雲のお願い
電話を片手に無人のエレベーターから降りたところで、皆守は思わず「何だこりゃ」と声を上げてしまった。
ビルの一階にあるだだっ広いエントラスには、数日前から巨大な笹が設置されている。今朝皆守がここを通過した時は緑一色でしかなかったはずなのに、この数時間のうちに色とりどりの短冊が飾られていた。
エントランスは、複数の企業が共用する都合上、極力シンプルかつ無難なつくりだ。鈴なりの短冊が醸し出すほっこり感とは合わない。
『どうかした?』
電話の向こうの九龍に問われ、「あー、いや、職場の笹に短冊が」と見たままを返す。
『んん? 笹って植物の?』
いぶかしげな返事だった。日本人なら笹というワードと今日の日付からすぐさま七夕に思い至るだろうが、九龍は海外育ちだから勝手が違うのかもしれない。
「ああ。九ちゃんは七夕って知ってるか?」
『聞いたことはあるけど、よく知らない』
「元は確か、中国かどこかの昔話だな。好き合った男女がなんだかんだで引き裂かれて、年に一度しか会えなくなったとかいう」
『なんかはしょってない?』
こちらもうろ覚えなのだから仕方ない。実際はもっと複雑な成り立ちだった気もするが、こういう解説は夕薙や七瀬の仕事だ。皆守はとぼけつつ、笹の前で足を止めた。
造花の類ではなく、生の笹だ。数日間も萎れさせずに展示するには、何かしらの技術が必要に違いない。流れ星の尾にも似た葉はまだ瑞々しかった。
あの人とデートに行けますように、病気が治りますように、受験に受かりますように。十人十色の願い事が笹の枝をしならせている。ちょうど真下のところへ短冊とペンが用意されていたが、皆守は手に取らなかった。想像上の存在に望みを託す行為がナンセンスに感じたのだ。
何かに思いを込めたくなる感覚が理解できないわけではない。ただ、祈るよりも先に自分の足で飛び出しがちな男がそばにいるから、知らぬ間に影響を受けていたのだろう。
「年に一度だけは、天の川を渡って会いに行けるんだったか」
『へー。好きな時に渡ればいいのに、川ぐらい』
予想にたがわず、情緒を解さない答えが返ってきた。皆守は苦笑しながらビルを出る。九龍も移動中なのか、通話にはさらさらと雑音が入っていた。
『で、なんで笹?』
「さあな。ともかく今の日本じゃ、七夕ってのは願い事を書いた短冊を笹に吊るす行事になってる」
『ふーん。甲ちゃんも?』
「俺は書いてない」
答えながら、ふとビルの後ろを流れる大きな川が目に入った。夜空の濃さを映して、水面はもったりと揺れている。雲の上にあるはずの天の川は見えなかった。
七夕の日は天候に恵まれないことが多いらしい。どこかで聞きかじった雑学を思い出す。
通勤に使う駅とは逆方向だが、戯れに川のほうへ下りてみることにした。昼間は遊覧船のコースにもなっており、「好きな時に渡ればいいのに」で済むような幅ではない。
『何かないの、願い事。欲しいものでもいい。俺があげるよ』
「つってもな。盗掘品は御免だぜ」
『ちゃんと自分の金で買うって』
軽口を叩きながら、川沿いの遊歩道に設られた落下防止の柵へ腕を乗せる。丸一日密室の中で労働していたから、夜風が心地よい。熱帯夜にはまだ少し早かった。
『……ん? あれ、今どこ? 会社じゃない?』
風の立てるノイズのせいか、九龍がそう聞いてくる。
「会社の裏の川」
と端的に答えたところで、ぽつっと水滴が落ちてきて皆守の手の甲を流れた。
今年も織姫と彦星は会えずに終わりそうだ。
『あ、そっちか。よかった、聞いといて』
「よかった?」
雨粒が少しずつ大きくなってきて、皆守は話しながらも川へ背を向けた。折り畳み傘を持ってはいるが、わざわざ開くのが面倒だし、濡れたものを畳むのはもっと面倒だ。早々に駅へ逃げ込むに限る。電車に乗ってしまえば、電話を切らざるを得ないのは残念だけれど。
と、背後からモーター音が近づいてきた。遊覧船の営業はとっくに終わっている時間だ。
疑い半分、期待半分に振り返ると、爆走するボートの上で九龍が手を振っていた。
次第に近づいてくる。今週いっぱいは海外だと聞いていたのに。
「おーい」
闖入者はボートを適当なところに停め、柵をよじ登って遊歩道へ上がり込んだ。違法駐車という言葉が皆守の頭に浮かぶ。そもそもこいつは、ちゃんと日本国の入国審査を通ったのだろうか。聞かないほうがよさそうだ。
「うわー、一気に降ってきた」
九龍は慌てて傘を取り出し、ぽんと開いて皆守の頭の上へ差し出した。
「ほら、いくら夏でも風邪引くぜ、うぉ」
傘を持つ手を引っ張って抱き寄せると、筋肉質な体はちょうどよい位置へ収まる。髪に鼻先を埋めれば、ちゃんと九龍の匂いがした。
帰ってきたらしい。
九龍は片手で傘を差して皆守の頭上に丸い屋根を作りながら、もう片方の手でぺたりと額を触ってきた。
「おかしい。ツッコミじゃなくてハグなんて、もしかしてすでに風邪引いてる? 駄目だぞー、病人は寝てないと」
失礼なことを言われどついてやりたくなったが、久々の来日に免じて許してやった。黙って抱き締める。勤務先の近くとはいえ、夜だから暗いし、互いの顔は傘で隠れるからいい。
もしかしたら、七夕に雨が降るのは星を隠すためだったのかもしれない。他人の視線を遮って、輝きを独り占めしたかったから。
捕まえた星が、おろおろと皆守の背をさする。傘の内側で声が反響して、体が包み込まれる。
「なあ、マジでどうしたんだよ、何かあった?」
「さあ? どうだかな」
雲で覆ってしまいたいなんて、思ったことがなかった。皆をあまねく照らすことに納得していたし、自身もその明るさに助けられたと考えていたはずだった。
あんまりにも星がきれいなせいだ。
こんな願いを持ってしまったのは。