蕾
花の隊列が行進する。
淡い色をしたカーネーションの群れを、響は椅子にすっぽり収まって眺めていた。
今日の主役である卒業生たちが、一列になって入場してくる。
天香學園は一学年四クラスしかない上に全寮制だから、先輩といえど見知った顔は多い。とはいえ、列をなして歩く三年生を目の当たりにすると、これほどの人数が校舎に詰まっていたのかと驚く。
卒業生は全員、胸元にカーネーションのコサージュをつけていた。初めこそ珍しさに目を引かれたが、しだいに飽きてくる。
個性豊かな先輩たちも、制服という包み紙に、ピンクの熨斗を添えればみな一緒だ。
カーネーション、カーネーション、カーネーション。
色も花弁の数も、寸分違わぬ造花がたくさん。
生花を使っていたこともあったそうだが、花の世話をする生徒が減ったので、いつからか造花に切り替えたという話だった。
花弁の端のぎざぎざした加工も見慣れたころになって、ふと視界に濡れたような赤がちらつく。
響が目を凝らすと、それは学生服の胸元に挿された真っ赤な薔薇の花だった。
自然と、持ち主の顔へ視線がいく。
あっ、と叫ばずに済んだのは、響がこれまで声を殺して生き延びてきたからに違いない。
一人だけ薔薇の花を身につけた男子生徒は、響に向けて片目を瞑る。
葉佩九龍。
三学期の間、一度たりとも学校に現れなかった彼が、当然のような顔で卒業生の中へ混じっている。
思わず前方へ目をやった。送辞のため、最前列の端に席をもらった夷澤が、ガタリと音を立てて腰を浮かせる。吹奏楽部の優雅な調べで掻き消され、離れた位置の者には聞こえなかったようだ。
「それではただいまより、二〇〇四年度、天香學園高等学校卒業証書授与式を執り行います」
司会は響たちのクラスの担任が務めていたが、そのゆったりした声も、鼓動を鎮めてはくれなかった。
式が終わるやいなや、響は三年C組へ行ってみようと夷澤を誘ったが、片づけがあるとかですげなく断られた。
仕方なく、一人で校舎の階段を上る。三年生はすでに最後のホームルームを終えたようで、どの教室もがやがやと賑わっていた。
ふだん用のない上級生の縄張りは、足を踏み入れるだけで緊張する。開けっぱなしの戸口から、中の様子をうかがった。
いた。やはり九龍だ。窓際の席で、誰かの卒業アルバムにメッセージを書き込んでいる。
「お……」
お兄ちゃん、と呼ぼうとして、響は思いとどまった。
この呼び名を聞いて、二人の間柄を知らない生徒から変に思われないだろうか。響自身は白眼視されることに慣れているが、自分のせいで九龍の評判に傷がつくのは嫌だと思った。
一歩踏み出しては退いてを繰り返していると、ちょうど教室を出ようとする先輩の通路を塞ぐ格好になってしまった。
「……どいてくれる?」
白岐幽花という、三年C組の女子生徒だ。響も何度か言葉を交わしたことはある。美しい人だが、どこか近寄りがたい印象は拭えなかった。
「すッ、すみません」
響は慌てて飛びのいたが、白岐は教室の出口で立ち止まった。
「九龍に何か用?」
「え? あ、は、はい」
目立った動きのない表情からは、白岐の感情を読み取れない。響はたちまち不安になってきた。相手の考えていることがわからないとき、自分が何かしでかしたのではないかと思ってしまうのは、迫害されてきた者の習性だ。
しかし、白岐は響ではなく、教室のほうへ振り返った。
「九龍」
その声はさして大きくなかったが、春風のように教室を駆け抜けた。響は、彼女を恐れていたことが間違いだと知った。こんな音で名を呼べるのだ。自分と変わらず、九龍を大切に思っているに違いない。
そう考えると、胸のうちにほろ苦さが広がった。響も自分の声であの人に振り向いてもらいたい。
思い切って叫ぶ。
「お兄ちゃん」
九龍が顔を上げる。何人かの三年生も同時にこちらを見たので、響の顔は燃えるように熱くなった。一方、白岐は顔色ひとつ変えない。
「……通してもらえるかしら。美術室へ、マーカーを取りに行きたいのだけど」
「あッ、す、すみませんッ」
「いいえ。……あなたも、あとでアルバムに書いてもらえる?」
響は無我夢中で頷いた。白岐は「ありがとう」とうっすら笑って、教室を出て行った。
その唇の角度にぽーっとしながらも、肩をすぼめて部屋の中へ入る。九龍が大きく手を振っていた。すぐそばでは、響も話したことのある皆守と八千穂がアルバムを開いている。
「響。来てくれたんだ」
「は、はい」
「夷澤は一緒じゃないの」
「あ、誘ったんですけど、卒業式の片づけがあるからって」
「大変だな。じゃあこっちから行くか」
九龍が油性ペンをポケットに突っ込みながら立ち上がるので、むしろ響のほうが止めようとした。
「えッ、でも、そんな、先輩方でお話とか」
「どうせこのあとメシ食いに行くから。デザートは甲ちゃんの奢りで。なっ」
「んなワケあるか」
「あー、ダメだよッ、九チャン。平等にゲームで決めるんだから」
「いいけど、じゃんけんとかスピードはナシな」
「ちっ……」
「おい」
響は、ここでも新たな発見をした。皆守は眼が怖くて、八千穂は眩しすぎて、白岐と同様に気軽には話しかけられない存在であったが、いまの二人ならそんなことはなさそうだ。変わったのが彼らなのか、それともこちらなのかは定かではない。
九龍が「じゃ、ちょっと行ってくる」と声をかけると、彼らは思い思いの返事をした。
「どうせすぐ戻ってくるんだろ。さっさと行って帰ってこい」
「あたしたち、ここで待ってるねッ。いってらっしゃい」
「いってきまーす」
「し、失礼します」
響はぺこりと頭を下げた。皆守は横顔でしかこちらを見ずに、八千穂は笑顔で、ひらひらと手を振ってくれる。ずいぶん個人差のあるひらひらだった。
響よりも一歩先を歩く九龍に、小走りで追いつく。そこからは走らずに済んだ。ペースを落としてくれたのだろう。
「あ、……あの、お兄ちゃん」
「ん?」
「髪、切りましたよね」
「ああ、規律の厳しいところにいたからさ。これでも伸びたんだけどな」
九龍の手が、短く刈り上げられた後頭部を撫でる。その指先が耳に軽く触れた。
「ピアスの穴……くっついちゃってますね」
「そうなんだよ。俺不器用だから、病院でも行ってまた開けてもらわないと」
「そう、ですね」
他人の手で身体に穴を開けられるのは、どういう気分なのだろう。さすがの響もそこまでのことをされた経験はない。考えたらどきどきした。
話をしながら廊下を歩いていると、階段のところで夕薙と行き合った。
「九龍に響じゃないか。ひょっとして君たちも職員室かい?」
「お、大和、おかえり。俺たちは夷澤のとこに行くんだ。ヒナ先生どうだった?」
「それが、改めて感謝を伝えたら涙ぐんでしまってな。女性を泣かせるのは心苦しいが」
「嬉し涙だろ」
「そう願うよ。じゃあ、またあとでな」
夕薙は肩を竦め、C組の教室へと歩いていった。
階段を下りれば、もうそこは二年生の教室だ。響は意を決して足を止めた。
「あの、お、お兄ちゃんッ。僕、もしあなたが帰ってきたら、お願いしようと思っていたことがあって」
「なんだよ、改まって。言ってみな」
響は大きく息を吸い込んだ。マスクもしていないのに、胸が苦しい。
「……僕のことも、下の名前で呼んでくださいッ」
「下の名前? ぜんぜん構わないけど」
「あ、ありがとうございますッ」
踊り場の窓から差し込む陽光が、急に強くなった気がした。先輩と後輩だから、下の名前で呼び合うわけにはいかないが、これで少なくとも響の名は音にしてもらえる。
「あ、僕の名前は……」
「五葉」
「……え?」
いままさに伝えようとしていた名前が九龍の口から出てきて、響は硬直した。
「え、うそ、違ってた? 五枚の葉っぱで五葉じゃないっけ?」
「あ、ち、違わないです。ただ……僕の名前、覚えててくださったんだ、と思って」
「そりゃ覚えてるよ。あんなあったかいセーターくれた恩人だし」
「あったかい、って……着てくれたんですかッ」
思ってもみなかった反応に、響の声が跳ね上がる。九龍は笑って頷いた。それが小さな体をどれほど震わせるか、知りもせずに。
「ずっと寒いとこにいたから、ホント助かったよ。ありがとな、五葉」
「……ッ」
胸がいっぱいになって、響はただ何度も首を横に振った。
この感情が吹きこぼれてしまわないうちに、響は九龍の腕を取る。
「僕たちのクラス、こっちです」
「お、わかったわかった、そんなに急かすなって」
九龍の笑い声が耳をくすぐる。息せき切って二年A組の教室へ向かったが、そこに夷澤の姿はなかった。彼の友人たちに尋ねてみても知らないと言う。
「まだ講堂にいるのかなぁ……」
「行ってみようか」
「いいんですか?」
「もちろん。そうそう、俺も五葉に言いたいことがあったんだよ」
「えッ、な、なんですか」
さらに階段を下りながら、響は身を固くする。
「うちのクラスの黒板に『お兄ちゃん、大好きです』って書いたの、あれ五葉だろ」
「ええっ」
まさか本人に見つかっていたとは思わず、響はのけぞった。九龍はずっと不在にしていたので、せめて遠い空へ気持ちだけでも届けばいいと思って、後輩からの寄せ書きがなされた黒板の、一番隅っこに記したのだった。
「ご、ごめんなさいッ」
「え、なんで謝んの? 嬉しかったよ。甲ちゃん……皆守が先に見つけて教えてくれたんだ。あいつ目ざといから」
響の視点からだと皆守は無愛想に見えたが、案外いい人なのかもしれない。あとでお礼を言っておこうと思った。
「俺も好き〜」
恐縮する響の頭を撫で回しながら、九龍は講堂の扉を片手で押し開ける。
無数の黒い座席には、誰の姿もなかった。数時間前まで壁面にあった装飾も撤去されている。
壇上にだけまだ照明がついていて、そこに胡座をかいて座る生徒を照らし出していた。
響は、呼びかけることを躊躇した。ライトが彼の顔に作る影が、あまりにも濃かったからだ。
しかし、九龍は違った。
「夷澤ぁ」
響を呼ぶときと同じ、よく通る声でその名を唇に乗せ、まっすぐステージへ歩み寄る。
夷澤が重たげに顔を上げた。
「……なんすか、そのアホみてェな胸の薔薇。カーネーション配ってたでしょうが」
「着いたのがギリギリだったから、配布終わってて」
九龍はステージの下で手庇をした。照明が眩しかったのだろう。客電は落ちているから、なおさらだ。
こちらは薄闇なのに、まるで九龍と夷澤だけが日の当たる世界にいるようだった。響は勢い込んで参戦する。
「僕は、薔薇も素敵だと思いますッ」
「ありがと」
九龍が手招きで響を呼ぶ。帰国子女だからか、手のひらを上に向けるやり方だ。そんな些細な動作も、十七歳の瞳には洒落たものに映った。
ステージの端に手をつき、子ども用の跳び箱でも跳ぶように軽々と、九龍は壇上へ上がる。
「よっと。……お、ここから見るとけっこう多いな」
九龍の手を借り、響もステージへよじ登る。彼の言葉が何を指していたか、遅れてわかった。
座席の数だ。
それはつまり、いままで阿門の双肩にかかっていた、そしてこれからは夷澤が背負う人間の数にほかならない。
響はそのとき、夷澤がここで何を見つめていたのか、わずかばかり理解できた気がした。他人にそこを触れられたら痛いだろうということも、なんとなくわかった。
だから、傍らの九龍を見上げる。
「あの……卒業式の日に第二ボタンをもらう風習って、知ってますか?」
「第二ボタン?」
「はい。憧れてる先輩の学生服の、上から二番目のボタンをもらうんです。なので」
「うん」
「お兄ちゃんの第二ボタン、僕にくださいっ」
「あァ!?」
夷澤がおもむろに立ち上がり、響の胸倉を掴もうとする。予測していたので、九龍の後ろへさっと隠れた。
「何、気色悪いこと言ってんだよ」
「いや、べつにボタンくらい何個でもあげるけど」
「アンタも何言ってんすかッ」
「え、駄目?」
「駄目っつーか」
夷澤が一瞬黙り込む。そのコンマ数秒の間に、彼の優秀な頭脳は忙しく回転していたようだ。
どんな結論が出たのか、両手で九龍の胸倉を掴む。
「だったら、オレにもくださいよ」
「ボタンを?」
「第二ボタンです」
「……第二じゃないといけないの?」
「第、二、ボタンです」
「夷澤くん、やめてよ、僕がもらうんだから」
「お前は黙ってろ」
「だ、黙らないよッ」
ほかの問題ならまだしも、九龍に関係することで引き下がるわけにはいかなかった。
火花を散らす二年生に挟まれ、九龍は頭を掻く。
「半分こじゃ……」
「駄目です!」
「駄目に決まってるでしょ」
「えー」
九龍はしばらく唸っていたが、やがて何かを思い出し、学生服の内側を探った。
「そういえば、置いてくわけにいかなくて拾ったのがちょうど二個……、あったあった」
胼胝の目立つ手が取り出したのは、一般の高校生には間近で見る機会のないもの。
薬莢だった。
九龍はさらに、ポケットから油性ペンを引っ張り出す。二種類あるキャップの細いほうを開け、薬莢の側面に字を書いて、一つずつ後輩の手のひらへ乗せた。
「それ、プライベートの連絡先だから」
「えッ」
二人は同時に声を上げ、走り書きされた文字列に注目する。
温かい手が、響と夷澤の肩に触れた。
「二人がピンチになったらまた来るから、いつでも連絡して」
「……お兄ちゃん……」
鼻の奥が痛くなり、響は声を詰まらせた。
黙りこくる夷澤の顔を、九龍は身をかがめて覗き込む。
「それじゃやだ?」
「……まァ、……いいんじゃないですか。……九龍さん」
「うん」
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
今日一日で何度も同じフレーズを投げかけられただろうに、九龍は五月の空のように晴れやかな笑みを浮かべた。
響は、受け取ったばかりの薬莢を握り締める。まだ元の持ち主の体温が残っていた。
「あの、お兄ちゃんがピンチのときは呼んでください。僕、助けになれるようにがんばりますから」
「何言ってんだ、お前……」
鼻で笑おうとしたらしい夷澤の声は、九龍の言葉に遮られる。
「おー、頼りにしてるぞ、五葉」
「…………五葉ァ?」
「え? お前、同じクラスなのに名前覚えてないの?」
「いや、知ってはいますけど……いつの間にそんな……」
「さっき、下の名前で呼ぶことにしたんだ。なあ五葉」
「はいッ。えへへ」
「なッ……」
夷澤が絶句する。響は気を利かせて、九龍の背後からひょっこり顔を出した。
「あの、よかったら、夷澤くんのことも名前で呼んであげてくれませんか」
「はァ!? 何余計なことを」
「いいけど。凍也だよな。凍るに……あれ? 待って、漢字でどう書くんだっけ」
「なんでアンタはそうやって局地的にアホなんですかッ」
「いいじゃん、怒るなよ。教えてよ」
「だァ、もう。いいですか、一度しか書かないからよく見ててくださいよ」
夷澤はぷりぷりしながら九龍の油性ペンをひったくり、生徒手帳のメモ欄に漢字を書いてみせる。意外にも整った字だ。
「あー、覚えた覚えた」
「嘘っぽいな……」
「マジだって。で? 凍也は俺がピンチのときに来てくれんの?」
夷澤が嘆息し、片手でぱたんと生徒手帳を閉じる。
「ンな当たり前のこと、いちいち聞かないでもらえますかね」
「もしものときは一緒にお兄ちゃんを助けに行こうね、夷澤くん」
「……九龍さんが危ねェっていうなら仕方ない」
夷澤が不本意そうに吐き出す。先輩は二人の真ん中でにこにこしていた。
「つーか……助けるのもいいっすけど、いつかサシで勝負してくださいよ」
「え? 凍也と? やだよ」
「そこは望むところだって言うところでしょうが!」
夷澤の大音声が、講堂じゅうにわーんと反響しては消えてゆく。
「あのな、ふつう、ボクサーの拳で殴られたら音速じゃなくても死んじゃうの。一生懸命ズルしないと勝負にすらなんねーって」
「じゃあ、多少ならズルしてもいいっすから」
「あっ、だったら僕、お兄ちゃんのこと手伝います」
「お前はまた……」
夷澤に睨まれ、響は再び九龍の後ろに隠れながら顔だけを覗かせた。
九龍が苦笑する。
「だいたい、お前が戦う相手は俺じゃないんじゃないの」
その言葉に、夷澤はぴたりと動きを止めた。
彼の背後には、無数にも思える黒いシートが広がっている。座り心地のいい奈落だ。
夷澤はそちらを一瞥したが、すぐに目線を戻した。
「そっちは意地でも勝ちますから、ご心配なく。俺が使える人間だって、少なくともすでに一人はいるし」
「……僕?」
響は目を丸くした。敵対するつもりは毛頭ないが、あの夷澤が味方として自分を頭数に入れているとは思っていなかった。
ふん、と夷澤がおとがいを反らす。
「利用できるものはしますよ。この學園は、なりふり構ってられるほど甘くない」
「そうだなぁ、五葉は頼りになるもんなぁ」
「違いますよ。何聞いてたんですか」
「えへへ……一緒にがんばろうね、夷澤くん」
響が胸の前で両手の拳をぎゅっと握ってみせると、夷澤は苦虫を噛み潰したような顔をした。
九龍は目を細める。その仕草に、響はあれっと思った。彼を追うときの自分たちと似ているように感じたからだ。あるいは、ライトがもたらした錯覚だったのかもしれない。偉大な先輩が、半ば羨望混じりに後輩を見つめるとは考えがたかった。
「仲間がいるのはいいことだよな。天香がどうなるか、楽しみだ」
「ふッ。見ててくださいよ、いまとは比べものにならないくらいデカくしてやりますから」
「學園も、僕たちも!」
青い意気込みに微笑んで、九龍は二人の頭をぽんと撫でた。響のそれよりも、一回りは大きい手だった。
大きな手は多くの水をすくい、土を潤すことができる。
ならば響はその土に、見上げるほど大輪の花を咲かせよう。
大好きな柄杓が太陽の下、休息を取りたいと願ったとき、涼しい木陰を作れるように。