お姫様は靴を捨てて
私には親友がいる。
八千穂明日香という、お団子頭の女の子だ。
お団子のやり方を教えたのは私。テニスをするときに髪の毛が邪魔になるけれど、ポニーテールばかりでは飽きちゃうねって話になって、雑誌で見かけたのをアレンジしてみた。ぶきっちょな明日香だけど、毎朝やっているうちに慣れたようだった。
本当はお揃いにしようって言われていた。でも手入れが億劫で、私のほうはショートヘアにしてしまった。一時期は顔を合わせるたびに「どうして切っちゃったの」と拗ねられたものだ。
そう、私たちは親友だけど、時には諍いもする。二人でテニス部に入って、部長と副部長という立場になってからはよけいに。みんなを引っ張っていくためには、本気で議論を戦わせなきゃいけないこともある。思いきりぶつかり合える明日香が部長でラッキーだなと思う。
たまに《鬼の副部長》なんて呼ばれて「好きで鬼になってるんじゃないわよッ」と怒ることもあるけれど、それ以外はごく普通の友達。お昼は毎日一緒に食べるし、食後につまむ新発売のお菓子には、世間話というトッピングが乗っている。
「高校生活もあと一年かァ」
と話したのは、三年生に上がって少し経ったころだった。いっせいに咲いた桜が嵐で散って、教室は蒸し暑くなり始めていた。
「残りの一年も『あと半年かァ』『あと三ヶ月かァ』って言ってる間に終わっちゃうんでしょうね、きっと」
私が言うと、明日香は恐ろしげに身震いした。
「やだ~。高校生活ラストなのに」
「きっと卒業してからも同じよ。『もう二十歳かァ』『もう三十路かァ』『もう還暦かァ』……」
「うーん、それもある意味幸せかもしれないけど……。あたしは何か起きてくれたほうが嬉しいな」
「何かって何よ?」
「えーと……墓地がバリバリって割れて、地下から巨大なロボットが出てくるとか」
「墓地から出てくるの? ダサ~。そんなアニメがあったとしても、おもちゃは売れないわね」
「え~ッ」
明日香が桜色の唇を尖らせる。
もちろん、私も察してはいる。今の話でもっとも重要なワードは「墓地」だ。安穏とした學園生活において数少ない、本物の不可侵な領域。
だけどそこに触れたら最後、退屈だなんて言っていられなくなるのは自明の理だった。空想の中で弄ぶことはあっても、本当に暴くなんてあり得ない。それが私たち天香生の常識というものだ。
明日香も基本的には常識人なんだけど、好奇心があり余っているからヒヤヒヤする。どこで《生徒会》の耳に入るかわかったものじゃないのに。
私は、それとなく話を逸らすことにした。
「そういえばさ、気づいてる? 女テニの三年で彼氏がいないの、とうとう私たちだけになったわよ」
「ええ~ッ? 四人いたはずじゃない!」
「一ヶ月前まではね。動くのよ、時流は」
娯楽の少ない天香學園。合法的に楽しめる遊びなんて恋愛くらいしかない。だから砂鉄に突っ込んだ磁石のように、あっちでもくっつき、こっちでもくっつき。長年相手のいない私たちは少数派だ。
みんなが「向こう側」に行ってしまったような気がして、私としては若干の焦りを覚えないでもないのだけど、明日香はけろっとしていた。
「そっかァ。春は出会いの季節だもんね」
「……あんたね、まだ直接惚気を聞かされてないからそんなこと言えるのよ。毎日毎日、やれ今日は手を繋いだだのハグしただの、キスするときに鼻がぶつかっちゃっただの」
「あッ、やっぱりぶつかっちゃうものなんだ。へェ~」
「感心してる場合?」
「だって、実際どうなのか気になるじゃない」
「体験してみたらわかるんじゃない?」
相手がいないことを知りながら意地悪を言ってみる。でも、明日香は全然意に介さなかった。
「ん~、いつかね。今はこうやって友達と喋ってるほうが楽しいもん」
「ホントにィ? 明日また転校生が来るってけど、一目見た瞬間に前言撤回したりして」
「あッ、また転校生が来るんだ。仲よくできるといいな」
「私はいいかな。どうせ長くて一年しか一緒にいないんだし」
長くて、とわざわざ言い添えたのには理由がある。この學園はなぜか転校生が多いが、再び転出するまでの期間が極端に短いのだ。数週間ということもざらにある。しかも別れの挨拶もなく、ある日突然消えてしまう。去年やってきた夕薙くんは相当長続きしているほうだった。
最初は転校生とも親交を深めようとしていたけど、今いる友達で十分かな、という気持ちに私はなっている。しかし明日香は違ったらしい。
「でも、その一年で人生百八十度変わっちゃったりするかもよ?」
「変わんない、変わんない。漫画じゃないんだから」
えー、とむくれる明日香に変化の兆しが訪れたのは、それから半年が経ってからのことだった。
◇
二学期が始まって、私は相変わらず明日香とお昼を食べていた。
話題も代わり映えしない。部活のこと、昨日見たテレビ番組の感想、マミーズの新作スイーツの品評、悪気はないけどちょっぴり悪意のある先生の物真似。
景色が変わったのは、このまま二〇〇四年も終わるんだろうなと思っていた秋の終わり。
「ね、ね、相談なんだけどさッ。今日のお昼、白岐サンも一緒に食べてもいい?」
「白岐さん?」
体育の授業終わりに制服へと着替えながら、明日香がそんな提案をしてきた。
白岐さんといえば、個性派揃いのこの學園でも、より一層際立って存在感のある女の子だった。ものすごい美人なのは間違いない。でもびっくりするくらい長い黒髪と、アクセサリーなのかなんなのか、首元に巻かれた鎖のようなものが、話しかけないでって言っているように感じる。
なので、同じクラスではあるけれど、言葉を交わしたことは数えるほどしかなかった。それだって「はい、プリント」「ありがとう」の一往復程度だ。
体が強くないのだろうか、体育に参加している姿はあまり見かけない。だから明日香も堂々と更衣室で名前を出したわけだった。
「……白岐さんも食べるんだ。ご飯」
「もう、当たり前でしょッ。けど、食事を抜かしちゃうときもあるみたいで……一緒に食べれば、そんなこともなくなるかなって」
お願い、と明日香が顔の前で手を合わせる。この上目遣いの前には鬼の副部長もかたなしだ。
「そういうことなら、いいわよ。三人で食べましょ」
「ホント? やったあ! えへへッ、ありがと、大好き!」
「明日香、声が大きいッ。隣、まだ授業中よ」
いっけない、と明日香が手で口を押さえる。
昼休みになって当人と話してみると、白岐さんは想像よりもピュアでおっとりした子だった。私に対してはまださすがにぎこちなかったけれど、明日香にはたまに笑顔も見せる。それがまた見とれてしまうくらい絵になっていた。
明日香が熱を上げるのも頷ける。白岐さんは単なる美人じゃなくて、どこか現実離れした雰囲気があった。まるで違う星に生きているみたい。五時限目の授業を受けながら、世の中には前人未到の秘境がまだまだあるんだなあと思ってしまった。
彼女だけでも十分衝撃だったのに、明日香が親しくなった別世界の住人は他にもいる。
また別の日、保健医のルイ先生に一階の廊下で呼び止められた。
「君はC組だったな。すまないが、皆守甲太郎が教室にいたら、私が呼んでいると伝えてもらえるか。忘れ物を取りにくる予定だったのだが、一向に現れなくてな」
「はーい」
先生からの頼みごとを断るわけにもいかず、承諾して階段を上がる。
教室へ入ると、皆守くんは脚を投げ出して自分の席に座り、新しい転校生の葉佩くんとおしゃべりしているところだった。
第一声はなんて話しかけたらいいんだろう。怪しまれない程度に歩く速度を落としながら考える。
私は正直、皆守くんのことが苦手だった。一年生のときによくない評判を聞いていたからというのもある。でも一番は眼だ。もともと彫りの深い顔立ちをしているだけでなく、見返してくるその視線に居心地が悪くなる。おかしなものを隠し持っていないか身体チェックされているみたいだ。
葉佩くんのほうは、話しかけたらニコッとしてくれるからまだ接しやすい。皆守くんは、私の知る限り一度も愛想笑いのようなものを浮かべたことがなかった。
「あの、皆守くん」
「ん?」
本人は何気なく見上げたつもりだろうけど、他の男子とは何かが違う。
手のひらが汗をかいている。そうか、怖いんだ。
他の子は多かれ少なかれ、自分がどういう人間か、今何を考えているのかを表そうとする。話しかけられて笑い返せば「会話してもOK」の合図だし、優しい声で語りかければ「あなたのことを気遣っているよ」というメッセージが読み取れる。
皆守くんと同じクラスになって半年以上。私は彼から、そういったサインを受け取ったことがなかった。だからあまり理解できない。わからないものは怖い。
けど、明日香が仲よくしている子だ。悪人ではないはず。……きっと。
「ルイ先生が呼んでたよ。忘れ物がどうとか」
「あ? あー……。そういや、今朝寄る約束だったな」
皆守くんは、私の顔を見ずに言った。全然意識に入っていないみたいだった。
他人のことなんてどうでもいいんだろうか。あからさまに表に出されると、ちょっぴり傷つく。
私が二の句を継げずにいたからか、葉佩くんが彼を促した。
「早く行ってきたら?」
「面倒だが、そうするか。サボると後がうるさいからな」
葉佩くんのことは見えているみたいで、普通に返事をする。
皆守くんはポケットに両手を入れたまま立ち上がり、私の前で足を止めた。
「わざわざ悪かったな」
「……え?」
目が合う。相変わらず何を考えているかは謎だけど、以前よりはほんのちょっと人間っぽくなった気がする。
「一階から三階まで使い走りにするとは、人使いの荒い保健医だぜ。後で苦情を言っておけよ」
皆守くんは暗号めいた言葉を残し、教室を出て行った。
残された葉佩くんが私に言う。
「『わざわざ伝言してくれてありがとう』だってさ」
「今の、そういう意味?」
「意訳するとそうなる」
四月から皆守くんのクラスメイトをやっている私より、九月に転校してきたばかりの葉佩くんのほうが、彼については詳しいらしい。その翻訳を信じるとすれば、思っていたほどとっつきにくい人ではなさそうだ。ほっと肩の力を抜く。
そのとき、教室に明日香が入ってきた。緊張の反動で、私の顔は勝手に笑ってしまう。
だけど明日香は、まず葉佩くんのほうを向いた。私ではなく。
受け止めてもらえると思って発した私の声が、机の上で宙ぶらりんになる。
「明日――」
「あれ、珍しい組み合わせだねッ。ちょうどよかった、九チャンに聞こうと思ってたことがあったの」
「なに?」
心当たりがなかったのか、葉佩くんは不思議そうな顔をする。
「あのね、今月の二十五日って土曜日でしょ? 何人かで集まってクリスマスパーティをやろうと思ってるんだ」
パーティ自体は、去年も一昨年も開催した。明日香は友達が多いので、年々参加者が増えている。今年は葉佩くんも、ということだろう。もしかしたら白岐さんや皆守くんも。
賑やかなほうが楽しいのは間違いない。なのに、明日香はなぜか、懇願するように言った。
「二十五日って、まだ學園にいるよね? 九チャンにも来てほしいの。お願い」
十二月二十五日は冬休み初日。早めに帰省したい人はさっそく學園を発つだろう。葉佩くんには少なくともその一日だけは寮へ残り、クリスマスパーティに参加してほしい。そういう意味だと思った。
でも、だったらどうして、明日香はこんな目をするんだろう。今まで見たことのない、誰かを心から求めるような。
どうして、その瞳に映っているのが葉佩くんなんだろう。
どうして……。
葉佩くんは、ちょっと考えてから答えた。
それは確かだ。けど、どんな言葉で断ったのか、私はよく覚えていない。
記憶にあるのは明日香の、初めて目にする泣き笑いだけ。
◇
十二月二十四日、クリスマスイヴ。昨日は學園全体がトラブルに巻き込まれててんやわんやだったけど、時間が経って落ち着いてきた。
長引いた進路相談も終わり、私は鞄を取りに教室へ急いでいた。外はもう真っ暗だ。天気予報によれば今日は二月並みの寒さで、雨でも降ろうものならあっという間に雪へと変わりそうだった。
明かりの消えたC組の教室。一人の男子生徒が暗闇の中で椅子に座り、窓の外を眺めていた。
葉佩くんだ。
何の用だろう。授業時間じゃないから暖房も使えないし、寒いのに。《生徒会》に処罰されるリスクを冒してまで、校舎に残る用事があったんだろうか。
考えているうちにピンときた。今日はクリスマスイヴだ。女の子とこっそり待ち合わせをしているに違いない。
私は思い切って、葉佩くんに声をかけた。
「葉佩くん。誰か待ってるの?」
考えごとでもしていたのか、葉佩くんは驚いたみたいだった。
「うん。挨拶しておこうかと思って。でもわざわざ呼び出すのもどうかなって、迷ってたところ」
「挨拶?」
恋人と忍び逢いにきたんじゃなかったのか。念のため、聞いてみる。
「誰に?」
「――」
葉佩くんは、待ち人の名前を口にした。
それを耳にした以上、「呼んできてあげるよ」と申し出るのが親切だったかもしれない。だけど私は平然と言った。
「そうなんだ。それじゃ」
鞄を持ち、足早に校舎を出る。進路指導のためとはいえ、遅くまで残っていたのが《生徒会》に知られたら、よくは思われない。だけどそれだけではない理由から、早歩きが小走りになり、ダッシュに変わる。
部活で鍛えた体力のおかげで、女子寮まで走っても軽く息が弾む程度だ。玄関でスリッパに履き替える。
廊下は寒かったけれど、娯楽室の扉を開けると、かすかに湿った暖かい空気に包み込まれた。ソファに座った明日香が、制服姿のままテレビを見ている。
「あッ。おかえり~」
「ただいま」
平気な顔でお菓子でもつまもうと思ったのに、足の甲へ鋲を打たれたみたいになって、全然動けない。
教室で白い息を吐いて待っていた葉佩くんの姿が浮かぶ。
ずっと待っていればいいんだ。凍えきって朝を迎えるまで。
でも。
「……さっきね、教室でね」
「ん? うん」
言いたくない。
けど、明日香に嘘なんてつきたくない。
「葉佩くんがね」
「九チャン?」
他の人の名前を呼ばないで。
私の名前を呼んでよ。
「明日香と話したかったみたいで、待ってたの」
「あたしを? 何だろ」
「行ってあげたら? まだ待ってると思うから」
嫌だ、行かないで。
ここにいて。
「うん……、電話やメールじゃなくて、直接話したいってことは、きっと大事な話だよね。……行ってくる! 教えてくれてありがとッ」
明日香が立ち上がる。スリッパは邪魔になったのだろう、遠ざかる足音が途中から変わる。多分脱いでしまって、裸足で走っている。その音は次第に小さくなっていって、やがて消えた。
明日香は葉佩くんに会えたのか、どんな話をしたのかは知らない。私はそのあと、お風呂に入ってすぐ寝てしまった。
そして、翌日の朝早く、部屋のドアをノックする音で目を覚ました。
「何、こんな時間に……」
幸せな夢の余韻を引きずりながら、ドアを開ける。
明日香が立っていた。私とお揃いで買った、ラケットバッグを持って。
「おっはよーッ。ね、練習しよ」
「練習? テニスの? なんでこんな朝から……」
もう部活は引退したから、たまに顔を出しても軽く体を動かす程度で、朝練なんかないのに。
そこで、明日香の異変に気がついた。
瞼が腫れぼったい。白目の部分が赤くて、泣いていたかものすごく寝不足か、どっちか。
どちらでも一緒だ。だって、私は明日香のこんな顔、知らない。
笑ったときの唇の輪郭は見慣れたものなのに、涙のよく似合いそうな目だけが、私の中に棲む明日香と違う。
何万年も続く夜を越えて朝日の中に立ったような、こんな表情で笑うこの人は誰だろう。
「決めたんだ。あたしはここでできることをがんばるの!」
私の明日香は、王子様が迎えに来てくれるのを大人しく待っているような女の子じゃなかった。自分の足で歩いて、走って、靴が邪魔だったら脱ぎ捨ててでも、大事なものの元へ急ぐ子だった。
王子様が魔法をかけて、傷だらけの手で明日香の靴を脱がせちゃった。しおらしく待ち続けるただの女の子にしてしまったんだ。
もうきっと帰ってこない。裸足で夜を駆けて橋を渡った他の子と同じように、違う国へ行ったまま。
私はまだここにいるのに。
もし私が王子様だったら、結末は変わっただろうか。
葉佩くんが転校してきて、明日香の隣の席になったあの日。
ずっと二人で向かい合ってお昼を食べていたのに、明日香の隣へ白岐さんが座って、二対一になったあの日。
誰とでも友達になれるなんて羨ましい、さすが明日香、私にも応援させてよ――そんなのは欺瞞だ。
だけど、私に明日香は拐えないと思っていたから、王子様になろうなんて考えもしなかった。
これは、ただの負け惜しみだ。
それでも、
「ごめん、明日香――もう、シューズは処分しちゃったの」
それでも、明日香の靴を脱がすのは、私でありたかった。