さみしいの言い方
朝日は目を滑らせる。
皆守はあくびをしながら参考書をめくって、前の章に戻った。
早朝のマミーズにはぱらぱらと生徒の姿があり、重たげな夜の気配がまだかすかに残っていた。皆守と同じく、日付が変わるまで勉強して、意識を遮断するように眠り、また新たな一日を迎えた者たちだろう。自らがそちら側に身を置くことになるとは、思ってもみなかったが。
東側の窓際にある席が空いていたので何も考えず座ったものの、なぜ皆がそこを避けたかはすぐにわかった。外の光が眩しすぎる。注文した朝食が運ばれてくるまでの間、参考書に目を通そうかと思ったが、色分けされたキーワードが網膜に突き刺さるようだ。
それでも、眉間に皺を寄せながらページを繰る。
開きぐせがついてしまったので、両手をポケットに突っ込んでいても、ひとりでに本が閉じることはない。書き込まれたやや癖のある字を、大人しく朝影に晒している。
「皆守クン、おはよッ」
鈴を転がしたような声に顔を上げると、八千穂明日香が立っていた。皆守の返事を聞くよりも先に正面へ滑り込む。
「おい。座っていいとは言ってないだろ」
「えッ、駄目なの?」
「そうも言ってないが……お前、最近あいつに似てきたな」
「違うよ、こういうの、仲良くなったっていうんだよ」
八千穂がふくれた。朝食のメニュー表を取ってやると、大きな瞳が上から下へ動く。白い頬は、熾火を透かしたように色づいていた。
「皆守クンはどれにしたの?」
「A定食」
「さすがに、朝のメニューにカレーはないもんね」
「自分で作ってもいいが、しばらくお預けだな」
「時間がかかるから?」
「まッ、そういうことだ」
注文を終えた八千穂が、両手で頬杖をついて皆守の参考書を見やる。それきり会話は途切れ、一人は生物IIに、もう一人は窓の外に意識を向けた。
また、あくびが出る。
眠気覚ましに水を飲んだ。この寒いのにゴロッとした氷が三つも入れられていて、身震いするほど冷たかった。
「九チャンが」
と、彼女はいなくなった男の名を呼ぶ。空中に落とした水の玉をそのまま固めたような瞳に、死にゆく朝焼けが映っている。
「九チャンが来てから、楽しかったんだァ。学校からは出られないけど、一緒に勉強して、おしゃべりして、ご飯を食べて、冒険して」
「今は違うのか」
「ううん」
八千穂は悲しそうに微笑んだ。
「昨日は、たまたまトトクンと会ったから、二人でご飯食べて。夜になったら双樹サンが、いい匂いのする石鹸をくれたの。今日も、明日も、明後日も、すっごく幸せで楽しいの、でも」
八千穂がうつむくので、皆守はため息をついた。
あいにく、上を向かせてやれる男は、ここにはいない。
またページを繰った。章が一つ終わり、次の単元へ入った。
「……俺は昨日の朝もここで食ってたんだがな」
皆守の喉はまだ半分眠っているようで、声はややこもっていた。
「眠かったし、もういい加減参考書なんか捨てて、堕落した安息の世界へ旅立とうとしてたんだが……たまたまそこへ真里野が来てな。なんやかんや言われて言い返してる間に、サボる気が失せちまった」
きっと、彼がそばにいたら同じ結果になっていたことだろう。真里野とは異なる言い方で、皆守の未来を掴むための努力を促したに違いない。
示し合わせたわけでもないだろうが、この學園から消えた人間の働きを、いつの間にか他の誰かが担っている。
「人一人いなくても、意外と回るもんだな。でも」
そのとき、A定食が二人ぶん、湯気を立てながら運ばれてきた。出汁の香りに胃袋が引っ張られる。
黒く塗られた箸を、存外小さな手で握った八千穂が一言、
「おいしい」
と呟いて焼き鮭の身をほぐす。
湯気で蓋の固まる汁椀には赤だしが注がれ、細かく刻んだ三つ葉と、花の形をした麩が見え隠れした。一口飲めば腹の底が温かくなり、香りが鼻に抜ける。
「悪くないが、物足りないな」
「でも……おいしいね」
「まァ、外に出られない以上、これで満足するしかない。さっさと腹ごしらえを済ませて、生産的な時間を過ごすに限る」
「うん……」
八千穂はいったん箸を置いて、大きく息を吸い込んだ。
「――九チャン、九チャン、九チャン」
「なんの発作だよ?」
「だって、急に名前を呼ぶ回数が減ったから、口が言い方を忘れちゃったら困るじゃない」
「忘れるか?」
「わかんないけど」
そちらはどうなのだ、という眼差しを向けられるが、皆守は汁椀を傾けてやり過ごす。
呼ぶものか。《宝探し屋》が舞い戻るまで、その名は音にしないと決めている。
きっと忘れることはあたわないだろう。幸か不幸か、罪人に押された焼印のごとく、その存在は魂に焼きつけられた。もう、彼を知る前には戻れない。皆守に与えられた喜びのようでもあり、呪いのようでもあった。
八千穂は、前者だと思っているらしい。
彼を呼ぶ唇は甘やかで、眼前の皆守すら視界から外れているように思える。
「ずっと、覚えとくんだ。九チャンのこと」
「そうかよ。まァ、せいぜいがんばってくれ。お前が頭に詰め込むべきことは、他にいくらでもあると思うがな」
「あたし、力試しでセンターは受けるけど、スポーツ推薦だから受験はもう終わってるよ」
「そういう話じゃない。ったく、珍しく神妙なツラしてるかと思えば」
「なになに? 皆守クン、もしかして慰めてくれようとした?」
無慈悲な追及には黙秘権を行使する。興味を失った八千穂は、曇った窓ガラスをおしぼりでキュッキュッと拭いた。
「あッ、見て。白岐サンだ」
窓の外には、髪の長いクラスメイトの姿がある。彼女が立ち止まると、寒色の羽を持つ小鳥が指先へ舞い降りて、ガラス越しにも聞こえるような声で囀った。
追い払うでもなく小鳥を見守る白岐の首に、鎖はない。新芽のような、傷一つない肌が、睦月の空の下に息づいている。
八千穂が店内から手を振ると、彼女もこちらへ寄ってきた。分厚いガラス越しに手を重ね、友人同士が笑い合う。
「ごちそうさまでしたっと。あたし、行くねッ。またあとでね」
「ああ、じゃあな」
たんぽぽ色の財布から小銭を出して皆守に渡し、八千穂は小走りにマミーズを出て行った。やがて窓の外から、弾けるような笑い声が聞こえてくる。
早く朝食を片づけてしまおうと、皆守は箸を進めた。
ホームルームまであと少し。参考書の練習問題を解くだけの余裕はある。ほんの数題でも、ここで取り組んだことは明日に向けての力になるだろう。
外に出るのは、霜が溶けてからでも遅くない。