棘だらけの宝石

 高校に入って覚えたこと。
 コインランドリーの使い方。いくつかの公式と熟語。歴史に名を残す偉大な音楽家の、かつらのカールの数(授業中暇すぎて端から端まで数えてしまった)。
 他にもある。
 相手の心を一発で突き刺すような言葉選び。人体のどこを蹴れば立ち上がれなくなるか。教室の息苦しさと、屋上に出た時の束の間の解放感。
 入学して数ヶ月もすれば、人を遠ざけるのに声すら要らなくなった。言葉を発さずとも、動作や視線で拒絶する方法はある。そんなことばかり詳しくなってゆく。
 この學園の中で、どこにいれば誰とも顔を合わせず、かつまあまあ快適に過ごすことができるかというのも、積み重ねてきた知識の一つだった。
 目下のランキング一位は屋上だ。四月にはまだ先輩がたむろしていたが、こちらの出入りが頻繁になるのと反比例して姿が消えた。
 二番目は、少し翳ったところにある温室だ。私立校の設備らしく立派なつくりをしているが、定期的にある委員会の活動日以外はほとんど人影がない。そこさえ避ければ静かで、気温も一定に調節されているので、意外とポイントが高かった。
 ところが最近、その安息を乱す者がいる。
「皆守くん」
 菩提樹の陰からひょっこり姿を現したのは、担任である女性教師だった。
 皆守は返事もせず、ベンチに横たわったまま再び目を閉じる。拒否の第一段階。
「皆守くん、ちょっといいかしら」
 無造作に起き上がり、彼女とは目も合わせずに奥のベンチへ移動する。第二段階。
「ねえ、ナイフで何かを切るのって得意?」
 珍奇な問いが飛んできたので、第三段階への移行はしばし保留とした。
「……はァ?」
「刃物の扱いには慣れているかしら」
 彼女は小首を傾げて、その問いを繰り返した。
 おそらく、筋書きとしてはこんなところだ。何年生かの馬鹿が廃屋街かどこかで刃物遊びでもして、運悪く捕まった。そして、赴任から間もないこの女教師は、他の教員から唆され問題児の代表格のもとを訪れた。どうせ忍ばせているに違いないナイフを没収する目的で。
 そんなもの、持ってすらいないのに。
 凶器を所持していることの証明は簡単だが、その逆は服を脱ぎでもしない限り困難だ。
 わざわざ努力をしてやる義理はない。
「得意だといったら」
 彼女の心臓がある辺りを、射抜くように見据える。白衣に包まれた胸元は、穏やかに上下していた。
「よかったわ」
「……?」
「次の授業、解剖なのよ。みんな気味悪がってやりたがらなくて。先生がやって見せてもいいけど、やっぱりクラスメイトがメスを持つほうが興味を持てるでしょう」
 背の低い紫色の花が並ぶ植え込みの隣で、彼女はたおやかに微笑んだ。
 どこかおかしいのだろうか、この女は。
「なら、他を当たるんだな。俺をクラスメイトだと思ってる人間がいるかどうか、聞いてみたらどうだ」
「同じクラスだもの、クラスメイトでしょう。あまり顔を出さなくてもね。あなたも私の大事な《宝物》の一人よ、皆守くん」
「反吐が出そうだ」
「寝てばかりいるからよ。体に悪いわ」
 彼女は飄々と答え、ベンチに置き去りにされていた皆守の荷物を持って、白衣の裾を翻した。
「おい」
「さあ、もうすぐ授業が始まるわ」
「誰が出ると言った。返せ」
「切るの、得意なんでしょう?」
 かまととぶって尋ねられると、ひどく安い挑発に感じた。
 売られた喧嘩は買う。怖気がするほどつまらない暇潰しだが、それでも何一つ揺れ動くことのない人生の、路傍の石くらいの彩りにはなるだろう。
 彼女の手の中の荷物を奪い返し、早足で校舎へと歩き出す。
「待って」
 後ろで彼女が小走りになる足音は聞こえたが、スピードを緩めてやる筋合いもない。
 理科室の引き戸を足で開けると、談笑していた生徒たちが、ほんの一瞬緊張したような気がした。
「みんな、静かに」
 遅れて入ってきた彼女が息を乱しながら、しかし凛と背筋を伸ばして教壇に立つ。皆守は理科室での班分けがどうだったか思い出せず、空いていた隅の椅子へ座った。
 今日の授業の説明がなされている間、こっそり手招きする生徒がいたので、両手をポケットに突っ込んだままテーブルへ移る。言われてみればこんな面子だったような気もした。
「さて、それでは、前回お話ししたとおり、今日はマウスの解剖をおこないます。以前までは一人一匹配布していましたが、今日は教室の真ん中で一匹を解剖しますから、周りに集まって見ていてください。苦手な人は離れていてもいいわよ」
 よかったぁ、と女子を中心に声が上がる。男子生徒も表情こそ動かさなかったが、どこかほっとしたような雰囲気が漂っていた。中でも一人はあからさまに脱力してからかわれている。
 解剖などより、よほど後ろ暗いことに手を染めているくせに。皆守はわけあってそれを知っていた。
 麻酔で静かに命を失ったマウスが運ばれてきて、生徒たちが周りを取り囲む。手を取り合いながらも前列にいるのは女子たちだ。皆守は強い興味があるわけではなかったが、遠まきにする者も多かったので、必然的に前のほうで見物することになった。
 解剖の前に、解説を聞きながら外形を観察する。生物教師をやっていると慣れるのか、彼女は平然とマウスの体をひっくり返していた。
「それでは、解剖に移ります。もしよければ、何人かに協力してもらいたいと思っています。誰か手伝ってくれる人はいますか?」
 皆守が無言で進み出ると、生徒たちの輪がざわめいた。
 彼女と交代で席に着く。張りのある声が、隣で器具の扱い方を説明する。
 見よう見まねでメスを持ってみると、白い手が皆守の手に重ねられた。
「皆守くんは左利きね。こう持ちます」
 同じ人間の手とは思えないほどふにゃふにゃして、摘んで曲げればあっさり折れてしまいそうなほど細い。違和感がひどかった。皆守の手とは違いすぎる。
 そこからさらにいくつか説明を受け、マウスを水で濡らしてから、いよいよ本当にメスを持った。正中線に沿ってまっすぐ切開する。
 意外と綺麗なものだというのが感想だった。ついさっきまで生きていたせいだろうか。内臓には濁りもなく、天井の蛍光灯を受けてつやつや光っている。
 その後何人かの生徒が交代で解剖を終え、五十分間の授業が終わった。チャイムと同時に教科書を閉じようとする生徒を制し、教師は言う。
「今回の授業で、多くのことを学べましたね。ぜひ今日の学びを今後に活かしてください。これからの皆さんの人生をより豊かなものにするために役立てることができれば、マウスの命は無駄になりません。それでは、号令をお願いします」
「気をつけ、礼」
「ありがとうございました」
「おい、皆守」
 授業が終わり、生徒たちが慌ただしく移動する中で、声をかけてくる男子生徒がいた。先月やってきた転校生で、誰に対しても物怖じせずに話すのが特徴的だった。
「えらく堂々としてたなァ。見直したぜ」
「そういうお前は、えらく怖がってたな」
 不自然なほど。
「オレ駄目なんだよ、ああいうの。ビビりなの」
 身震いする転校生に、皆守は平板な口調で告げた。
「なら、やってみるか」
「へ?」
「度胸試しだ。鍛えれば克服できるかもしれないぜ」
「鍛える……ったってなァ」
「なんだ、知らないのか? この學園にも人間以外の生き物はいる。ちゃんとした内臓が入っているかは怪しいがな」
「……へー。オレにも教えてくれる?」
 快活な笑みを貼りつけた転校生と、今夜の約束を交わす。
 また墓石が増える。そろそろあの墓地もいっぱいになるだろうかと、どうでもいいことを考えた。
 そんなひどいことを思う人間の、


「……どこが宝物なんだか」
「何の話だ」
「いや。……で? 次は誰だ」
 椅子に腰かけるのさえ怠くて、重厚な机に寄りかかる。目くじらを立てそうな双樹と神鳳は、ここにはいなかった。処罰対象は右肩上がりに増えていて、いくら《生徒会》の役員同士であっても、全員が一堂に会する日は少なくなっていた。
 生徒会長が一枚の写真を机に乗せると、彼の座っていたソファがかすかに軋んだ。
 写真を拾い上げもせず覗き込む。温室を背景にして、一人の女が写っていた。足下には紫色の花。丸い肩に白衣を羽織っている。
「わかった」
 それだけ答えて、生徒手帳に写真を差し込む。同じような紙切れがもうずいぶん溜まってしまった。いい加減処分しなくてはならないが、それも面倒だ。
 教師に罰を与えるのは久しぶりだから、いくらか時間を取られるだろう。写真を捨てるのはその後だ。面倒なことは先延ばしするに限る。
 生徒会室を後にしながら、副会長は大きく伸びをした。
「あー、眠ィ……」
 寮へ戻ったら、早くベッドに入りたかった。もう夢の中でくらいしか、予想し得ないことは起こらない。
 丁寧に手を入れられた、外壁に這う小ぶりの薔薇が、ドアを閉めた衝撃ではらりと散って、自らの棘で傷つきながら落ちていった。

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