空を泳ぐ魚
子どものころ、水槽の中の魚を殺したことがある。
完璧に整えられた直方体の中で、死ぬまで泳ぎ続ける哀れな魚。
助けてやろうと思った。
自分のように二本の足で自由に動き回ることあたわずとも、せめて空の見える場所へ移してやろうと。
結果的に、魚は死んだ。
バケツに汲んだ水道水は、魚にとっては毒だった。
人が石を敷き、水草を植え、酸素を混ぜ込んだ水の中。
牢獄に見えたあの箱庭は、囚人にとっては楽園だったのだ。
そんな罪を、炎に囲まれたこの玄室で、なぜか思い出した。
蹴り上げた足に軽くない手応えがあった。《転校生》の体は壁に叩きつけられ、地に転がる。
「ごぁ」
九龍が両膝をついて腕で腹を押さえる。口から血が吐き出されて、石の床に染み込んだ。
ああ、こいつ本当に死にそうなんだな。
その姿を見て思う。血を吐くというのは、体の中身が傷つけられたということだろう。命を保つために重要な器官のどれかが。
相対してみれば、九龍は明らかに皆守よりも遅かった。まず初めに繰り出された鞭はせいぜい風の揺らぎ程度にしか感じず、次いでぶん回された八握剣は、当たればそれなりに痛かったが、大きい獲物だけあってそうやすやすと操れるものではない。
あっという間に追い詰めた。さすがにしぶとかったが、それでも生きとし生けるものはいたぶり続ければいずれ死ぬ。
「……悪く思うなよ」
この期に及んで、自分の女々しさに笑いすら漏れた。皆守はまだこの《転校生》に嫌われたくないらしい。いよいよ命を奪おうというところなのに。
往生際悪く、九龍は取り落としたライフルを探る。その手を蹴り飛ばし、左肩を崩れた壁に縫いつけるようにして足で踏み抜いた。汗まみれの顔がさらなる苦悶で歪む。
「なんだよ、もう終わっちまったのか」
皆守の声は冷たかった。炎が猛れば猛るほど、皆守の声は冷えてゆく。
あいつと同じ穴の狢だな、と思う。九龍の次に同じクラスへとやってきたあの《転校生》。自分の邪魔になるからと虫の息の味方にあっさりとどめを刺し、死体を踏みつけにして堂々と去っていった。九龍は呼び寄せられた迦具土の相手と、はらりと落ちた写真に気を取られていたようだったが。
後ろにいた皆守が、色褪せたあの女の肖像を目にして何を思い出したか、九龍には知る由もない。
九龍の手が地を掻く。この手に救われた者も多いが、これではまるで下水道を這いずり回る鼠だ。
轟々と炎が爆ぜる音に紛れて、遠くで八千穂の叫ぶ声が聞こえる。バディは九龍の指示を外れては動けない。それが遺跡に潜るときの約束だ。皆守にとってもありがたい。八千穂まで手にかけたくはなかった。
殺すのは一人で十分。
忌々しい知恵と勇気と情熱をもって、この學園の秩序を乱す者だけでいい。
九龍はひいひいと息を継ぎ、汗で濡れた前髪の奥から皆守を見上げてくる。
黒い瞳はぎらぎらと輝いていた。
《宝》を求める者の眼差し。
「ッ……なんだ、その目は」
九龍は答えず、血に濡れた唇を曲げてにっと笑った。赤い舌がぺろりとそこを舐め、皆守に縫い止められていないほうの腕が動く。
視界の端にそれを捉え、皆守は後ろにステップを踏んだ。
瞬間、爆風に巻き込まれる。
椎名リカが教え込んだ爆薬。馬鹿の一つ覚えみたいな戦法で行き詰まった九龍に、指し示された活路。教わった直後は調合に四苦八苦していたくせに、いつの間にか会得していたらしい。威力のほうは折り紙つきだ。既製品よりすごい、と九龍が呟いていたのを思い出す。
そんな代物が至近距離で爆発したらたまったものではない。寸前で避けたが、舞い上がった土煙と細かな石畳の破片に目を細める。顔や首、手の皮膚が熱くなってうっすらと裂けた。
その隙にまったくノーマークだった斜め後ろでもう一つ何かが爆ぜて、そちらはまともに食らった。
「がっ……」
爆風で壁に叩きつけられる。業腹なことにこちらのほうが威力が弱い。ふつう、囮のほうを適当なものにして、相手に当てるほうを殺傷力のあるものにするだろうに。皆守を傷つけたくないのか。
もうもうと煙る粉塵の中、拳が肉薄する。
「くっ」
反射的に体をひねってかわす。九龍はそれを予期していたかのように叫んだ。
「やっちー!」
「任せて! 行っくよーッ!」
「だッ……」
お前は手加減なしかよ!
いつもなら突っ込んでいたところだが、それどころではない。皆守の目をもってしても体を掠めてゆくテニスボールに踊らされ、九龍が視界から外れる。
じゃきっ、とアサルトライフルを操る音が聞こえた。
いかな《生徒会》の魔人といえど、人体の基盤たる腰椎めがけて乱射されれば、とても立ってなどいられない。
がくりと膝をつく。《宝探し屋》は薄汚れた顔で、満面の笑みを浮かべている。手足も腹の中も、いやというほど蹴られてまともな状態ではあるまいに。
あらゆる意味で、
「……俺の、負け、だ……」
けれど、なぜか清々しかった。
九龍と本気で喧嘩するなんて、初めてだし。
皆守も浅からぬ怪我を負ったが、九龍のほうがより深刻だった。皆守と八千穂がいなければ、今度こそ本気で命を落としていただろう。阿門も、そしてもちろん荒吐神も、手負いでどうにかなる相手ではない。
「よっ、と……九ちゃん! おい、起きろッ」
ほとんど抱えるようにして攻撃から逃れさせ、九龍に檄を飛ばす。一瞬意識が飛びかけていたらしい九龍は、ぶるぶると頭を振って、八握剣を構え直す。
「も、もーちょっ、と……」
体力お化けの八千穂でさえ、膝に手をついて息を切らしている。
さすがに《神》を名乗るだけあり、一撃一撃が致命傷になりかねないほど重い。加えて、背後に阿門と白岐を守りながらの戦闘。分が悪いにもほどがある。
だが、ここにいる人間すべてが、葉佩九龍に賭けていた。この男なら、長髄彦を永遠の眠りにつかせることができるのではないかと。
「八千穂は下がってろ」
「そういう皆守クンだって、怪我してるじゃないッ」
「これは……いいんだよ」
言い合うバディ二人をよそに、九龍は慣れた手つきでアサルトライフルを構えた。
荒吐神の後頭部を撃ち抜く。撃ち続ける。排出された薬莢が場違いなほど澄んだ音を響かせる。
止めようとした。皆守と阿門を退けるために使ったせいで、もう弾薬も残り少ないはずだ。だが、そんなことは把握しているはずの九龍は、先ほどまで気を失いかけていたとは思えないほどまっすぐな姿勢で荒吐神を撃ち続けた。
やがて弾薬が底をつき、九龍は命と同じくらい大事なはずのアサルトライフルを放り投げた。
八握剣を両手に握る。
荒吐神は真新しい痛みに狂い、白刃が迫ることに気づかない。
その剣は神を殺し、男たちを救いに導いた。
いつか、あなたにもわかるわ。
あなたのことを、心から理解してくれる人が、必ずいることが。
いたのだ、自分にも。
それがわかった瞬間、皆守甲太郎という幽霊は、成仏したのだと思う。
「そういうわけで、お前らとはここでお別れだ。……じゃあな」
炎が揺らめく。
開いていたかもしれない、現世への道が閉じる。
八千穂がぎゃあぎゃあ言うのはまあ予測していたし、本当に心を痛めてくれるのだろうと思うと申し訳なさもあった。
だが、その横で立ち尽くす《宝探し屋》の反応は予想外だった。
内心、逆に当惑する。皆守の罪を暴き、受け止め、寄り添ってくれた。十分すぎるほど十分。
あとは、咎人たちの命をもって、この業を終わらせる。
完璧な終焉ではないか。
なのに、どうしてそんな、絶望したかのような顔をするのだろう?
「そんな、何で……、阿門クンも、皆守クンもッ! ここにいたら死んじゃうよッ!?」
炎の照り返しで蜃気楼のように霞んでよく見えないが、八千穂の声が泣いている。女の涙は嫌いだ。慰めてやりたくなるのに、その手段もわからない。
阿門には借りがあった。あの女を失い、自分の罪を抱えきれなくなった皆守に、逃げることを許してくれた。
だから一人で死なせるわけにはいかないし、結局のところ、永遠に逃げ続けることもできない。
報いを受けるときが来た。
「……それが、俺たちが犯してきた罪への償いなのさ」
だがいくら説いても、九龍と八千穂の表情は晴れない。
苦笑したくなる。このお人好したちは、自分たちにも命の危険が迫っていると気づいているのだろうか。裏切り者の行く末など、気にしている場合ではあるまい。自分を一番に考えればいいのに。
「九ちゃん、八千穂と白岐を連れて逃げろ。短い間だったけど、楽しかったぜ。……ありがとな」
九龍が堪えていたものが、とうとう決壊したように見えた。
「ふざけんなよ……、何言ってんだよ! 俺を見ろよ! 俺の声を聞けよ! ……なあ、甲太郎ッ!」
「九ちゃん……」
おかしなことを言う。あの世まで記憶を持っていけるよう、こんなにじっと見つめているのに。
記憶はたくさんある。
両手からこぼれ落ちそうなほど。
皆守はふっと笑った。
楽しかった。
ああ、この三ヶ月間、皆守甲太郎は確かに息をしていた。
「それじゃあな」
「待てよ、……待てよ、待てよッ! 甲太郎、阿門ッ!」
九龍が吠える。肉体の損傷が激しいからか、喉に何かが引っかかったような掠れた声だった。その隣で八千穂も慟哭に似た叫び声を上げている。
「何で……何で、二人がここに残らなきゃならないのッ?」
皆守は一歩足を踏み出し、阿門の隣に立った。
永きに渡り《墓》を守り続けた重圧から解放されるからか、彼はこの三年間で初めて見るいい顔をしていた。そしておそらく、皆守も似たような表情を浮かべていたのだろう。
「……じゃあな」
それが最後の挨拶になるはずだった。
あの双子が、鈴を転がしたような声を響かせなければ。
崩壊した遺跡を前に、阿門帝等は立ち尽くしていた。
その背にどんな言葉をかけたものか迷う。
胸の内に去来するものは、皆守もさして変わらない。
水槽の中で一生を終えるはずの魚が、外に出た。しかも、そうなれば死ぬはずだったのに、どうやら生きている。
頭が真っ白になるわけである。こんな未来、考えもしなかったのだから。
「……甲ちゃん……阿門」
よく知る声に呼ばれて、はっと振り返る。
満身創痍の《宝探し屋》がそこにいた。
「よかった……生きてるな。よかった……」
薄汚れた姿は、ぐらりとバランスを失い、地面に倒れ伏した。慌てて助け起こし、言葉を失う。
白み始めた空の下で改めて見下ろすと、九龍は先ほどまで自分の足で立っていたのが信じられないほどズタボロだった。
森の向こうから、幾人かの聞き慣れた声が寄ってくる。遺跡の崩壊に気づいた執行委員たちだろう。その声に掻き消されぬよう、皆守は必死で九龍の口もとに耳を近づける。
「くそっ……《秘宝》も手に入らず、無事に帰還することも……これじゃ、ハンター、しっか、く……」
「九ちゃん」
言葉を失う皆守に、凛とした声が言う。
「そう怪我人を揺さぶるものではないよ、皆守」
「カウンセラー」
「……そう泣きそうな顔をするものでもない。大丈夫、彼もプロだ。宝を手に入れるには、宝を探し出すだけではなく、生きて帰らなければならない。その矜持はあるだろう」
「あーらら。まあ、少年の命がかかってちゃ仕方ねェ。ここは一時休戦、《ロゼッタ》に一つ貸しを作ってやりますか、と」
どこからともなく現れた自称探偵が、九龍の顔を覗き込んでニヤリと笑う。瑞麗は早口の外国語で、どこかへ電話をかけ始めた。
皆守は黙って、腕の中の九龍を握り締めていた。
九龍を助けてくれるなら誰でもよかった。
ただ、その力を持つのがこの大人たちで、自分ではないことが悔しかった。
まあ、そのときは本心から心配していたのだが、しぶとく復活した九龍に屋上で一発ぶん殴られ、クリスマスイヴに起きたいろいろを帳消しにするかのように皆守の心配っぷりをからかい倒され、それで収まるところへ収まった。
深刻な顔をされたらお互いに耐えられなかっただろうから、これでいいのだと思う。
八千穂と阿門と並んで《転校生》の旅立ちを見送り、皆守は彼の帰還を夢想する。
それを聞いて、八千穂が笑い声を上げ、阿門もわずかに微笑む。
皆守自身もおかしな気持ちだった。
こんなふうに未来の話をする日が来るなんて。
だが、生きていれば必定のこと。
狭いバケツの中だって、新たな世界には違いない。そこで死なずに生きているのだから、やがて来る明日のことも考えなければ。
黄昏が學園を満たす。
太陽が死に、夜が来る。
そしてまた朝が来たら、何物にも縛られない、銀色の明日が始まる。