33:00
四日ぶりに覗いた晴れ間が、夏の訪れを予告している。
皆守は、アパートの階段を下りながらあくびをした。左手には燃えるごみの袋。回収予定時刻まで残り十分だが、だからといって急ぐような性分でもない。ふと、ご近所のベランダではためく衣類が目に留まり、自分もこの長雨で洗濯物をため込んでいたことを思い出した。
未明まで続いた雨は、集積所の前に大きな水たまりを作っている。そこには青い空と、隣家の塀に止まったカラスが映っていた。
水鏡越しに目と目が合う。今朝の獲物を探しているのか、皆守が集積所へごみを押し込む間も、野生の動物らしい眼光が絶えず追いかけてきた。
昨日までとはうってかわってカラッとした日差しに目を細め、ワンルームへ戻る。扉を開けた瞬間に包丁の音が聞こえてきた。
ひとまず洗濯機を回しに行き、それから台所へ向かう。またあくびが出た。
「あれ、寝不足?」
流し台の前にいた葉佩九龍が顔を上げる。皆守は彼のうなじを揉むように軽く押した。
「俺みたいな普通の人間は、ごつい男にいきなり乗っかられても二度寝できるほど神経が太くないんでな」
「なんだよ、起こしてやったんじゃん。まんざらでもなさそうだったけど?」
九龍が品のよくない笑みを浮かべ、反対に後頭部でこちらの手を押し返してくる。
高校卒業から十年以上がたった今、皆守は日本で企業研究者を、九龍は相変わらず《
昨夜も、久方ぶりに九龍が部屋へ転がり込んできたまではよかった。問題はその後だ。骨の折れる依頼をこなした直後は目がさえてしまうらしく、同じタイミングで床についたはずの彼は一晩中時間を持て余し、最終的に熟睡中の皆守をも道連れにしたのだった。おかげで柄にもなく早起きする羽目になった。
気が済んだのなら眠ればいいのに、皆守の事後飯はセンスがないからとかなんとか無礼なことを言い、彼も起き出して炊事場に立っている。それらしく鍋の中身をかき混ぜたかと思えば、「暇なら皮むいて」と玉ねぎを渡してきた。
「皮? ……これでいいか?」
「おー、速い。助かる。俺、玉ねぎの皮むくの苦手なんだよね」
「こんなもんに苦手も得意もないだろ」
「どこまでむいたらいいかわからなくなるんだよ。ありがとう」
腰の骨のあたりにぽんと手を置かれる。ついでに食器も出しといて、と頼まれ、皆守は言われるままに皿を用意した。テーブルの上へ並んだメニューは、よく焼いたバゲットとチキンソテー、サラダにスープ。見た目は悪くないが、朝食としてはハイカロリーな献立だ。
「よし、完成」
「お疲れさん。……しかし、人のセンスがどうとか言ってたわりには、朝からえらく重い食事だな」
「朝からカレー食うよりはマシだろ。この前みたいに」
「お前……。人が心を込めて作った朝メシを」
「作ってくれたのは感謝してるしおいしかったけど、ムードとかタイミングってもんがあるだろ」
そっくりそのまま返してやりたい。あわやいつもの痴話げんかに突入するかと思われたが、皆守の注意は卓上のチキンソテーへと引きつけられた。
「ん? ちょっと待て。これ、
「うん、
同じ音が返ってくる。皆守は首をひねった。
「……冷蔵庫に鶏肉なんかあったか?」
「あれ、もしかして嫌いだった?」
「そういうわけじゃないが……」
「よかった。じゃ、いただきまーす」
食材の正体はわからずじまいだ。けれど、いくら九龍とはいえ、親しい相手におかしなものは食べさせまい。そう信じて皆守もフォークを持つ。
皮がぱりっと焼けたチキンソテーには、舌の上でぱちぱち弾けるマスタードソースが添えられていた。やはり朝一で食べるには味が濃い。だが、身のほうのふっくらと柔らかい仕上がりは見事だし、バゲットも中のもちもちとした食感が引き立つ焼き加減だ。
「お前がここまで普通の料理を作れるとはな……」
「なんで感動してんの?」
九龍は心外そうにしていたが、皆守ががつがつ食べるさまを見て大いに喜んだ。
「たまには作る側もいいなー。今度から、甲ちゃんの家に来たときは朝ご飯の担当になろうかな」
スープで軽く汗をかいた皆守は、扇風機の電源を入れながら尋ねる。
「今回はいつまでこっちにいられるんだ?」
「移動時間を考えると、あさってまでかな。もっといられたらいいんだけど、依頼が詰まってて」
「そうか。忙しないな」
相づちを打ち、皆守はガコガコと扇風機の首を動かした。強めの風が向きを変え、たっぷりした癖っ毛を揺らす。
世界を股に掛ける《宝探し屋》と、一社会人。二人の時間が重なることは少ないが、それを嘆くつもりはなかった。今はたまたま違う道を歩くタイミングだというだけである。現に、どれほど過酷な旅の後でも、九龍はちゃんとここへ帰ってくる。昨晩も雨に濡れながらやってきて、皆守を見るなり破顔したものだった。
皆守が昨夜ゆっくり乾かしてやった男は、麦茶を一気飲みして満足げに息をつく。
「あ、そうだ、日本のお土産を買ってかないと。今度、久々に友達の家へ泊まりに行くんだ。親子そろって《ロゼッタ》で働いてる奴なんだけど、昔から家族ぐるみの付き合いでさ。ティーンの頃は子ども世代だけで夜通し語り合ったり……甲ちゃん? どうした?」
「……お前、さっきの今でよく別の人間のところに泊まる話ができるな」
二人は一時間前にベッドから出たばかり。一緒に起きたということは、一緒に寝たということだ。ところが、彼にはその余韻が一分たりとも感じられない。
そんな九龍とは対照的に、皆守はまだ夜明けごろの名残を引きずっている。彼はぽかんとしていたが、破裂するように笑い出した。
「え、嫉妬? あっはっはっはっは、あーマジかよ、食べちゃいたいくらいかわいいなーお前」
そういう九龍はちっともかわいくない。皆守がへそを曲げていると、彼はテーブルの向かい側から自分の皿を差し出してきた。
「悪かったって。ほら、ミニトマトやるから」
「いるかッ。お前がそんなに薄情だったとはな」
ぺしっと手を払いのける。九龍はまだ肩を震わせていた。
「うんうん、そうだな、俺が無神経だったよ」
「お前な。そっちがそうやってからかい続けるつもりなら、俺にも考えがあるぞ」
「えっ、何」
一転して、九龍が弱気なそぶりを見せる。
「さあな。なんだと思う?」
「甲ちゃん……。ごめんって。肉もあげるから」
皆守の皿に、ミニトマトとチキン(らしき肉)が一切れ乗せられる。まるで子どものような謝り方がおかしくて、つい笑いが漏れてしまった。仕方ない、惚れた弱みだ。
「まあいい。お前のことだから、妙な下心がないのはわかってる。羽目を外さない程度に楽しんでこいよ」
「よかった……ありがと。そういえば、甲ちゃんも時々は友達の家に泊まったりするの?」
「学生の頃はともかく、今はないな。カレーを食いにくる奴は何人かいるが」
「……へー。俺だけじゃなかったんだ」
扇風機が彼のほうを向き、仏頂面の上の短い前髪をあおった。
九龍はフォークで肉を突き刺し、荒々しく噛みちぎる。皿の上の料理は目を見張るほどの勢いで消えていった。
「急いで食うとむせるぜ、九ちゃん。なんだよ、何か気に入らないことでもあったのか?」
皆守が九龍のコップへ麦茶を注いでやると、彼は瞬く間にそれを飲み干した。先ほどスイッチを入れた洗濯機が、ごうん、ごうん、とうなりを上げている。
「自分の縄張りに手ェ出されて嬉しい奴がいるかよ」
九龍がそう言って手の甲で唇を拭うと、前腕に筋肉が浮かび上がった。彼の肉体はそれそのものが、《宝探し屋》として研ぎ澄まされた一級品だ。着ているものこそ《ロゼッタ協会》のロゴがプリントされた趣味の悪いTシャツだが、がっしりした肩や厚い胸板は、グレネードランチャーの反動にも耐え得る強靭さを持つ。
その男が皆守の前ではこんな顔をすることを、地球上の誰も知らない。
皆守はこみ上げてくる笑いをこらえながら、小さなガラスの瓶を差し出した。
「まあ機嫌直せよ。とっておきのクミンを一瓶やるから」
「そんなんで直るか!」
九龍の前に置いたクミンの小瓶は、あっけなく受取拒否されてしまった。輸入スパイスの専門店で買った特別香りのよい逸品なのに。皆守は渋々瓶をしまう。
スパイス棚を見て頬を緩めた九龍は、苦笑交じりにつぶやいた。
「ほんと、お前はいつになったら俺のものになってくれるんだろうなぁ」
――ごうん、ごうん、ごうん。洗濯機が生ぬるい空気を震わせる。
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。
「亀急便でございます」
扉越しに、しわがれた男の声がする。
「お前、また変なもん買ったのか」
九龍に視線をやると、彼は笑顔で首をかしげた。笑ってごまかそうという心づもりらしい。
それは見抜いていたが、皆守はあえてごまかされてやることにした。久しぶりの再会で情が湧いているようだ。九龍が薄情なだけで、普通はきっとこうなる、とつらつら自分に言い訳をする。
年老いた配達員は、皆守に細長い箱を渡すと、九龍へ向かって帽子を上げた。
皆守は礼を言って扉を閉め、伝票へ目を落とす。
「宛先は俺の名前にしたのか」
「うん。だって俺、日本に来たら絶対ここへ帰ってくるし、帰ってきたら絶対お前がいるし」
九龍はさらりと答え、空いた皿をまとめ始めた。
皆守は箱を手に立ち尽くす。九龍の描く未来の中に当然のごとく自分がいると知ったからとて、素直に嬉しいとはしゃげるほど「かわいい」性格はしていない。
箱を置いて後ろ手に玄関の鍵をかける。彼には大事なことを聞いていなかったと、まるで夏の雷のように突然思い出したのだった。
「――ああ、そういや、まだ聞いてなかったな。今日の予定は? こいつの切れ味でも試すのか?」
九龍が答える前に、わざとらしく言葉を付け加える。皆守の予想が正しければ、これで乗ってくるはずだ。
「なら、俺はその間一人で出かけるかな。そうだな……、懐かしい同級生の顔でも拝みに行くとするか。たまにはお前みたいに、泊まりってのも悪くない」
すると、予測よりも早く九龍が立ち上がり、大股で歩み寄ってきて、ばん、と扉を叩いた。皆守の背後にある蝶番がびりびり震える。
皆守にはもちろん彼の動作が視えていたが、避けようとはしなかった。扉と九龍の間に挟まれたまま、せり出した彼の喉仏をくすぐる。
「朝っぱらから近所迷惑だぜ、九ちゃん。……そんな顔すんなって。自分は平気でするくせに、俺は駄目なのか?」
九龍は黙然として答えなかった。引き結ばれた唇を皆守がいじってやっても、固く口を閉ざしている。
つまり、皆守が他人のところへ行くのは面白くないが、それを制限する権利など誰にもないことも理解している。そういうわけだろう。
こんなところは似た者同士だ。相手の隣を自分だけの場所にすることを許されながら、それでもなおすべてを食い尽くしたい衝動に囚われ続けている。
腹いっぱいに相手を食らう日が、いつか来るのだろうか。
来たら来たでつまらないような気もするが。
ぴちゃっ、ぴちゃっ、とかすかな水の音がする。皆守は、洗面所にある蛇口のパッキンが古くなっていたことを思い出した。後で交換しなければならない。
洗濯はいつの間にか終わっていて、狭い室内は静まり返っている。窓のカーテンは中途半端に開いており、ごく正常な朝の景色を半分だけ映し出していた。
九龍が物言いたげに見つめてくる。皆守は、指の腹で押し上げるようにして彼の上唇を撫でた。
「まだ答えを聞いてなかったな。今日はこれからどうする? お前の返答によっちゃ、付き合ってやらないでもないぜ。なァ、九龍」
言葉の裏へ隠れた真意に気づき、九龍の瞳に野性が戻ってくる。薄く口が開いた。皆守はそこへ指を差し込み、前歯のふちから犬歯の先までをなぞる。
ぷつっと皮膚を押し返してくるこの感触が好きだと言ったら、彼はどんな反応をするだろうか。
痛みを感じる寸前の強さで、人より尖った犬歯へと指先を押しつける。
雨は上がった。時刻は三十三時。彼がこの指に噛みついたら、狂乱の朝が始まる。