藪蛇

 無機質な黒い瞳が、支我を無言で見上げている。
 支我がその双眸と相対したのはおよそ一秒ほどのことだった。わずかな停滞の後、ふわふわもこもこの胴体に足を滑り込ませる。
 ピンク色の、うさぎらしき生物を模したスリッパだ。長い耳までついている。履き終えて顔を上げると、室内ドアの陰から顔を覗かせていた龍介と目が合った。
「お邪魔します」
 礼儀としてそう声をかける。龍介はようやく扉の向こうから出てきた。
「やっぱりこっち履いて」
 と、ストライプ柄のスリッパが差し出される。前回このアパートを訪れた時に使わせてもらったのと同じものだった。
 支我がスリッパを履き替えると、龍介はうさぎのほうをシューズボックスへしまい込む。つぶらな黒い瞳は、家主が扉を閉める寸前まで何かの感情を訴えていた。
 龍介が一人暮らしをしている部屋へ来たのは数回目だが、スリッパを交換するという行動は今まで見られなかった。支我は興味を抱き、彼を観察する。対象は腕組みをして渋い顔だ。
「正宗ってあんまり怒んないよなぁ」
「そうか? まあ、人並みだと思うけどな」
 怒りを感じないわけではないが、現実的な対処に転換して考えるほうではある。
「『もう耐えられない!』みたいなこと、ないの?」
「特に思いつかないな」
 考えてはみたが、堪え切れないほどの怒りは久しく経験していなかった。強いて言えば両脚の自由を失った時と、龍介を護れなかったあの時だ。
 だが突き詰めて考えると、その衝動の正体は、未熟な自分へのやりきれなさでもあったように思う。それまで縁のなかった、種々――たとえば車いすへの移乗、更衣など――の訓練を余儀なくされて「なぜ自分がこんなことを」とは感じたし、《白いコートの男の霊》を討てなければいよいよ怨みに取り憑かれていたかもしれない。けれど幸いにも、今の支我はすべてを乗り越えてここにいる。
 変化のきっかけをくれた男は、申し訳なさそうに白状した。
「ごめん、実は怒らせてみたくてあえてかわいいスリッパ履いてもらったんだけど」
「ははは、そうだったのか。これくらいで怒る人間のほうが少ないと思うがな」
「おれももっと過激なほうがいいかなとは思ったけど、正宗の嫌なことはしたくない気持ちと、怒らせたい気持ちが拮抗してて……」
 葛藤の末の落としどころが、かわいらしいスリッパを履かせるというものだったらしい。二人は話しながら部屋へ入り、ベッドの端に座った。
「そもそも、どうして俺を怒らせたかったんだ?」
「正宗はいつも優しいから、たまには怒られてみたいなぁ~と思って」
「それが龍ちゃんの希望なら叶えたいが……意図的に怒るというのは難しいな」
 そう返すと、龍介は急にもじもじし始めた。
「えっとぉ……怒られたいのも本当なんだけど、さらに本音を言うと~……一回くらい強引に迫られてみたいっていうかぁ~」
「強引に……」
「あ、強制するつもりはないんだけど。でも、たまには『もう我慢できない!』とか言われてみたくて~」
 例示された台詞は先ほどと似ているが、文意は異なる。支我は正確に文脈を捉えた。そして、彼がなぜ唐突にこんなことを言い出したのかも理解できた。
「なるほどな。この前の映画が気に入ったというわけか」
 若手俳優が「俺のものになれよ」と少女に囁く映像は、支我も一度くらいは見かけたことがある。最近封切りされた映画のコマーシャルだ。数日前のアルバイトの際、龍介や女性陣が見に行くと話していた。そこから影響を受けたのだろう。
 龍介はにやっと笑った。
「うん、面白かった。あのさゆりちゃんでさえ、最終的には乙女の顔になってたからなぁ」
 本人が聞いたら恥ずかしがって怒り出しそうな感想だった。想像したら微笑ましくて、二人で笑う。
「その映画の一番盛り上がる場面で『もう我慢できない!』って台詞があってさ。なーんか、つい言われる側の気持ちになっちゃった~」
 正宗の顔が浮かんでさぁ、と何気ない口調で言われ、支我は小さく咳払いをした。光栄というか、悪い気はしないというか。
「だが……映画の中ならともかく、実生活でそんな台詞を口にする機会はそうあるものじゃないな。お前だって言ったことはないだろ?」
「ん~? 正宗と一緒にいる時に、心の中で思ってることはあるよ」
 龍介がさらっと言い、支我は完全に不意を突かれた。集積したデータから《霊》の行動を予測することはできても、彼の考えは読み切れない。
「それは……気がつかなかった」
「口には出してないからな~。そういう時はこうしてる」
 彼がぎゅーっと抱きついてくる。支我はちょっと幸せな気分になった。
 龍介もリラックスした声で言う。
「……まぁ、いっかぁ。優しいのはお前のいいところだしな」
 支我が背中を撫でてやると、龍介は心地よさそうにもたれかかってきた。新しい思いつきへの関心は薄れたようだ。ぴったりくっついた胸郭から、呼吸が安定しているのがわかる。
 ところが、支我の中では次なる疑問が生まれていた。
「ちなみに『強引に迫る』というのは、具体的にはどうすればいいんだ?」
「え~? ほら、よくあるやつだよ。壁際とかに……」
「壁際?」
 龍介とは映画やドラマの好みが異なるためか、漠然とした示唆では正答に思い至らなかった。さらなるヒントを要求すると、彼の声は小さくなってゆく。
「あの、もういいから」
 背中に回されていた腕が離れていこうとしたので、支我はひしと掴んで引き止めた。
「いや、今後のために聞いておきたいんだ。詳しく教えてくれないか」
 特別な関係だからこそ、小さな要望や不満にもきちんと耳を傾ける必要がある。そう思っての要求だったが、龍介はなぜか著しく慌て出した。
「おれの口から全部説明させる気か!?」
「お前のことはお前にしか説明できないだろう。遠慮はいらないさ、なんでも言ってみてくれ」
「いっ、言えないってぇ」
「口頭じゃ難しいのか? なら、実際にやってみるのでも構わないが」
「実際にって、そんなの……」
 何を想像したのか瞬く間に赤くなった目の前の耳が、じりじり遠ざかろうとする。支我はすかさず彼の肩を掴んだ。これで龍介が隠れる場所はどこにもない。
「さあ、龍ちゃん」
「もういいってば」
「いや、まだだ」
 支我は食い下がった。ささいなことで気を使うような関係では、きっと長続きしない。だから教えてほしい。単純に彼の喜ぶ顔が見たいというのもある。
 龍介は照れているのか、それともやはり遠慮ゆえか、まだ決心がつかないようだ。ただ思い描いたことを音に乗せるだけなのだが。
 しかし、人にはそれぞれのペースというものがある。急かし過ぎないよう、支我は粘り強く待った。
 彼の瞳を直視したまま。
「お前のことは好きだけど、そういうとこはほんとにどうかと思うぞ!」
 龍介は往生際悪く叫んでいたが、支我による丹念な聞き取りが終わる頃には、すっかり大人しくなっていた。

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