葉佩は逃げた。全速力で駆け抜けた。商店街を、小舟の浮かぶ川べりを、後ろ暗いお遊びに耽るギャングの溜まり場を。
 さすがに撒いただろう、と油断したのはほんの一瞬だ。ホテルの部屋のドアを閉める、瞬き一回分の刹那。
 その隙に入り口へ足を突っ込まれ、閉じ損ねたドアが跳ね返る。
 せめて枕の下に隠しておいた目くらましでも、とベッドへ向かうが、背後から壁を蹴られた。
「二年ぶりの再会だってのに、薄情な奴だぜ」
 向けられる殺気とは裏腹に、声はのんびりしていた。あれよあれよという間に壁際へ追い詰められ、いよいよ観念して振り返る。
 記憶より健康そうになった皆守甲太郎が、間に葉佩を挟みながら壁を蹴り上げていた。まるで少女漫画のヒロインに迫る王子様のように。
 ……と見せかけて、これはいつでも腹を蹴ることができるという言外の脅迫。その痛みは知っている。だから抗えない。
「もう少し喜んでもいいんじゃないか? なァ、九ちゃん」
「……怒ってる?」
 おそるおそる問うと、皆守は煙草の箱を取り出しながら目をすがめた。
「何にだよ。卒業式にも出ず、二年間音信不通だったことか? 世界中捜し回ってお前を見つけた俺に、手榴弾を投げて逃げ出したことか? それとも、白昼堂々往来で女といちゃついていたことか?」
「いちゃついてないしバディだし」
 ぼそぼそ反論したら、彼の靴底がぐりっと壁を抉った。葉佩は小さくなって皆守を見上げる。
「まさか追っかけてくると思わないじゃん。十八の時に、たった三ヶ月一緒にいただけの元バディがさ」
 ずるいとわかっていても、あえて彼との距離を強調する言葉を選ぶ。だが皆守は平然と、箱から煙草を一本抜き出しただけだった。
「お前が本当にそう思っているなら、やめるさ」
「やめるって?」
「もう追わない。日本に戻って、そうだな。大学でも行くか。やがて就職して、家庭を築き、老いさらばえて死ぬ。……平和な一生だ。硝煙も、血のにおいもない」
 彼が紡ぐ未来は、葉佩からすれば極めて幸福なものだ。それなのに、ひどく空虚に響いた。
 皆守が葉佩から体を離し、ジッポーを取り出す。昔はきれいな手だったのに、武器を扱う者特有の胼胝たこがあった。
 あー、と突然叫んだ葉佩に、皆守が手を止める。
「くそッ。そんな目ェされたらさあ」
 火のつけられていない煙草を奪い取る。引き寄せる寸前、表情を消していた彼の顔が、見覚えのある笑みの形に動いたようだった。

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