれど、あれは食への興味というより、知的好奇心といったほうが近そうだ。
店員を呼んで二人分の注文を伝え終えた龍介が、深舟を見てにやっと笑った。
「さゆりちゃんだって、おれの顔見て言いたいことを当てられるじゃん。エスパーみたいに。さっきだって、おれが誘おうとしてるのわかったでしょ」
「それは、龍介がわかりやすいからで……」
彼と同じことを言っていると気づき、深舟は言葉を止めた。龍介は黙ってにやついている。
心が読めるわけではないが、きっと彼はこう言いたいんだろうな、と察しがつく時はしばしばある。相手の行動パターンを読めるくらいに濃密な時間を過ごしてきたということなのか。
それからパンケーキが運ばれてくるまでの間、二人はほとんどずっと黙っていたが、不思議と居心地は悪くなかった。ややあって目の前に置かれた皿は、店の内装に負けず劣らずの華やかさだ。でも、かわいいな、と思えた。深舟にしては珍しいことだが、食べる前に写真も撮った。
「あっ、おいしい」
さっそく大きな一切れを口に運んだ龍介が相好を崩す。深舟もおずおずとナイフを動かした。生地はふわふわしていて、まるで雲を切っているかのようだ。問題は茶碗一杯ほどもありそうなホイップクリームである。思い切ってフォークで絡め取る。
「へえ……案外甘ったるくないのね」
これならいくらでも食べられそうだ。クリームのほうに酸味を効かせてあって、いちごの甘さが引き出されている。
気がつくと、龍介がこちらを見ていた。
「……何?」
「おいしい? 幸せ?」
「うん」
まったくそのとおりだったので何も考えずに頷くと、龍介はナイフとフォークを置いてけらけら笑い出した。深舟の顔にじわじわと熱が集まる。いけない、パンケーキに気を取られた。
「さゆりちゃんってたまーにかわいくなるよなぁ~」
彼はまだにやにや笑っている。いつもの深舟なら怒髪天をつくところだったが、和やかな店内とパンケーキの味に免じて、龍介の皿から焼きりんごを一切れ徴収することで許してやった。