「旅行に行こう」
と突然言い出した九龍が皆守を連れてきたのは、秋のさなかのカナダだった。
日本にモミジの紅葉シーズンがあるのと同じく、こちらにはカエデがいっせいに色づく時期が存在するらしい。中でもHeritage Highway――直訳すれば「文化遺産の道」だが、メープル街道というキャッチーな意訳で親しまれるエリアは、邦人観光客にも大人気だとか。
しかし残念ながら、暗記が大の苦手な専属ガイドはそれ以上の知識を詰め込めなかったようだ。「あとはここに書いてあるから」と、どこかの旅行社が作ったらしきパンフレットを渡された。ビーバーテイルズの包み紙代わりにされていたせいで解読不能だったが。
案内人の頼りなさはさておき、見渡す限り赤と黄色に染まる山々は非常に美しかった。まるで炎が揺らめいているかのようだ。これだけの面積がいっせいに燃え上がれば、皆守と九龍などひとたまりもないだろう。そんな想像をさせられて、自然と畏敬の念にも似た感情が湧いてきた。
一方、ワーカーホリックの《宝探し屋》は沿線の史跡に夢中だった。すっかり目つきが変わっている。
「お前、まさか旅行のふりをして仕事の下見に来たんじゃないだろうな」
「え? 違う違う。今回は本当に旅行だって。ほら、あれがホテルだぞー」
今回は、という言葉が気になるが、ひとまず飲み込んでおく。どんな魔法を使ったのか、急な弾丸旅行とは思えぬ高級ホテルだった。建物は木の温もりが感じられるログハウスで、一歩外に出ると果ても見えない広大な庭園が広がっていた。
「よく予約が取れたな」
観光客の多さを見れば、今がハイシーズンだということはよくわかる。皆守は感嘆と疑惑を込めて九龍に言ったが、彼は「たまたま空きがあって」と笑うだけだった。
夕食まで時間があったので、庭園内の遊歩道を散歩して、川沿いのベンチで休憩する。皆守は「それで?」と切り出した。
「どういう風の吹き回しだ?」
「何が? うわー、見ろよ、水が緑色できれいだなあ」
藻が浮いているだけだ。
「話を逸らすな。急に旅行だなんだと言い出して、怪しいにも程がある」
「何もないってば。付き合ってる相手と遠出するのに理由が必要か?」
と、都合よく恋人の顔で拗ねてみせる。そう言われれば否定はできない。しかし皆守の知る限り、葉佩九龍という男は仕事を心底愛していて、依頼も入っていないのに純粋な私用でわざわざ海まで渡るとは考えにくかった。
いや、そうでもないか。ふと考え直す。ある時期、日本にいる皆守と会うためだけに、依頼と依頼の間を縫ってアパートへ転がり込んできたっけ。してみると、今回は本当に恋人との旅行を楽しみたかっただけなのかもしれない。単に思いつきが唐突だっただけで。
九龍も珍しい行動だという自覚はあるらしく、きまり悪げにもぞもぞと足の位置を動かした。
「まあ、なんていうんだっけ、福利厚生の一環だと思ってくれればいいよ。一応俺は甲ちゃんの雇い主でもあるわけだし」
「福利厚生……、ね」
「……」
「……」
「……わかったよ、言えばいいんだろ」
無言の圧力に負けた九龍が両手を挙げる。日没が迫るにつれて少し冷えてきたので、皆守はさりげなく彼の近くへと座り直した。
「この前のクエストの依頼人がさ、お前のことをべた褒めだったわけ」
そう言われて、皆守は記憶の箱をひっくり返してみる。主に九龍がやりとりしていたので直接話す機会はほぼなかったが、一代で巨万の富を築いたという起業家だった。
「リップサービスじゃないのか?」
「なんか、『いい瞳をしている』とかって。あの人が誰かを手放しで褒めるのは珍しいんだよ。で」
「で?」
「取られると思って」
「……何をだ?」
「お前をだよ! 決まってるだろ。だから、さすがにあの人には及ばないけど、俺にもそこそこの財力はあるということをアピールしておくべきじゃないかと」
「はァ」
「俺、その気になればちょっとした贅沢ができる程度の稼ぎはあるから。不自由はさせないよ」
必死で張り合う九龍を見ていると、なんだか頭痛がしてくる。いったいどこの誰がそういう意味で皆守甲太郎を手に入れたがるというのだろう。そんな物好きは地球上に一人しかいないし、その一人で十分だ。金があろうがなかろうが大した問題ではない。
物好き本人はといえば、自信のなさそうな顔で皆守の反応をうかがっている。
ひょっとして、皆守にもそんなふうに思わせた責任の一端くらいはあるのだろうか。さて困った。しばらく逡巡したあげく、本当は夜になってから渡そうと思っていたものを九龍の手のひらに置いた。
「ん? 何?」
「旅行の礼だとでも思ってくれ」
「えっ、いつの間に。そんな時間なかっただろ?」
いいから開けろと急かすと、九龍は豪快に小箱のリボンを解いた。もうほとんど沈みかけた夕日が、彼の手元を一瞬だけ輝かせる。
「イヤーカフ?」
「ああ。これなら、そのピアスと一緒につけられるだろ」
さすがに仕事中は外さざるを得ないだろうが、プライベートな時間なら問題ないはずだ。くすぐったがる九龍を押さえて耳につけてやる。思ったとおり、以前贈ったピアスとの相性はよかった。
「ありがとう。お、結構大きいな」
九龍が軽く頭を振ってつけ心地を試す。ちゃっ、とかすかな金属音がした。
「気になるか? なるべく軽いものを選んだつもりだったんだが」
「いや、大丈夫そう。まあ、甲ちゃんにもらったものならどんなに重くてもつけるけどな」
と胸を張ってから、九龍は再び首を傾げた。
「けど、本当にいつ買ったんだ? 空港じゃ搭乗口まで直行だったし、アクセサリー屋なんか見てる時間はなかったのに」
「ああ、実は少し前にな」
「旅行の前から買ってあったってこと? 誕生日は半年も先だけど」
「八千穂に言われて思い出したんだ。たまには祝ってみるのも悪くないかと思ってな。まあ、気まぐれだ」
「祝うって何を……」
まだ思い出さないようなので、皆守はいったんイヤーカフを取り上げた。
「そろそろ夕飯の時間だな。戻ろうぜ」
「あっ、返せよ」
「思い出したら返してやるよ」
先に歩き出した皆守の後ろから、九龍が小走りに追いかけてくる。振り返ると顔じゅうに疑問符を浮かべていて、思わず笑ってしまった。
「なんだよー。ヒントは?」
「二〇〇四年」
そこから先は自力でたどり着いてもらいたい。幸い、勘のいい《宝探し屋》はすぐに気づいたようだった。明るい表情で皆守の隣に並ぶ。
今日は九月二十一日だ。わざわざ毎年祝ったりはしないけれど、皆守や多くの人々の運命が変わった日。
九龍が弾けるように笑い、正解を口にする。
「甲ちゃんと初めて会った日だ!」