恋敵はどこにもいない
支我とかいう男は、案外平凡だ。
少年は、そう思いながら支我を出迎えた。
「すいません、こっちです」
待ち合わせ場所は少年の通う高校の校門前だった。校庭からは運動部のかけ声が聞こえてくる。ホームルームが終わってしばらく経つので、ここを通る生徒は多くなかった。
支我は学生服姿で、事前の情報に違わず眼鏡をかけて車椅子に乗っている。少年が恋人から彼の話を聞いた時は、テレビのクイズ番組に出てくるようなエリートを想像していたが、実際に会ってみるとどこにでもいそうなただの高校生だった。
むしろ、付き添いらしき金髪の男のほうがただ者ではない雰囲気を漂わせている。肩からは得体の知れぬ細長い鞄をぶら下げ、迷彩柄の服を大胆に着崩していた。少年はこういうちゃらちゃらしたタイプが密かに苦手だった。因縁をつけられそうで怖いのである。
それでも、めげずに「夕隙社の方ですよね? 依頼したのは僕です」と名乗り出た。支我は人好きのする笑みを浮かべて自己紹介し、おっかないほうも気だるげに自分の名を告げた。音江というらしい。
「それじゃあ、こちらへどうぞ」
固まっていては目立つので、話しながら校庭のほうへ移動する。途中で振り返ると、音江が支我の車椅子を押していた。小さな段差でタイヤを跳ねさせてしまい、「わり」と短く謝っている。
少年は控えめな態度で話を切り出した。
「その……、この前は、彼女がお世話になったみたいで。今日会うことを伝えたら、支我さんによろしくと言ってました」
少年の恋人が心霊現象に悩まされ、夕隙社という会社の門を叩いたのは、およそ一週間前のことだ。支我も覚えていたようで、「ああ、そうでしたか」と柔和な笑みを浮かべた。
「こちらこそよろしくお伝えください。それで、今日は別件だということですが」
「はい、そうなんです。今、困っているのは僕のほうで」
「校内に《霊》が出る――でしたね。詳しく教えていただけますか?」
少年は神妙な表情を作り、体育館のそばで足を止めた。キュッキュッとバッシュの擦れる音が聞こえる。
「はい……でも、被害に遭った時のことを話すのは、正直ちょっと恥ずかしくて。できたら、まずは支我さんに……」
と言いながら、音江へ視線を送る。彼はつまらなそうに「へェ」と答えた。
時間が流れる。
音江は支我の後ろに立ったままだ。
「あ、あの、支我さんだけに話したいんですけど」
うまく伝わらなかったのかと思い、少年は動揺しつつ繰り返した。音江がガムを噛みながら言う。
「あ~、いいって。俺のことは気にすんなよ」
「えっ」
「こいつだけ置いていったら、万が一の時に危険だろ。なァ?」
「まあ、そうだな」
親しげに支我の肩へ手を置いている。音江の意志は固そうだ。あまりしつこく言って逆上されても困る。少年は仕方なく、二人を相手に話し始めた。
「えっと……。数日前の、今ぐらいの時間なんですけど。体育館裏の掃除用具入れに、熊手を取りに行ったんです。そしたら、いかにもって感じの幽霊が現れて」
「具体的には、どんな《霊》だったんですか?」
支我が尋ねる。
「よく見てないですけど、髪の長い女性だったような……」
「その《霊》が出現した時、何か変わったことはありましたか?」
「変わったこと? まあ、幽霊なんかがいるの自体、変ですよね」
「……なるほど」
支我が考えながら頷く。少年は勢い込んで続けた。
「また体育館裏へ行けば、あの時の幽霊が出てくるかもしれません。一緒に来てくれませんか?」
「どうする、支我?」
「行ってみるか」
二人の意見も一致したようだ。全員で体育館の裏手へ向かう。少年は、緊張と興奮で心臓が高鳴るのを感じた。
体育館裏にはひしゃげた掃除用具入れがあるのみで、生徒が訪れる機会は多くない。いつもじめじめしていて、土の上には苔が広がっていた。
支我の車椅子を押しながら、音江が辺りを見回す。陰気なだけの単なる空き地だ。
「んで、どこに《霊》が出たって?」
「こっちです。こっち」
少年は二人を手招きして、薄暗い敷地の奥へと連れてゆく。
ここまで来れば邪魔は入らない。
少年が支我たちのほうへ向き直ると、音江の表情が変わった。馬鹿ではないようだ。
「一週間前のことを覚えているか?」
少年の口調の変化に、二人は少なくとも表面上は動じなかった。支我が小さく首を傾げる。
「君の恋人が夕隙社の掲示板に依頼を書き込んだ。除霊は無事完了したはずだ。それ以外に何か?」
「何か? 何かだって?」
少年は地団駄を踏んだ。支我のとぼけた顔を見ていると、ますます怒りが込み上げてくる。
「あれ以来、彼女は支我さん支我さんって……口を開けばそればっかり。眼鏡が似合うとか、知的で憧れるとか。いい加減やめてくれって言ったら、『そんな人だとは思わなかった、しばらく距離を置こう』だよ? ひどい、ひどすぎる」
電話越しの冷めた声を思い出し、少年は目頭を押さえた。あれ以来彼女とは連絡を取っておらず、悲しいやら恋しいやらで勉強にも身が入らない。百歩譲って支我が人並外れた美形ならまだしも、人がよさそうなだけの普通の高校生だとわかったから、余計に悔しさが募る。
音江がさらっと言った。
「つまりィ、お前の彼女が支我に一目惚れしたから逆恨みしてるってこと?」
「うわーッ、そんなストレートに言うなァーッ」
弱った心を真正面から突き刺され、少年は大声を上げて音江の台詞を掻き消した。支我が呆れたように呟く。
「そんな理由で……」
「じゃ~、《霊》は?」
「そんなものはいないッ。僕は最初から、一言言ってやるためにお前を呼び出したんだ!」
少年はびしっと支我を指さす。その後ろで、音江が大きなあくびをした。
と、急に寒気がして、少年はわけもわからず息を震わせる。
音江がぱっと顔を上げ、探知機のようにくまなく視線を走らせた。
「おい、噂をすればだ。来たぜ」
「わかった。君、こっちに来てくれ」
「な、なんだ、やる気かッ」
「いいから。離れていると危険だ」
強い口調で言われ、少年は戸惑いながらも支我に近寄った。入れ替わりで、音江が前へ出る。
「話すと出るとは言うけどなァ」
「EMF探知機には反応がない。まだ範囲外か」
「あァ、遠いぜ。もっとも、近づく前に斃しちまうけどな」
音江が肩にかけていた鞄を下ろす。そこから取り出されたものを見て、少年は青ざめた。
「じッ、じゅッじゅッじゅッ銃? え、本物?」
「静かに。聞こえなくなるといけない」
「聞こえ――?」
支我の言葉を聞き返そうとした瞬間、コンセントがショートした時のようなバチッという音がして、近くの電信柱から電線が垂れ下がった。
「うわッ、き、切れた?」
「下がって」
支我が車椅子から身を乗り出し、強引に少年を下がらせる。
バチッ、バチッ、と相次いで重なる音は、少年に激しい頭痛をもたらした。
「ああ、やっと視えた。一体だけか」
「そ」
「楽勝だな。頼んだ」
「ちッ、楽しやがって」
支我と言葉を交わす音江のすぐ横で、音を立てて空間が弾ける。
がんがんがんがん、と硬いものを執拗に殴打する音がして、側溝の蓋が大きく歪んだ。少年の目には陽炎ひとつ見えないにもかかわらず。
何かがいる。
腰を抜かしたまま、少年は必死で車椅子に縋りついた。
「に、逃げなくていいんですか、あの人」
「大丈夫」
「でも、うわあッ」
音江が銃を構えて発砲する。弾丸は空を裂き、そこにいた「何か」に当たった。
直後、音江が地面を転がる。鈍い衝撃音。彼のいた地点に大きな爪痕ができた。苔のかけらが土とともに飛び散る。
「や、やばいって、やばいってこれ、死んじゃうよ!」
「大丈夫だから。あいつは強いんだ。ここで見ていよう」
わめく少年に、支我がウィンクする。
気の抜けるような仕草。ほんの少しだけ恐怖が和らいだ。
「捉えた!」
音江が叫び、銃を下から上へ突き上げる。よく見れば、先端には日本刀のような刃が取りつけられていた。
バチバチバチ、と最後に空気を震わせて、「それ」の気配が消える。
音江は油断せずに周囲を警戒していたが、新たな問題は見つからなかったようだった。銃を下ろし、少年たちのほうへ戻ってくる。
「さすがだな」
「まッ、朝飯前ってやつ?」
支我に向けて肩をすくめている。
少年はへなへなと地面へ座り込んだ。もうおかしな音も、頭痛も悪寒もしない。そのことが心底ありがたかった。
「今の……なに……?」
「ゴーストだよ。お前には見えなかっただろうけどな。まァ、学校ってのは元々多い場所だし、殺気立ってるアホに引き寄せられてきたんだろ」
銃を手にしたまま、音江が答える。
三人のいる体育館裏は変わらず薄暗いのに、校庭のほうからはオレンジ色の夕日が差し込んできていた。まるで別世界のようだ。湿って荒れた地面と、生徒たちが青春の汗を流すグラウンドと。
「狂言だろうがなんだろうが、お前の依頼に対して出動はしたし、除霊もして身を守ってやった。この分の料金はもらっとくからな」
音江に言い渡され、少年はほうけた頭で、報酬が先払いだったことを思い出した。
へたり込む少年をよそに、二人は帰る相談をしている。
「帰りは自分で歩けよ」
「皆のところへ戻るまでが依頼だろ?」
「はァ~……仕方ねェ。落としそうで怖ェんだよなァ」
音江は深いため息をつきながら、車椅子のハンドルを握った。介助には不慣れなようだ。平らとはいいがたい土の上を、支我の体が傾かぬよう慎重に進もうとする。
その途中で、支我が思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。一つ言っておく」
「あ、ぼ、僕?」
支我がすっと笑みを消す。ずっと笑顔だった人間が突然真顔になると、妙に怖い。
「これに懲りたら、もう二度と支我正宗を陥れようなんて考えないように。もっとひどい目に遭わされても知らないぞ」
「も、もっとひどい目」
「彼女と仲直りできるといいな。それじゃ」
暖かい声でそう言って、今度こそ支我は音江に連れられ、茜色の世界へと戻っていった。
少年はしばらくその場を動けずにいたが、やがて恋人に電話をかける。
「あ、……もしもし、僕。その、謝りたくて、この前のこと。え? ……うん、じゃ、お互いにごめん。ありがとう、わかってくれて。うん……僕も、わかってる」
二人で何度も謝罪の言葉をかけ合い、少年はやっと安堵することができた。
最初からこうすればよかった。ただ互いの気持ちがすれ違っていただけで、本当は恋のライバルなどどこにもいなかったのだ。
支我と音江にも謝りたい。気持ちに余裕が生まれ、遅れながらもそう思う。少年は彼らの消えた方角を見つめたが、そこにはただ夕暮れの下、ミリタリーブーツの足跡と、車椅子の轍が残るのみだった。
◇
「なぁなぁ、似てた? 似てた?」
彼が開口一番そう言うので、支我は「お疲れ様」と伝えそびれてしまった。深舟が代わりに答える。
「意外と似てたんじゃない? さすが、支我くんのことはよく見てるのね」
「え~、へへへ~」
伊達眼鏡をかけた龍介が、廃棄品の車椅子の上でなぜかはにかみ出す。音江に「いい加減降りろよ」と言われ、ようやく自分の足で立った。
数日前、夕隙社の除霊専用掲示板に、怪しげな依頼が書き込まれた。わざわざ支我を指名してきたわりに、肝心の《霊》に関する情報は極めて曖昧。いたずらか、さもなくば何者かの罠であろうと推測された。
支我自身は、内容の拙劣さから前者の可能性が高いと考えていた。しかし、だからといって放置しておくわけにもいかず、念のためこうして出動することになったのだった。
龍介が替え玉を名乗り出たのは予想外だったし、反対もした。けれど、《青白い肌をした男の霊》の例もあって、支我個人を狙う者がいないとも言い切れず、対策を取らざるを得なかった。無事にことが終わって一安心だ。
「俺はああいうふうに見えているのか」
「そうね、本物の支我くんのほうが頭はよさそうだけど」
「そこまで真似できないってぇ」
深舟と龍介が和やかに話している。音江たちだけで対処できなくなった場合に備え、次の手は用意してあった。彼女の存在もその一つだ。今や、夕隙社の中でも戦力の要といってよかった。もちろん、除霊には危険が伴うので、戦わずに済むならそれに越したことはない。
用意していた罠を片づけ、撤収の準備を始める。支我は、眼鏡をかけた龍介の横顔に話しかけた。
「龍ちゃん、少し怒っていなかったか?」
「そりゃ~怒るだろ~」
冗談っぽく答えた龍介が、ふと真面目な声で言う。
「嫌じゃん、お前に何かあったら」
真剣に心配してくれていたようだ。支我は微笑んだ。
「今回はいろいろとありがとう。お前に助けられたよ」
「おれがいて助かった? え~、ほんと?」
龍介が見るからに浮かれ出す。支我はくすりと笑った。
「ああ、本当だ」
「じゃあお礼に、今度テニスで勝負する時は手加減してくれてもいいよ?」
「はははッ。悪いが、それとこれとは話が別だな」
「え~。いいじゃん。なぁ~」
お願い、と龍介が後ろから抱きついて体重をかけてくる。支我は笑いながら彼の腕に触れた。
「手加減されて勝っても嬉しくないだろ?」
「そうだけどぉ~」
「……あのさァ」
黙々と片づけに励んでいた音江が、しかめ面で口を挟む。
「俺もいるんですけど~?」
龍介が支我の上で体を起こし、音江を迎え入れるかのように腕を広げる。深舟はこういうやりとりには慣れっこなので、さっさと自分の仕事を終えて社用車へ乗り込んでいた。もう少しすれば「遅い」と怒り出すだろう。
「もしかして友清も入りたかった? ごめんな~、気が利かなくて」
「お前ってホント……」
音江が苦笑する。悪ぶった態度だが、あちらはあちらで仲がいいことを支我も知っていた。そうでなければ、面倒かつ危険な介添え役など引き受けまい。
が、龍介の腕を支我の肩へと戻し、音江はひらひら手を振った。
「入りたくねーし、お前らの間に入れる奴なんかどこにもいねーよ」
「そんなのわかんないじゃん。急に一目惚れされたりするしさぁ」
龍介が熊のように支我の頭を抱え込む。首の筋が伸びて痛い。
「あ~。まァ、なんつーの、取り越し苦労ってやつ?」
「どういうこと?」
「わざわざ馬に蹴られにくる奴なんか気にしてんの、多分お前だけだぜ。でっかく構えとけば~? 末永くお幸せに~」
音江はそう言って、「先行ってるぜ」と車へ向かった。
支我は龍介に声をかけ、とりあえず腕を解いてもらう。彼はなぜかひどくうろたえていた。
「な、なぁ、友清って人の心読めんのかなぁ」
「音江がテレパシーの使い手だという話は聞いたことがないな。確かに感覚は人より鋭敏なようだが……どうしてそう思うんだ?」
「だって、正宗にもまだ言ってないのに。さゆりちゃんにしか……。友清、どこまで知ってんだろ? あいつのことだから、適当に喋ってるだけかなぁ」
龍介はもごもご言うばかりで、精神感応に関する話は一向に出てこない。時間があればもう少し質問したいところだったが、社用車の窓が開き、深舟が声を張り上げた。
「もう、早くしてよ、二人とも」
「ああ、すまない。今行く」
支我は叫び返し、いつものように二人揃って車へ戻ることにした。