猫の気持ち
左戸井に買い物を頼まれたのは龍介だったが、曳目と深舟が二人で行ってくれることになった。
いつも任せきりで悪いからと交代を申し出たのは曳目で、それを聞いた深舟はにわかにそわそわし始めた。「一緒に行きたいけれど、どう声をかければいいだろうか」という顔だ。彼女が夕隙社の女性陣と親交を深めたがっていて、そのくせ変なところで遠慮しがちなのもわかっていたので、龍介が背中を押してやった。自分でもいい仕事をしたと思う。
「それじゃ、いってきます」
「何か追加で買うものがありましたら、いつでもご連絡くださいね」
と会釈して、深舟と曳目が編集部を出ていく。二人ともはしゃぐタイプではないように思えるが、遠ざかってゆく声は普通の女子高生と同じように弾んでいた。
残されたのは、左戸井、龍介、支我の三人だ。そのうちの一人はおつかいを頼み終えるなりあっという間に夢の世界へ行ってしまった。
「左戸井さん、もう寝ちゃった」
「疲れてるんだろう。そっとしておこう」
支我がキーボードを打つ手を止めずに答える。彼の話によると、千鶴は今日から泊まりがけの出張が入っているため、左戸井が今朝現地まで送ってきたとのことだった。
応接室(兼会議室、兼仮眠室)から毛布を取ってきて、緩やかに上下する肩へかけてやる。気分は受験勉強で寝落ちした息子を見守る母親だ。
さてバイトに戻るか、と席へつこうとすると、机の上には黒い子猫が横たわっていた。キーボードはマットレスのように腹の下へ敷かれている。
「シークロア~」
ディスプレイには、謎の文字列が生成され続けていた。これじゃ仕事できないだろ、と伝えるが、明晰な彼にしては珍しく、龍介の意図を汲んでくれずにそこへ居座っている。今朝は千鶴も左戸井も不在だったから寂しかったのだろうか。
背中の曲線を撫でてやる。ぴんと張った、しかし柔らかい毛が手のひらを押し返してきた。蜂蜜色の瞳が「よろしい」とばかりに細められる。
さんざん撫でたところで、そろそろいいかと移動させようとすると、小さな体はぴゃっと駆け出して龍介の手をすり抜けた。そのまま車椅子をよじ登り、支我の膝の上へ。
「あっ」
「ん?」
支我は一瞬下へ目を向けたが、シークロアが丸まって静かにしているので、業務を再開したようだ。なんと優雅な仕事風景だろう。
「……いいな~」
心の声が思いきり漏れてしまった。振り返った支我が、シークロアを優しく抱き上げて渡してくれようとする。
「いや、かわいいけどそっちじゃない」
支我はわずかに首を傾げたが、急に動かされたシークロアから抗議の猫パンチをもらってしまい、注意が逸れたようだった。龍介は椅子の背もたれに隠れて一人と一匹を偵察する。
さすがに彼の膝に乗りたいわけではない。重要なのは距離感だった。支我にくっついていると、龍介の精神に好ましい効果があるのだ。それも絶大な。姉たちの中で育ったせいか、もともと高校生男子にしてはスキンシップを好むほうだけれど、そのことだけでは説明がつかなかった。
最終的には支我の肩に落ち着いたシークロアと、ばっちり目が合う。
かわいい。
シークロアはかわいいから、自然と構いたくなる。
でも、人間が人間に構われたい時はどうすればいいのだろう?
なーんて考えてたこともあったなぁ、と龍介は思い出した。
あれから何年も経ち、今では支我と二人で暮らしているのだからわからないものだ。都心からはやや距離があるとはいえ、いわくつきの物件を自分たちで除霊してから契約したので、家賃のわりにはいい部屋だと思う。
支我は大学院の課題があるらしく、ダイニングテーブルにノートパソコンと資料を広げていた。一応自室もあるのにそちらへこもらないのは、休日くらい龍介と過ごす時間を取ろうということだろうか。こちらは残業も繁忙期もある一介の会社員なので、同居しているとはいえ生活サイクルはあまり合わない。
龍介はイヤホンをつけてソファでテレビを見ていたが、いい加減飽きてしまった。ちらりと支我の様子をうかがうと、三時間前とまったく同じ姿勢で課題に取り組んでいる。大した集中力だ。
テレビを消して、二人分の飲み物を用意する。ダイニングテーブルにマグカップを置くと、その音で支我が顔を上げた。
「ああ、ありがとう。もう少しで区切りがつきそうだ」
「うん」
龍介も向かいに座り、自分用のココアを飲みながら彼を見つめる。この前の休みに二人で買いに行った眼鏡がよく似合っていた。支我に合うものを本人よりも知っている人間が選んだのだから当然だが。
支我がノートパソコンから目を離し、印刷された英語の論文をめくる。わからない単語があったようで、今度は電子辞書を引き始めた。目が小さな画面を追う。
電子辞書を操る彼の手に、手の甲をぺたっとくっつけてみる。支我は今さらこれくらいでは動じない。真剣な表情で文章を読んでいる。
支我の手はいつも温かかった。龍介の手が冷たいと心配してくることもあるけれど、彼と比べて相対的に体温が低めなだけで、別に冷え性でもなんでもない。直前までココアのカップを持っていたせいで、今はこちらの温度のほうが高いようだ。
彼の手を包み込む。支我が目線を上げ、表情で疑問を伝えてくる。龍介はにっこり笑った。
どうぞ続けて。
支我が課題に戻る。龍介は一人で彼の手の感触を楽しんだ。
彼の手は、骨格とか爪の形とか、いろんなものが全体的にとても支我っぽい。指の感じも好きだ。
支我が咳払いをした。気づけば手首の関節まで触っていて、さすがに邪魔だったのかもしれない。指先を絡める程度の接触に戻す。
指の付け根のところを親指で押し、人差し指で手の甲を触っていたら、支我がぱたんと音を立ててノートパソコンを閉じた。
「終わり?」
「今日の分は一段落といったところかな。想定通りのペースだ」
支我は龍介の手を払いのけることもなく、冷静に電子辞書を片づける。
「おれの日焼け止め使っていいのに」
テニスで日焼けした手の甲をやわやわ撫でていると、支我が笑って論文を束ねた。
「今回は俺の負けだな」
言外の主張はちゃんと伝わったらしい。
そろそろおれを構えよ、という。
「いいの? おれの勝ちで。宿題の邪魔しちゃったなぁ」
「大丈夫だ。もうほとんど終わりだったしな」
「ならよかった。次はほんとに邪魔してみようかな」
支我に構われながら、気持ちが溢れるままにくすくすと笑う。咎めるような目線を向けられ、しかしそれがちっとも本気ではなかったので、なおさら笑いが止まらなくなった。龍介は悪い大人だ。
あの頃、どうしてあんなに悶々としていたのかわからない。ただ一ついえるのは、こういうのを幸せな未来と呼ぶのだろうということだった。