それはおいしい?
「ありがとうございましたあ」
「お疲れー」
「あっつー。帰りにアイス食べてこうぜ」
「海行きてー」
「プールならこの前行ったよ、芝公園の」
部活が終わると、テニスコートは一気に賑やかになる。夏休み中ということもあって、聞こえてくるのは楽しそうな話題ばかりだ。
ボール拾いで動き回っていた一年生をねぎらってから、支我は眼鏡を外してタオルで顔を拭いた。さすがに汗だくだ。体の内側に熱がこもっている感じがする。
眼鏡をかけ直そうとしたところで、フェンスの外にいる誰かと目が合った。
その人物は驚いた様子で踵を返したが、支我は素早く車椅子を走らせ、フェンス越しに声をかける。眼鏡がなくとも彼を見間違えたりはしない。
「龍ちゃん、来てたんだな」
見つかった、という顔で龍介が振り返る。
「うん、まあ。面談があったからさぁ」
夏休みの間、全校で三者面談がおこなわれていた。支我も先日済ませたばかりだ。
「そうか。親御さんは?」
龍介には世話になっているから、家族にもきちんと挨拶したい。支我はあたりを見回したが、テニス部の関係者以外誰も見当たらなかった。
「もういない、用事があって。おれは、えっと、一人でだらだら帰ろうかなって思ってたところ」
龍介が早口で言い、何かをごまかすかのように「ていうか」と話を変える。
「あ~……、暑いな、今日も」
「ああ、さすがに閉口するな。お前はずっとここにいたのか? 日陰がないから暑かっただろう」
「えっ、いやぁ、全然ずっとじゃない。ついさっき、偶然通りかかったばっかりだから。ほんとにたった今」
と龍介は言うが、前髪が汗で濡れている。しばらく屋外にいたことは間違いなさそうだ。支我はテニスコートを出て、ひとまず彼を木陰へ連れて行った。
先ほどまで体を動かしていたせいで、なかなか汗が止まらない。支我がタオルでざっくりと首回りを拭いていると、龍介はなぜかしかめっ面になった。
「なぁ。お前ってさぁ、なんで汗かいてても爽やかなわけ?」
不服そうだ。「暑いの無理。寒いのも無理」と公言している彼だから、今日の天候のせいで虫の居所でも悪いのだろうか。
「そうか? 確かに、汗を流すのは嫌いじゃないけどな。別に怒らなくてもいいだろ?」
「怒ってないよ」
龍介が目を逸らす。それから、いつもの柔らかい口調に戻って、「いいなぁって思っただけ。なんかキラキラしてて」と続けた。
「キラキラ……? よくわからないが」
「キラキラだよ」
見つめられる。目ではなく、もう少し下を。
喉仏の上を汗が伝う。
龍介が突然、ばっと手で口をふさいだ。
「あぶね。変なこと言いそうになった」
「変なこと?」
「ノーコメント」
龍介はそれきり、だんまりを決め込んだ。普段なら、言いたがらないことを無理に聞き出したりはしない。でも今日は少しつついてみたくなった。
親友の前だと、いつもの支我ではいられないことがある。ある種の甘えなのだろうか。
「当ててみても構わないか?」
「絶対やだ」
「龍ちゃん」
「そんな声出してもだめ!」
怒られてしまった。どうやら、本当に触れられたくないようだ。
それならば、あまり問い詰めるわけにもいかない。今日の予定を聞くと、この後は何もないというので、途中まで龍介と一緒に帰ることにした。
そのためにはまず服を着替えねばならない。運動部合同の部室棟にはエレベーターがないため、支我は校舎内にある更衣室を使っている。一階で飲み物を買いたいという龍介とはいったん別行動することにした。
更衣室の冷房をつけ、空になった水筒を棚へ置く。車椅子の上で、太腿の裏側がじっとりと湿っていた。代謝がいいのも困りものだ。服が肌に貼りついて、脱ぎづらいことこの上ない。そういえば、「意外と汗っかきだよな」と龍介にからかわれたこともあったっけ。変なところをよく見ている。
一人で格闘していると、更衣室の扉がノックされた。龍介の声がする。
「お待たせ」
次いで、扉の開く音。だが、一向に現れない。
廊下から室内が見えないよう、更衣室には目隠し代わりのカーテンが吊るされていた。どうやらその手前で立ち止まっているようだ。
「どうした、入らないのか?」
「ん~。なんか、まぁ、ねぇ。あんまり見たら悪いし……」
龍介は言葉を濁し、更衣室の入口とカーテンの間にある狭いスペースに留まっていた。
何を遠慮しているのだろう、と支我は思ったが、すぐに答えを思いついた。以前、脚が不自由だから更衣には時間がかかると打ち明けたことがある。それを覚えていて、もたつくさまを見ないよう気を使ってくれたに違いない。
それなら、早く着替えを終えなくては。支我は可能な限り急いでハーフパンツを脱ぎ、制服のズボンに履き替えた。
「終わったぞ。入ってきてくれ」
一番手間のかかる工程が済んだので、改めて龍介を呼び込む。カーテンからひょっこり現れた彼は、支我を見て何かを呑み込んだような表情を浮かべた。
「終わってないじゃん」
「上は普通に着替えられるから、大丈夫だ」
「え?」
「ん?」
会話が噛み合っていない気がする。上半身の服はボトムスと違って危なげなく着替えられるから、気を使って外に出ていてもらう必要はないと言いたかったのだが。
疑問を抱きかけた支我に、龍介がペットボトルを差し出してきた。よく冷えたスポーツドリンクだ。
「これ」
「ああ、俺の分も買ってきてくれたのか。ありがとう、飲み物を切らしていたから助かるよ」
小銭を受け取る間も、彼は目線をずらしたままだった。
支我はペットボトルをもらい、おもむろに龍介の手の甲へくっつけてみる。
「うぅわ」
龍介は奇妙な声を上げ、ぱっと手を引いた。油断していたらしい。
「びっくりした!」
「ははは、すまん」
やっと目が合う。支我は心から笑ったが、龍介はそれを見てまた顔を背けてしまった。黒く染めた髪から覗く耳が赤い。そんなに暑かったのだろうか? 校舎に入ってからしばらく経つけれど。
「完全に着替え終わったら言って」
と平坦な声で言い残し、龍介はパイプ椅子を出して部屋の隅に座った。支我には背中を向けたままだ。そして、自分のペットボトルを額に当てた。
「何をやってるんだ」
「頭冷やしてんの」
彼の風変わりな言動は今に始まったことではないものの、健康上の理由でクーリングが必要な事態なのだとしたら大変だ。万が一熱中症だった場合、すぐに病院へ連れて行かなければならない。
支我は注意深く龍介の様子を観察した。意識の混濁……なさそうだ。手足の痺れ……少なくともここまではスムーズに動いていた。頭痛……どうだろうか。
「痛むのか?」
「いや。あっついだけ。ほら、階段上がってきたから」
どうやら、症状らしきものはないようだ。ほっとする。あからさまに背を向けられるのは寂しいものだが、そういう気分の時もあるのだろうと自分を納得させた。
白いシャツを着た細長い背中は頑なに丸まって、こちらを振り向きそうにない。
ふと、彼の首の後ろ側が汗で濡れていることに気がついた。柔らかそうな髪が、うなじの上にぺたりとくっついている。
待たせているのだから早く着替えなければ、とは思うものの、服を脱ごうとする手が止まる。
彼の前で着替えてもいいのだろうか?
支我は彼に背を向け、壁を見ながら着替えることにした。つい先ほどまではごく普通に脱ぐつもりでいたのに、なぜ突然自分が躊躇したのか不思議だった。
例えるなら、女子のいる教室で服を脱ぐかのような気まずさ。彼は男友達だし、着替えどころか自分の部屋に泊めたこともあるのだが。
練習着のポロシャツを脱いで上半身裸になり、汗を拭く。体じゅうが熱い気がする。更衣室の冷房は寒く感じるほどなのに、ちっとも冷めない。まるで心臓から発熱しているかのように。
ぱきぱきぱき、と音がして、背後で龍介がペットボトルのキャップを開けるのがわかった。
そして、ごく、と喉が鳴る。
龍介の――あるいは支我の?
「ふ~……、なんかお腹すいたな~。帰りにどっかで食べてかない?」
飲み物を飲んで一息ついたからか、龍介はすっかりいつもの調子に戻っていた。
そうか、このどことなく落ち着かない感覚は空腹だったからか。頭の中のざわめきを無害な二文字で上書きする。近頃は大会に向けた体づくりの一環で厳しい栄養管理をおこなっており、反比例してトレーニングの負荷は上がっている。食事内容を見直すべきかもしれない。
「そうだな。行こうか」
制服に着替えて彼のほうへ向き直ると、龍介はようやく支我を見て顔を綻ばせた。
「やった」
途端に、またしても喉だか腹だかよくわからない場所が渇きを訴える。
支我はスポーツドリンクを一口飲んだ。
成長期の体は、飲んでも飲んでもなかなか満たされてくれない。
支我とは対照的に、龍介は楽しそうだ。スマートフォンを使って店を吟味している。
「やっぱ肉かなぁ。正宗は何がいい? がっつりでも平気? おれ、今なら何でも食べられそうだよ」
「ああ、俺も……」
何でも食べられそうだ。
龍介が笑う。外の水分と熱気を全部吸ったみたいな、ひたひたの顔で。
支我は、腹を空かせてそれを見ていた。
ただの空腹だろうか?
本当に?